二人はタクシーに乗ると旅館まで戻った。時刻は日没を迎え太陽の光りはない。
だが空に浮かぶ雲には残照と呼ばれる照り映えが残っていた。
司はコートを脱がせると妻の身体をきつく抱きしめた。
元々華奢な身体だったが、ここ最近で少し痩せたような気がしていた。
そして男の背中に回された腕は細かったが、抱き返され温もりが伝わって来たことが嬉しかった。
小さな身体は精神を内包するだけの器だとしても、大切なもので失いたくなかった。
頬にあたる柔らかな髪の感触を失いたくなかった。
明るく振る舞ってみるも唇を歪めて泣きそうになる顔を失いたくなかった。
だがその身体に何かが起きたわけではない。
ただ、心が何処かへ旅立とうとしているだけだ。
だがそれを妻は辛いと言う。自分が失われていくことが辛い。夫や家族が分からなくなることが辛いと言う。
『波の花を見た後、旅館で食事をしたら早く寝てあたしをひとりにして欲しいの』
『冬の月を見上げても探さないで欲しい』と言った時の声は穏やかだった。
そしてその声は耳にこびりついたままでいた。
自らの行動を告げた女が選ぶ道は命を絶つこと。
だから早く寝てあたしがどこかへ行っても探さないで欲しいと言われた。
司はその言葉にこの現実を引き裂きたいと思った。
感情はどうしようもなく揺れ、自分自身がどうしていいのか分からなかった。
この日が来るまでの時間はゆっくりと流れて来たが、これから先の時間の流れなど考えられなかった。
もし時間を止めることが出来るなら永遠にこの瞬間で止ってもいいと思う。
時間が二人を閉じ込めることが出来るならこの場所で永久に囚われてもいいと思う。
ここで妻だけを守って生きる。何をしなくてもいいなら永遠にこのままでいたかった。
それが大切な人を守る歓びを知った男の使命だから。
暫く黙って抱きしめていたが、やがてそっと身体を離すと妻を見た。
そして自分を見上げる視線を受け止めていたが、その顔は何かを哀願する表情。
分っている。
その表情が何を言いたいのか。
ただ黙って見上げる視線は口では伝えられないことも伝えて来る。
それは出会った頃からそうだった。
視線が司を喜ばせ、楽しませてきた。
真剣な眼差しであり、からかうような眼差しの時もあった。
そしていつもその視線の強さに負けていた。気づけばその視線の求めるままに行動していたことがあった。
勿論嬉しさだけではない視線もあった。
そして今下から見上げられる視線は辛く悲しい視線。
言葉にせずとも思いを理解出来るのは二人が強い絆で結ばれているから。
瞳で会話が出来るのは強い絆があるから。
だが今はその絆が疎ましいと思えた。
妻の伝えたいことなど理解できない自分でいたらと思った。
言葉もなく見つめ合う男と女。夫婦であり家族である二人。
出逢いのその日から司を虜にした瞳の強さ。今、その眼差しが失われ想い出になることを許すことが出来るのか。司だけを置き去りにして行こうとする女を見送れと言われ黙って見送ることが出来るのか。
何をどう考えてもこの気持ちをどうすればいいのか分かるはずがない。
愛している人を黙って見送れと言われどうすればいいのか。
拒否するに決まってる。そんなことが出来るはずがない。
けれど今の妻は正常な状態でいて、司が拒否したところでなんとかして自分の想いを遂げようとするはずだ。
それを考えると、身体の芯は鉛のように重く心は苦しかった。いや、苦しいどころではない。
胸を占拠するのは今まで経験したことがない感情。
別れなどないと思っていた男の胸は、寂しさも切なさも苦しさも全てを抱え張り裂けそうになっていた。
暫くして夕食を終えた二人は、布団を敷きに来た人間が部屋を出ると黙り込んだ。
それはどちらともなく口を閉ざしたといった方がいいだろう。
司の心の奥では、この沈黙は妻が平常とは違う世界に戻ってくれたのではないかという微かな期待に変わった。
だがそうではなかった。
「司、早く寝てね?」
と言った言葉ははっきりとしていたが、それ以上続く言葉はなかった。
司は無言のまま妻を見つめつづけていた。
今の妻は彼を虜にした黒い大きな瞳にはっきりとした意思を持ち、夫である司に自分の望みを叶えて欲しいと訴えているが返事など出来るはずがない。
それは彼女を永遠に失うということなのだから。
だが今の妻は自分の意思を持つひとりの人間として彼の前にいる。そして彼が止めたとしてもやり遂げて見せるといった意思がある。それは共に暮らした夫だからこそ理解出来ること。
そして彼女の苦しみも分っているつもりだ。時に平常に戻り、時に自分が分からなくなる。
夫である司のことが分からなくなる。その繰り返しがここ最近多くなって来たことも分っている。妻が確実に今の世界を離れて行こうとしていることは感じていた。
「司….お願い横になって」
あたしの為だと思って先に寝てと言われ、部屋の灯りを消され暗闇の中に取り残される男はどうすればいいのか。だが全くの暗闇というのではない。カーテンが閉められていない窓から届く冷え冷えとした月の青白い光りは、客室内ベランダの椅子に腰かけている司の横顔を照らしていた。
だが、妻の場所までその光りは届かない。
やがて二人の間に置かれている重苦しさというものが動いたのが感じられた。
それは襖が開かれた音。
次の間のクローゼットから聞こえたハンガーの音。
コートを外した音。
そして入口の扉が閉まった音がした。
身体は椅子に押し付けられたように動かなかった。
それは重たい何かが身体の上に乗ったように感じられた。
だが自分はここにこうして座り何をしているのか。
最愛の人が自らの命を絶つことを認めるというのか。
いや。よく考えれば分ることだ。
彼女の苦しみや悲しみはいずれ彼女自身には分からなくなることであり、思考は別の場所へ旅立ってしまう。つまり苦しいのは妻ではない。
司がここでこうして座っている理由はただひとつ。
それは妻の本来ではない姿を見たくないといった己の気持がそうさせている。
どんなに妻が変わろうと大丈夫だと言っても、本心では妻が変わっていく姿を見たくないという弱い心が司の中に一瞬でも芽生えたということだ。この先見つめ続ける現実というものが怖いのだ。そして辛いのだ。ただ自分が悲しい思いをしたくないといった心があったということだ。だがそれは今この瞬間消えた。
と、同時に司は立ち上った。
敷かれた布団の上を横切りコートを手に取ると部屋を出た。
そして廊下を走り、1階へ降りると外へ出た。
妻が外へ出てあまり時間は経っていない。
それならまだ近くにいるはずだ。旅館の前は海だ。考えることはただひとつ。
だから目の前の道を横切り海へ向かった。
浜辺の砂が革靴に絡み走りにくかったが、走りながら名前を呼んだ。
月が出ているとはいえ、黒い水面が見えるだけで浜辺に人影はなく波の音だけが繰り返し聞こえていた。そして強い風に潮の香りが舞っていた。
「つくし!つくしっ!返事をしろ!どこにいる?!」
司は砂に足を取られ転んだ。
だが直ぐに立ち上がりまた走りだした。
そして何度も妻の名前を呼んだが答える者はいない。
それでも司は呼び続けた。
「つくし!つくし!どこにいる?!返事をしてくれ!」
彼女の、妻の生を願って何度も名前を呼んだ。
だが返事はない。
もしかすると黒い海の中へ消えてしまったのか。
自分がほんの少しの間、躊躇いを見せたばかりに彼女はいなくなってしまったのか。
だがその時だった。
小さな黒い塊が目の前で動く様子が見えた。
司は走って近づいた。そして声をかけた。
「つくし!大丈夫か?」
そこにいたのは、ネックレスを外し手の中に包みこみ唇を寄せる女の姿。
それは司が初めて妻にプレゼントした片時も離さないといつも首にかけていた二人の想い出のネックレス。それを外した意味はいったい何なのか。二人の想い出を置いて逝こうとしたのか。
そして聞こえて来た息をつめたような泣き声。
それがやがて泣きじゃくるような声に変わったのが分かった。
司は膝をつくと妻の身体を抱きしめた。
「つくし…つくし….泣いていいんだ。泣けばいい。どれだけ泣いてもいいんだ。俺はお前のどんな涙も引き受けると言った。そう誓った。人生の全てをお前に捧げると言った。だからいいんだ。お前がどんなお前になろうと構わない。居てくれるだけで、生きていてくれるだけでいいんだ」
どんな眼差しでも受け止める。
その瞳に輝きが失われたとしても構わない。
「つかさ…..つかさ….あたし…あたし怖いの….あたしじゃなくなるのが怖いの…..」
「つくし…..いいんだ。お前がお前じゃなくてもいいんだ。お前がいてくれればそれだけでいいんだ」
たとえ脳細胞が壊れたとしても、司が覚えている限り二人が愛し合った記憶は失われることはない。
そして言葉にすることが出来なくなったとしても、ほほ笑みがあればそれでいい。
少女のような微笑みでも、何も知らない幼子が浮かべる微笑みでもいい。
また共にいられる日が来る。司と呼ぶ日はいつか来る。
これから戻れない世界に行ったとしても。また逢える日が必ず来る。
忘れたくて忘れるのではない。
今の妻は生まれ変わる前に大きな深呼吸をしているようなものだ。記憶を新しくするための行為を生きている間にしようとしているだけだ。
かつて己を雑草と呼んだ少女はやがて花になった。
その花は小さな蕾だったが、咲く前にはひと呼吸したはずだ。そして考えた。
これから誰のために花を咲かせようかと。そしてそれは司の為だったはずだ。
彼の為に大輪の花を咲かせた。
その花が散ったとしても、またいつか芽を出し大きく成長してくれるはずだ。
そしてその時が来れば、また司が見つける。
逢えばきっと分るから。
「つくし…..。大丈夫だから。大丈夫だ。俺がついてる。お前の傍には俺がいる」
司は妻を抱きしめたまま目を閉じたが唇を伝って落ちる涙が感じられた。
それは安堵の涙。生きていてくれて良かったという思い。悪かったという思い。
様々な感情が込められた涙が流れていた。
「すまない。つくし。俺は….」
二人は抱き合ったまま泣いていたがどれくらい時間が経ったのか。
やがて妻は泣き疲れたのか彼の腕の中で眠りについた。
果たして次に目覚めるとき、彼女はどちらの世界にいるのか。
だがどちらの世界にいたとしても構わない。
司にとってどちらの世界にいても妻に変わりはないのだから。
太陽が沈んだとしても、月の光りは静かに優しく二人を照らす。
そして青白い光りを地上へ届ける。
いつの日か人は皆あの空へ帰る。
もし妻が先に帰るというなら司が後から追いかけるだけだ。
司は自分が人生のどの辺りにいるのか分からなかった。
独り切りの時間がどれくらい続くのか。
寂しさを抜け出すまでの時間がどれくらい必要なのか。
そしてあと幾つ季節が巡り来るのかも分からなかった。
だが冬の空に浮かぶ月の光りは確実に司の元に届いていて、その中に妻の姿を見ることが出来ればそれでいい。たとえ何もかも分からなくなったとしても妻の存在がここにあるだけでいい。
胸の中には妻がくれた沢山の愛と優しさがあるのだから。
海から生まれた命はやがて煙となり空へ帰る。
そして空から降る雨は海を満たし波となり永遠に繰り返し打ち寄せ終わりがない。
だからこれからは、風に乗り高く舞い上がる波の花があればそれは妻だと思う。
命の繋がりも永遠で途切れることはない。
だからまたいつか二人のドラマが始まるはずだ。
それまでは妻だけを、この腕の中の彼女だけを見つめて生きていく。
妻を空へ送るその日まで。
< 完 > * 残照 *

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元々華奢な身体だったが、ここ最近で少し痩せたような気がしていた。
そして男の背中に回された腕は細かったが、抱き返され温もりが伝わって来たことが嬉しかった。
小さな身体は精神を内包するだけの器だとしても、大切なもので失いたくなかった。
頬にあたる柔らかな髪の感触を失いたくなかった。
明るく振る舞ってみるも唇を歪めて泣きそうになる顔を失いたくなかった。
だがその身体に何かが起きたわけではない。
ただ、心が何処かへ旅立とうとしているだけだ。
だがそれを妻は辛いと言う。自分が失われていくことが辛い。夫や家族が分からなくなることが辛いと言う。
『波の花を見た後、旅館で食事をしたら早く寝てあたしをひとりにして欲しいの』
『冬の月を見上げても探さないで欲しい』と言った時の声は穏やかだった。
そしてその声は耳にこびりついたままでいた。
自らの行動を告げた女が選ぶ道は命を絶つこと。
だから早く寝てあたしがどこかへ行っても探さないで欲しいと言われた。
司はその言葉にこの現実を引き裂きたいと思った。
感情はどうしようもなく揺れ、自分自身がどうしていいのか分からなかった。
この日が来るまでの時間はゆっくりと流れて来たが、これから先の時間の流れなど考えられなかった。
もし時間を止めることが出来るなら永遠にこの瞬間で止ってもいいと思う。
時間が二人を閉じ込めることが出来るならこの場所で永久に囚われてもいいと思う。
ここで妻だけを守って生きる。何をしなくてもいいなら永遠にこのままでいたかった。
それが大切な人を守る歓びを知った男の使命だから。
暫く黙って抱きしめていたが、やがてそっと身体を離すと妻を見た。
そして自分を見上げる視線を受け止めていたが、その顔は何かを哀願する表情。
分っている。
その表情が何を言いたいのか。
ただ黙って見上げる視線は口では伝えられないことも伝えて来る。
それは出会った頃からそうだった。
視線が司を喜ばせ、楽しませてきた。
真剣な眼差しであり、からかうような眼差しの時もあった。
そしていつもその視線の強さに負けていた。気づけばその視線の求めるままに行動していたことがあった。
勿論嬉しさだけではない視線もあった。
そして今下から見上げられる視線は辛く悲しい視線。
言葉にせずとも思いを理解出来るのは二人が強い絆で結ばれているから。
瞳で会話が出来るのは強い絆があるから。
だが今はその絆が疎ましいと思えた。
妻の伝えたいことなど理解できない自分でいたらと思った。
言葉もなく見つめ合う男と女。夫婦であり家族である二人。
出逢いのその日から司を虜にした瞳の強さ。今、その眼差しが失われ想い出になることを許すことが出来るのか。司だけを置き去りにして行こうとする女を見送れと言われ黙って見送ることが出来るのか。
何をどう考えてもこの気持ちをどうすればいいのか分かるはずがない。
愛している人を黙って見送れと言われどうすればいいのか。
拒否するに決まってる。そんなことが出来るはずがない。
けれど今の妻は正常な状態でいて、司が拒否したところでなんとかして自分の想いを遂げようとするはずだ。
それを考えると、身体の芯は鉛のように重く心は苦しかった。いや、苦しいどころではない。
胸を占拠するのは今まで経験したことがない感情。
別れなどないと思っていた男の胸は、寂しさも切なさも苦しさも全てを抱え張り裂けそうになっていた。
暫くして夕食を終えた二人は、布団を敷きに来た人間が部屋を出ると黙り込んだ。
それはどちらともなく口を閉ざしたといった方がいいだろう。
司の心の奥では、この沈黙は妻が平常とは違う世界に戻ってくれたのではないかという微かな期待に変わった。
だがそうではなかった。
「司、早く寝てね?」
と言った言葉ははっきりとしていたが、それ以上続く言葉はなかった。
司は無言のまま妻を見つめつづけていた。
今の妻は彼を虜にした黒い大きな瞳にはっきりとした意思を持ち、夫である司に自分の望みを叶えて欲しいと訴えているが返事など出来るはずがない。
それは彼女を永遠に失うということなのだから。
だが今の妻は自分の意思を持つひとりの人間として彼の前にいる。そして彼が止めたとしてもやり遂げて見せるといった意思がある。それは共に暮らした夫だからこそ理解出来ること。
そして彼女の苦しみも分っているつもりだ。時に平常に戻り、時に自分が分からなくなる。
夫である司のことが分からなくなる。その繰り返しがここ最近多くなって来たことも分っている。妻が確実に今の世界を離れて行こうとしていることは感じていた。
「司….お願い横になって」
あたしの為だと思って先に寝てと言われ、部屋の灯りを消され暗闇の中に取り残される男はどうすればいいのか。だが全くの暗闇というのではない。カーテンが閉められていない窓から届く冷え冷えとした月の青白い光りは、客室内ベランダの椅子に腰かけている司の横顔を照らしていた。
だが、妻の場所までその光りは届かない。
やがて二人の間に置かれている重苦しさというものが動いたのが感じられた。
それは襖が開かれた音。
次の間のクローゼットから聞こえたハンガーの音。
コートを外した音。
そして入口の扉が閉まった音がした。
身体は椅子に押し付けられたように動かなかった。
それは重たい何かが身体の上に乗ったように感じられた。
だが自分はここにこうして座り何をしているのか。
最愛の人が自らの命を絶つことを認めるというのか。
いや。よく考えれば分ることだ。
彼女の苦しみや悲しみはいずれ彼女自身には分からなくなることであり、思考は別の場所へ旅立ってしまう。つまり苦しいのは妻ではない。
司がここでこうして座っている理由はただひとつ。
それは妻の本来ではない姿を見たくないといった己の気持がそうさせている。
どんなに妻が変わろうと大丈夫だと言っても、本心では妻が変わっていく姿を見たくないという弱い心が司の中に一瞬でも芽生えたということだ。この先見つめ続ける現実というものが怖いのだ。そして辛いのだ。ただ自分が悲しい思いをしたくないといった心があったということだ。だがそれは今この瞬間消えた。
と、同時に司は立ち上った。
敷かれた布団の上を横切りコートを手に取ると部屋を出た。
そして廊下を走り、1階へ降りると外へ出た。
妻が外へ出てあまり時間は経っていない。
それならまだ近くにいるはずだ。旅館の前は海だ。考えることはただひとつ。
だから目の前の道を横切り海へ向かった。
浜辺の砂が革靴に絡み走りにくかったが、走りながら名前を呼んだ。
月が出ているとはいえ、黒い水面が見えるだけで浜辺に人影はなく波の音だけが繰り返し聞こえていた。そして強い風に潮の香りが舞っていた。
「つくし!つくしっ!返事をしろ!どこにいる?!」
司は砂に足を取られ転んだ。
だが直ぐに立ち上がりまた走りだした。
そして何度も妻の名前を呼んだが答える者はいない。
それでも司は呼び続けた。
「つくし!つくし!どこにいる?!返事をしてくれ!」
彼女の、妻の生を願って何度も名前を呼んだ。
だが返事はない。
もしかすると黒い海の中へ消えてしまったのか。
自分がほんの少しの間、躊躇いを見せたばかりに彼女はいなくなってしまったのか。
だがその時だった。
小さな黒い塊が目の前で動く様子が見えた。
司は走って近づいた。そして声をかけた。
「つくし!大丈夫か?」
そこにいたのは、ネックレスを外し手の中に包みこみ唇を寄せる女の姿。
それは司が初めて妻にプレゼントした片時も離さないといつも首にかけていた二人の想い出のネックレス。それを外した意味はいったい何なのか。二人の想い出を置いて逝こうとしたのか。
そして聞こえて来た息をつめたような泣き声。
それがやがて泣きじゃくるような声に変わったのが分かった。
司は膝をつくと妻の身体を抱きしめた。
「つくし…つくし….泣いていいんだ。泣けばいい。どれだけ泣いてもいいんだ。俺はお前のどんな涙も引き受けると言った。そう誓った。人生の全てをお前に捧げると言った。だからいいんだ。お前がどんなお前になろうと構わない。居てくれるだけで、生きていてくれるだけでいいんだ」
どんな眼差しでも受け止める。
その瞳に輝きが失われたとしても構わない。
「つかさ…..つかさ….あたし…あたし怖いの….あたしじゃなくなるのが怖いの…..」
「つくし…..いいんだ。お前がお前じゃなくてもいいんだ。お前がいてくれればそれだけでいいんだ」
たとえ脳細胞が壊れたとしても、司が覚えている限り二人が愛し合った記憶は失われることはない。
そして言葉にすることが出来なくなったとしても、ほほ笑みがあればそれでいい。
少女のような微笑みでも、何も知らない幼子が浮かべる微笑みでもいい。
また共にいられる日が来る。司と呼ぶ日はいつか来る。
これから戻れない世界に行ったとしても。また逢える日が必ず来る。
忘れたくて忘れるのではない。
今の妻は生まれ変わる前に大きな深呼吸をしているようなものだ。記憶を新しくするための行為を生きている間にしようとしているだけだ。
かつて己を雑草と呼んだ少女はやがて花になった。
その花は小さな蕾だったが、咲く前にはひと呼吸したはずだ。そして考えた。
これから誰のために花を咲かせようかと。そしてそれは司の為だったはずだ。
彼の為に大輪の花を咲かせた。
その花が散ったとしても、またいつか芽を出し大きく成長してくれるはずだ。
そしてその時が来れば、また司が見つける。
逢えばきっと分るから。
「つくし…..。大丈夫だから。大丈夫だ。俺がついてる。お前の傍には俺がいる」
司は妻を抱きしめたまま目を閉じたが唇を伝って落ちる涙が感じられた。
それは安堵の涙。生きていてくれて良かったという思い。悪かったという思い。
様々な感情が込められた涙が流れていた。
「すまない。つくし。俺は….」
二人は抱き合ったまま泣いていたがどれくらい時間が経ったのか。
やがて妻は泣き疲れたのか彼の腕の中で眠りについた。
果たして次に目覚めるとき、彼女はどちらの世界にいるのか。
だがどちらの世界にいたとしても構わない。
司にとってどちらの世界にいても妻に変わりはないのだから。
太陽が沈んだとしても、月の光りは静かに優しく二人を照らす。
そして青白い光りを地上へ届ける。
いつの日か人は皆あの空へ帰る。
もし妻が先に帰るというなら司が後から追いかけるだけだ。
司は自分が人生のどの辺りにいるのか分からなかった。
独り切りの時間がどれくらい続くのか。
寂しさを抜け出すまでの時間がどれくらい必要なのか。
そしてあと幾つ季節が巡り来るのかも分からなかった。
だが冬の空に浮かぶ月の光りは確実に司の元に届いていて、その中に妻の姿を見ることが出来ればそれでいい。たとえ何もかも分からなくなったとしても妻の存在がここにあるだけでいい。
胸の中には妻がくれた沢山の愛と優しさがあるのだから。
海から生まれた命はやがて煙となり空へ帰る。
そして空から降る雨は海を満たし波となり永遠に繰り返し打ち寄せ終わりがない。
だからこれからは、風に乗り高く舞い上がる波の花があればそれは妻だと思う。
命の繋がりも永遠で途切れることはない。
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2018.04.01 07:01 | 編集このコメントは管理人のみ閲覧できます
2018.04.01 10:13 | 編集このコメントは管理人のみ閲覧できます
2018.04.01 11:25 | 編集このコメントは管理人のみ閲覧できます
2018.04.01 11:29 | 編集このコメントは管理人のみ閲覧できます
2018.04.01 12:37 | 編集







