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2018
03.30

残照 4

Category: 残照(完)
座卓の上に夕食の準備が整ったのは午後7時。
それは妻がいつも食事をする時間。
並べられているのは天ぷらや刺身。加賀料理のひとつである治部煮や胡麻豆腐。固形燃料の上に置かれた鉄鍋には蓋がされていた。そして大きなカニが一杯付いていた。

「どうぞ。こちらが“干しくちこ”です」

と言って着物を着た若い丸顔の娘は、司の前にだけそれを置いた。

「干しくちこ」はナマコの生殖巣を原料とした乾物で日本酒との相性が抜群だと言われているが、三味線のバチの形をしたその乾物には、約50匹のナマコの卵巣が使われていることから、能登の最高級珍味で珍味の極めつけと言われている。
だが司は頼んだ覚えはなかった。そんな男の表情を見た娘は言葉を添えた。

「宿からのサービスです。いいんです。今の季節お客さんが少ないですから、いつまでも置いていても仕方がありませんから。それから熱燗はどちらに置きましょうか?」

と言われ司は自分の方へ置いてくれと言った。
そして娘は緑色の固形燃料に火をつけ、お食事が終わられましたらお電話下さい。と言って部屋から出ていった。






「牧野。食事をしよう。こっちへ来て座るんだ」

司は客室内ベランダの椅子に腰掛けている妻に声をかけたが、彼女はぼんやりと窓の外を眺めていた。だが視線の先は暗闇で何も見えるはずはないのだがそれでも外を眺めていた。
そしてガラス窓には司と妻の顔が映っているが、夫と視線が合った妻は振り返ると立ち上がった。そして大人しく座卓に着いた。

「司。連れて来てくれてありがとう。約束守ってくれたのね?」

脳は不思議なもので突然覚醒することがあると言われていたが、妻が自分のことを司と呼んだ瞬間、嗚呼、彼女が戻ってきたと嬉しくなった。黒い瞳が意思を持って自分を見ていることが嬉しかった。
だがまたいつ元の状態に戻るか分からない。だから話したい大切なことがあるなら今なのだが、自分の話しよりもまず妻の言いたいことを訊くべきだと分かっていた。だから「ああ」と返事をすると妻が言葉を継ぐのを待った。

「波の花。見れると思う?」

「多分見れるはずだ」

と答え妻の顔をじっと見つめた。




『司。お願いがあるの。あたしが司のことを忘れてしまう前に、何もかも忘れてしまう前に行きたい所があるの。能登半島のあの景色が見たいの。若い頃二人で行ったあの景色が見たいの』

それは妻が正常な状態のとき言われた言葉だが、その願いを叶えるためここに来た。
だがそれが意味するのは、今が妻にとって何もかも忘れてしまう前のかけがえのない時間だということになる。
その意味を妻は理解しているのか。それともそうではないのか。
夫のそんな思いをよそに、妻は微笑みを浮かべていた。

「そう。良かった。ねえ、それあたしが注いであげるから」

そう言って司の方へ置かれていた徳利に手を伸ばした。そんな妻に司は猪口を手に取ったが「少しでいいから」と差し出した。

高校生の頃から当たり前のように酒を飲んでいた男は、渡米してから酒を控えるようになった。それは、酒を飲んで憂さを晴らす必要が無くなったからだ。
そして結婚してからの司は、外で飲むのは仕事の付き合いだけになった。

人間は目標が出来れば前を向いて歩くことが出来る。
初めての恋を成就させるためならどんなことでも出来た。若い司の一直線ともいえる思いは、過去の自分を捨て、目的に向って前を見つめ歩くことだけをした。そして初恋の人と一緒になり人生最大の幸福を感じた。

長い結婚生活の中で楽しい思い出は沢山あるが、年を重ねると、家ではこうして妻に酌をしてもらうこともよくあった。その時はしみるほど幸せを感じた。
子供が生まれた時もそれは嬉しかった。
幸せな出来事は数えきれないほどあった。

そして子供たちが結婚するとまた二人だけの生活になり、人生を楽しもうとしていた矢先、認めがたい現実というものに出くわした。
あの時妻はこれも運命だと受け止めた。そしてこれからの人生について考えた。

司は妻が無邪気な少女のような姿になることが悲しいのではない。
ただ自分のことを忘れ、二人の想い出を忘れていくことが哀しかった。
二人にとってかけがえのない想い出が妻の中から失われていくのが辛かった。

だが認めなければならない。
夫のことを忘れ、子供たちのことを忘れ、自分が誰であるかを忘れていく妻を。
けれど、目の前で添えられたスプーンで胡麻豆腐を掬い美味しそうに食べる姿は以前と同じ妻だ。だからその姿に希望が見えることもある。

「…..ねえ。司。あたしのもうひとつお願い覚えてるわよね?」

手を止め口をついたその言葉。
何の話しをしようとしているのか分かった。
大きな黒い瞳は、真剣な色を湛え彼を見ていたが、司もまたそんな妻を見つめていた。
そして嘘をついても仕方ないという思いから正直に答えた。
何しろ妻がこうして正常でいる時間がどれくらいなのか分からないのだから、会話が成り立つ時は真摯に答えていた。

「ああ。覚えてる」

「そう。良かった」

と言って再び豆腐を掬う妻はどこかホッとしたような顔をしていた。






『そう。良かった』

その言葉の意味は、彼女のもうひとつの願いを叶えてやること。
いや。叶えて欲しいと言われた。

あたしの記憶が消え去ってしまう前に願いを訊いて、必ず叶えて欲しいと言われた。
それは波の花を見ることと同じくらい大切なことだからと。

『波の花を見た後、旅館で食事をしたら早く寝てあたしをひとりにして欲しいの』

終生の愛を誓ってから随分と時が経っていたが、これほど辛いと感じたことはなかった。
愛しているからこそ彼女の願いならどんなことでも叶えてやりたい。だが彼女のその願いだけはどうしても叶えてやることは出来ない。
だがそのことを見越していたのか妻は言った。

『あたし辛いの。司のことを忘れてしまうのが。一生この人と生きて行こうって。一生この人を愛していこうって決めた人を忘れるのが辛いの。司の顔を見て誰って言ったときの司の顔を想像すると辛いの』

そう言ってぽろぽろと涙を零す姿が瞼に焼き付いている。
黒い瞳に浮かんだ涙がどんなものだろうと、どんな涙が零れ落ちようと、その涙は全て受け止めると結婚したとき誓った。
そして全ての涙をゆだねて欲しいと言った。
だから妻の流す涙は夫である自分が受け止めてやらなければならなかった。
だが彼女のあの時の涙をどうすればいいのか分からなかった。
流れ続ける涙を止めてやることが出来なかった。


そして渡された封筒。
結婚してから自分の我を通したことのない妻が、これだけはどうしても叶えて欲しいと言い手渡してきた封筒。
そして言った言葉。

『冬の月を見上げても探さないで欲しい』

その言葉がふざけて言ったなら彼にも分る。
だが低く真剣な声色で言われ、司を黙らせるだけの落ち着きがあった。
そして彼女の表情は弛緩などしておらず、瞳もはっきりとした意思を示していた。
その瞳はかつて司を虜にした真っ直ぐな瞳。信念を持つ女の強い瞳。
周りが止めたところで、自分が信じることはやり抜くといった女の瞳。
だから恐かった。と同時に妻の言葉に込められた意味を充分理解した。

だがその言葉がどんなに夫を傷つけたか妻は分かっていたのか。

だから明日ばかりは、妻が正常な状態でいないで欲しいと心から願わずにはいられなかった。





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コメント
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dot 2018.03.30 07:59 | 編集
司*****E様
おはようございます^^
脳が正常な状態とそうでない時がある。
記憶喪失と違う症状。家族は辛いですね。
そして本人も自分が失われていくことを承知していますから、朝目覚めた時、果たして今の自分がどんな状況なのかと考えるでしょう。但し、考えることが出来ればということになりますが...。

波の花を見たいと言った妻の願いを叶えるため能登へ来た司。
若い頃の思い出のあるこの場所。
そして重みのある妻の言葉。
妻の思考能力が奪われ別人のようになることを受け止めるのは辛いと思いますが、夫は彼女を深く愛する男です。
愛する妻のためなら.....。
未来に僅かでも光りが差すといいですねぇ^^
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2018.03.30 22:34 | 編集
H*様
>長く生きていると若い頃は思いもしなかった悲しみがたくさんある。
そうですよね。本当にそう思います。
何故?ということも沢山あります。
こちらのお話しの二人も何故自分たちに?といった思いだったことでしょう。
しかし誰もが罹る可能性のある病。
二人の愛は終末を迎えようとしていますが、見守っていただければと思います。
つくしの取ろうとする状況は本人が望んだとしても司は...。
重い内容のお話しにお付き合いいただき有難うございます。
拍手コメント有難うございました。
アカシアdot 2018.03.30 22:53 | 編集
L**A(坊*****)様
アカシアは友人のお母様がこの病に罹りました。
知っている方だけにかける言葉が見つかりませんでした。
司とつくしは夫婦です。深く愛し合っている夫婦に訪れたこの状況。
司は愛を持って妻に接しているのは当然ですが、現実として受け止めるには辛いこともあると思います。
しかし永遠を誓った夫婦です。愛を確かめるチャンスもある二人を見守って下さいませ。
拍手コメント有難うございました。
アカシアdot 2018.03.31 00:29 | 編集
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