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2017
11.28

恋におちる確率 15

いつもと変わらぬ朝の風景のひとつとして、女性秘書が迎えに来ることが当たり前のようになれば、迎えの車の中は、やはりいつもと同じ態度で当日のスケジュールが読み上げられていく。
慣れというものは不思議なもので、互いに持ち場を守ればいいといった空気が生まれれば、それはそれで仕事がしやすくなるものだ。そしてそういった職場環境というのは、どこの世界にもあるはずだ。

静寂に包まれた車内は、男が書類を捲る音と、女がタブレット端末を触る姿があるだけで、会話はなかった。それが気まずいとか不愛想なことかと言われれば、そうではない。
すでにビジネスとしての時間は始まっていて、沈黙がその場を支配することが、当たり前のことと感じているからだ。

あの日、食べることを拒否されたクロワッサンは、結局つくしが食べ、あれから後に出されることはなかった。
そして、会議から戻ってきた男にコーヒーを淹れるように言われ、今朝は差し出がましいことをしましたと詫びた。だがそれに対しての返事はなく、黙ったままパソコンのキーボードを叩く音だけがしていた。

やがてビルの正面へ車が到着すれば、中に乗っていた男と女は降りていく。
そして役員専用エレベーターに乗れば、あっという間に最上階に着き、扉が開けばそこに秘書室長の西田がいた。
それが、今では副社長と新人秘書の日常のひとつと言えるようになりつつあった。








「副社長。本日の菱信興産社長とのご会食の件ですが、変更がございます。先方様、ご体調不良ということで専務であるご子息様がご出席になられるそうです」

司に続き副社長室に入った西田は、つくしがコーヒーを運んで来たのと同時に話し始めた。
そして彼女がデスクの上へカップを置き、彼の隣に立つと言葉を継いだ。

「それから本日はわたくしではなく、牧野さんがご一緒させて頂きます」

西田が言った会食とは夕食のことであり、本来なら西田が同行するはずだった。
だが、つくしが同行するということは、彼女が予想していなかった言葉であり、一瞬戸惑ったがすぐに落ち着いた表情を見せた。

しかし実は今夜は約束があった。
同期入社の原田久美子と久し振りに食事に行こうと約束をしていたのだ。だが、突然のスケジュール変更は、秘書という仕事をしている以上仕方がない。久美子には申し訳ないと断りを入れ、また今度という話にしてもらうしかない。


「社長が体調不良だと?」

コーヒーをひと口飲んだ司が聞いた。

「はい。昨夜から熱があるとのことで、本日は出社もされていらっしゃらないそうです」

「それで代わりに息子か?」

「はい。専務の新堂巧様です」

菱信興産は日本を代表する大手総合化学メーカーで100年以上の歴史がある会社だ。
道明寺HDは、石油化学品の分野に於いて菱信興産と業務提携を結ぶことを決め、両社の技術とネットワークを使い、事業領域の拡大を図ることになったのだが、そういったこともあり、菱信興産の社長とは会食を重ねていた。

そして新堂巧は、菱信興産社長である新堂健一郎の息子だ。
菱信興産は創業以来新堂家の人間が社長を務め、将来は息子である巧が跡を継ぐ事が決まっているが、その男も司と同じで、創業家の同族経営にありがちな、生まれた時から将来が決められていたということだ。

司は先日会った社長である新堂健一郎の顔を思い出していた。
面長で目鼻立ちがはっきりとし、紳士然とした顔。
確か年齢は母親である楓と同じ位だったと記憶していた。そして息子である新堂巧は、自分と同じ年だということは、知っている。

そして今までもパーティーで幾度か挨拶を交わしたことはあるが、話しをしたことはない。
ただ、話しをした父親の口からは、独り者である息子には早く身を固めてもらいたいといった話があった。だとすれば、新堂巧という男も自分と同じ女に対しシニカルなのか。と思う。


「それから牧野が同行するって?」

「はい。今夜は牧野さんに行っていただきます」

「他に変更事項はあるのか?」

「いいえ。他にはございません。牧野さん?よろしいですね?今までは夜の行事は男のわたくしが対応してきましたが、そろそろあなたにも夜のご会食のお手伝いをお願いしたいと思います」

つくしは、はいと答えたが、秘書の仕事に慣れてきたとは言え、副社長と夜の外出は初めてだ。
だが夜の外出と言っても、つくしは秘書として会食に同行するだけであり、一緒に食事をする訳ではない。それに会食相手である人物と秘書が話をすることはない。
何故なら彼らは、道明寺司と食事をするのであって、つくしと食事をするのではないからだ。

だが先輩秘書の野上から言われたことがある。
相手は、秘書の態度も常に見ていると。だから私達の何気ない仕草でも、相手にとっては気になることもあるのよ、と。そして、変な誤解を与えることもあるから気を付けてね、と言われた。


「牧野さんなら大丈夫だけど、例えば、やたらと髪を触る女性がいるわよね?ほら、髪を耳に掛ける仕草を繰り返す。あの仕草はね、あなたの話をもっと聞きたいわって意味があると深層心理では言われているの。だからね、男性の前でそんな仕草をすれば、私を誘ってちょうだいって言っているようにも思えるらしいわよ?
でも殆どの女性はただ髪が邪魔だから耳に掛けることをしていると思うの。でも中には・・・勘違いする男性もいるの。特に夜の会食の席はお酒を飲むでしょ?そうなると普段は真面目な人格者も人が変わったようになることがあるの。だから女性秘書がそういった会食の場所に同行するとなると注意が必要なの」

そんなことを言われれば、警戒しなければいけないのかと思うが、野上はつくしの考えを読んだように言った。

「でもあなたは道明寺副社長の秘書ですもの。いくら勘違いした男性でもあなたに何か言ってくることはないと思うわ」


だからその言葉を信じてつくしは車に乗り込んだ。
濃紺のビジネススーツは、つくしには手の出せない値段のスーツで靴も同じ。
書類を入れるブリーフケースも、名刺入れも足を踏み入れることを躊躇する店のものだ。
だから道明寺HD副社長の秘書として、向かいの席に座る男に恥をかかせないための装いは完璧のはずだ。
だが目の前の男は西田ではなく、つくしが同行することをどう考えているのか?



車がビルを出たのは7時過ぎで、陽はもうとっくに落ち、あたりはすっかり暗くなっていたが、クリスマス前の街は、イルミネーションが施された店舗も多く、街はいつもよりも華やいで見え賑わいを感じさせた。

だが今のつくしの心は、華やいでも賑わってもいない。
正直言って緊張していた。まさに輝かしい風景の中にある暗い穴に落ちて行く気分だ。
何故なら、これから向かうのは料亭で、つくしは料亭に行くのは初めてだ。
34歳になって初めての料亭デビュー。それが遅いのか早いのか分からないが、とにかく料亭は今まで縁がなかった場所だ。

そしてその場所は、政治家や財界の大物が利用すると言われる一見さんお断りの高級料亭。
つまり会員制の料亭と言われるものだ。
そんな場所での立ち振る舞いは、先輩秘書の野上の経験を参考にするとしても、スマートにことが運ぶかどうか心配だった。
そしてひたすら粗相のないようにと願えば、こうして副社長である男と向かい合い黙って座っていることが、これから向かう先でのぎこちなさをそのまま表しているようで、益々緊張した。

それにしても、向かいに座る男は、何を考えているのか知らないが、つくしと世間話をするつもりもないだろうから、副社長と新米秘書の距離が縮まるはずもなく、いつもこうして黙ったままだ。
それに、ずっと黙ったままでいることも、おかしく感じられ、何か話しでもしようとつくしは口を開こうとした。
そしてそう言えば、副社長とは最初から色々とあったと思い返す。

だがその時、男の方が先に口を開いた。

「牧野」

「は、はい」

つくしは、口を開こうとした矢先だったが、何を言われるのかと思わずどもった。

「お前、スカートの後ろ。ちゃんと閉めてんだろうな?」

「なっ・・!」

なんてこと言うの!と言いたかったはずだが言葉に詰まる。
何故なら目の前の男がほくそ笑んでいるからだ。それでも冷静に冷静に。あくまでも冷静に。
そんな気持ちでいたいのだが、相変らずの男の発言に、今のつくしの気持ちは確率で言えば100パーセント怒っていた。

「だってそうだろ?何にしても初めての時ってのは緊張するって言うからな。それにどう見てもお前のその緊張した態度からすれば、料亭は初めてだってことが分かる。だから確認してやった。またベージュのスリップ覗かせて歩かれたら困るからな。それに新堂巧も色気のねぇ下着の女に誘われても困るはずだからな」

低い声で面白そうに言う男につくしは猛然と反論したくなった。

「いい加減にして下さい!それに今日はベージュじゃありませんから!」

「へぇ。そうか。それなら何色だ?」

「そ、そんなことあなたに関係ないでしょ?」

「ああそうだな。確かに俺には関係ねぇな。けどな、お前、胸のボタンは留めろ。相手に媚び売る必要があるなら外せばいいが、そうじゃねぇんなら嵌めろ」

つくしは慌てて視線を下げた。
するとブラウスのボタンが外れていた。
それもちょうど胸の辺りがひとつだけ。
そうだ。出かける前、トイレで下着の位地を直すため外したのだ。
そしてボタンをかけ忘れたのだ。

「だから今日もベージュだろ?」

はっとして顔を上げると、男の視線とつくしの視線が合った。
見えていた。
見られていた。
また副社長であるこの男に!

今は頭に血を登らせている場合ではないはずなのに、つくしの頭は沸騰する一歩手前だった。道明寺司と一緒にいて、ほのぼのとした時間といったものを持つことは無理だと分かっているが、車は間もなく目的地に着く。そうすれば、この男を会食に送り出し、ひとりで静かに気持ちを落ち着けることをすればいい。

そして、車を降りた先にあるのは、つくしの思いを呑み込んでくれるはずの数寄屋造りの料亭。
水が打ってある御影石の広い玄関ホールに立てば、奥から現れた着物姿の女性に「ようこそ道明寺様。新堂様がお待ちです」と言われた。





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コメント
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dot 2017.11.28 07:22 | 編集
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dot 2017.11.28 13:18 | 編集
司*****E様
おはようございます^^
淡々と仕事をする二人。今の二人の距離感はこんな感じ?(笑)
恋におちる確率はまだ低いですねぇ(笑)
そして夜の会食のお供。
さて、どんな会食の席なのでしょうか。
つくしは緊張してしまい、胸のボタンを閉め忘れる。
そして司はそんな女をからかいたくなる!(≧▽≦)
この男、セクハラ親父ですね?(笑)
地味なベージュの下着を愛用するつくし。そのうち司からセクシーなランジェリーが贈られるかも?
そうなる日はいつなのでしょうねぇ・・・。(遠い目)
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.11.28 21:57 | 編集
H*様
優しい先輩秘書としてつくしを見守って下さいますか?
ありがとうございます!
何もやらかさないことを祈りましょう。
拍手コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.11.28 22:03 | 編集
さ***ん様
>「見ての通り、おにぎりとたくわんです。」
わはは(≧▽≦)いいですね!
このふたり、面白いですか?
クールな副社長ですが、気を付けないと『御曹司』になる恐れがある司です。
それにしても、セクハラ発言連発の副社長。この会社どうなんでしょうねぇ(笑)
そして先輩秘書の野上さん。流石年の功ですね?なるほどザ・野上!(笑)
さて、これから高級料亭での会食です。相手は司と同じ年の男。
何やら事件が起こりそうな匂いが!つくしの運命は如何に!
いつかつくしの下着がベージュからもっとセクシーな物に代わることを期待したいと思います。
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.11.28 22:22 | 編集
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