2018
02.13

恋におちる確率 68

「楽しめたか?オペラは単純だ。言葉が分からなくても内容は理解出来るはずだがどうだ?」

「うん。楽しめた。連れて来てくれてありがとう」

つくしには素直の心からそう思える感動があった。
初めて見たオペラは『ドン・ジョヴァンニ』。
オーケストラの演奏と俳優たちの声によって進められていく舞台がここまで感動を味合わせてくれるとは思わなかった。

主人公のプレイボーイ、ドン・ジョヴァンニの声はバスとテノールの間のバリトンで、悪い男の魅力を伝えるには十分な魅惑的な声。
ボックス席でつくしの隣に座っていた男の声もやはりバリトン。
そしていい男の声というのは、得てして低い声と決まっているのだろうか。
魅惑のバリトンボイスは女に有無を言わせぬ何かがある。だから大勢の女たちはドン・ジョヴァンニの手の中に落ちた。そう考えてもおかしくないはずだ。

それにしても、突然の思いつきでいい席が取れたことを不思議に思うのが普通の人間だが、道明寺司ともなれば、どうにでもなるということだろう。
世界最高峰の歌劇場は、白の大理石を基調に金の装飾が施された内装で、気後れしそうなほど豪華だが、そこで世界最高の男と呼ばれてもおかしくない男とオペラを見る。
とにかくつくしにとって人生で初めてのオペラ鑑賞は感動的だった。
幕間に飲んだシャンパンもそうだったが、オペラに酔ってシャンパンにも酔う。
そんな言葉が似合う夜だと感じていた。

劇場を出て車に乗り、何か食べるかと言われたが断った。
昼食が遅かったこともだが、夜が遅くなることも初めから分かっていた。だから出掛ける前に少しお腹に入れておいたこと、シャンパンとカナッペを食べたこと。そして舞台を見た感動といったもので胸が一杯で食べ物は欲しくなかった。
だが今のつくしは食べ物ではない別のものが欲しいと感じていた。








司はホテルに着くと時計をちらりと見た。
針は11時を指していた。

「お前の部屋は向うだ。荷物は運ばせている。風呂に入ってゆっくり休め。明日は市内観光に出かけるぞ」

二人が宿泊するのは、ウィーンで一番と言われるホテルのスイートルーム。
上品で豪華だが、ドイツで宿泊したホテルとは違いコネクティングルームはない。それでも同じ客室の中には他にベッドルームがあり、その中のひとつに彼女の荷物を運ばせていた。

男と女の間に横たわる沈黙は時に様々な色を見せてくれる。
それは、ドス黒い憎しみの色だったり、拒絶の色だったりすることがあるが、今二人の間にある沈黙は戸惑い色。それは恋人同士なら同じ部屋に泊まり、同じベッドで休まなければと思う女から流れてきた淡い色。
だがその淡い色が何色かと問われれば司には分からなかった。

同じ部屋を使うかどうかは司が決めることではない。
決めるのは彼女でいい。そう思えるのは他人を大切に思う心を初めて知ったから。

今までの司は、他人を大切に思うといった感情がなかった。
それは彼女にも話したが、若い頃から周りが余りにも自分の外見に興味を抱くことにうんざりしたからだ。だから自分を大切に思うことはなく自分に関心がない人間だった。
そんな人間が他人を大切にしようといった気持ちがあるはずもなく、かつて付き合った女に対しても相手の気持などどうでもよかった。
だが今は違う。自分のことを後回しにして恋人を想うということが当たり前だと思える。
だから男としての情熱に駆られたとしても、無理に抱くことはしたくない。
だが同じ部屋に、同じベッドに寝ればどうしても抱きたくなる。だからベッドルームは別にしたが、それを戸惑っている女は果たして自分欲しいと言っているのか。

そんな思いから司は口を開いた。

「牧野_」

「つ、司。自分のこと司って呼べっていうなら、あたしのことも名前で呼んで欲しいの。だって牧野なんてそれこそ仕事の延長じゃない?」

「は?」

「だ、だから。えっと…。だから_あたしのこともプライベートでは名前で呼んで欲しいの。そうじゃなきゃおかしいでしょ?それに恋人になったんだから同じ部屋で寝るのが当たり前でしょ?そ、そうじゃなきゃ恋人になったと言えないじゃない」

そうすることが当たり前だと言ったが、そうとも限らない。
久美子は男と同じベッドで寝るのは勘弁してほしい時もあったと言った。
仕事で疲れている時、男のいびきがうるさいといったことがそれに該当するらしいが、つくしは男と同じベッドで寝るどころか、同じ部屋でさえ寝たことがないのだから久美子の言葉を信じる訳にはいかない。それに、なんとなくだが、道明寺司はいびきをかかない気がする。けれど、仕事で疲れていたとすれば、別の部屋を用意されても仕方がないのかもしれない。

「お前…じゃねぇな。つくし。お前勘違いしてるだろ?男と女が付き合い始めたからって何も同じベッドで寝る必要はねぇんだぞ?お前も分ってると思うが男はそういった状況になれば止めることは出来ねぇ生き物だ。それにまだあの事件から時間も経ってねぇし、身体はいいのか?」

司はつくしが後ろ手に縛られていた姿を思い出し胸が痛んだ。
マリアに突き飛ばされ氷が張った冷たい川に落ちた瞬間、自分の心臓も止まりそうになり、彼女が死ぬかと思った。
それにしてもいきなり何を言い出すのかと司は眉根を寄せた。

「いいの。大丈夫だから」
つくしは正直に答えた。
「だってただ川に落ちただけだし、別にどこか怪我をした訳じゃないし、問題ないから」

「嘘つけ。マリアに手首を紐で縛られた痕が残ってるだろ」

「司。ここがいいの。ここが……」

と、つくしは唐突に言った。
だが聞こえなかったのだろう。ただつくしの顔をじっと見つめる瞳は静かだった。
二人の間の距離はつくしが部屋の入口。そして司がリビングルームの中央。
その短い距離をつくしは走った。走ったというより体当たりした。司はつくしに抱きつかれ思わず後ろへ下がり、彼女を抱きとめた。

「ここがいい。ウィーンが…..。でもね、話さなきゃいけないことがあるの。経験がないの….。だから司を満足させられるかどうか自信がないの。でもそれで良ければなんだけど_」

司はつくしを抱きながら彼女の言葉を頭の中で咀嚼した。
『経験がない』
その言葉の意味を文字通り理解すればそれは未経験。
だが何の経験がない?

「だからね?経験がないけど、ここが_ここがいいの。ウィーンが。この街が」

と言って何も言わない司の顔を仰いだ。
たが見上げている顔は、真剣な面持ちで彼女を見つめ、そして何かを考える顔になった。

「お前経験がって…おまえ、いやつくし、お前はいい恋愛をしてこなかったとは聞いたが、男と寝たことがなかったのか?お前処女か?」

司は抱きとめていた身体を離した。
そして目の前で自分を見つめる赤い顔をじっと見つめた。

「う、うん…ごめん..もし期待してたなら….ほらこの年だしそれなりに愛し方も知ってると思うなら期待外れになるかもしれないけど….。なんて言うの?今までそういった気にならなかったっていうのか…チャンスがなかったって言うのか...」

つくしはそこまで言って言葉に詰まった。
言葉を選ぼうにもどう選べばいいのか分からなかった。

「何だ?話したいことがあるなら話してくれ。お前いい恋愛をしてこなかったってことは何か嫌なことがあったってことか?だから付き合った男と寝なかったってことか?」

司は彼女が自分のことを知りたがったと同じように、彼もつくしの言いかけた言葉から彼女のことを知りたいと思った。だが過去は変えられないことは勿論分っている。過去に嫉妬したところでどうにもならないことも。

「うん…嫌なことっていうか、気持ちの問題だから....」

男はセックスのためのセックスが出来る。
相手のことが嫌いでも、興味がなくても、感情抜きの身体だけの関係を結ぶことが出来る。
だが女はそうはいかない。
女の身体はそういった考えが出来ない。身体が結ばれればいつか心も結ばれると考える女が殆どだ。だから言葉の続きが気になった。

「それで?気持ちの問題ってのは何だったんだ?」

つくしも話はじめた以上最後まで話さなければ相手が納得しないと分かっている。秘書として働き始めれば、道明寺司は物事を白黒はっきりとさせる性分だと分かったからだ。

「付き合い始めたばかりの頃、いきなりホテルへ連れて行かれそうになったの。でも断ったの。まだそういった関係になるには早すぎたって言うのか、相手のことがそこまで好きじゃなかったって言うのか…。その人と付き合い始めたのは、相手が気に入ってくれたのと、周りがその人を勧めたからで、今思えばなんとなくとなく付き合い始めた人だった…。でも付き合えば好きになることもあるって言うし、初めはこんなものかと思って付き合ったんだけど嫌だって言ったら_」

司はそこまで聞けばその先が分かった。
男の中には女に拒否され、カッとなって暴力をふるう、無理矢理自分のものにしようとする男がいることも知っている。
そしてそのことを想えば己の若い頃が思い出された。女には手を上げたことは無かったが、それでも男に対しては容赦なく暴力を振るったことを。そしてその時のことが頭を過れば、口の中に苦いものが広がった。そしてもし牧野つくしがそんな目に遭ったとすれば、今からでも遅くない、その男を探し出しそれ相応の償いをさせてやると決めた。

「お前、その男に暴力を振るわれたのか?」

「うんうん!違うの。それは違うから!」

司の顔に浮かんだ表情につくしは慌てて否定した。
それは一瞬垣間見えた凄みのある瞳と獣のような気配が身体全体を包んだからだ。
それが少年の頃の男の姿を現していると今では分かる。だが時に素直な少年のような笑みを浮かべることもある。だが内なる凶暴性は大人になり抑えられているだけで、この人が本気で怒れば怖いと知っている。だがそれが自分に向けられることはないことも知った。

「あのね。その時言われたの。ノリが悪い女だなって。あたしね、男と女が愛し合うことをノリで片づけるような人とは出来ないと思った。でもその人もノリが悪い女とは付き合えないから別れてくれって言ったの。だから経験がないの。それにその人と別れてから縁がなかったっていうのか…だから女として司に相応しいかどうか分からないけど、それでも好きだから…..」

恋愛についての話や、こういう状況の自分には、不慣れで自信がない。
それに相手ががっかりする顔は見たくない。
けれど、好きになった人には知っておいてもらいたい。自分がこういった考えの持ち主で、古臭いと言われるかもしれないが、人生を真っ直ぐ歩きたいと、自分に嘘はつきたくないと歩く人間であることを。







「いいんじゃねぇの?」

「え?」

「その男のことは何とも思ってなかったから出来なかったってことだろ?」

言われる通り自分から好きになった人ではない。相手から付き合おうと言われ、周りから勧められて付き合い始めた人だ。自分からは積極的になれない相手だった。

「人を愛するタイミングがあれば、受け入れるタイミングもある。経験がないことを恥ずかしいと思う必要がどこにある?経験があろうがなかろうがそんなことは本人の勝手だ。お前はお前の時間を大切にした。だからその男と付き合った時間はお前が人を愛するタイミングじゃなかった。男を受け入れるタイミングでもなかっただけの話だ。けど俺とのことは今がそのタイミングなら….いいんだな?」




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コメント
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dot 2018.02.13 06:33 | 編集
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dot 2018.02.13 12:04 | 編集
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dot 2018.02.13 16:06 | 編集
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dot 2018.02.13 16:07 | 編集
司*****E様
おはようございます^^
これから起きることは、二人とも未知の世界ですね?(笑)
でも期待しないで下さいね(笑)
意思の疎通が大切ですから、その確認をする二人でしょうか(笑)
何しろ相手は初心者ですからねぇ。
コメント有難うございました^^


アカシアdot 2018.02.13 23:17 | 編集
イ**マ様
恋の手順を踏んでいますか?
司は恋をしたことがないので手順は適当かも(笑)
つくしも恋人がいた期間は短く、基準が分かりません。
でも恋愛の基準というものはありませんから、二人が楽しければそれでいい!と、思います(笑)
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2018.02.13 23:22 | 編集
と*****ン様
> 『···いいんだな?』
いいんです!と答える女?え?まさか気が変わったなんてことないでしょうね?(笑)
つくしの初体験!難しいです(笑)
でも初心者でも相手はベテランですから、なんとかなるはずです(笑)
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2018.02.13 23:25 | 編集
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