宿の主人は二人を旅館の中で一番いい部屋へと案内した。
だが元々ここは、海に面していることから釣り人が好んで泊る宿であり、どの部屋がどうといった優劣もない。そしてこの季節は釣り人が来ることもないのだから閑散とし、部屋も空いている。だから当然日当たりが良く、海の見える二階の角部屋を用意した。
扉の向うは三畳ほどの次の間に十畳の和室。そしてトイレと風呂がある。
建物は海に面していることから長い間海風に晒されているが、日本家屋はきちんと建てれば長持ちすると言われており、数年前に水回りの修繕をしていることもあるが、二階建てのこの宿は古いがしっかりとした造りだった。
窓の外は灰色の雲と、海は冷たい北風を受け白い波頭が立っていた。
奥能登の海の先は大陸で冬は厳しい寒さがやって来るが、もうそろそろ春の兆しが感じられてもいい頃だ。だがまだ寒いこの季節は観光には向いていない。
こういった商売は意味のない問いかけをすることもあるが、今回は別だ。主人は目の前の二人に興味があった。
だからそんな思いから何故この季節に奥能登を訪れることにしたのか訊きたいと思った。それは宿の主人が客に訊くこととしてはごく普通の問いかけであり、特段おかしなことではないはずだ。
主人は男がコートを脱ぎ寛いだ様子で座卓の前に座っているのとは対照的に、コートを着たまま窓の外をじっと眺めている女に訊くことにしたが、もし女が男の妻なら奥様と呼ぶべきだが、二人を夫婦と断定することは出来ず、その呼び方はしなかった。
「お客様、奥能登は初めてですか?それとも以前いらしたことがあるのですか?」
主人は女に訊いたつもりだったが、その質問に答えたのは男の方だった。
「ああ。以前一度来たことがあるがその時は和倉温泉に泊った」
「そうですが。それはよろしいですね。あそこにはいい旅館が沢山ありますから」
と、主人は答えたが、その時思ったのは、堂々と和倉温泉に宿泊したということは、二人は先ほど考えていた道ならぬ恋をしているのではないということだ。
それならこの二人は何故隠れるようにひなびたこの宿へ来たのか。奥能登の観光なら和倉温泉に泊まっても出来るはずであり、こうして隠れるように田舎のひなびた宿に泊まる必要はないのではと思う。
しかし今の世の中どこで誰が見ているのか分からない。それにもし男が名の知れた大企業の重役なら、地方の温泉地だとしても、彼の顔を知っている人間がいるかもしれないからこの宿を選んだのか。
だがどちらにしても、相手の女を「まきの」という名字と思える名で呼ぶのなら、二人は夫婦ではない。それに男が「中村」だとすれば、左手に嵌った指輪から彼にも家族がいるはずだ。と、なるとやはり今でいうところのW不倫という言葉が当てはまるのだろう。
それにしても、男が主人の思う通り大企業の重役だとすれば、こうしたことが公になれば色々と不味いこともあるはずだ。
それならやはり何も訊くべきではないという結論に至り、主人は館内の説明と食事は何時にお持ちしましょうかと訊き、直ぐに温かいお茶をご用意致しますのでと言って部屋を後にしたが、廊下を進みながら考えた。
もし二人が道ならぬ恋を自分達の命をかけ成就させようとするなら、止めなければといった思いがある。それはどんな事情があろうとも、自ら命を断つといったことだけはしてはならないことだ。死んであの世で結ばれようとするなど考えてはならないことだ。
主人は廊下の突き当りの階段まで来ると一番奥の部屋を振り返った。そしてまさかとは思うが何も起こらないで欲しいと願った。
「奥能登の春は都会より遅いのでもう少し寒い日があるようですけど、すぐに暖かくなるはずです。どうぞお茶とお菓子をお持ちしましたのでお召し上がりになって下さい」
と、着物を着た丸顔の若い娘が二人分のお茶とお菓子を盆に乗せ現れたが、それに答えたのは男の方だ。
「ああ。ありがとう。東京の方がここより暖かいな」
「お客さん東京からですか?東京はここと違って暖かいんでしょうね?」
ああそうだな、と答えた男は薄く笑ったがそれ以上会話をする気は無いのか「これを」と心付けを渡した。受け取った娘は丁寧に礼を述べ、胸元へそれを収めると、次の間まで下がり、襖を静かに締め部屋を出て行った。
だが部屋の中の女は相変わらず窓の外を眺めていて男の方を見ることはなかった。
「牧野。こっちに来て座ろう」
そう言われたが女はじっと外を眺めていた。
だから男は再び言った。
「牧野。座ってお茶を飲もう」
すると女は振り向き言った。
「ねえ。どうしてあたし達こんなところにいるの?」

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だが元々ここは、海に面していることから釣り人が好んで泊る宿であり、どの部屋がどうといった優劣もない。そしてこの季節は釣り人が来ることもないのだから閑散とし、部屋も空いている。だから当然日当たりが良く、海の見える二階の角部屋を用意した。
扉の向うは三畳ほどの次の間に十畳の和室。そしてトイレと風呂がある。
建物は海に面していることから長い間海風に晒されているが、日本家屋はきちんと建てれば長持ちすると言われており、数年前に水回りの修繕をしていることもあるが、二階建てのこの宿は古いがしっかりとした造りだった。
窓の外は灰色の雲と、海は冷たい北風を受け白い波頭が立っていた。
奥能登の海の先は大陸で冬は厳しい寒さがやって来るが、もうそろそろ春の兆しが感じられてもいい頃だ。だがまだ寒いこの季節は観光には向いていない。
こういった商売は意味のない問いかけをすることもあるが、今回は別だ。主人は目の前の二人に興味があった。
だからそんな思いから何故この季節に奥能登を訪れることにしたのか訊きたいと思った。それは宿の主人が客に訊くこととしてはごく普通の問いかけであり、特段おかしなことではないはずだ。
主人は男がコートを脱ぎ寛いだ様子で座卓の前に座っているのとは対照的に、コートを着たまま窓の外をじっと眺めている女に訊くことにしたが、もし女が男の妻なら奥様と呼ぶべきだが、二人を夫婦と断定することは出来ず、その呼び方はしなかった。
「お客様、奥能登は初めてですか?それとも以前いらしたことがあるのですか?」
主人は女に訊いたつもりだったが、その質問に答えたのは男の方だった。
「ああ。以前一度来たことがあるがその時は和倉温泉に泊った」
「そうですが。それはよろしいですね。あそこにはいい旅館が沢山ありますから」
と、主人は答えたが、その時思ったのは、堂々と和倉温泉に宿泊したということは、二人は先ほど考えていた道ならぬ恋をしているのではないということだ。
それならこの二人は何故隠れるようにひなびたこの宿へ来たのか。奥能登の観光なら和倉温泉に泊まっても出来るはずであり、こうして隠れるように田舎のひなびた宿に泊まる必要はないのではと思う。
しかし今の世の中どこで誰が見ているのか分からない。それにもし男が名の知れた大企業の重役なら、地方の温泉地だとしても、彼の顔を知っている人間がいるかもしれないからこの宿を選んだのか。
だがどちらにしても、相手の女を「まきの」という名字と思える名で呼ぶのなら、二人は夫婦ではない。それに男が「中村」だとすれば、左手に嵌った指輪から彼にも家族がいるはずだ。と、なるとやはり今でいうところのW不倫という言葉が当てはまるのだろう。
それにしても、男が主人の思う通り大企業の重役だとすれば、こうしたことが公になれば色々と不味いこともあるはずだ。
それならやはり何も訊くべきではないという結論に至り、主人は館内の説明と食事は何時にお持ちしましょうかと訊き、直ぐに温かいお茶をご用意致しますのでと言って部屋を後にしたが、廊下を進みながら考えた。
もし二人が道ならぬ恋を自分達の命をかけ成就させようとするなら、止めなければといった思いがある。それはどんな事情があろうとも、自ら命を断つといったことだけはしてはならないことだ。死んであの世で結ばれようとするなど考えてはならないことだ。
主人は廊下の突き当りの階段まで来ると一番奥の部屋を振り返った。そしてまさかとは思うが何も起こらないで欲しいと願った。
「奥能登の春は都会より遅いのでもう少し寒い日があるようですけど、すぐに暖かくなるはずです。どうぞお茶とお菓子をお持ちしましたのでお召し上がりになって下さい」
と、着物を着た丸顔の若い娘が二人分のお茶とお菓子を盆に乗せ現れたが、それに答えたのは男の方だ。
「ああ。ありがとう。東京の方がここより暖かいな」
「お客さん東京からですか?東京はここと違って暖かいんでしょうね?」
ああそうだな、と答えた男は薄く笑ったがそれ以上会話をする気は無いのか「これを」と心付けを渡した。受け取った娘は丁寧に礼を述べ、胸元へそれを収めると、次の間まで下がり、襖を静かに締め部屋を出て行った。
だが部屋の中の女は相変わらず窓の外を眺めていて男の方を見ることはなかった。
「牧野。こっちに来て座ろう」
そう言われたが女はじっと外を眺めていた。
だから男は再び言った。
「牧野。座ってお茶を飲もう」
すると女は振り向き言った。
「ねえ。どうしてあたし達こんなところにいるの?」

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司*****E様
おはようございます^^
奥能登の地方旅館に現れた東京からの男と女。
旅館の主人は男がただ者ではないと見ているようですね?
そして心配しているようです。
はい。司だけが話し、そして動きがありますねぇ。
そしてつくしの「どうしてあたし達こんなところにいるの?」の言葉。果たしてその意味は?
ひとつ謎が解けると次の謎がですか?
そして最後に一気に解決!(笑)
今回はどうでしょうねぇ。
次のお話しで謎が解けるでしょうか。
コメント有難うございました^^
おはようございます^^
奥能登の地方旅館に現れた東京からの男と女。
旅館の主人は男がただ者ではないと見ているようですね?
そして心配しているようです。
はい。司だけが話し、そして動きがありますねぇ。
そしてつくしの「どうしてあたし達こんなところにいるの?」の言葉。果たしてその意味は?
ひとつ謎が解けると次の謎がですか?
そして最後に一気に解決!(笑)
今回はどうでしょうねぇ。
次のお話しで謎が解けるでしょうか。
コメント有難うございました^^
アカシア
2018.03.28 22:22 | 編集

さ***ん様
旅館の主人も相手を見て言葉を選ぶ。
能登の田舎宿の主人ですが、司を只者とは思っていません。
世田谷の金持ち重役と思っているようですが、漂う空気が違うのでしょうね?
「どうしてあたし達こんなところにいるの?」
え?そうですよね?こっちが訊きたいですよね?
続き。お待ち下さいませ。
コメント有難うございました^^
旅館の主人も相手を見て言葉を選ぶ。
能登の田舎宿の主人ですが、司を只者とは思っていません。
世田谷の金持ち重役と思っているようですが、漂う空気が違うのでしょうね?
「どうしてあたし達こんなところにいるの?」
え?そうですよね?こっちが訊きたいですよね?
続き。お待ち下さいませ。
コメント有難うございました^^
アカシア
2018.03.28 22:34 | 編集
