財力も美貌も全てを手にした男の初恋というものが、やっかいだということを、あきらは身を持って感じていた。そしてそんなあきらのグラスは氷が乾いた音を立てた。
いつもの会員制高級バーであきらの隣に座りグラスを傾けている男は、女と寝ることに対し大して意味を持たなかった男。
その気になりさえすれば、女との関係をどんな形へでも容易に転化させることが出来る男。
だが、相手のその気がなければどうしようもないということに気付いている男は、その相手に対しどういった態度に出るのかあきらは興味があった。
「おい。司、お前その手どうしたんだ?まさか気に食わねぇことがあったって55階のガラス窓を叩き割ったなんてことねぇよな?」
あきらは司の左手に巻かれた包帯を目にした途端、遠い昔を思い出していた。
それは高等部の頃、突然気に入らねぇといって自らの拳で壁を殴りつけたことがあったからだ。だがあきらや他の仲間たちは男が何を気に入らないのか分からなかった。
ただ、虫の好かないことがあったのだろうとしか考えていなかった。何しろ若い頃の道明寺司といえば、何をしても注目の的であり憧れの存在ではあったが、反面恐ろしい男だったからだ。
一度どこかの男と、手加減なしの本気の殴り合いをして、相手を死なせる寸前までいったことがある。あの時は、周りにいた仲間と無理矢理引き離し事なきを得たが、司という男が本気になった姿は幼馴染みのあきらでさえ恐ろしいものがある。
「あきら、俺は18のガキじゃねぇぞ?_ンなこと今さらするか」
そうは言っても、生まれた時から闘争本能というものが司には備わっている。
そしてその本能は、今は上手く隠されているが、いつ何時その牙を剥くかもしれない。
特に今は男に影響を与える女の話を聞き、その女にもうひとりの男がアプローチをしてきていると聞いているからだ。だがまさかその男と女を巡って殴り合いをするとは思えず、改めて司の答えに胸を撫で下ろしていた。
「ま、そりゃそうだな。今は副社長の立場にいるお前がそんなことするはずねぇよな。それならマジでそれどうしたんだ?」
あきらの目は司の左手を捉えたまま、疑問を解決すべく興味深そうに訊いた。
「ああ。これか?これはコーヒーカップを落しちまって割ったんだがその破片を拾おうとして切っちまった」
あきらは目の前の男が割れたカップを拾うことがあるのかと驚いた。
そして事態が少し進展したことを知った。
「なるほどな・・そうか、わかったぞ。おまえ、自分の左手の不自由さを理由に牧野つくしを傍に置いたってことか?」
その問いかけに司は片眉を上げ答えた。
その答えにあきらはやっぱりな。と納得した。
あきらが先日司のデスクにある直通番号に電話をしたとき、秘書である牧野つくしが出た。
そして西田が休暇を取っているため、私が第一秘書としてお傍に仕えておりますと言われた。あきらはそこでピンときた。あの秘書が休暇を取るなんてことは今まで無かったと記憶していたからだ。何しろ西田という男は病といったものを受けつけない体質とでもいうのか、アンドロイドではないかというほど病気をしない。だから休むということはない。
だが確か一度だけあったと記憶しているが、それは母親が亡くなった時だったと思い出した。だから西田の休暇というのは、司が秘書に無理やり与えた休暇であることに気付いた。そしてそのことを踏まえ、あきらは司に再び訊いた。
「お前まさか、その日西田さんが休みだからってわざと切ったってことねぇよな?」
二人の距離を近づけるため、我が身を傷つける。そして同情を買う。
そういった話は、女が別れを求める男の気持ちを繋ぎ留める手段として用いられることがあるが、まさか司という男がそんなことをするとは思えないが、念のためという思いがある。
「・・あきら。いくらなんでも自分で好き好んで怪我しようなんて思わねぇよ。それにこの包帯は大袈裟に撒いてもらってるだけだ。ちょっと縫ったが大したことはねぇ」
砕けた口調の言葉が真実であることに違いはないはずだ。
だが念の為だと訊く。
「そうか?そう言うが今のお前が何をするかなんて俺には分かりようがないからな」
一度こうと決めた男は、他人の目など気にしないことをあきらは知っている。
それが今まではビジネス絡みのことだったが、これからはまた別の分野で新たな行動を起こそうとしているなら見守る必要があると思っている。
「それで、その日はずっと牧野つくしと一緒にいることが出来たんだろ?なんか進展はあったのか?お前は自分の気持ちに気付いたって言うんなら、それ相応のことはしたんだろ?何にもしねぇでただ見てるだけなら、男としての新堂巧に負けちまうからな」
「ああ。昼食はあいつと一緒だ。同じメシを食った」
普段仕方なしといった雰囲気で食事をする男の声は心なしか弾んでいた。
「へぇ。お前もなかなかやることが早いじゃねぇか?でメシは何を食った?ステーキか?それともフレンチか?イタリアンか?イタリアンが好きな女は多いからな。でもガーリックの匂いがするのは勘弁だが、二人ともならまあいいか?」
だがあきらは、吸血鬼ではないが、どんなに許し合った女でもニンニク臭いキスは嫌いだ。
「いや。和食だ。料亭でメシを食った」
「料亭でメシ・・ってことは、お前の行きつけの料亭か?」
あきらも司と訪れたことがある料亭。
誰もが簡単に訪れることが出来ないその料亭での食事は離れの個室だ。
そして誰かと秘密裏に会いたいといった場合、夜の闇に紛れといったことが多い料亭。
だが昼間の料亭は静かな落ち着いた佇まいを見せる日本庭園が素晴らしい。
「おいおい・・お前いきなり早すぎじゃねぇか?」
「何がだ?」
「いや・・料亭で女としっぽりってのは、いくらなんでもちょっと早いんじゃねぇのか?」
司はあきらの言葉がピンと来なかった。だから再び訊いた。
「だから何がだ?」
「あれだろ?その部屋の襖を開けたらもうひとつ部屋があって贅沢なダブルサイズの布団が敷いてある。枕元にはぼんやりとした灯りのランプが置かれ、その横には水を湛えた水差しが置かれてるってヤツだ」
司が隠れ家的なあの料亭に女を連れて行ったと聞いて、あきらが思い浮べているのは、どこかの悪徳企業家が、夫の借金のカタに妻である女を無理矢理抱くといった場面。
実はその企業家は彼女に恋をし、わざと夫を借金地獄へ落とした。そして夫の借金を帳消しにしてやる代わりに俺の女になれという話。
「あきら、お前の頭の中にあるのは空想の恋か?言っとくが俺はお前みてぇに会ったその日にどうこうしようだなんて考えてねぇからな!てめぇの不倫なんぞと一緒にすんじゃねぇよ!」
「そんなに怒るなよ司。冗談だ。冗談」
あきらは司のこめかみに浮かんだ青筋とあまりの剣幕に笑って誤魔化そうとした。
だが、よく考えてみれば親友の女に対する態度は、あきら自身より酷いところがあるはずだと気付く。なぜなら女を女とも考えない友人。女に対して優しさなど抱いたことがないお前の方がなじられても当然だといった思いが湧き上がる。
「いや。でもちょっと待て。お前どの口がそんなことを言う?お前の今までの行動を考えてみろよ?女とお前の関係なんてものは、通り過ぎていく束の間の触れ合い程度ってもんだったよな?それが今のお前の口ぶりじゃいったい全体どうなっちまったんだって思うぞ?つまりお前、その女のこと・・つまり牧野つくしのことは正真正銘本気なんだな?」
「ああ。あきら。俺は本気だ。本気であの女に恋をした。だから茶化すのは止めてくれ」
しかしまあなんと言うことだ。司という男の持つ独特の傲慢さといったものに惹かれる女が殆どだが、その男が自らの傲慢さを牧野つくしの前では捨てるというのか?
あきらは司が口を開くたびそんな思いがしていた。
「ああ、分かった。けどしかしまあ・・・どう言えばいいんだ?女にとってのお前は単なる上司だろ?どうすんだよ?その牧野つくしを。それに菱信興産の新堂巧も牧野つくしを狙ってる訳だろ?もしかするとお前に知らねぇところで接触してるかもしれねぇぞ?」
「ああ。あの新堂って男は牧野宛に毎日のようにメールを送り付けて来る」
「来るって・・司お前・・まさか他人宛のメールを読んだのか?」
「ああ。丁度あいつのパソコンのメール画面が立ち上がってたから見た」
「おい、マジか?いやぁ・・そりゃちょっとどうかと思うぞ?彼女宛に届いたメールだろ?・・・で、聞くが返信はどうだった?」
メールの画面が立ち上がっていたから見たというのは、菱信興産新堂巧という名前を探し出し、盗み見たということだ。
そして送信されて来たメールを見たのなら、返信したメールを見ているという確信はある。
司という男は目的のためなら手段を選ばないという人間だ。あきらはそんな男の行動を興味津々といった様子で訊いていた。
「ああ。そっけない返事が並んでた。あの文面なら牧野は今のところあの男と会おうって気はないようだ」
他人のメールを見たことを悪いと思わない男だが、それは社内メールであり、管理者なら簡単に見ることが出来る。だから司は気にしてはいない。
「そうか・・。でもな、司。言っとくぞ。彼女のようなタイプの女はお前のそのハイスペックな外見や財産、家柄ってのには興味がない女だ。しっかり者って印象がある。それに依頼心の強い人間じゃねぇな。だから人に何かをしてもらおうと考えるような女じゃない。
だからお前が高価な物を贈ったりしても無駄だからな。決して物に釣られるような女じゃない。ああいった女は心が大切だってタイプだ。気持ちだ。気持ちが一番の贈り物ってタイプだ。それに34まで独身ってことは下手をすれば仕事一筋ってタイプだ。事実そうだろ?牧野つくしって女は?」
「ああ。そうだな。確かに仕事に対しての熱意は十分感じられる。責任感は問題ないくらいある。それに確かに物に対する欲ってのはない。派手さはない。今でこそ爪が光っているが、それも殆ど色がない。身だしなみって言われる程度の輝きだ」
そして司の頭の中に過るのは、出会ってから今までの事柄。
仕事に対しての前向きな考えと、自分に任されたことは責任を持ちやり遂げようとする態度。
「そうか・・。なあ、司。これは俺が彼女と会ったとき感じたことだが、牧野つくしの場合、初めはその良さが分からなくても後からジワジワと分るタイプだ。まあ、お前もその口だな。つまり彼女の場合、今は男の匂いが感じなくても半年・・いや、3ヶ月経ってみろ。新堂巧じゃなくても他の会社の人間も彼女の良さに気付く人間はいるはずだ。何しろ彼女はお前について回る秘書だ。他の会社の人間の目にも触れる。それにお前が秘書として認めた女なら一流の人間であるってことだ。そうなると新堂だけじゃなく、どこかの会社のジュニアが目を付けるかもしれねぇぞ?・・まあお前の秘書って立場を考えれば、そう簡単に接触しようとは思わねぇだろうけどな」
それはそうだろうと、司も思う。
人を見る目がある企業人なら彼女の飾らない真っ直ぐとした人柄に触れるうちに、牧野つくしの本質といったものが見えてくるはずだ。人は会話を交せば、相手がどんなタイプの人間であるか分ってくるものだ。例えば理屈っぽい人間なのか。それともあまり物事に囚われない人間なのか。多くの人間と接する彼らなら牧野つくしという女性の持つ人柄といったものを理解するのは簡単だ。そしてその瞳の中に見える真摯な輝きといったものに魅了されてしまう。それは司がそうだったことと同じだ。
「それで?食事の間に彼女のこと、色々聞いたんだろ?身の上話ってやつ。何か人に自慢できるような話はあったのか?」
あきらの問いかけに司の思いは中断された。
「・・いや。いたって平凡な人生だな。これといって自慢出来るようなことは無かったが、学生時代の成績は間違いなく良かったようだ」
大学生活もバイトと勉強に明け暮れ、生活事態が地味だった。
「なるほどな。確かに頭は良さそうな顔をしてるからな。それで肝心の男関係はどうなんだ?まあ、新堂巧から付き合いたいと言われても彼氏がいるから付き合えませんって断らなかったところをみれば、男はいないってことだろうが・・どうなんだ?お前のことだ。とっくに調べはついてんだろ?」
「ああ。身近な男は弟だけだ」
司が調べた限り、付き合っている男は今はいない。
「と、いうことは今は蜘蛛の巣が張ってる状況ってヤツか」
あきらがニヤッと笑い言った言葉は悪いが事実そうだと思う。
今、付き合っている男はいないはずだ。だが過去にはいたとしてもおかしくない。
ネクタイにきれいな結び目を作ることが出来る女は、誰かに教えられたことは間違いないはずだ。そうでないとすれば・・・という理由は思い浮かばなかった。
だが過去に嫉妬したところで、どうすることも出来ない。それにしても、まさか自分が女の過去に嫉妬をするとは思いもしなかった。そして女という生き物に対して意識が希薄だった男の豹変に、あきらが面白おかしく言いたがることも分るような気がしていた。何故なら自分自身がそう思えるからだ。
「しかしな、司。まさかお前のような男が本気になった女に対しては、こうも奥手になるとは思わなかったぜ」
「うるせぇ」
そのとき、あきらがバーテンに目で合図をすると、新しいグラスが男二人の前にすっと差し出された。すると司はそれを一気に飲み干した。
夜の帳が降りた中、スローダウンしていたメタリックグレーの背の低い車が、エンジンの回転数を上げ走り出した。
その車はひとりの女性の後ろをつけていたが、彼女がマンションに入るところを見届けることが目的だったようだ。
運転していた人間が誰なのか。それは分からなかったが、車はテールランプの灯りだけを残し、あっと言う間に見えなくなっていた。

にほんブログ村

応援有難うございます。
いつもの会員制高級バーであきらの隣に座りグラスを傾けている男は、女と寝ることに対し大して意味を持たなかった男。
その気になりさえすれば、女との関係をどんな形へでも容易に転化させることが出来る男。
だが、相手のその気がなければどうしようもないということに気付いている男は、その相手に対しどういった態度に出るのかあきらは興味があった。
「おい。司、お前その手どうしたんだ?まさか気に食わねぇことがあったって55階のガラス窓を叩き割ったなんてことねぇよな?」
あきらは司の左手に巻かれた包帯を目にした途端、遠い昔を思い出していた。
それは高等部の頃、突然気に入らねぇといって自らの拳で壁を殴りつけたことがあったからだ。だがあきらや他の仲間たちは男が何を気に入らないのか分からなかった。
ただ、虫の好かないことがあったのだろうとしか考えていなかった。何しろ若い頃の道明寺司といえば、何をしても注目の的であり憧れの存在ではあったが、反面恐ろしい男だったからだ。
一度どこかの男と、手加減なしの本気の殴り合いをして、相手を死なせる寸前までいったことがある。あの時は、周りにいた仲間と無理矢理引き離し事なきを得たが、司という男が本気になった姿は幼馴染みのあきらでさえ恐ろしいものがある。
「あきら、俺は18のガキじゃねぇぞ?_ンなこと今さらするか」
そうは言っても、生まれた時から闘争本能というものが司には備わっている。
そしてその本能は、今は上手く隠されているが、いつ何時その牙を剥くかもしれない。
特に今は男に影響を与える女の話を聞き、その女にもうひとりの男がアプローチをしてきていると聞いているからだ。だがまさかその男と女を巡って殴り合いをするとは思えず、改めて司の答えに胸を撫で下ろしていた。
「ま、そりゃそうだな。今は副社長の立場にいるお前がそんなことするはずねぇよな。それならマジでそれどうしたんだ?」
あきらの目は司の左手を捉えたまま、疑問を解決すべく興味深そうに訊いた。
「ああ。これか?これはコーヒーカップを落しちまって割ったんだがその破片を拾おうとして切っちまった」
あきらは目の前の男が割れたカップを拾うことがあるのかと驚いた。
そして事態が少し進展したことを知った。
「なるほどな・・そうか、わかったぞ。おまえ、自分の左手の不自由さを理由に牧野つくしを傍に置いたってことか?」
その問いかけに司は片眉を上げ答えた。
その答えにあきらはやっぱりな。と納得した。
あきらが先日司のデスクにある直通番号に電話をしたとき、秘書である牧野つくしが出た。
そして西田が休暇を取っているため、私が第一秘書としてお傍に仕えておりますと言われた。あきらはそこでピンときた。あの秘書が休暇を取るなんてことは今まで無かったと記憶していたからだ。何しろ西田という男は病といったものを受けつけない体質とでもいうのか、アンドロイドではないかというほど病気をしない。だから休むということはない。
だが確か一度だけあったと記憶しているが、それは母親が亡くなった時だったと思い出した。だから西田の休暇というのは、司が秘書に無理やり与えた休暇であることに気付いた。そしてそのことを踏まえ、あきらは司に再び訊いた。
「お前まさか、その日西田さんが休みだからってわざと切ったってことねぇよな?」
二人の距離を近づけるため、我が身を傷つける。そして同情を買う。
そういった話は、女が別れを求める男の気持ちを繋ぎ留める手段として用いられることがあるが、まさか司という男がそんなことをするとは思えないが、念のためという思いがある。
「・・あきら。いくらなんでも自分で好き好んで怪我しようなんて思わねぇよ。それにこの包帯は大袈裟に撒いてもらってるだけだ。ちょっと縫ったが大したことはねぇ」
砕けた口調の言葉が真実であることに違いはないはずだ。
だが念の為だと訊く。
「そうか?そう言うが今のお前が何をするかなんて俺には分かりようがないからな」
一度こうと決めた男は、他人の目など気にしないことをあきらは知っている。
それが今まではビジネス絡みのことだったが、これからはまた別の分野で新たな行動を起こそうとしているなら見守る必要があると思っている。
「それで、その日はずっと牧野つくしと一緒にいることが出来たんだろ?なんか進展はあったのか?お前は自分の気持ちに気付いたって言うんなら、それ相応のことはしたんだろ?何にもしねぇでただ見てるだけなら、男としての新堂巧に負けちまうからな」
「ああ。昼食はあいつと一緒だ。同じメシを食った」
普段仕方なしといった雰囲気で食事をする男の声は心なしか弾んでいた。
「へぇ。お前もなかなかやることが早いじゃねぇか?でメシは何を食った?ステーキか?それともフレンチか?イタリアンか?イタリアンが好きな女は多いからな。でもガーリックの匂いがするのは勘弁だが、二人ともならまあいいか?」
だがあきらは、吸血鬼ではないが、どんなに許し合った女でもニンニク臭いキスは嫌いだ。
「いや。和食だ。料亭でメシを食った」
「料亭でメシ・・ってことは、お前の行きつけの料亭か?」
あきらも司と訪れたことがある料亭。
誰もが簡単に訪れることが出来ないその料亭での食事は離れの個室だ。
そして誰かと秘密裏に会いたいといった場合、夜の闇に紛れといったことが多い料亭。
だが昼間の料亭は静かな落ち着いた佇まいを見せる日本庭園が素晴らしい。
「おいおい・・お前いきなり早すぎじゃねぇか?」
「何がだ?」
「いや・・料亭で女としっぽりってのは、いくらなんでもちょっと早いんじゃねぇのか?」
司はあきらの言葉がピンと来なかった。だから再び訊いた。
「だから何がだ?」
「あれだろ?その部屋の襖を開けたらもうひとつ部屋があって贅沢なダブルサイズの布団が敷いてある。枕元にはぼんやりとした灯りのランプが置かれ、その横には水を湛えた水差しが置かれてるってヤツだ」
司が隠れ家的なあの料亭に女を連れて行ったと聞いて、あきらが思い浮べているのは、どこかの悪徳企業家が、夫の借金のカタに妻である女を無理矢理抱くといった場面。
実はその企業家は彼女に恋をし、わざと夫を借金地獄へ落とした。そして夫の借金を帳消しにしてやる代わりに俺の女になれという話。
「あきら、お前の頭の中にあるのは空想の恋か?言っとくが俺はお前みてぇに会ったその日にどうこうしようだなんて考えてねぇからな!てめぇの不倫なんぞと一緒にすんじゃねぇよ!」
「そんなに怒るなよ司。冗談だ。冗談」
あきらは司のこめかみに浮かんだ青筋とあまりの剣幕に笑って誤魔化そうとした。
だが、よく考えてみれば親友の女に対する態度は、あきら自身より酷いところがあるはずだと気付く。なぜなら女を女とも考えない友人。女に対して優しさなど抱いたことがないお前の方がなじられても当然だといった思いが湧き上がる。
「いや。でもちょっと待て。お前どの口がそんなことを言う?お前の今までの行動を考えてみろよ?女とお前の関係なんてものは、通り過ぎていく束の間の触れ合い程度ってもんだったよな?それが今のお前の口ぶりじゃいったい全体どうなっちまったんだって思うぞ?つまりお前、その女のこと・・つまり牧野つくしのことは正真正銘本気なんだな?」
「ああ。あきら。俺は本気だ。本気であの女に恋をした。だから茶化すのは止めてくれ」
しかしまあなんと言うことだ。司という男の持つ独特の傲慢さといったものに惹かれる女が殆どだが、その男が自らの傲慢さを牧野つくしの前では捨てるというのか?
あきらは司が口を開くたびそんな思いがしていた。
「ああ、分かった。けどしかしまあ・・・どう言えばいいんだ?女にとってのお前は単なる上司だろ?どうすんだよ?その牧野つくしを。それに菱信興産の新堂巧も牧野つくしを狙ってる訳だろ?もしかするとお前に知らねぇところで接触してるかもしれねぇぞ?」
「ああ。あの新堂って男は牧野宛に毎日のようにメールを送り付けて来る」
「来るって・・司お前・・まさか他人宛のメールを読んだのか?」
「ああ。丁度あいつのパソコンのメール画面が立ち上がってたから見た」
「おい、マジか?いやぁ・・そりゃちょっとどうかと思うぞ?彼女宛に届いたメールだろ?・・・で、聞くが返信はどうだった?」
メールの画面が立ち上がっていたから見たというのは、菱信興産新堂巧という名前を探し出し、盗み見たということだ。
そして送信されて来たメールを見たのなら、返信したメールを見ているという確信はある。
司という男は目的のためなら手段を選ばないという人間だ。あきらはそんな男の行動を興味津々といった様子で訊いていた。
「ああ。そっけない返事が並んでた。あの文面なら牧野は今のところあの男と会おうって気はないようだ」
他人のメールを見たことを悪いと思わない男だが、それは社内メールであり、管理者なら簡単に見ることが出来る。だから司は気にしてはいない。
「そうか・・。でもな、司。言っとくぞ。彼女のようなタイプの女はお前のそのハイスペックな外見や財産、家柄ってのには興味がない女だ。しっかり者って印象がある。それに依頼心の強い人間じゃねぇな。だから人に何かをしてもらおうと考えるような女じゃない。
だからお前が高価な物を贈ったりしても無駄だからな。決して物に釣られるような女じゃない。ああいった女は心が大切だってタイプだ。気持ちだ。気持ちが一番の贈り物ってタイプだ。それに34まで独身ってことは下手をすれば仕事一筋ってタイプだ。事実そうだろ?牧野つくしって女は?」
「ああ。そうだな。確かに仕事に対しての熱意は十分感じられる。責任感は問題ないくらいある。それに確かに物に対する欲ってのはない。派手さはない。今でこそ爪が光っているが、それも殆ど色がない。身だしなみって言われる程度の輝きだ」
そして司の頭の中に過るのは、出会ってから今までの事柄。
仕事に対しての前向きな考えと、自分に任されたことは責任を持ちやり遂げようとする態度。
「そうか・・。なあ、司。これは俺が彼女と会ったとき感じたことだが、牧野つくしの場合、初めはその良さが分からなくても後からジワジワと分るタイプだ。まあ、お前もその口だな。つまり彼女の場合、今は男の匂いが感じなくても半年・・いや、3ヶ月経ってみろ。新堂巧じゃなくても他の会社の人間も彼女の良さに気付く人間はいるはずだ。何しろ彼女はお前について回る秘書だ。他の会社の人間の目にも触れる。それにお前が秘書として認めた女なら一流の人間であるってことだ。そうなると新堂だけじゃなく、どこかの会社のジュニアが目を付けるかもしれねぇぞ?・・まあお前の秘書って立場を考えれば、そう簡単に接触しようとは思わねぇだろうけどな」
それはそうだろうと、司も思う。
人を見る目がある企業人なら彼女の飾らない真っ直ぐとした人柄に触れるうちに、牧野つくしの本質といったものが見えてくるはずだ。人は会話を交せば、相手がどんなタイプの人間であるか分ってくるものだ。例えば理屈っぽい人間なのか。それともあまり物事に囚われない人間なのか。多くの人間と接する彼らなら牧野つくしという女性の持つ人柄といったものを理解するのは簡単だ。そしてその瞳の中に見える真摯な輝きといったものに魅了されてしまう。それは司がそうだったことと同じだ。
「それで?食事の間に彼女のこと、色々聞いたんだろ?身の上話ってやつ。何か人に自慢できるような話はあったのか?」
あきらの問いかけに司の思いは中断された。
「・・いや。いたって平凡な人生だな。これといって自慢出来るようなことは無かったが、学生時代の成績は間違いなく良かったようだ」
大学生活もバイトと勉強に明け暮れ、生活事態が地味だった。
「なるほどな。確かに頭は良さそうな顔をしてるからな。それで肝心の男関係はどうなんだ?まあ、新堂巧から付き合いたいと言われても彼氏がいるから付き合えませんって断らなかったところをみれば、男はいないってことだろうが・・どうなんだ?お前のことだ。とっくに調べはついてんだろ?」
「ああ。身近な男は弟だけだ」
司が調べた限り、付き合っている男は今はいない。
「と、いうことは今は蜘蛛の巣が張ってる状況ってヤツか」
あきらがニヤッと笑い言った言葉は悪いが事実そうだと思う。
今、付き合っている男はいないはずだ。だが過去にはいたとしてもおかしくない。
ネクタイにきれいな結び目を作ることが出来る女は、誰かに教えられたことは間違いないはずだ。そうでないとすれば・・・という理由は思い浮かばなかった。
だが過去に嫉妬したところで、どうすることも出来ない。それにしても、まさか自分が女の過去に嫉妬をするとは思いもしなかった。そして女という生き物に対して意識が希薄だった男の豹変に、あきらが面白おかしく言いたがることも分るような気がしていた。何故なら自分自身がそう思えるからだ。
「しかしな、司。まさかお前のような男が本気になった女に対しては、こうも奥手になるとは思わなかったぜ」
「うるせぇ」
そのとき、あきらがバーテンに目で合図をすると、新しいグラスが男二人の前にすっと差し出された。すると司はそれを一気に飲み干した。
夜の帳が降りた中、スローダウンしていたメタリックグレーの背の低い車が、エンジンの回転数を上げ走り出した。
その車はひとりの女性の後ろをつけていたが、彼女がマンションに入るところを見届けることが目的だったようだ。
運転していた人間が誰なのか。それは分からなかったが、車はテールランプの灯りだけを残し、あっと言う間に見えなくなっていた。

にほんブログ村

応援有難うございます。
- 関連記事
-
- 恋におちる確率 27
- 恋におちる確率 26
- 恋におちる確率 25
スポンサーサイト
Comment:4
コメント
このコメントは管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

司*****E様
おはようございます^^
あきら。司の本物の恋に驚きを隠せません(笑)
しかも、自分の都合のいいように考える男は、あきらの恋を非難!でもあきらも負けませんでした(笑)
お前の方が女の扱いは酷いだろ!と反論(笑)
蜘蛛の巣が張っていると予想する二人(笑)
そしてネクタイを結んであげる相手はいたと想像する司。
何やら気になる終わり方でしたか?(笑)そろそろどうなんでしょうか?
え?あのお話。4回目ですか?そんなに読んで頂けるとは!
本当にありがとうございます。加筆修正したい思いがあるのですが、時間が取れそうにありません。
猟銃を撃ったり刺されたりとありましたが、あの二人今は子育て中ですね(笑)
ご感想有難うございます^^
そして、コメント有難うございました^^
おはようございます^^
あきら。司の本物の恋に驚きを隠せません(笑)
しかも、自分の都合のいいように考える男は、あきらの恋を非難!でもあきらも負けませんでした(笑)
お前の方が女の扱いは酷いだろ!と反論(笑)
蜘蛛の巣が張っていると予想する二人(笑)
そしてネクタイを結んであげる相手はいたと想像する司。
何やら気になる終わり方でしたか?(笑)そろそろどうなんでしょうか?
え?あのお話。4回目ですか?そんなに読んで頂けるとは!
本当にありがとうございます。加筆修正したい思いがあるのですが、時間が取れそうにありません。
猟銃を撃ったり刺されたりとありましたが、あの二人今は子育て中ですね(笑)
ご感想有難うございます^^
そして、コメント有難うございました^^
アカシア
2017.12.13 00:29 | 編集

か**り様
ニンニク料理も二人で食べれば怖くない!(笑)
本当におっしゃる通りなんですが、そういった仲になるまでの道のりは・・。
あ、あきらなら早いですね?
そんなあきらは料亭でお代官様ごっこを想像したようです(笑)
そして今の司。恋は盲目で何でもしちゃう男になってるようですね?
あの車は誰のものなのでしょうね?
つくしは、ひたすら優秀な秘書を目指しているようですが、過去に恋はしたようです。
何かあったのでしょうかねぇ。
コメント有難うございました^^
ニンニク料理も二人で食べれば怖くない!(笑)
本当におっしゃる通りなんですが、そういった仲になるまでの道のりは・・。
あ、あきらなら早いですね?
そんなあきらは料亭でお代官様ごっこを想像したようです(笑)
そして今の司。恋は盲目で何でもしちゃう男になってるようですね?
あの車は誰のものなのでしょうね?
つくしは、ひたすら優秀な秘書を目指しているようですが、過去に恋はしたようです。
何かあったのでしょうかねぇ。
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.12.13 00:37 | 編集
