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「あの。この傘、電車の中にお忘れではありませんか?」
その声に振り返えると、そこにいたのは20代後半と思われる女性。
その女性が青い傘を差し出してきた。
それは僕の傘だ。だから僕は「すみません。ありがとうございます」と言って傘を受け取った。すると女性は「どういたしまして」と言うと背中を向け改札を出て行った。
それが彼女との最初の出会いだ。
ラッシュアワーの満員電車。朝のダイヤは過密で、何もその電車に乗らなくてもいいのだが、何分かの違いで一日の生活リズムが変わることもある。だから誰もが皆、習慣的にいつもと同じ電車の、いつもと同じ車両に乗り、いつもと同じ場所に立つ。
そして僕も毎朝同じ時間に同じ電車に乗り、同じ顏の人々と乗り合わせているのだが、その中のひとりが彼女だ。だが、僕はこれまで彼女に気付かなかった。しかしあの日以来、僕は彼女のことを気にするようになった。だから姿を見かけない日があると、病気なのかと心配した。だが週明け、地方の観光地の名が書かれた紙袋を下げているのを見ると安心した。
そしてその感情から、僕は彼女に恋をしていることに気付いた。
僕と彼女のいつもの車両。
それは前から4両目の車両。
乗る扉は一番後ろ。
彼女はたいていドアの側に立ち窓の外を見ている。僕はと言えば、ふたつ前の駅からその車両に乗っている。そして同じ線路の上を通った僕と彼女は同じ駅で降りる。
改札を出た彼女は右へ。僕は左へ行く。
だから彼女がどこへ向かうのか知らない。
彼女の印象は真面目。
小柄だが背筋がスッと伸びて姿勢がいい。染めてはいない髪は肩の長さで切り揃えられていて、服装はいつもスーツ。スカートの時もあればパンツの時もあるが、色は紺やグレーといった控えめな色。そして手にしているのは黒いビジネス鞄であり、そこから想像出来る仕事は、お堅い仕事。つまり金融機関や公的機関の職員といったもの。だが彼女の職場は駅から数分の所にある商社なのかもしれない。だから僕は彼女のスーツの襟に商社の社章が付いているのではないかと思った。けれどそれらしいものを見つけることは出来なかった。
そして僕は一度だけ、彼女の後をつけたいという気持になった。けれど後をつけることはしなかった。
僕は大学を卒業したのち不動産会社に就職して開発事業部にいる。
今手掛けている仕事は、郊外に計画されているニュータウンの開発。
予備調査を終えたそこは間もなく造成工事に入る。街の形が整えば、分譲が始まり家が建ち、どこにでもあるような郊外の住宅街が出来上がるが、僕はその仕事を夢がある仕事だと思っている。何故ならそこは誰かが家庭を築く場所であり、誰かの人生が始まる場所だからだ。
結婚した男女は子供が生まれ家族が増えると広い家へと住み替える。
そして子供たちはそこを地元と呼び成長していく。やがて成長した子供たちはそこを故郷と呼ぶようになるが、彼らが生まれる前に公園に植えられた桜の木は、彼らの成長と共に大きくなり春には花を咲かせる。季節が静かに移り変り桜の花が散ると、今度は街路樹として植えられたハナミズキが花を咲かせる。やがて誰かの家の庭では紫陽花が咲き、マリーゴールドが鮮やかなオレンジ色の花を咲かる。夏になれば学校から持ち帰ったアサガオの花が咲き、ひまわりも大輪の花を咲かせる。春夏秋冬。ニュータウンのあちこちでは常に花が咲いるはずだ。
もし彼女と結婚したら、どんな場所で暮らし、どんな人生を送るのだろうか。
僕は人並みに恋をしてきたつもりだ。
だが、それは自分が思っているだけなのかもしれない。
そうだ。考えてみれば恋を始めても、いつも自分から遠ざかっていた。いや。遠ざかっていたのではなく自分から終わらせてきたのだ。だから僕は自分が恋愛に不向きなのだと思った。
しかし違う。彼女とは違う。
彼女の後ろ姿を見つめながら、そう考えることもあった。
***
1週間が終る金曜日の朝。
いつもの電車に乗った。そしていつもと同じ車両に乗ってきた彼女の後ろ姿を見ていた。
そんな僕は急な人事異動で福岡に転勤が決まった。
つまりそれは彼女と会えなくなるということ。
だから勇気をもって好きだという自分の気持を伝えることにした。それはたとえダメだとしても、思いを告げなかったことを後悔したくないからだ。
僕は彼女の後ろについて電車を降りた。
だがそこで人波に揉まれ彼女を見失った。
だから焦った。だが改札を出たところにいる彼女を見つけ、追いつくと意を決して声をかけた。
「あの…..」
その時だった。
僕は旧約聖書の中でモーゼが行ったという海割りを見た。
それは駅を出る人波に逆らうように歩いてくる背の高い男の周りで起きていた。
だが男はモーゼのように杖を振りかざしてもいなければ、手を上げたわけでもない。
ただ何故か人々が彼を避け、人波という海が左右に割れ、男が通る道を作っていた。
そしてその道を通ってきた男は、立ち止まった彼女の前まで来ると言った。
「迎えにきた」
彼女は何も言わなかった。
ただ男をじっと見つめていた。
すると男は再び言った。
「牧野。お前を迎えにきた」
僕はそのとき彼女の名前がマキノであることを知った。
そしてふたりは何も言わずただ、お互いを見つめていた。
僕はそんなふたりの様子から人間関係をあらまし想像した。
彼女を見つめる男の長い睫毛の奥の漆黒の瞳は、暗く翳り真剣みをおびている。
それは深い愛情の現れ。そして彼女が男を見つめる瞳にも、男に特別な思いを持っていることが現れている。
つまり今、僕の前で繰り広げられているのは、長い間会えなかった、もしくは離れ離れにならざるを得なかった男と女の……いや恋人たちの再会の場面。
何らかの理由で会えなかったふたりは、互いの瞳を見つめ思いを確かめあっていた。
そんなふたりを見ている僕の胸に宿るのはほろ苦さ。
僕はそっとため息をついた。
それは僕の恋が始まる前に終わったから。
そしてそれを認めた瞬間、僕は同じ電車で通勤していたただの人になった。
僕は男の顏を見ながら、その顏をどこかで見たことがあると思った。
それに男を囲むように立つのは数人の体格のいいスーツ姿の男たち。
思い出した。
男は道明寺ホールディングスの副社長だ。
確か名前は道明寺司。この4月に副社長に就任したばかりで、就任会見が新聞やテレビで話題になった。
男が副社長に就任する前、道明寺ホールディングスの株価は急落した。
それは道明寺ホールディングスが経営難でアメリカの会社に買収されるのではないか。
社長が表に出ないのは健康面に不安があるからではないか。
そんな憶測が流れ、道明寺ホールディングスの経営の先行きが危ぶまれた。
しかし副社長に就任した男はそれらの憶測を全て否定した。
「我社がアメリカの会社に買収されることはありません。むしろその反対です。我々は敵対的買収を仕掛けてきたアメリカの会社を買収いたしました。それから社長の道明寺楓の健康に問題はありません」
アメリカの会社を買収したという話は本当だが、社長の健康に問題がないという言葉は本当なのか。テレビの画面を見ている人間には、副社長の隣に座っている女性の健康状態に問題がないかどうかは分からなかった。
恋はある日突然訪れることがある。
そして終わりもまた然り。
けれど、何かを乗り越えた恋は強い。
それはまともな恋をしたことがない僕でもわかること。
だからふたりの恋はこれからも続いていくはずだ。
僕は人生で一番感動的な場面にいるふたりの横を通り過ぎ駅の外へ出た。
5月の空は青く晴れ渡って、穏やかな風が吹いている。
きっとこれから僕が暮らすことになる街の空も同じはずだ。
いや。向うはこの街より季節が早い。恐らく雨の季節はすぐそこまで来ているはずだ。
だから僕は、ふう、と息をつき、「あっちへ行ったら新しい傘でも買うか」と呟いて歩きだした。
< 完 > *始まりの前に*

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『花より男子』 誕生30周年 おめでとうございます!
その声に振り返えると、そこにいたのは20代後半と思われる女性。
その女性が青い傘を差し出してきた。
それは僕の傘だ。だから僕は「すみません。ありがとうございます」と言って傘を受け取った。すると女性は「どういたしまして」と言うと背中を向け改札を出て行った。
それが彼女との最初の出会いだ。
ラッシュアワーの満員電車。朝のダイヤは過密で、何もその電車に乗らなくてもいいのだが、何分かの違いで一日の生活リズムが変わることもある。だから誰もが皆、習慣的にいつもと同じ電車の、いつもと同じ車両に乗り、いつもと同じ場所に立つ。
そして僕も毎朝同じ時間に同じ電車に乗り、同じ顏の人々と乗り合わせているのだが、その中のひとりが彼女だ。だが、僕はこれまで彼女に気付かなかった。しかしあの日以来、僕は彼女のことを気にするようになった。だから姿を見かけない日があると、病気なのかと心配した。だが週明け、地方の観光地の名が書かれた紙袋を下げているのを見ると安心した。
そしてその感情から、僕は彼女に恋をしていることに気付いた。
僕と彼女のいつもの車両。
それは前から4両目の車両。
乗る扉は一番後ろ。
彼女はたいていドアの側に立ち窓の外を見ている。僕はと言えば、ふたつ前の駅からその車両に乗っている。そして同じ線路の上を通った僕と彼女は同じ駅で降りる。
改札を出た彼女は右へ。僕は左へ行く。
だから彼女がどこへ向かうのか知らない。
彼女の印象は真面目。
小柄だが背筋がスッと伸びて姿勢がいい。染めてはいない髪は肩の長さで切り揃えられていて、服装はいつもスーツ。スカートの時もあればパンツの時もあるが、色は紺やグレーといった控えめな色。そして手にしているのは黒いビジネス鞄であり、そこから想像出来る仕事は、お堅い仕事。つまり金融機関や公的機関の職員といったもの。だが彼女の職場は駅から数分の所にある商社なのかもしれない。だから僕は彼女のスーツの襟に商社の社章が付いているのではないかと思った。けれどそれらしいものを見つけることは出来なかった。
そして僕は一度だけ、彼女の後をつけたいという気持になった。けれど後をつけることはしなかった。
僕は大学を卒業したのち不動産会社に就職して開発事業部にいる。
今手掛けている仕事は、郊外に計画されているニュータウンの開発。
予備調査を終えたそこは間もなく造成工事に入る。街の形が整えば、分譲が始まり家が建ち、どこにでもあるような郊外の住宅街が出来上がるが、僕はその仕事を夢がある仕事だと思っている。何故ならそこは誰かが家庭を築く場所であり、誰かの人生が始まる場所だからだ。
結婚した男女は子供が生まれ家族が増えると広い家へと住み替える。
そして子供たちはそこを地元と呼び成長していく。やがて成長した子供たちはそこを故郷と呼ぶようになるが、彼らが生まれる前に公園に植えられた桜の木は、彼らの成長と共に大きくなり春には花を咲かせる。季節が静かに移り変り桜の花が散ると、今度は街路樹として植えられたハナミズキが花を咲かせる。やがて誰かの家の庭では紫陽花が咲き、マリーゴールドが鮮やかなオレンジ色の花を咲かる。夏になれば学校から持ち帰ったアサガオの花が咲き、ひまわりも大輪の花を咲かせる。春夏秋冬。ニュータウンのあちこちでは常に花が咲いるはずだ。
もし彼女と結婚したら、どんな場所で暮らし、どんな人生を送るのだろうか。
僕は人並みに恋をしてきたつもりだ。
だが、それは自分が思っているだけなのかもしれない。
そうだ。考えてみれば恋を始めても、いつも自分から遠ざかっていた。いや。遠ざかっていたのではなく自分から終わらせてきたのだ。だから僕は自分が恋愛に不向きなのだと思った。
しかし違う。彼女とは違う。
彼女の後ろ姿を見つめながら、そう考えることもあった。
***
1週間が終る金曜日の朝。
いつもの電車に乗った。そしていつもと同じ車両に乗ってきた彼女の後ろ姿を見ていた。
そんな僕は急な人事異動で福岡に転勤が決まった。
つまりそれは彼女と会えなくなるということ。
だから勇気をもって好きだという自分の気持を伝えることにした。それはたとえダメだとしても、思いを告げなかったことを後悔したくないからだ。
僕は彼女の後ろについて電車を降りた。
だがそこで人波に揉まれ彼女を見失った。
だから焦った。だが改札を出たところにいる彼女を見つけ、追いつくと意を決して声をかけた。
「あの…..」
その時だった。
僕は旧約聖書の中でモーゼが行ったという海割りを見た。
それは駅を出る人波に逆らうように歩いてくる背の高い男の周りで起きていた。
だが男はモーゼのように杖を振りかざしてもいなければ、手を上げたわけでもない。
ただ何故か人々が彼を避け、人波という海が左右に割れ、男が通る道を作っていた。
そしてその道を通ってきた男は、立ち止まった彼女の前まで来ると言った。
「迎えにきた」
彼女は何も言わなかった。
ただ男をじっと見つめていた。
すると男は再び言った。
「牧野。お前を迎えにきた」
僕はそのとき彼女の名前がマキノであることを知った。
そしてふたりは何も言わずただ、お互いを見つめていた。
僕はそんなふたりの様子から人間関係をあらまし想像した。
彼女を見つめる男の長い睫毛の奥の漆黒の瞳は、暗く翳り真剣みをおびている。
それは深い愛情の現れ。そして彼女が男を見つめる瞳にも、男に特別な思いを持っていることが現れている。
つまり今、僕の前で繰り広げられているのは、長い間会えなかった、もしくは離れ離れにならざるを得なかった男と女の……いや恋人たちの再会の場面。
何らかの理由で会えなかったふたりは、互いの瞳を見つめ思いを確かめあっていた。
そんなふたりを見ている僕の胸に宿るのはほろ苦さ。
僕はそっとため息をついた。
それは僕の恋が始まる前に終わったから。
そしてそれを認めた瞬間、僕は同じ電車で通勤していたただの人になった。
僕は男の顏を見ながら、その顏をどこかで見たことがあると思った。
それに男を囲むように立つのは数人の体格のいいスーツ姿の男たち。
思い出した。
男は道明寺ホールディングスの副社長だ。
確か名前は道明寺司。この4月に副社長に就任したばかりで、就任会見が新聞やテレビで話題になった。
男が副社長に就任する前、道明寺ホールディングスの株価は急落した。
それは道明寺ホールディングスが経営難でアメリカの会社に買収されるのではないか。
社長が表に出ないのは健康面に不安があるからではないか。
そんな憶測が流れ、道明寺ホールディングスの経営の先行きが危ぶまれた。
しかし副社長に就任した男はそれらの憶測を全て否定した。
「我社がアメリカの会社に買収されることはありません。むしろその反対です。我々は敵対的買収を仕掛けてきたアメリカの会社を買収いたしました。それから社長の道明寺楓の健康に問題はありません」
アメリカの会社を買収したという話は本当だが、社長の健康に問題がないという言葉は本当なのか。テレビの画面を見ている人間には、副社長の隣に座っている女性の健康状態に問題がないかどうかは分からなかった。
恋はある日突然訪れることがある。
そして終わりもまた然り。
けれど、何かを乗り越えた恋は強い。
それはまともな恋をしたことがない僕でもわかること。
だからふたりの恋はこれからも続いていくはずだ。
僕は人生で一番感動的な場面にいるふたりの横を通り過ぎ駅の外へ出た。
5月の空は青く晴れ渡って、穏やかな風が吹いている。
きっとこれから僕が暮らすことになる街の空も同じはずだ。
いや。向うはこの街より季節が早い。恐らく雨の季節はすぐそこまで来ているはずだ。
だから僕は、ふう、と息をつき、「あっちへ行ったら新しい傘でも買うか」と呟いて歩きだした。
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『花より男子』 誕生30周年 おめでとうございます!
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パーティー会場から逃げ出した司は地下にある駐車場を目指し走っていた。
だがそんな司を女たちが追ってきた。
「ツカサ!どうして逃げるのよ!」
「ちょっと!私とのことは遊びだったの?!」
「ねえ!感謝祭の前の日の夜に言ったことは嘘だったの?!」
「一緒にジェットコースターに乗ったとき私のことを好きだと言ったじゃない!」
「ハワイで夕陽を見ながらクルージングしたとき愛してるって言ったわよね?!」
「シドニーのオペラハウスで一緒にオペラを見たとき私の手を握って永遠の愛を君に誓うって言ったわよね?」
「独立記念日の花火を見ながら二人の未来のためにってワインで乾杯したわよね!」
「サンモリッツのスキー場でゲレンデが溶けるほどの恋がしたいって言ったわよね!」
「カリブ海で海賊の船を撃沈させたとき、これで世界はふたりのものだって言ったわよね!」
「ツカサ!」
「ツカサ!」
「ツカサ!」
「ツカサーーーーー!!!」
叫びながら追いかけてくるパーティードレスの女たち。
そんな女たちの口から銃弾よろしく、ほとばしる言葉は全て嘘でそんなことを言った覚えもなければ、した覚えもない。大体ジェットコースターなどこれまでの人生の中で一度も乗ったことがない。いや、ジェトコースターのような恋ならしたことがある。そう、あの時は時のレールを走りながら恋人の手をしっかりと握りしめていた。
それに恋人とはハワイで夕陽を見ながらクルージングをしたことがある。シドニーのオペラハウスで有名オペラ歌手の舞台を見たこともある。アメリカ独立記念日の夜。ニューヨークで打ち上げられる花火を見たこともある。
だがカリブで海賊と闘ったことなどない。あの女は現実と映画を混同している。
それに誰かと闘わなくても、すでに世界は司のものだ。
だが司は振り返った時に見た女たちが髪を振り乱して追いかけてくる姿に恐怖を感じ、背中がゾクリとした。
それに今のこの状況は現実とは思えず、何か得体のしれない力が行使されているような気がしていた。
__もしかして神は何もかもを持つ司を憎んでいるのか。
もしそうだとすれば、これから地獄への転落が始まるのか。
だが司は地獄になど落ちたくはなかった。
だから女たちに掴まるわけにはいかなかった。
それにもし仮に地獄に落ちるのなら、それは恋人のためであって訳の分からない女たちのためであってはならない。
司は地下駐車場に降りてくると自分が乗ってきた車を見つけた。
運転手はいつでも車を出せるようにスタンバイしている。
だから車に向かって走って来る司を見た運転手は、後部座席のドアを開けて待っていた。
「出せ!」
司は座席に滑り込むと一秒も無駄にすることなく運転手に言った。
すると運転手はすぐに車を出した。
司は助かった。
落ち着こうと、大きく息を吐いた。
そして呟いた。
「けどマジでどうなってるんだ……」
すると運転手が言った。
「ツカサ様。これはもしかすると邪(よこしま)なものの仕業かもしれません」
「邪(よこしま)…..なもの?」
司はこの運転手は何を言っているんだという思いで言ったが、運転手は真剣な声で答えた。
「はい。イーブル・スピリットのせいではないでしょか」
「イーブル・スピリット?」
「はい」
イーブル・スピリットとは悪霊のこと。
司はますますこの男は何を言っているんだという思いで言ったが、運転手は神妙な口調で話し始めた。
「邪(よこしま)な力というものは聖なる力が失われたときにやってきます。ツカサ様は今、聖なる力を失っておられるのではないですか?ですからあのような災いが起きたのです」
司は、ばかばかしいと笑い飛ばそうとした。
だが何故か出来なかった。
それは司にとって生きる糧と言える恋人が司の浮気を疑い電話にも出ない。メールの返信もしないこの状況は、司の存在が無視されていることと同じであり、そのことによって聖なる力が失われていると言っても過言ではないからだ。
「ツカサ様。私はカトリックです。悪いものが憑いているときは司祭様にお願いしてお清めしてもらうのが一番です。今から私が通う教会の司祭様の元へ参りましょう」
と言うと運転手はハンドルを左に切った。
そして「冷たい飲み物をご用意してございますので、どうぞお飲みください」と言った。
***
信仰のない司は教会に行くのは気が進まなかった。
だが車を降りると運転手の後に続いた。
それは意志とは関係なく足が動いたから。
そして教会の中に入った運転手は恭しい態度で司祭に司を紹介した。
それから司の身の上に起こった災難について話をした。すると司祭は厳かな口調で「分かりました。清めを行いましょう」と言った。
キリスト教の基盤を持たない人間は教会で行われる清めがどんなものなのか知らない。
だから司は清めと訊いてオカルト映画の悪魔祓いのようなものを想像していた。
それは司祭が祈りの言葉を唱え十字架を掲げると、窓がガタガタと揺れて明かりが消え、バーンと部屋の扉が開いて部屋の中に風が吹き荒れる。ガラスが割れ、家具や調度品が揺れ始め置いてあるものが部屋の中を飛び回る。そして清めを受けている人間の首が360度回転すると白目を剥き出しにして不気味に笑い汚い言葉で司祭を罵る。
だから司は身体を硬くして自分の身に起こることに身構えた。
だが穏やかな祈りの声が続き、聖水が降りかけられても、そういったことは全く起こらなかった。やがて儀式が終ると、司祭は司に向かい真摯な表情で言った。
「心配しなくても大丈夫です。あなたに悪い霊は憑いていません」
司はホッとした。
だが「しかし」と司祭は言葉を継いだ。
そして「悪い霊は憑いていないのですが女性の生き霊が憑いています」と言った。
「い、生き霊?」
「はい。あなたは大切な女性を裏切ったのでは?だからその女性の生き霊が憑いています。自分を棄てて他の女の元に行くあなたに対して恨みを持っているようです」
「おい、待て。待ってくれ。俺は裏切ってなどいない。他に女はいない。それにあれは陰謀だ。誰かが俺を罠に嵌め__」
司はそこまで言ってから、自分は悪い夢を見ているのではないかと思った。
そうだ。これは夢だ。
これは夢の中の話で現実ではない。
何しろこれまでも何度かおかしな夢を見たことがあった。
つまりこれは夢で何も心配することはない。
目が覚めればそこに恋人がいて司のことを愛してくれている。
だから司は頬を叩いて目を覚まそうとした。
だがいくら頬を叩いても何かが変わることはなかった。
そんな司を見ていた司祭は驚いた様子で言った。
「いかん。彼は自分で自分を傷つけようとしている。そんなことをするのは悪魔が彼の中に入ったからだ。彼は女の生き霊に殺されようとしている」
司は「違う。そうじゃない!」と叫び声を上げた。だがそれはつもりであり声にならなかった。
そんな司に司祭は十字架を手にすると、その声で魑魅魍魎を退散させようとするように声を張り上げた。
「父なる神と子なるイエス・キリストよ。邪悪な力からこの男を守りたまえ!」
と言ったが、これはまさにオカルト映画の展開だ。
そして「イエス・キリストの名において汝に命じる。悪魔よ!この男から立ち去れ!ここを去り元の世界へ戻れ!」と叫んだ。
それにしても何故声が出ない?
司は口を開けたが浜に打ち上げられた魚のようにパクパクとするだけだ。
そんな司の様子に運転手は「司祭様。生き霊はツカサ様の声を奪ったようです」と言ってから祈りの言葉を口にすると大仰な仕草で十字を切った。
すると司祭は「悪魔というのは信ずるものを持たない人間の心をいとも簡単に乗っ取ることが出来ます。声が出ないというのは悪魔が彼の心に手を伸ばしている証拠です」と言った。
司は再び「違う。そうじゃない!」と言ったつもりだったが、ふたりの耳には届かなかった。
そして今度は身体が動かなくなった。
立っている場所から一歩も動くことが出来なかった。
「司祭様、大変です!生き霊はツカサ様の身体の動きを奪ったようです!」
運転手は司祭に向かって言うと今度は司に向かって、「ツカサ様、生き霊に負けてはなりません。頑張って下さい!」と励ました。
すると司祭は、「ご安心なさい。主(しゅ)は救いを求めてやってくる者を拒むことはしません」と司に言った。
そして運転手に向かい「私はあなたの主(あるじ)を助けます」と言った。
そして、やにわに懐からナイフを取り出した。
「いいですか?悪魔との闘いは時に死を覚悟しなければなりません」
そう言った司祭は運転手と視線を交わし、うなずき合った。
司は嫌な予感がした。それはもしかすると自分はあのナイフで刺されるのではないかということ。
つまりナイフを手に近づいてくる司祭は本当の司祭ではなく偽者。そして運転手もまたしかり。
これは司を亡き者にしようとしている誰かの陰謀で、車の中で運転手が飲むように言った飲み物には身体の自由を奪うものが入っていたということだ。
司は逃げようとした。
だが身体が動かないのだから、逃げようにも逃げることが出来なかった。
そこまで読み終えると、司はノートを置いた。
「いかがですか?私が書いた物語は?」
西田は小説を書いた。
それは趣味で書いていたもの。
西田は、そのノートを秘書室の自分の机の上に出しっぱなしにして化粧室へ行った。
秘書室に西田を探しにきた司は、不注意でそのノートを床に落とした。
そのとき開いたページに自分の名前を見つけたことから、西田が司を主人公に物語を書いていることを知った。
西田は物語を途中まで読んだ司に感想を求めた。
すると返ってきた言葉は、「西田。悪いがお前には小説家の才能はない」だった。
「何故でしょう」
西田は訊いた。
「言ったとおりだ。お前には才能がない」
「ですから何故でしょう」
「いいか、西田。お前の書いている話は荒唐無稽だ。はじめは恋愛かと思ったら次第にホラーの様相を呈してきた。そして今度はサスペンスに傾き始めた。一体お前はどんな分野の話を書こうとしている?それに何で俺が主人公なんだ?」
そう訊かれた西田は言った。
「はい。分野は別としても支社長が主人公であれば、どんな分野の話もヒーローとして成り立つと思ったからです。何しろ支社長はこれまでビジネスに於いても私生活に於いても様々な場面で様々な経験をされています。その経験値の高さから、どんな物語であっても主役に相応しい。そんな思いから支社長を主人公にしました」
それを訊いた司は嬉しい気持が湧き上がった。
そして「まあ、いい。俺が主人公でも構わないが、最後はハッピーエンドで終わらせてくれ。いいか?間違っても主人公が死ぬとか、恋人と別れるとかは止めてくれ」と言った。
西田は上機嫌で執務室を出て行く男を見送ったが、男の行先は分かっている。
そこは社内にいる恋人の部署だ。
西田は机の上に置かれたノートを手に取った。
そしてひとりごちた。
「司様。司様が主人公である本当の理由は、あなたが物語にしたいほど劇的な本物の人生を歩んでいるからです」
西田は男が少年の頃から男の傍にいた。
そして男の成長を見守ってきた。
だから男のある意味で波乱に満ちた人生を知っている。
自暴自棄になりかけた男の姿を知っている。
しかし、本当の幸せというものを知った男は人間が生きることの大切さを知った。
「さてここから先は危険なアクションシーンが満載なのです。もっとも、道明寺司ならどんなアクションシーンもそつなくこなすでしょうから心配しておりません。ですが、やはり最後は違う。そうじゃないと言われないように、あの方と結ばれる。そんな最後を執筆いたしましたのでご安心下さい」
そして司が読まなかった物語の続きが書かれているページを開いた。

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だがそんな司を女たちが追ってきた。
「ツカサ!どうして逃げるのよ!」
「ちょっと!私とのことは遊びだったの?!」
「ねえ!感謝祭の前の日の夜に言ったことは嘘だったの?!」
「一緒にジェットコースターに乗ったとき私のことを好きだと言ったじゃない!」
「ハワイで夕陽を見ながらクルージングしたとき愛してるって言ったわよね?!」
「シドニーのオペラハウスで一緒にオペラを見たとき私の手を握って永遠の愛を君に誓うって言ったわよね?」
「独立記念日の花火を見ながら二人の未来のためにってワインで乾杯したわよね!」
「サンモリッツのスキー場でゲレンデが溶けるほどの恋がしたいって言ったわよね!」
「カリブ海で海賊の船を撃沈させたとき、これで世界はふたりのものだって言ったわよね!」
「ツカサ!」
「ツカサ!」
「ツカサ!」
「ツカサーーーーー!!!」
叫びながら追いかけてくるパーティードレスの女たち。
そんな女たちの口から銃弾よろしく、ほとばしる言葉は全て嘘でそんなことを言った覚えもなければ、した覚えもない。大体ジェットコースターなどこれまでの人生の中で一度も乗ったことがない。いや、ジェトコースターのような恋ならしたことがある。そう、あの時は時のレールを走りながら恋人の手をしっかりと握りしめていた。
それに恋人とはハワイで夕陽を見ながらクルージングをしたことがある。シドニーのオペラハウスで有名オペラ歌手の舞台を見たこともある。アメリカ独立記念日の夜。ニューヨークで打ち上げられる花火を見たこともある。
だがカリブで海賊と闘ったことなどない。あの女は現実と映画を混同している。
それに誰かと闘わなくても、すでに世界は司のものだ。
だが司は振り返った時に見た女たちが髪を振り乱して追いかけてくる姿に恐怖を感じ、背中がゾクリとした。
それに今のこの状況は現実とは思えず、何か得体のしれない力が行使されているような気がしていた。
__もしかして神は何もかもを持つ司を憎んでいるのか。
もしそうだとすれば、これから地獄への転落が始まるのか。
だが司は地獄になど落ちたくはなかった。
だから女たちに掴まるわけにはいかなかった。
それにもし仮に地獄に落ちるのなら、それは恋人のためであって訳の分からない女たちのためであってはならない。
司は地下駐車場に降りてくると自分が乗ってきた車を見つけた。
運転手はいつでも車を出せるようにスタンバイしている。
だから車に向かって走って来る司を見た運転手は、後部座席のドアを開けて待っていた。
「出せ!」
司は座席に滑り込むと一秒も無駄にすることなく運転手に言った。
すると運転手はすぐに車を出した。
司は助かった。
落ち着こうと、大きく息を吐いた。
そして呟いた。
「けどマジでどうなってるんだ……」
すると運転手が言った。
「ツカサ様。これはもしかすると邪(よこしま)なものの仕業かもしれません」
「邪(よこしま)…..なもの?」
司はこの運転手は何を言っているんだという思いで言ったが、運転手は真剣な声で答えた。
「はい。イーブル・スピリットのせいではないでしょか」
「イーブル・スピリット?」
「はい」
イーブル・スピリットとは悪霊のこと。
司はますますこの男は何を言っているんだという思いで言ったが、運転手は神妙な口調で話し始めた。
「邪(よこしま)な力というものは聖なる力が失われたときにやってきます。ツカサ様は今、聖なる力を失っておられるのではないですか?ですからあのような災いが起きたのです」
司は、ばかばかしいと笑い飛ばそうとした。
だが何故か出来なかった。
それは司にとって生きる糧と言える恋人が司の浮気を疑い電話にも出ない。メールの返信もしないこの状況は、司の存在が無視されていることと同じであり、そのことによって聖なる力が失われていると言っても過言ではないからだ。
「ツカサ様。私はカトリックです。悪いものが憑いているときは司祭様にお願いしてお清めしてもらうのが一番です。今から私が通う教会の司祭様の元へ参りましょう」
と言うと運転手はハンドルを左に切った。
そして「冷たい飲み物をご用意してございますので、どうぞお飲みください」と言った。
***
信仰のない司は教会に行くのは気が進まなかった。
だが車を降りると運転手の後に続いた。
それは意志とは関係なく足が動いたから。
そして教会の中に入った運転手は恭しい態度で司祭に司を紹介した。
それから司の身の上に起こった災難について話をした。すると司祭は厳かな口調で「分かりました。清めを行いましょう」と言った。
キリスト教の基盤を持たない人間は教会で行われる清めがどんなものなのか知らない。
だから司は清めと訊いてオカルト映画の悪魔祓いのようなものを想像していた。
それは司祭が祈りの言葉を唱え十字架を掲げると、窓がガタガタと揺れて明かりが消え、バーンと部屋の扉が開いて部屋の中に風が吹き荒れる。ガラスが割れ、家具や調度品が揺れ始め置いてあるものが部屋の中を飛び回る。そして清めを受けている人間の首が360度回転すると白目を剥き出しにして不気味に笑い汚い言葉で司祭を罵る。
だから司は身体を硬くして自分の身に起こることに身構えた。
だが穏やかな祈りの声が続き、聖水が降りかけられても、そういったことは全く起こらなかった。やがて儀式が終ると、司祭は司に向かい真摯な表情で言った。
「心配しなくても大丈夫です。あなたに悪い霊は憑いていません」
司はホッとした。
だが「しかし」と司祭は言葉を継いだ。
そして「悪い霊は憑いていないのですが女性の生き霊が憑いています」と言った。
「い、生き霊?」
「はい。あなたは大切な女性を裏切ったのでは?だからその女性の生き霊が憑いています。自分を棄てて他の女の元に行くあなたに対して恨みを持っているようです」
「おい、待て。待ってくれ。俺は裏切ってなどいない。他に女はいない。それにあれは陰謀だ。誰かが俺を罠に嵌め__」
司はそこまで言ってから、自分は悪い夢を見ているのではないかと思った。
そうだ。これは夢だ。
これは夢の中の話で現実ではない。
何しろこれまでも何度かおかしな夢を見たことがあった。
つまりこれは夢で何も心配することはない。
目が覚めればそこに恋人がいて司のことを愛してくれている。
だから司は頬を叩いて目を覚まそうとした。
だがいくら頬を叩いても何かが変わることはなかった。
そんな司を見ていた司祭は驚いた様子で言った。
「いかん。彼は自分で自分を傷つけようとしている。そんなことをするのは悪魔が彼の中に入ったからだ。彼は女の生き霊に殺されようとしている」
司は「違う。そうじゃない!」と叫び声を上げた。だがそれはつもりであり声にならなかった。
そんな司に司祭は十字架を手にすると、その声で魑魅魍魎を退散させようとするように声を張り上げた。
「父なる神と子なるイエス・キリストよ。邪悪な力からこの男を守りたまえ!」
と言ったが、これはまさにオカルト映画の展開だ。
そして「イエス・キリストの名において汝に命じる。悪魔よ!この男から立ち去れ!ここを去り元の世界へ戻れ!」と叫んだ。
それにしても何故声が出ない?
司は口を開けたが浜に打ち上げられた魚のようにパクパクとするだけだ。
そんな司の様子に運転手は「司祭様。生き霊はツカサ様の声を奪ったようです」と言ってから祈りの言葉を口にすると大仰な仕草で十字を切った。
すると司祭は「悪魔というのは信ずるものを持たない人間の心をいとも簡単に乗っ取ることが出来ます。声が出ないというのは悪魔が彼の心に手を伸ばしている証拠です」と言った。
司は再び「違う。そうじゃない!」と言ったつもりだったが、ふたりの耳には届かなかった。
そして今度は身体が動かなくなった。
立っている場所から一歩も動くことが出来なかった。
「司祭様、大変です!生き霊はツカサ様の身体の動きを奪ったようです!」
運転手は司祭に向かって言うと今度は司に向かって、「ツカサ様、生き霊に負けてはなりません。頑張って下さい!」と励ました。
すると司祭は、「ご安心なさい。主(しゅ)は救いを求めてやってくる者を拒むことはしません」と司に言った。
そして運転手に向かい「私はあなたの主(あるじ)を助けます」と言った。
そして、やにわに懐からナイフを取り出した。
「いいですか?悪魔との闘いは時に死を覚悟しなければなりません」
そう言った司祭は運転手と視線を交わし、うなずき合った。
司は嫌な予感がした。それはもしかすると自分はあのナイフで刺されるのではないかということ。
つまりナイフを手に近づいてくる司祭は本当の司祭ではなく偽者。そして運転手もまたしかり。
これは司を亡き者にしようとしている誰かの陰謀で、車の中で運転手が飲むように言った飲み物には身体の自由を奪うものが入っていたということだ。
司は逃げようとした。
だが身体が動かないのだから、逃げようにも逃げることが出来なかった。
そこまで読み終えると、司はノートを置いた。
「いかがですか?私が書いた物語は?」
西田は小説を書いた。
それは趣味で書いていたもの。
西田は、そのノートを秘書室の自分の机の上に出しっぱなしにして化粧室へ行った。
秘書室に西田を探しにきた司は、不注意でそのノートを床に落とした。
そのとき開いたページに自分の名前を見つけたことから、西田が司を主人公に物語を書いていることを知った。
西田は物語を途中まで読んだ司に感想を求めた。
すると返ってきた言葉は、「西田。悪いがお前には小説家の才能はない」だった。
「何故でしょう」
西田は訊いた。
「言ったとおりだ。お前には才能がない」
「ですから何故でしょう」
「いいか、西田。お前の書いている話は荒唐無稽だ。はじめは恋愛かと思ったら次第にホラーの様相を呈してきた。そして今度はサスペンスに傾き始めた。一体お前はどんな分野の話を書こうとしている?それに何で俺が主人公なんだ?」
そう訊かれた西田は言った。
「はい。分野は別としても支社長が主人公であれば、どんな分野の話もヒーローとして成り立つと思ったからです。何しろ支社長はこれまでビジネスに於いても私生活に於いても様々な場面で様々な経験をされています。その経験値の高さから、どんな物語であっても主役に相応しい。そんな思いから支社長を主人公にしました」
それを訊いた司は嬉しい気持が湧き上がった。
そして「まあ、いい。俺が主人公でも構わないが、最後はハッピーエンドで終わらせてくれ。いいか?間違っても主人公が死ぬとか、恋人と別れるとかは止めてくれ」と言った。
西田は上機嫌で執務室を出て行く男を見送ったが、男の行先は分かっている。
そこは社内にいる恋人の部署だ。
西田は机の上に置かれたノートを手に取った。
そしてひとりごちた。
「司様。司様が主人公である本当の理由は、あなたが物語にしたいほど劇的な本物の人生を歩んでいるからです」
西田は男が少年の頃から男の傍にいた。
そして男の成長を見守ってきた。
だから男のある意味で波乱に満ちた人生を知っている。
自暴自棄になりかけた男の姿を知っている。
しかし、本当の幸せというものを知った男は人間が生きることの大切さを知った。
「さてここから先は危険なアクションシーンが満載なのです。もっとも、道明寺司ならどんなアクションシーンもそつなくこなすでしょうから心配しておりません。ですが、やはり最後は違う。そうじゃないと言われないように、あの方と結ばれる。そんな最後を執筆いたしましたのでご安心下さい」
そして司が読まなかった物語の続きが書かれているページを開いた。

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