司が乗ったジェットが東京に着た日。
空には厚い雲が垂れ込め雨が降っていて、重く湿った空気は肌に纏いつくようにじっとりと感じられた。だがどこかヒンヤリとした空気も感じられたが、彼自身は寒いといったことはなかったが、それは体調を崩しやすい梅雨寒であり、司が日本を離れる前はなかった季節の移ろいだ。
3週間に渡るロンドンをはじめとする欧州訪問は、最後にチューリッヒで行われたアゼルバイジャンでの石油事業に関する会議で終わった。
だがその前に立ち寄ったアブダビでジェットが高度下げ、砂の上で炎を上げる柱の姿を目にしたとき、道明寺がそれまで手に入れることが出来なかった石油を必ず自分が手に入れてやるとこの国に乗り込んだ日のことを思い出していた。
それはジェットが空港に到着し、扉が開かれ、タラップを降りようと足を踏み出した瞬間押し寄せた熱風と直射とコンクリートの照り返しが目を突き刺しサングラスを取り出した日のことだ。
アブダビでの契約は、自分の生き方をとやかく言われないため欲しかった契約。
それはそれまで親の庇護の下にいた男について囁かれていた、青二才の若造に何が出来るという言葉を打ち消したいという思いと、会社を継ぐと決めた男のプライドといったものがあった。と、同時にニューヨークという街で知った井の中の蛙大海を知らずの言葉通り、道明寺という名前が無ければ余りにも小さすぎる己の存在に忸怩たるものを感じたからだ。
だから必ず契約を結んでやるといった気持ちで乗り込み、見事に勝ち取った提携関係。
しかしいずれ訪れる契約の満了。だが提携を結んでから強化された関係の上での契約の延長には自信があった。そして望み通り25年の延長の合意は結ばれたが、アブダビの陸上油田は世界屈指の巨大油田であり、日本が大石油消費国である以上、契約の延長は日本という国にとっても喜ばしいことで在アラブ首長国連邦日本国大使が日本流の誠実さと綿密さを伝える役割を果たしてくれた。
そしてカスピ海の海上油田での石油権益獲得は、日本の自主開発原油量が引き上げられることであり、公には言えないが政府がこの事業を後押ししてくれたのは確かだった。
「副社長お疲れでしょうからマンションへお帰りになりますか?」
車に乗り込み司の真正面に腰を下ろした西田は、会社へは寄らず直接マンションへ向かうかと訊ねたが、ジェットの中で訊いた限り急ぎの仕事はないと言う話だった。だから司は会社に寄らず直接マンションに帰るつもりでいた。海外出張はプライベートジェットでの移動で疲れることはないが、今は自宅でシャワーを浴びベッドへダイブしたい気持ちが大きく、マンションに向かってくれと言った。
「ああ。特に何もないなら自宅へ向かってくれ。それからあの女はどうだ?真面目に仕事をしているのか?」
あの女とは牧野つくし。
滝川産業から道明寺へと出向させたが、あの女と会ったのは初日だけ。それからすぐにヨーロッパ出張で3週間が過ぎ、姪と約束した夫の不倫相手である牧野つくしを虜にして捨ててくれの約束を果たすための行動にはまだ取り掛かってはいなかった。
「はい。牧野さんは真面目に仕事をされています。まだ3週間ですが、佐々木純子とは気が合うようで、彼女が何かと気にかけていますので問題はなかろうかと。それに牧野さんは頭のいい方ですので、覚えるもの早いようです。それぞれの専門分野の社員から石油事業についての話を訊かされ理解しようと努力しているようです」
石油関係の仕事にタッチしたことがない人間が学ぶことは多いが、興味があれば知恵を授けてくれる人間がすぐ傍にいるのだから牧野つくしは運がいい。
そして牧野つくしは全く専門外のことを学び取ろうと努力しているという。
それは褒められることだが、あの女は泥棒猫と言われてもおかしくない女だ。どれだけ仕事が出来たとしても、いずれはここを去る女であり、深入りさせるつもりは端からないが、訊く限り仕事に対する姿勢は誉めることが出来る。
「そうか。あの女。真面目に仕事をしていたか….それで白石隆信。美奈の夫とはどうなっている?」
司に促された西田は口を開いた。
「はい。この3週間牧野さんは会社と自宅の往復で休日はスーパーへ買い物に出かける程度であり、どこかへ出かけたということもありません。それから白石隆信があのマンションを訪れたこともありません。ただ数日前ですが、マンションに美奈様が雇った男の姿があったと報告がありました」
「美奈が雇った男?調査員か?」
「はい。白石様の浮気の相手は牧野様だと美奈様に報告してきた男です。その男がマンションの駐車場の暗がりにいたそうです。ですが管理人に声をかけられ直ぐに立ち去ったようです」
西田が牧野つくしに付けた調査員は有能であり、美奈が雇った男のようなヘマはしない。
だがマンションをうろついている男が美奈の雇った調査員だとすれば、それが意味することはただひとつ。
美奈は叔父である司が3週間も日本を離れていることで、進展が見られないことに痺れを切らしたということか。だから自らが雇った調査員を使い牧野つくしを監視させていると考えるのが妥当だろう。しかし西田の報告が正しいなら隆信が妻の目を盗み牧野つくしと会っていたという報告はない。だが司は眉根を寄せた。もしかすると二人の逢瀬は誰の目にも止まらぬよう細心の注意が払われているのかもしれない。
「西田。行き先を変更しろ。会社へ行く」
***
つくしが目を覚ましたとき、医務室の医師は白衣の背中を向け机に向かっていた。
「あの。すみません…….」
と声をかけると医師は振り返った。
「あら。目が覚めた?でも急に起き上がらない方がいいわ」
と言ってつくしの傍に来たのは50代の女医。
ベッドの上で寝ているように言ったが、つくしはゆっくりと起き上り、何故自分が医務室のベッドに寝ていたのか考えた。
ただ目覚めた途端感じたのは、身体の中心が重くて力が入らなかったということ。
だが何とか自分の置かれた状況を確認しようと再び口を開いた。
「あの。わたし….いったい....」
「牧野さん。大丈夫よ。ただの貧血だから。でも佐々木さんがとても驚いていたわよ?」
「さ、佐々木さん?」
佐々木と言われ、一瞬誰のことを言っているのか分からなかったが、それが同僚の佐々木純子であることに気付くのにさして時間はかからなかった。
「そうよ。エネルギー事業部 石油・ガス開発部別室の佐々木さんよ?
それにしてもエネルギー事業部の別室と言えば、あそこは確か副社長直轄よね?あなたあそこにいるなら優秀なのね?」
医師はつくしの顔をじっと見つめていたが、つくしが何も答えないでいると心配そうに眉根を寄せた。
「大丈夫牧野さん?まさか牧野さん自分が誰だが分からないなんて言わないでね?」
「え?」
思わず零れた自分の声は、自分が誰であるか分かっていても、それでも自分が牧野つくしであることを再認識しようとしていた。
「大丈夫です。記憶を失ったとかそんなことはありませんから」
「そう?それなら良かったわ。でも倒れる直前のことは覚えていないようね?牧野さんは昼休み社員食堂でトレーを掴んだまま倒れたの。佐々木さんや周りの人によると、それこそバターンって突然倒れたの。だから周りは心臓の突発的な症状かと思ったのね。慌てて近くの除細動器を取りに走ったみたい。でも心臓の動きは問題ないし呼吸もちゃんとしてるし、これはってことで医務室に運ばれて来たの。でも貧血で良かったわね?はい。これ」
医師はホッとした声でそう言ってつくしが首から下げていた社員証を差し出したが、少し躊躇しながら再び口を開いた。
「….牧野さん。あのね、言いたくなかったら答える必要はないけど、もしかして妊娠しているのかしら?貧血で倒れるといった症状が現れたとき、そういったことも考えるのが医者なんだけど、間違っていたらごめんなさいね」
「いえ。妊娠はしていません」
つくしが躊躇うことなくすぐさま返事をすると医師は穏やかな微笑を浮かべた。
「そう?良かったわ。もし妊娠しているなら病院で見てもらうことを勧めようと考えていたの。だから訊かせてもらったのよ」
医師はそう言ってからしゃがみこむと、身体に掛けられていた布団をたたみ始めたつくしの靴をベッドの下に履きやすいように揃えた。
「それなら仕事で疲れたのかもしれないわね?牧野さんは滝川産業からの出向だと訊いたから慣れない仕事で疲れたのもあるでしょうね。女性の身体は環境の変化に敏感だから。それに今日は梅雨寒でヒンヤリした一日だったけど、昨日は蒸し暑かったし、気温の変化が激しくて体温調節も大変よね?そんなことも重なって身体の中に溜まった疲れが何かサインを出したのかもしれないわね?」
疲れが溜まっている。
自分ではそうは思わなかったが、慣れない職場で気を遣うことは確かであり、もしかするとそうなのかもしれない。
そして医師から妊娠しているかと訊かれたとき、即座に否定したが付き合っている男性がいないのだから当然だ。
それにしても、食堂でトレーを掴んだまま倒れたということは、食事をしていないということだ。だから目が覚めた途端から空腹感があった。そして貧血なら肉を食べるべきだが今の冷蔵庫にあるのは進から送られた野菜ばかりで肉は無かった。それなら今日は肉を調達するべきだ。それに確か近くのスーパーは水曜日が肉の特売日で肉が安かったはずだ。
そんなことを考えていたが、目の前の医師は黙り込んでしまったつくしに心配そうに声をかけた。
「ねえ牧野さん。大丈夫?」
「えっ?あ、すみません。本当にお世話になりました」
とつくしは慌てて頭を下げた。
「いいのよ。気分が悪い時は無理をしないでね。年令的にも身体の変化が見られる年頃ですもの」
靴を履き、立ち上がった瞬間。頭がクラッとしたがなんとか体勢を整え、乱れている髪を手で直した。そしてその時、腕時計に目を落とすと針は4時半を指していて、まもなく就業時間が終了することを告げていたが昼休みから4時間半も眠っていたことに驚いた。
「あの私、昼休みからずっと眠っていたってことですよね?」
「ええ。そうよ。疲れていたのね?身体が眠りを欲している時は眠るのが一番なの。だから起こさなかったし起こそうとは思わなかったわ。それにしても本当によく寝ていたわ」
と言った医師は勤務医の佐藤と名乗り、ロッカーからハンガーに掛けてあったつくしの上着を取り出すと渡した。
「今日はもう終わりだし、早く家に帰った方がいいわね。でも大丈夫?一人で帰れる?タクシーが使えるなら使った方がいいと思うけど、途中で気分が悪くなったら無理しないで休んだ方がいいわ。それとももう少し休んで行く?」
タクシーを使うとなるとかなりと出費になる。だから電車で帰るつもりだ。
だがその前に佐々木純子に会って心配をかけたことを詫びなければならない。それにどちらにしても荷物はまだ別室と呼ばれる部屋にあるのだから。
「いえ大丈夫です。本当にありがとうございました」
つくしが改めて礼を言い医務室を後にしようとしたその時だった。
扉が開く音がして、部屋の奥が見えないように置かれているパーテーションの向うから声がした。
「失礼。牧野つくしはいるか?」

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空には厚い雲が垂れ込め雨が降っていて、重く湿った空気は肌に纏いつくようにじっとりと感じられた。だがどこかヒンヤリとした空気も感じられたが、彼自身は寒いといったことはなかったが、それは体調を崩しやすい梅雨寒であり、司が日本を離れる前はなかった季節の移ろいだ。
3週間に渡るロンドンをはじめとする欧州訪問は、最後にチューリッヒで行われたアゼルバイジャンでの石油事業に関する会議で終わった。
だがその前に立ち寄ったアブダビでジェットが高度下げ、砂の上で炎を上げる柱の姿を目にしたとき、道明寺がそれまで手に入れることが出来なかった石油を必ず自分が手に入れてやるとこの国に乗り込んだ日のことを思い出していた。
それはジェットが空港に到着し、扉が開かれ、タラップを降りようと足を踏み出した瞬間押し寄せた熱風と直射とコンクリートの照り返しが目を突き刺しサングラスを取り出した日のことだ。
アブダビでの契約は、自分の生き方をとやかく言われないため欲しかった契約。
それはそれまで親の庇護の下にいた男について囁かれていた、青二才の若造に何が出来るという言葉を打ち消したいという思いと、会社を継ぐと決めた男のプライドといったものがあった。と、同時にニューヨークという街で知った井の中の蛙大海を知らずの言葉通り、道明寺という名前が無ければ余りにも小さすぎる己の存在に忸怩たるものを感じたからだ。
だから必ず契約を結んでやるといった気持ちで乗り込み、見事に勝ち取った提携関係。
しかしいずれ訪れる契約の満了。だが提携を結んでから強化された関係の上での契約の延長には自信があった。そして望み通り25年の延長の合意は結ばれたが、アブダビの陸上油田は世界屈指の巨大油田であり、日本が大石油消費国である以上、契約の延長は日本という国にとっても喜ばしいことで在アラブ首長国連邦日本国大使が日本流の誠実さと綿密さを伝える役割を果たしてくれた。
そしてカスピ海の海上油田での石油権益獲得は、日本の自主開発原油量が引き上げられることであり、公には言えないが政府がこの事業を後押ししてくれたのは確かだった。
「副社長お疲れでしょうからマンションへお帰りになりますか?」
車に乗り込み司の真正面に腰を下ろした西田は、会社へは寄らず直接マンションへ向かうかと訊ねたが、ジェットの中で訊いた限り急ぎの仕事はないと言う話だった。だから司は会社に寄らず直接マンションに帰るつもりでいた。海外出張はプライベートジェットでの移動で疲れることはないが、今は自宅でシャワーを浴びベッドへダイブしたい気持ちが大きく、マンションに向かってくれと言った。
「ああ。特に何もないなら自宅へ向かってくれ。それからあの女はどうだ?真面目に仕事をしているのか?」
あの女とは牧野つくし。
滝川産業から道明寺へと出向させたが、あの女と会ったのは初日だけ。それからすぐにヨーロッパ出張で3週間が過ぎ、姪と約束した夫の不倫相手である牧野つくしを虜にして捨ててくれの約束を果たすための行動にはまだ取り掛かってはいなかった。
「はい。牧野さんは真面目に仕事をされています。まだ3週間ですが、佐々木純子とは気が合うようで、彼女が何かと気にかけていますので問題はなかろうかと。それに牧野さんは頭のいい方ですので、覚えるもの早いようです。それぞれの専門分野の社員から石油事業についての話を訊かされ理解しようと努力しているようです」
石油関係の仕事にタッチしたことがない人間が学ぶことは多いが、興味があれば知恵を授けてくれる人間がすぐ傍にいるのだから牧野つくしは運がいい。
そして牧野つくしは全く専門外のことを学び取ろうと努力しているという。
それは褒められることだが、あの女は泥棒猫と言われてもおかしくない女だ。どれだけ仕事が出来たとしても、いずれはここを去る女であり、深入りさせるつもりは端からないが、訊く限り仕事に対する姿勢は誉めることが出来る。
「そうか。あの女。真面目に仕事をしていたか….それで白石隆信。美奈の夫とはどうなっている?」
司に促された西田は口を開いた。
「はい。この3週間牧野さんは会社と自宅の往復で休日はスーパーへ買い物に出かける程度であり、どこかへ出かけたということもありません。それから白石隆信があのマンションを訪れたこともありません。ただ数日前ですが、マンションに美奈様が雇った男の姿があったと報告がありました」
「美奈が雇った男?調査員か?」
「はい。白石様の浮気の相手は牧野様だと美奈様に報告してきた男です。その男がマンションの駐車場の暗がりにいたそうです。ですが管理人に声をかけられ直ぐに立ち去ったようです」
西田が牧野つくしに付けた調査員は有能であり、美奈が雇った男のようなヘマはしない。
だがマンションをうろついている男が美奈の雇った調査員だとすれば、それが意味することはただひとつ。
美奈は叔父である司が3週間も日本を離れていることで、進展が見られないことに痺れを切らしたということか。だから自らが雇った調査員を使い牧野つくしを監視させていると考えるのが妥当だろう。しかし西田の報告が正しいなら隆信が妻の目を盗み牧野つくしと会っていたという報告はない。だが司は眉根を寄せた。もしかすると二人の逢瀬は誰の目にも止まらぬよう細心の注意が払われているのかもしれない。
「西田。行き先を変更しろ。会社へ行く」
***
つくしが目を覚ましたとき、医務室の医師は白衣の背中を向け机に向かっていた。
「あの。すみません…….」
と声をかけると医師は振り返った。
「あら。目が覚めた?でも急に起き上がらない方がいいわ」
と言ってつくしの傍に来たのは50代の女医。
ベッドの上で寝ているように言ったが、つくしはゆっくりと起き上り、何故自分が医務室のベッドに寝ていたのか考えた。
ただ目覚めた途端感じたのは、身体の中心が重くて力が入らなかったということ。
だが何とか自分の置かれた状況を確認しようと再び口を開いた。
「あの。わたし….いったい....」
「牧野さん。大丈夫よ。ただの貧血だから。でも佐々木さんがとても驚いていたわよ?」
「さ、佐々木さん?」
佐々木と言われ、一瞬誰のことを言っているのか分からなかったが、それが同僚の佐々木純子であることに気付くのにさして時間はかからなかった。
「そうよ。エネルギー事業部 石油・ガス開発部別室の佐々木さんよ?
それにしてもエネルギー事業部の別室と言えば、あそこは確か副社長直轄よね?あなたあそこにいるなら優秀なのね?」
医師はつくしの顔をじっと見つめていたが、つくしが何も答えないでいると心配そうに眉根を寄せた。
「大丈夫牧野さん?まさか牧野さん自分が誰だが分からないなんて言わないでね?」
「え?」
思わず零れた自分の声は、自分が誰であるか分かっていても、それでも自分が牧野つくしであることを再認識しようとしていた。
「大丈夫です。記憶を失ったとかそんなことはありませんから」
「そう?それなら良かったわ。でも倒れる直前のことは覚えていないようね?牧野さんは昼休み社員食堂でトレーを掴んだまま倒れたの。佐々木さんや周りの人によると、それこそバターンって突然倒れたの。だから周りは心臓の突発的な症状かと思ったのね。慌てて近くの除細動器を取りに走ったみたい。でも心臓の動きは問題ないし呼吸もちゃんとしてるし、これはってことで医務室に運ばれて来たの。でも貧血で良かったわね?はい。これ」
医師はホッとした声でそう言ってつくしが首から下げていた社員証を差し出したが、少し躊躇しながら再び口を開いた。
「….牧野さん。あのね、言いたくなかったら答える必要はないけど、もしかして妊娠しているのかしら?貧血で倒れるといった症状が現れたとき、そういったことも考えるのが医者なんだけど、間違っていたらごめんなさいね」
「いえ。妊娠はしていません」
つくしが躊躇うことなくすぐさま返事をすると医師は穏やかな微笑を浮かべた。
「そう?良かったわ。もし妊娠しているなら病院で見てもらうことを勧めようと考えていたの。だから訊かせてもらったのよ」
医師はそう言ってからしゃがみこむと、身体に掛けられていた布団をたたみ始めたつくしの靴をベッドの下に履きやすいように揃えた。
「それなら仕事で疲れたのかもしれないわね?牧野さんは滝川産業からの出向だと訊いたから慣れない仕事で疲れたのもあるでしょうね。女性の身体は環境の変化に敏感だから。それに今日は梅雨寒でヒンヤリした一日だったけど、昨日は蒸し暑かったし、気温の変化が激しくて体温調節も大変よね?そんなことも重なって身体の中に溜まった疲れが何かサインを出したのかもしれないわね?」
疲れが溜まっている。
自分ではそうは思わなかったが、慣れない職場で気を遣うことは確かであり、もしかするとそうなのかもしれない。
そして医師から妊娠しているかと訊かれたとき、即座に否定したが付き合っている男性がいないのだから当然だ。
それにしても、食堂でトレーを掴んだまま倒れたということは、食事をしていないということだ。だから目が覚めた途端から空腹感があった。そして貧血なら肉を食べるべきだが今の冷蔵庫にあるのは進から送られた野菜ばかりで肉は無かった。それなら今日は肉を調達するべきだ。それに確か近くのスーパーは水曜日が肉の特売日で肉が安かったはずだ。
そんなことを考えていたが、目の前の医師は黙り込んでしまったつくしに心配そうに声をかけた。
「ねえ牧野さん。大丈夫?」
「えっ?あ、すみません。本当にお世話になりました」
とつくしは慌てて頭を下げた。
「いいのよ。気分が悪い時は無理をしないでね。年令的にも身体の変化が見られる年頃ですもの」
靴を履き、立ち上がった瞬間。頭がクラッとしたがなんとか体勢を整え、乱れている髪を手で直した。そしてその時、腕時計に目を落とすと針は4時半を指していて、まもなく就業時間が終了することを告げていたが昼休みから4時間半も眠っていたことに驚いた。
「あの私、昼休みからずっと眠っていたってことですよね?」
「ええ。そうよ。疲れていたのね?身体が眠りを欲している時は眠るのが一番なの。だから起こさなかったし起こそうとは思わなかったわ。それにしても本当によく寝ていたわ」
と言った医師は勤務医の佐藤と名乗り、ロッカーからハンガーに掛けてあったつくしの上着を取り出すと渡した。
「今日はもう終わりだし、早く家に帰った方がいいわね。でも大丈夫?一人で帰れる?タクシーが使えるなら使った方がいいと思うけど、途中で気分が悪くなったら無理しないで休んだ方がいいわ。それとももう少し休んで行く?」
タクシーを使うとなるとかなりと出費になる。だから電車で帰るつもりだ。
だがその前に佐々木純子に会って心配をかけたことを詫びなければならない。それにどちらにしても荷物はまだ別室と呼ばれる部屋にあるのだから。
「いえ大丈夫です。本当にありがとうございました」
つくしが改めて礼を言い医務室を後にしようとしたその時だった。
扉が開く音がして、部屋の奥が見えないように置かれているパーテーションの向うから声がした。
「失礼。牧野つくしはいるか?」

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司*****E様
おはようございます^^
3週間真面目に仕事をしていたつくし。
しかし疑惑は晴れません。
そして司は行動を起こさなければ美奈が動き出すかもしれませんねぇ(笑)
何しろ美奈は椿の娘で楓の孫。女性としては道明寺最強の血筋です。
GWは出かけておりましたが、どこに出掛けても人が多いですね?
そして本日より平常運転。休み明けは色々と記憶を取り戻しながらとなりました(笑)
脳内を活性化させ、やる気を起こさねば!と思っています。
コメント有難うございました^^
おはようございます^^
3週間真面目に仕事をしていたつくし。
しかし疑惑は晴れません。
そして司は行動を起こさなければ美奈が動き出すかもしれませんねぇ(笑)
何しろ美奈は椿の娘で楓の孫。女性としては道明寺最強の血筋です。
GWは出かけておりましたが、どこに出掛けても人が多いですね?
そして本日より平常運転。休み明けは色々と記憶を取り戻しながらとなりました(笑)
脳内を活性化させ、やる気を起こさねば!と思っています。
コメント有難うございました^^
アカシア
2018.05.07 22:38 | 編集

さ***ん様
貧血で倒れて4時間と少し。
そして妊娠しているのかと問われ否定する女は、肉の特売日のついて考えていたようです。
まさか佐藤医師もつくしがお肉の特売日について思考を巡らせているとは思いもしないでしょうね?
残念ながら木村の出番はありません。
山荘でゆっくりして頂きましょう(笑)
調査員はつくしと恵子を間違えている....。
う~ん。どうなんでしょうねぇ。
さて司、つくしを誘惑出来るのでしょうか?
え?つくしはレバーを食べろ?伝えておきます。
コメント有難うございました^^
貧血で倒れて4時間と少し。
そして妊娠しているのかと問われ否定する女は、肉の特売日のついて考えていたようです。
まさか佐藤医師もつくしがお肉の特売日について思考を巡らせているとは思いもしないでしょうね?
残念ながら木村の出番はありません。
山荘でゆっくりして頂きましょう(笑)
調査員はつくしと恵子を間違えている....。
う~ん。どうなんでしょうねぇ。
さて司、つくしを誘惑出来るのでしょうか?
え?つくしはレバーを食べろ?伝えておきます。
コメント有難うございました^^
アカシア
2018.05.07 22:52 | 編集
