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2018
03.31

残照 5

Category: 残照(完)
「凄い!見て!あんなに沢山!それあんなに高いところまで舞い上がってるわ!」

子供のようにはしゃぐ妻。
二人の目の前に広がる風景は遠い昔見た景色。
それは妻が見たいと言っていた日本海の風物詩と言われ冬の能登の風物詩である波の花。
海が荒れ波が高く寒さが厳しい日に現れる現象。
気象条件が揃ったその日。打ち寄せる波がせっけんの泡のようになり、風に乗って高く舞っていた。









タクシーを降りた二人は、目の前の海岸に荒波が打ちつけ泡が舞う様子を眺めていたが、司の目に映る妻は正常な状態でいることは分っていたが珍しいことだと思った。

それは能登に着いた昨日。
冷えたこの場所の空気に脳が覚醒したのか。それともこの土地の記憶といったものが脳に何らかの作用をもたらしたのか。ここに来たいと願った妻の心に何らかの働きをもたらしたのか。
夕食を食べ始めると正常に戻りそれからも変わることなく朝起きても変わらなかった。
そして今の妻は寒さに頬を赤く染め海を見ていた。

夜明けを迎え隣に寝ていた妻の姿は健やかだった。
何かに困惑したような表情もなければ、眉間に皺を寄せ司の顔を見てあなたは誰とは言わなかった。思考が途切れたようになり、遠くを見るような瞳で焦点が合わないような表情をすることも無かった。

そして二人は昨日抱き合った。
それは何年振りかの行為。
それが妻が妻でなくなる前に神が与えた夫婦としての最後の夜だとすれば、愛さずにはいられなかった。だから心と身体の全てを使って愛した。

妻が今のような状態になって間もない頃一度だけ抱こうとしたことがあった。
それは自分の愛で状況を変えたいと思ったから。抱き合えば何かが変わるのではないかといった願いもあった。

だがそのとき妻の顔に浮かんだのは17歳の少女のような戸惑い。
それはまるでまだ互いの身体を知る前の表情。
そして微かに浮かんでいる怖いといった思い。だから抱く事は出来なかった。その代わり髪を撫でた。撫で続ければ表情が和らいた。それから頬を撫で、指で唇に触れた。そして眠りにつくまでずっと抱いていた。

あの日、司の腕の中にいた妻の姿は遠い昔、南の島のコテージで抱き合おうとした若かった二人の姿に重なるものがあった。それは無理に抱く事はなく唇を額に押しあてた少年の想い。
人を守ることを知らなかった少年が初めて守りたいと思えた人への慈しみ。
18歳の少年と17歳の少女の純情とも言える一夜。
そして共に切なさを抱えたまま迎えた別れの朝。
けれどあの朝、彼は彼女に会うこともなければ別れの言葉を告げることもなく旅立った。

だが昨日の夜は違った。
二人にとってこの場所は結婚してから訪れた想い出の場所。
その場所で求めたのは妻の方だ。それは何かを自分の身体に刻み込むような求め方。
司の全てを受け入れてくれた。
心が繋がっていると感じた。
愛があると感じた。
だから司はこれまでの人生の全てを注ぎ込むつもりで抱いた。

それは言葉に表すことが出来ない感情。
愛おしくて、慈しみたくて、離したくないといった想い。だから愛してるの言葉を囁き、あたしも愛してるという言葉を囁かれた。
たとえそれが夢の中の出来事だとしても良かった。
司の胸に顔を埋めている姿が幻だとしても愛してるの言葉が訊けただけでよかった。
そして妻が辿り着く先がどんな世界だとしても、胸の中には変わらぬ愛があるのだから、その世界を受け止めてやる覚悟は出来ていた。
見えない迷路に迷い込んだとしても、付き添ってやるつもりでいた。
やがて変わり果てていく姿があったとしても、それでも妻は妻だ。

人は誰ひとりとして同じ人間はいないという。
それは育ってきた環境や生き様が違うから。だが二人は同じ人生を背負ってここまで生きてきたのだからある意味同じ人間であり、二人で一人の人間だ。だからどちらか片方がいなくなるということは残された人間は生きていくことが出来なくなる。

だが妻から渡されている封筒に収められている手紙は、自らの意思で命を絶つといった想いが書かれていた。
そして自分がいなくなっても、この手紙があれば大丈夫だからと言った。
誰にも迷惑をかけることはないからと。

辛く哀しく我儘な思いだけど叶えて欲しいと言って。



手紙を受け取った司は、妻が決めた覚悟といったものを理解させられた。
だから妻の周りの警護を強化した。
自分が傍にいなくても24時間必ず誰かが傍にいた。それは過去になかった妻に対する警護態勢。決して一人っきりにはさせなかった。

だが今、こうして妻にせがまれこの場所に立ち、海に起こる自然現象を目の当たりにし、日常生活から解放されたようになれば、妻の想いを、妻が望むことをさせてやることが彼女の幸せなのかとも思う。自分が自分でなくなる、自分が失われていく現実から解放してやりたいといった想いが過る。


人はいつか空へ帰るのだから。

波の花がやがて消えていくのと同じで、人も風に乗り高い空へと昇っていくのだから。


だが、かつての妻は命の尊さを彼に解いた。
生きることの歓びを司に教えた。
二人の間に新しい命を生み出した。
だがそのこともいずれ忘れてしまうという。
だからそれが辛いのだと。
自分が自分でなくなることの辛さに負けてしまうと。
想い出が駄目になってしまうのが辛いのだと。


老いは誰にでも訪れるとはいえ早すぎるこの状況に何故どうしてという思いばかりが溢れたことがあった。もしかするとこれは過去に自分が犯した罪が起因しているのではないか。ふいにそんな思いが浮かんだことがあった。だが今はそんなことを考えることは間違っていると思えるようになっていた。

因果応報などあってたまるか。

二人は生死を越えた場所で繋がっているのだから。



「つくし。もういいだろ?もう十分見ただろ?いつまでもここにいても風邪をひく。旅館に戻ろう」

「….うん。そうね。ありがと、司。ここに連れて来てくれて」

命じるように言ったが、そのあと素直に返された言葉に涙が溢れそうになった。
他愛もない会話が交わせることがこんなにも嬉しいとは思わなかった。


「つくし…愛してる。俺は結婚したとき一生お前を愛し続けると誓った。だからその想いはこれから先、何があったとしても変わらない」

二人は司のコートのポケットの中で手を繋いで互いの手のぬくもりを分かち合っていたが、彼の言葉にギュッと握り返された小さな手。
それは、彼女は司だけが頼りで、彼の手を握っていれば何も怖くない。迷うことなどないと信頼を寄せる手。
彼もまた彼女のその温もりを失いたくない。
それは唯一愛した人の手であり彼を孤独の闇から救い出してくれた人の手。
かけがえのない彼だけの温もりで失いたくない温もりを持つ人の手。
繋いだ手のひらは彼だけのもので失いたくない。

そう願う男が妻の瞳の中に見る己の姿は、紛れもなく彼女に終生の愛を誓った男の姿。

だが『波の花を見た後、旅館で食事をしたら早く寝てあたしをひとりにして欲しい』
『冬の月を見上げても探さないで欲しい』と言った妻。

司は妻の手を取り待たせていたタクシーへ向かっていたが、妻が正常でいる以上否が応でもその言葉を引き寄せなければならなかった。






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コメント
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dot 2018.03.31 08:57 | 編集
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dot 2018.03.31 11:32 | 編集
司*****E様
おはようございます^^
波の花を見た二人。
そしてつくしの望みはもうひとつあります。
それは司にとっては残酷なこと。そうですよね...。
どのような決断をするのか。
とても難しい問題です。愛し合う夫婦である二人の決断。
見守って下さい。
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2018.03.31 22:22 | 編集
み***ん様
こんにちは^^
二人にはとても重い決断。
怖いですね、この病は。
つくしの気持が勝つのか。それとも司の気持が勝つのか。
そうです。司はどんな彼女でもいいはずです。
それでも妻からの懇願は切実です。
愛するが故に...。
本当に難しい問題です。
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2018.03.31 22:34 | 編集
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