FC2ブログ
2018
04.01

残照 最終話

Category: 残照(完)
二人はタクシーに乗ると旅館まで戻った。時刻は日没を迎え太陽の光りはない。
だが空に浮かぶ雲には残照と呼ばれる照り映えが残っていた。

司はコートを脱がせると妻の身体をきつく抱きしめた。
元々華奢な身体だったが、ここ最近で少し痩せたような気がしていた。
そして男の背中に回された腕は細かったが、抱き返され温もりが伝わって来たことが嬉しかった。

小さな身体は精神を内包するだけの器だとしても、大切なもので失いたくなかった。
頬にあたる柔らかな髪の感触を失いたくなかった。
明るく振る舞ってみるも唇を歪めて泣きそうになる顔を失いたくなかった。
だがその身体に何かが起きたわけではない。
ただ、心が何処かへ旅立とうとしているだけだ。
だがそれを妻は辛いと言う。自分が失われていくことが辛い。夫や家族が分からなくなることが辛いと言う。



『波の花を見た後、旅館で食事をしたら早く寝てあたしをひとりにして欲しいの』
『冬の月を見上げても探さないで欲しい』と言った時の声は穏やかだった。
そしてその声は耳にこびりついたままでいた。

自らの行動を告げた女が選ぶ道は命を絶つこと。
だから早く寝てあたしがどこかへ行っても探さないで欲しいと言われた。
司はその言葉にこの現実を引き裂きたいと思った。
感情はどうしようもなく揺れ、自分自身がどうしていいのか分からなかった。
この日が来るまでの時間はゆっくりと流れて来たが、これから先の時間の流れなど考えられなかった。

もし時間を止めることが出来るなら永遠にこの瞬間で止ってもいいと思う。
時間が二人を閉じ込めることが出来るならこの場所で永久に囚われてもいいと思う。
ここで妻だけを守って生きる。何をしなくてもいいなら永遠にこのままでいたかった。
それが大切な人を守る歓びを知った男の使命だから。


暫く黙って抱きしめていたが、やがてそっと身体を離すと妻を見た。
そして自分を見上げる視線を受け止めていたが、その顔は何かを哀願する表情。
分っている。
その表情が何を言いたいのか。
ただ黙って見上げる視線は口では伝えられないことも伝えて来る。
それは出会った頃からそうだった。
視線が司を喜ばせ、楽しませてきた。
真剣な眼差しであり、からかうような眼差しの時もあった。
そしていつもその視線の強さに負けていた。気づけばその視線の求めるままに行動していたことがあった。

勿論嬉しさだけではない視線もあった。
そして今下から見上げられる視線は辛く悲しい視線。
言葉にせずとも思いを理解出来るのは二人が強い絆で結ばれているから。
瞳で会話が出来るのは強い絆があるから。
だが今はその絆が疎ましいと思えた。
妻の伝えたいことなど理解できない自分でいたらと思った。

言葉もなく見つめ合う男と女。夫婦であり家族である二人。
出逢いのその日から司を虜にした瞳の強さ。今、その眼差しが失われ想い出になることを許すことが出来るのか。司だけを置き去りにして行こうとする女を見送れと言われ黙って見送ることが出来るのか。
何をどう考えてもこの気持ちをどうすればいいのか分かるはずがない。
愛している人を黙って見送れと言われどうすればいいのか。
拒否するに決まってる。そんなことが出来るはずがない。
けれど今の妻は正常な状態でいて、司が拒否したところでなんとかして自分の想いを遂げようとするはずだ。
それを考えると、身体の芯は鉛のように重く心は苦しかった。いや、苦しいどころではない。
胸を占拠するのは今まで経験したことがない感情。
別れなどないと思っていた男の胸は、寂しさも切なさも苦しさも全てを抱え張り裂けそうになっていた。







暫くして夕食を終えた二人は、布団を敷きに来た人間が部屋を出ると黙り込んだ。
それはどちらともなく口を閉ざしたといった方がいいだろう。
司の心の奥では、この沈黙は妻が平常とは違う世界に戻ってくれたのではないかという微かな期待に変わった。
だがそうではなかった。

「司、早く寝てね?」

と言った言葉ははっきりとしていたが、それ以上続く言葉はなかった。

司は無言のまま妻を見つめつづけていた。
今の妻は彼を虜にした黒い大きな瞳にはっきりとした意思を持ち、夫である司に自分の望みを叶えて欲しいと訴えているが返事など出来るはずがない。
それは彼女を永遠に失うということなのだから。

だが今の妻は自分の意思を持つひとりの人間として彼の前にいる。そして彼が止めたとしてもやり遂げて見せるといった意思がある。それは共に暮らした夫だからこそ理解出来ること。
そして彼女の苦しみも分っているつもりだ。時に平常に戻り、時に自分が分からなくなる。
夫である司のことが分からなくなる。その繰り返しがここ最近多くなって来たことも分っている。妻が確実に今の世界を離れて行こうとしていることは感じていた。

「司….お願い横になって」

あたしの為だと思って先に寝てと言われ、部屋の灯りを消され暗闇の中に取り残される男はどうすればいいのか。だが全くの暗闇というのではない。カーテンが閉められていない窓から届く冷え冷えとした月の青白い光りは、客室内ベランダの椅子に腰かけている司の横顔を照らしていた。
だが、妻の場所までその光りは届かない。

やがて二人の間に置かれている重苦しさというものが動いたのが感じられた。
それは襖が開かれた音。
次の間のクローゼットから聞こえたハンガーの音。
コートを外した音。
そして入口の扉が閉まった音がした。

身体は椅子に押し付けられたように動かなかった。
それは重たい何かが身体の上に乗ったように感じられた。
だが自分はここにこうして座り何をしているのか。
最愛の人が自らの命を絶つことを認めるというのか。
いや。よく考えれば分ることだ。
彼女の苦しみや悲しみはいずれ彼女自身には分からなくなることであり、思考は別の場所へ旅立ってしまう。つまり苦しいのは妻ではない。

司がここでこうして座っている理由はただひとつ。
それは妻の本来ではない姿を見たくないといった己の気持がそうさせている。
どんなに妻が変わろうと大丈夫だと言っても、本心では妻が変わっていく姿を見たくないという弱い心が司の中に一瞬でも芽生えたということだ。この先見つめ続ける現実というものが怖いのだ。そして辛いのだ。ただ自分が悲しい思いをしたくないといった心があったということだ。だがそれは今この瞬間消えた。
と、同時に司は立ち上った。
敷かれた布団の上を横切りコートを手に取ると部屋を出た。
そして廊下を走り、1階へ降りると外へ出た。

妻が外へ出てあまり時間は経っていない。
それならまだ近くにいるはずだ。旅館の前は海だ。考えることはただひとつ。
だから目の前の道を横切り海へ向かった。
浜辺の砂が革靴に絡み走りにくかったが、走りながら名前を呼んだ。
月が出ているとはいえ、黒い水面が見えるだけで浜辺に人影はなく波の音だけが繰り返し聞こえていた。そして強い風に潮の香りが舞っていた。

「つくし!つくしっ!返事をしろ!どこにいる?!」

司は砂に足を取られ転んだ。
だが直ぐに立ち上がりまた走りだした。
そして何度も妻の名前を呼んだが答える者はいない。
それでも司は呼び続けた。

「つくし!つくし!どこにいる?!返事をしてくれ!」

彼女の、妻の生を願って何度も名前を呼んだ。
だが返事はない。
もしかすると黒い海の中へ消えてしまったのか。
自分がほんの少しの間、躊躇いを見せたばかりに彼女はいなくなってしまったのか。

だがその時だった。
小さな黒い塊が目の前で動く様子が見えた。
司は走って近づいた。そして声をかけた。

「つくし!大丈夫か?」

そこにいたのは、ネックレスを外し手の中に包みこみ唇を寄せる女の姿。
それは司が初めて妻にプレゼントした片時も離さないといつも首にかけていた二人の想い出のネックレス。それを外した意味はいったい何なのか。二人の想い出を置いて逝こうとしたのか。
そして聞こえて来た息をつめたような泣き声。
それがやがて泣きじゃくるような声に変わったのが分かった。
司は膝をつくと妻の身体を抱きしめた。

「つくし…つくし….泣いていいんだ。泣けばいい。どれだけ泣いてもいいんだ。俺はお前のどんな涙も引き受けると言った。そう誓った。人生の全てをお前に捧げると言った。だからいいんだ。お前がどんなお前になろうと構わない。居てくれるだけで、生きていてくれるだけでいいんだ」

どんな眼差しでも受け止める。
その瞳に輝きが失われたとしても構わない。

「つかさ…..つかさ….あたし…あたし怖いの….あたしじゃなくなるのが怖いの…..」

「つくし…..いいんだ。お前がお前じゃなくてもいいんだ。お前がいてくれればそれだけでいいんだ」

たとえ脳細胞が壊れたとしても、司が覚えている限り二人が愛し合った記憶は失われることはない。
そして言葉にすることが出来なくなったとしても、ほほ笑みがあればそれでいい。
少女のような微笑みでも、何も知らない幼子が浮かべる微笑みでもいい。

また共にいられる日が来る。司と呼ぶ日はいつか来る。
これから戻れない世界に行ったとしても。また逢える日が必ず来る。

忘れたくて忘れるのではない。
今の妻は生まれ変わる前に大きな深呼吸をしているようなものだ。記憶を新しくするための行為を生きている間にしようとしているだけだ。

かつて己を雑草と呼んだ少女はやがて花になった。
その花は小さな蕾だったが、咲く前にはひと呼吸したはずだ。そして考えた。
これから誰のために花を咲かせようかと。そしてそれは司の為だったはずだ。
彼の為に大輪の花を咲かせた。
その花が散ったとしても、またいつか芽を出し大きく成長してくれるはずだ。
そしてその時が来れば、また司が見つける。
逢えばきっと分るから。

「つくし…..。大丈夫だから。大丈夫だ。俺がついてる。お前の傍には俺がいる」

司は妻を抱きしめたまま目を閉じたが唇を伝って落ちる涙が感じられた。
それは安堵の涙。生きていてくれて良かったという思い。悪かったという思い。
様々な感情が込められた涙が流れていた。

「すまない。つくし。俺は….」

二人は抱き合ったまま泣いていたがどれくらい時間が経ったのか。
やがて妻は泣き疲れたのか彼の腕の中で眠りについた。





果たして次に目覚めるとき、彼女はどちらの世界にいるのか。
だがどちらの世界にいたとしても構わない。
司にとってどちらの世界にいても妻に変わりはないのだから。



太陽が沈んだとしても、月の光りは静かに優しく二人を照らす。
そして青白い光りを地上へ届ける。

いつの日か人は皆あの空へ帰る。
もし妻が先に帰るというなら司が後から追いかけるだけだ。



司は自分が人生のどの辺りにいるのか分からなかった。
独り切りの時間がどれくらい続くのか。
寂しさを抜け出すまでの時間がどれくらい必要なのか。
そしてあと幾つ季節が巡り来るのかも分からなかった。
だが冬の空に浮かぶ月の光りは確実に司の元に届いていて、その中に妻の姿を見ることが出来ればそれでいい。たとえ何もかも分からなくなったとしても妻の存在がここにあるだけでいい。
胸の中には妻がくれた沢山の愛と優しさがあるのだから。







海から生まれた命はやがて煙となり空へ帰る。
そして空から降る雨は海を満たし波となり永遠に繰り返し打ち寄せ終わりがない。
だからこれからは、風に乗り高く舞い上がる波の花があればそれは妻だと思う。

命の繋がりも永遠で途切れることはない。
だからまたいつか二人のドラマが始まるはずだ。
それまでは妻だけを、この腕の中の彼女だけを見つめて生きていく。

妻を空へ送るその日まで。




< 完 > * 残照 *

にほんブログ村
応援有難うございます。
Comment:15
2018
04.14

天涯の刻 ~残照 番外編~

Category: 残照(完)
<天涯の刻(てんがいのとき)>
*天涯=空のはて 








「そう言えば父さん、最後まで母さんの傍を離れなかったよな」

「そうだな。あの人は母さんが自分のことを覚えてなくてもそれでも良かったんだ。何しろ母さんは父さんにとって俺たちとはまた別のたった一人のかけがえのない人だったんだから。
恐らく今の父さんは母さんの魂の傍で安らかに過ごしているはずだ。それにいつか父さん言っただろ?人生は愛だって。あの父さんがだぞ?あの人の口から真面目な顔で人生は愛だって言葉を聞くとは思わなかったが実際そうだった。父さんの中では俺たちより母さんが一番で母さんを愛することが父さんの生きがいだったんだから、俺たちなんてその愛の副産物くらいにしか考えてなかったんじゃないのか?」

「…そうかもしれないな」

そんな会話を交わしているのは、道明寺家の兄弟ふたり。
彼らは父親によく似た風貌を持っているが、性格は母親譲りだと言われていた。







道明寺司が亡くなったのは半年前。
高校生の時、導かれるように妻に巡り会った彼らの父親は、病を患った最愛の妻と5年間過ごし、それから5年後息を引き取ったが、亡くなったのは桜が散るのと時を同じくしてのこと。朝起きてこない主を心配したメイドが様子を見に行ったが、その時にはすでに旅立っていた。享年72歳。心不全だった。

そして時の流れは確実に季節の移り変わりを示し、窓の外に見える庭の木々は色付き秋を迎えていた。
そんな秋の日の午後。
息子たちは父親が数多く残した写真の整理のため、東の角部屋へと足を踏み入れた。
そこは彼らの両親が暮らした場所。母が医師から入院を勧められるまで二人はこの部屋で暮らしていた。

若い頃、写真を撮られることが嫌いだったという父親。
だが結婚してからは、子供たちの成長と共に写真に写ることが増えたが、妻が病を患ってからは、その数が急激に増えたのは思い出作りのためか。息子たちがソファに腰かけ見ているのは、きちんと整理されアルバムに貼られた写真。ゆっくりと捲っていたが、二人は改めて父親の母親に対する想いを感じ取っていた。

写真の中の父は、心配そうに母を見つめる姿が多い。
父の隣に写る母は、夫のすぐそばにいるのだが、心は彼方へと向いている表情をしているものもあった。それは意識や記憶が薄れていく病のせい。誰にでも起こり得る可能性のある病は、他人事とはいえない病。だが子供たちは信じられなかった。自分達の母親がまさかといった思いだった。だが一番堪えたのは父親だった。

子供たちは両親がどれだけ深く愛し合っていたのか知っていたから、夫婦がこれからどうやって時を過ごそうと考えているのか。そのことを父親に訊いたとき、『見守っていく。それが夫の役目だ』と言い笑っていた。だが心の中は嵐が吹き荒れていたはずだ。

夫のことが分からなくなった妻と過ごした5年はどういったものだったのか。
子供である自分たちとはまた違った思いがあったはずだ。
それはきれいごとでは済まされないこともあった。
本人がその病に罹ったことを告げられたとき、絶望があったははずだ。
進行していく病を止めることは出来ず、自分が失われていく過程を記録に残すではないが、日記がつけられていたが、初めの頃はしっかりと書かれていた文字も、やがてミミズがはったような文字に変わり書けなくなった。そして衰えていく脳と比例するように体力も奪われ最期は病院で静かに息を引き取った。


コロニアル様式の邸の中で異質な空間と言われる和室に置かれた仏壇にある母の位牌。
いつだったか父が仏壇の前で黙って座っているところに出くわしたことがあった。
静かに何かを祈るような姿に声を掛けるのが躊躇われたが、振り向いた父親は『どうした?母さんに会いに来たんだろ?入れ』と言ったが、夫婦ふたりの時間を邪魔したようで『いいのか?』と思わず訊いたが父は『構うもんか。息子が会いに来たのに嫌がる母親がどこにいる?』と言い正面を譲ってくれた。

少しずつ自分の夫のことを忘れていく母親は、会うたびあなたは誰を繰り返していたが、そのたびに父は同じ言葉を繰り返していた。

『俺は道明寺司だ。お前の夫だ』

繰り返されたその言葉。
訊かれることに慣れたとしても、告げるたび切なさが積み上げられていったはずだ。



「ああ。これだこれ。この写真だ」

兄弟はそれぞれに父親のことを思い出しながらページを捲っていたが、兄はそう言って見つけた写真に声を上げた。

「母さんと父さんが能登に行った時の写真だ。あの旅のことだけどな。母さんまだ自分の意思がはっきりしてた時に父さん宛に書いた手紙があったそうだ。だけどそれは遺書だった」

「ちょっと待ってくれ。どういうことだ?俺聞いてないぞ?」

弟は兄の言葉に驚いた。
自分たちの母親が遺書を書いていたという話は初めて聞いたからだ。

「悪い。俺も父さんが亡くなる少し前に訊いたからな。お前に言おうか迷ってるうちに父さんが亡くなったから言えずじまいだった」

父親は弟や妹に話すかどうかは、お前が決めればいいと言って兄だけにその事実を伝えた。

「それで、どんなことが書いてあったんだ?」

「ああ.....母さんは自分が父さんのことを忘れ、俺たち家族のことを忘れて生きることが辛いって内容だったらしい。それであの海で死ぬつもりだったらしい。でも母さんが自分で自分の命を絶つなんてことが出来るはずがない。だから父さんも本気にはしてなかった。だけど本気だったんだよ….母さんは。自分が自分じゃなくなるのが辛かったんだ」

兄弟は二人が寄り添った写真を見ていた。
それは父親が母親を連れ最後の旅行に出たとき撮られた写真。
能登半島の冬の風物詩と呼ばれる『波の花』をバックに撮られた写真の母は微笑んでいて、しっかりとカメラのレンズを見つめる瞳があった。
その瞳は兄弟が知る母親のまっすぐな強い瞳。
だがその写真が撮られた夜。母親は入水自殺をしようとしたという。だが父親はそれを許さなかった。それもそのはずだ。あの父親がいくら妻の意思だからと言っても、母が逝くことを許すはずがない。

「けど晩年の父さんは一生分の幸福を味わってたんじゃないか?
母さんが子供みたいになってもそれは苦しみなんかじゃなかった。むしろ楽しみを分かち合ってたんじゃないか?俺はそう思う。あの二人高校生の頃出会って離れ離れの恋をして、それから結婚しただろ?NYと東京で離れた4年があったから若者らしい付き合いは経験しなかったはずだ。だから母さんがああなってからの父さんは、高校生のような気分だったはずだ。世話を焼きたがる父さんの姿なんてまさにそうだろ?それに俺たちは二人の子供だけど俺たちも全く知らない夫婦だけの関係ってのもあったはずだ。あの二人は幸せだったはずだ。特に父さんは幸せだったはずだ。だから今ごろ空の上で母さんに迎えられて喜んでるはずだ。それこそ子供みたいにな」

たとえ子供でも親のことについては知らないことがある。
それは自分達が親になり理解できることだが、夫婦には夫婦でしか分からない何かがある。
だがそうでなかったとしても、そうだったはずだと願う気持があった。

そして父親は、妻が亡くなってから毎年冬の能登へ足を運び、あの時と同じ旅館に泊まり『波の花』を見ていたが、恐らくそこにあの日の妻の姿が見えるのだろう。亡くなった存在だとしても、その姿を感じるのだろう。
そして『能登はやさしや土までも』と言われるほど能登の人は優しい。
その土地の持つ空気や人に癒されるのだろう。能登から戻ってきた父親の顔は東京にいる時の顔とは明らかに違い、向うで母さんに会えたと言ったことがあった。
もしかすると、妻の魂の一部は能登の海にいるのかもしれない。そんな思いなのだろう。


「ほら。こっちの写真見てみろよ?これ、母さんがブドウ狩りに行きたいって言ったことがあっただろ?能登の冬の次の秋だ。母さん俺たちが子供のころ行ったブドウ畑のことを言ったんだと思うが、何しろ意識も記憶も行ったり来たりだったが、父さん母さんを連れて山梨へブドウ狩りに出掛けただろ?これその時の写真だ。あの時、母さん摘み取ったブドウの実を潰してその汁で父さんの顔を紫に塗ってはしゃいだそうだ」

それは同行した看護師から訊かされた話。

『奥様はそれはもう楽しそうにされていました。もちろん旦那様もです。お二人とも子供のようでした』

妻の小さな白い手でブドウの汁を顔中に塗られ笑っていたとういう父親。

「父さんは母さんが好きなようにすればいいって考え方だったから決して止めようとはしなかった。その時の父さんはブドウの新しい食べ方を知ったって笑っていたそうだ」

両親の若い頃の話を訊いたことがある。
彼女が微笑むなら他に何もいらない。彼女が輝くことならどんなことでもしてやりたいと言ったという父親。だから二人の間に意思疎通が成り立たなくなっていても、言葉を越えた何かを夫である男は肌で感じていたということだ。

「そうだな。父さんは亭主関白に見えるけどいつも母さんを見ていた。それは目に見える表面上のことじゃない。心の中でいつも母さんの姿を追っていた。心はいつも母さんのことで一杯だった。だから最後に母さんを送ったときの唇の形、つくし、少しだけ待ってろって言った。その後は多分….俺もそのうち行くからなって….声に出さずにそう言ってた」

荼毘に付される前、白い花を棺の中に落とし横たわった妻に囁いたと思われる言葉。
最愛の人の魂を空の彼方へ送る儀式は父にとっては永遠の別れではない。
それは一時離れ離れになるだけ。
命ある者なら誰にでも訪れる自然の摂理を迎えただけ。

「…そうか。それに父さん、空の上に着いたら着いたで言ったはずだ。お前俺のこと忘れてねぇだろうなってな。地上じゃ最後に俺のこと忘れやがってあんときの仕返しかってな」

「そうだな。父さん絶対に言ってるはずだ」

高校生の頃、父が母のことを忘れたことがあったと訊いたが、母親がその仕返しとして父を忘れたとすれば、今頃は空の上で大げんかになっているはずだ。

そして母が旅立ったとき、父の顔には思慕といったものはなかった。涙を流すことはなかった。だから歓送とも言える見送り方だった。そう思えた。
そして父の心を縛っていた命は身体から解き放たれ最愛の人の元へ旅立った。
今二人は青い空のどこかにいて顔を見合わせ笑っているはずだ。


「つくし。遅れちまってすまねぇ。子供たちが色々と面倒なことを言いやがるから、すぐには来れなかったんだ」と。



父の晩年は決して孤独ではなかった。
心の中には、いつも母の面影があったはずだから。
そして今は最愛の人と空の上から子供たちや孫を見下ろしながら言っているはずだ。



「お前ら幸せに暮らせよ」と。


兄弟が目を落したアルバムの中には幸せそうな笑みが溢れていた。





にほんブログ村
Comment:6
back-to-top