街は夕暮れ時。
少し前まで公園にいた親子連れや、ベンチに腰掛けていた年寄りたちは家路についた。
世間では間もなく夕食の時間。もう少しすれば近隣の住宅やマンションの窓に明かりが灯るはずだ。
賢と名乗る少年の口から告げられた『牧野つくしは好きな男がいる』の言葉。
それは彼女の作るパンを長年食べ、あの店の常連だから知り得たことなのだろうか。
だが少年の口から零れた言葉は、勘違いなのではないだろうか。
たかが10歳ほどの子供が馴染みのパン屋の女性の恋愛について何を知っているというのか。そう思うのが普通だ。
それでも何かの拍子に少年に言ったのかもしれない。
そしていくら今の彼女が誰とも付き合っていなかったとしても、心の中までは調べようがないのだから思う人がいたとしてもおかしくはない。それに司は10年も彼女のことを忘れていたのだ。彼女がパン職人として働くことを決め、店を任され、経営を引き継ぐことが出来るようになるまで恋をすることがなかったとしても、これからは今までの人生とはまた別の新しい一歩を踏み出そうとしていたとしてもおかしくはない。
司の知らない彼女の10年。
いくら遡ろうとしても戻ることの出来ない10年。
最後に見た顔は、大きく見開いた瞳と一直線に結ばれた口元だった。
二人の関係を壊したのは司であり、彼女ではない。だから好きな男がいると言われたとしても仕方がない話だ。
ただ、彼女のことを思い出し直ぐに帰国したのは、贖罪の気持と共に今でも愛しているという言葉を伝えたいからだ。
最近撮られた写真で見る彼女は、少女の頃とは違い柔らかさが感じられる笑みを浮かべていた。それは社会での経験が色々な意味で彼女を成長させたということだろう。
白い粉にまみれた手がパン生地を持ち上げて裏返すことを繰り返す姿は真剣そのもので、自分が作るパンは誰にも負けないといった気持ちが感じられる。
そして色の白さが際立っていたが、あの当時が硬質の陶器だったとすれば、今は表面に滑らかさと丸みが感じられた。それは大人の女性として身に付けたしなやかさなのか。
そうはいっても17歳の少女の頃の面影は失われてはおらず、司が知っている表情が感じられる写真もあった。
そしてあの頃も化粧が似合わない顔だったが今もそう感じられた。だが薄化粧の黒髪の女性は紛れもなく牧野つくしだ。
どんなことでもそうだが、自分の仕事に誇りを持つ人間の顔は輝いて見える。
そんな輝きが感じられる写真は司にとって明るい陽の光りだった少女の眩しさそのもの。
放蕩とまでは言わないがNYで女と遊んでいた頃、その陽光は前を向き掲げた目標に向かって歩いていた。
もし、司が彼女のことを忘れなければ、その光りは彼だけを照らし、そして普通の恋人同士とまでは言わないが、困難を乗り越えながらも共に過ごす時間が持てたはずだ。
だが今となっては手遅れでどうしようもないのか。
「哲也。俺の話訊いてんのかよ?」
司は哲也という名前が咄嗟に名乗った自分の名であることを失念していた。
だから少年が首を斜めにしたとき、返事が出来なかった。
だがその反応は無表情であり少年にしてみれば、昔別れた女とよりを戻したいと訪れた男が、女には好きな男がいると訊かされ、その事にショックを受けたと感じたのだろう。
「哲也は牧野つくしのことが好きなんだろ?それなら好きな女に男がいたとしても、その男から奪えばいいんじゃねーのか?」
まさか小学生にそんなことを言われるとは思いもしなかったが、小学生も5、6年生になると4割は恋人がいるといった話を訊く。だがもちろん大人の付き合いとは違い、互いに好きだと認め合い、消しゴムを貸すだの本を貸すだのといったレベルの付き合いだが、少年がそんな小学生レベルの恋をしているとしても、他の男子児童と女子児童を取り合うといった考えはあるのだろうか。それにしても、小学生と恋について話をするとは思いもしなかった。
そして少年は常日頃から大人に対し自分の意見をはっきりと言う子供なのか、返事をしない司に業を煮やしたように言葉を継いだ。
「どうすんだよ哲也?牧野つくしに会いたいからここにいるんだろ?
そりゃあ俺は元サヤなんて無理だって言ったけど、さっさと諦めんのかよ?
情けねぇよな。いい年した男がそんなんでどーすんだよ?会社沢山持ってんだろ?経営者ってのは物事の判断を付けるのにそんなに迷うもんなのかよ?まったくどうかしてるぜ。俺なら昔のカノジョでもまた好きになったらさっさとコクるぜ?相手に好きな男がいても言わなきゃ自分の想いは伝わんねぇだろ?なんなら俺が牧野つくしに言ってやろうか。物欲しそうにパンを見てるんじゃなくて牧野つくしを見てる男がいるってな」
少年はそう言うと、司の傍を離れ駆け出そうとしていた。目的地はもちろんパン屋だ。
だから司は慌てて立ち上がると少年を止めた。
「おい待て!止めろ!」
「何だよ?俺が親切心で言って来てやる。哲也が自分で牧野つくしの所へ行けねぇから俺が代わりに行ってやるって言ってんだろ?なんで止めんだよ!哲也は牧野つくしの面影だけを追って生きるのか?それでいいのか?」
振り返った少年は司を叱責した。
司の前に突然現れたこの男の子はいったい何者なのか。
見知らぬ人間に声をかけることから始まり、小学生が身近にいる好きな女の子のことを話すのではなく大人の恋愛について語る少年。
いったい何がこの少年をここまで言わせるのか。司はそんな思いから訊いた。
「お前誰だ?何のためにそんなことをする?」
「だから言っただろ?俺はあの店の美味いパンを毎日食べさせてもらってるただの常連だ。
それから何のためって言われたら…..おっさん….じゃねぇ哲也のためじゃねぇ。牧野つくしのためだ。あいつ好きは男がいるけど、なんかアレなんだよ。はっきりしねぇって言うの?朝早くからパンばっか捏ねてるからか男と接することが極端に少ない。だから女子を捨ててるところがあるんだ。それでも牧野つくし目当てに店に来るヤツらもいるから、その中の誰かが好きなのかと思うけど、わかんねぇ。なんか掴みどころが無いって感じだ。だから思った。もし元カレの哲也のことがほんの少しでも心のどこかにあってまだ気にしてるなら、それを忘れるきっかけを与えてやろうと思う。世話になってるんだからそれくらいするのが俺の役目だ」
何のためにと問われた少年が返した言葉は、司の為にひと肌ぬいでやろうというのではない。勿論それは分かっていた。だが会話の中に挟まれた世話になっているとはどういった意味なのか。何を言おうとしているのか分からなかった。
しかし、パンを買う客がそのパンを作る牧野つくしの世話になっているという意味なら製造者と消費者の関係が近ければ近いほどそういった表現がされることがある。
だが少年が個人的に世話になっているとすればそれは一体どういう意味なのか。
司はそのことを訊こうと思った。
携帯の着信音が鳴ったのはその時だった。
上着のポケットの中から取り出すと耳に当てた。
「なんだ?___ああ___その件か。それは向うへ戻ってからでもいいはずだ。ああ分った。もう少ししたら戻る」
と言って電話を切った。
そして携帯をポケットに入れ再び目の前に立つ少年に目を向けた。
「悪かったな。仕事の電話だ」
「向うへ戻るって、どこか遠くに住んでんのか?」
「ああ。今は東京だが普段はニューヨークに住んでる」
NYで10年暮らした男は擦れていた。
だが目の前の少年は生意気なことも口にするが、司を見つめる瞳は澄んでいる。
そして自分の気持ちを率直に話す。そういったことが出来るのは、もしかすると今だけなのかもしれないが、それでも言葉に嘘が無い分なぜか清々しさが感じられた。
それは大人になった自分には無いもので羨ましくも感じられた。人は年を取るほど感情を表に出さない。いや。出せない感情といったものがある。そして感情を隠し嘘をつくことが出来るようになればそれが大人になった証拠だと言われている。
「そっか。哲也は随分遠くに住んでんだな。それでどうする?牧野つくしに会いたいんだろ?けど行けねぇって言うなら俺が行って元カレが会いたいって言ってるって伝えてやるぜ?でも哲也が行くなら俺は行かねぇ。それに哲也もいつまでここに通うつもりか知らねぇけど仕事も忙しいんだろ?いつかニューヨークへ戻るんだろ?だったらさっさと行って来いよ。それから牧野つくしにフラれたら......もうここに来るな。牧野つくしのことは諦めろ」

にほんブログ村
少し前まで公園にいた親子連れや、ベンチに腰掛けていた年寄りたちは家路についた。
世間では間もなく夕食の時間。もう少しすれば近隣の住宅やマンションの窓に明かりが灯るはずだ。
賢と名乗る少年の口から告げられた『牧野つくしは好きな男がいる』の言葉。
それは彼女の作るパンを長年食べ、あの店の常連だから知り得たことなのだろうか。
だが少年の口から零れた言葉は、勘違いなのではないだろうか。
たかが10歳ほどの子供が馴染みのパン屋の女性の恋愛について何を知っているというのか。そう思うのが普通だ。
それでも何かの拍子に少年に言ったのかもしれない。
そしていくら今の彼女が誰とも付き合っていなかったとしても、心の中までは調べようがないのだから思う人がいたとしてもおかしくはない。それに司は10年も彼女のことを忘れていたのだ。彼女がパン職人として働くことを決め、店を任され、経営を引き継ぐことが出来るようになるまで恋をすることがなかったとしても、これからは今までの人生とはまた別の新しい一歩を踏み出そうとしていたとしてもおかしくはない。
司の知らない彼女の10年。
いくら遡ろうとしても戻ることの出来ない10年。
最後に見た顔は、大きく見開いた瞳と一直線に結ばれた口元だった。
二人の関係を壊したのは司であり、彼女ではない。だから好きな男がいると言われたとしても仕方がない話だ。
ただ、彼女のことを思い出し直ぐに帰国したのは、贖罪の気持と共に今でも愛しているという言葉を伝えたいからだ。
最近撮られた写真で見る彼女は、少女の頃とは違い柔らかさが感じられる笑みを浮かべていた。それは社会での経験が色々な意味で彼女を成長させたということだろう。
白い粉にまみれた手がパン生地を持ち上げて裏返すことを繰り返す姿は真剣そのもので、自分が作るパンは誰にも負けないといった気持ちが感じられる。
そして色の白さが際立っていたが、あの当時が硬質の陶器だったとすれば、今は表面に滑らかさと丸みが感じられた。それは大人の女性として身に付けたしなやかさなのか。
そうはいっても17歳の少女の頃の面影は失われてはおらず、司が知っている表情が感じられる写真もあった。
そしてあの頃も化粧が似合わない顔だったが今もそう感じられた。だが薄化粧の黒髪の女性は紛れもなく牧野つくしだ。
どんなことでもそうだが、自分の仕事に誇りを持つ人間の顔は輝いて見える。
そんな輝きが感じられる写真は司にとって明るい陽の光りだった少女の眩しさそのもの。
放蕩とまでは言わないがNYで女と遊んでいた頃、その陽光は前を向き掲げた目標に向かって歩いていた。
もし、司が彼女のことを忘れなければ、その光りは彼だけを照らし、そして普通の恋人同士とまでは言わないが、困難を乗り越えながらも共に過ごす時間が持てたはずだ。
だが今となっては手遅れでどうしようもないのか。
「哲也。俺の話訊いてんのかよ?」
司は哲也という名前が咄嗟に名乗った自分の名であることを失念していた。
だから少年が首を斜めにしたとき、返事が出来なかった。
だがその反応は無表情であり少年にしてみれば、昔別れた女とよりを戻したいと訪れた男が、女には好きな男がいると訊かされ、その事にショックを受けたと感じたのだろう。
「哲也は牧野つくしのことが好きなんだろ?それなら好きな女に男がいたとしても、その男から奪えばいいんじゃねーのか?」
まさか小学生にそんなことを言われるとは思いもしなかったが、小学生も5、6年生になると4割は恋人がいるといった話を訊く。だがもちろん大人の付き合いとは違い、互いに好きだと認め合い、消しゴムを貸すだの本を貸すだのといったレベルの付き合いだが、少年がそんな小学生レベルの恋をしているとしても、他の男子児童と女子児童を取り合うといった考えはあるのだろうか。それにしても、小学生と恋について話をするとは思いもしなかった。
そして少年は常日頃から大人に対し自分の意見をはっきりと言う子供なのか、返事をしない司に業を煮やしたように言葉を継いだ。
「どうすんだよ哲也?牧野つくしに会いたいからここにいるんだろ?
そりゃあ俺は元サヤなんて無理だって言ったけど、さっさと諦めんのかよ?
情けねぇよな。いい年した男がそんなんでどーすんだよ?会社沢山持ってんだろ?経営者ってのは物事の判断を付けるのにそんなに迷うもんなのかよ?まったくどうかしてるぜ。俺なら昔のカノジョでもまた好きになったらさっさとコクるぜ?相手に好きな男がいても言わなきゃ自分の想いは伝わんねぇだろ?なんなら俺が牧野つくしに言ってやろうか。物欲しそうにパンを見てるんじゃなくて牧野つくしを見てる男がいるってな」
少年はそう言うと、司の傍を離れ駆け出そうとしていた。目的地はもちろんパン屋だ。
だから司は慌てて立ち上がると少年を止めた。
「おい待て!止めろ!」
「何だよ?俺が親切心で言って来てやる。哲也が自分で牧野つくしの所へ行けねぇから俺が代わりに行ってやるって言ってんだろ?なんで止めんだよ!哲也は牧野つくしの面影だけを追って生きるのか?それでいいのか?」
振り返った少年は司を叱責した。
司の前に突然現れたこの男の子はいったい何者なのか。
見知らぬ人間に声をかけることから始まり、小学生が身近にいる好きな女の子のことを話すのではなく大人の恋愛について語る少年。
いったい何がこの少年をここまで言わせるのか。司はそんな思いから訊いた。
「お前誰だ?何のためにそんなことをする?」
「だから言っただろ?俺はあの店の美味いパンを毎日食べさせてもらってるただの常連だ。
それから何のためって言われたら…..おっさん….じゃねぇ哲也のためじゃねぇ。牧野つくしのためだ。あいつ好きは男がいるけど、なんかアレなんだよ。はっきりしねぇって言うの?朝早くからパンばっか捏ねてるからか男と接することが極端に少ない。だから女子を捨ててるところがあるんだ。それでも牧野つくし目当てに店に来るヤツらもいるから、その中の誰かが好きなのかと思うけど、わかんねぇ。なんか掴みどころが無いって感じだ。だから思った。もし元カレの哲也のことがほんの少しでも心のどこかにあってまだ気にしてるなら、それを忘れるきっかけを与えてやろうと思う。世話になってるんだからそれくらいするのが俺の役目だ」
何のためにと問われた少年が返した言葉は、司の為にひと肌ぬいでやろうというのではない。勿論それは分かっていた。だが会話の中に挟まれた世話になっているとはどういった意味なのか。何を言おうとしているのか分からなかった。
しかし、パンを買う客がそのパンを作る牧野つくしの世話になっているという意味なら製造者と消費者の関係が近ければ近いほどそういった表現がされることがある。
だが少年が個人的に世話になっているとすればそれは一体どういう意味なのか。
司はそのことを訊こうと思った。
携帯の着信音が鳴ったのはその時だった。
上着のポケットの中から取り出すと耳に当てた。
「なんだ?___ああ___その件か。それは向うへ戻ってからでもいいはずだ。ああ分った。もう少ししたら戻る」
と言って電話を切った。
そして携帯をポケットに入れ再び目の前に立つ少年に目を向けた。
「悪かったな。仕事の電話だ」
「向うへ戻るって、どこか遠くに住んでんのか?」
「ああ。今は東京だが普段はニューヨークに住んでる」
NYで10年暮らした男は擦れていた。
だが目の前の少年は生意気なことも口にするが、司を見つめる瞳は澄んでいる。
そして自分の気持ちを率直に話す。そういったことが出来るのは、もしかすると今だけなのかもしれないが、それでも言葉に嘘が無い分なぜか清々しさが感じられた。
それは大人になった自分には無いもので羨ましくも感じられた。人は年を取るほど感情を表に出さない。いや。出せない感情といったものがある。そして感情を隠し嘘をつくことが出来るようになればそれが大人になった証拠だと言われている。
「そっか。哲也は随分遠くに住んでんだな。それでどうする?牧野つくしに会いたいんだろ?けど行けねぇって言うなら俺が行って元カレが会いたいって言ってるって伝えてやるぜ?でも哲也が行くなら俺は行かねぇ。それに哲也もいつまでここに通うつもりか知らねぇけど仕事も忙しいんだろ?いつかニューヨークへ戻るんだろ?だったらさっさと行って来いよ。それから牧野つくしにフラれたら......もうここに来るな。牧野つくしのことは諦めろ」

にほんブログ村
- 関連記事
-
- あの頃の想いをふたたび 5
- あの頃の想いをふたたび 4
- あの頃の想いをふたたび 3
スポンサーサイト
Comment:3
コメント
このコメントは管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

司*****E様
賢くん。何者?(笑)
気になりますか?もう少しお待ち下さい。
え?3月のシリアス短編月間で色々なお話が登場して免疫が出来ましたか?
それは困りました(笑)
さて。例のドラマに彼、司役で登場!
どうやら回想シーンらしいですね!
どのようなシーンなのでしょう。ドラマから入ったアカシアも見たいと思います。
そして西田さんとタマさんもご出演されるそうですね?デビ西田さん。好きです(≧▽≦)
西田さんを書く時は彼が頭の中にいます(笑)
コメント有難うございました^^(2度でも3度でも大丈夫です)
賢くん。何者?(笑)
気になりますか?もう少しお待ち下さい。
え?3月のシリアス短編月間で色々なお話が登場して免疫が出来ましたか?
それは困りました(笑)
さて。例のドラマに彼、司役で登場!
どうやら回想シーンらしいですね!
どのようなシーンなのでしょう。ドラマから入ったアカシアも見たいと思います。
そして西田さんとタマさんもご出演されるそうですね?デビ西田さん。好きです(≧▽≦)
西田さんを書く時は彼が頭の中にいます(笑)
コメント有難うございました^^(2度でも3度でも大丈夫です)
アカシア
2018.04.08 21:16 | 編集
