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2017
11.20

恋におちる確率 9

つくしは、入社して以来こんなに緊張したことはない。
入社試験の時、筆記試験や作文、そして面接を何度も繰り返したが緊張などしなかった。
けれど、今朝は妙に早く目が覚め、部屋のカーテンを開けた。だがまだ日の出前の時刻であり、視線の先には薄ぼんやりとした暗闇だけが広がっていた。

試験の結果が送られて来たとき、せっかくですが当社とはご縁がございませんでした。といった文言を目にすることなく、歓びを噛みしめた。そして、あの日の歓びを無駄にすることなく今日まで仕事に励んで来た。

そんな平凡な毎日に、今日という日が特別な日といった訳ではない。
ただ、今日から55階にある秘書室勤務となるつくし。
突然の異動は何を示しているのか。それとも何かを示そうとしているのか。
考えたところで分からないのだから、考えるのは止めた。

その代わり胸の中にあるのは、やってやるわよ、かかってきなさいよ。といった思い。
だが何に対して敵対心を向けているのか。それは、勿論副社長である道明寺司に対してだ。
何故なら、この季節外れの突然の異動はあの男の思いつき以外に考えられないからだ。
そして、これが思いつきだろうと、気まぐれだろうと、所詮しがない会社員は会社の命令に従う以外なかった。


そして、つくしが知る秘書の仕事と言えば、仕える人間のスケジュールを管理するといった事くらいしか頭になかった。
そんなつくしだが、秘書は人一倍身なりに気を遣わなければならないことは知っている。
だからスーツは、いつものスーツ以外に2着新調した。だがさすがに一度に2着は痛い出費となった。


いつもより30分早い電車に乗り込み、会社を目指す。
何故なら、初日から遅刻するような羽目にはなりたくないからだ。
そして、いつもと同じ会社だというのに、まるで登る山が違うように感じられるのは、最上階の55階がアフリカ大陸最高峰のキリマンジャロと同じ別名を持つからだ。

キリマンジャロは現地の言葉では「神の家」と呼ばれており、コーヒー三課にいたつくしにすれば、キリマンジャロは馴染のある名前だが、そのキリマンジャロと同じ意味を持つ「神々のフロア」にある秘書室に勤務するのだから緊張するなと言われる方が無理だ。

あの日訪れた55階は、キリマンジャロの頂上のように空気が薄い場所ではなかったが、間近で道明寺司を見た瞬間は息が詰まりそうになる思いをした。だが、執務室でのセクハラ発言に頭の中は沸騰直前のやかんのようになったはずだ。
コーヒーを淹れる湯の温度は80度くらいから97度がベストだと言われるが、もしつくしがやかんなら、あの時コーヒーに一番いいと言われる温度でいたのかもしれない。

そして今は、外面はやる気のあるビジネスウーマンだが、内面はいったいどんな業務を任されるのかと胃に若干ピリピリと痛みを感じながら、エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押す女だ。だがその途端、周りの視線が感じられた。

だが周りの目は気にしない。それにエレベーターが上昇するにつれ、次第に覚悟が出来た。
それは、雑草を自負する女の心の中にある、踏みつけられたとしても立ち上がってみせるといった覚悟。だがあまり気負っても駄目だと考えを改める。

そうだ。秘書の業務といったものは、今までの仕事とは違い、自分のペース配分といったものは関係ない。相手に合わせることが求められるはずだ。
それにしても、いったい誰の担当になるのか。まさか、あの男の担当になるとは考えていないが、何故か嫌な予感が頭を過る。




つくしは、9時からの業務開始に対し、8時には55階のフロアにいた。
少し早すぎたのではないかといった思いがあるが、その時、秘書室の扉が開き、ひとりの女性が出て来た。上品な装いの50代前半といった年令に見えるその女性は、開口一番言った。

「あなたが牧野つくしさんね?」

装いが上品なら、声も上品だ。
つくしがはい、と答えると女性は万事心得た様子で自己紹介を始めた。

「私は野上。野上雅子です。専務担当秘書よ。随分と早く出社したのね?でも感心だわ。秘書としての勤務は9時からかもしれないけど、それ以前にすることはあるものね。西田室長は副社長と一緒に出社されるからまだだけど、どうぞこちらへ」

と言って秘書室へ案内された。
そして背を向けていた女性に、
「石井さん。こちら今日から秘書課で働くことになった牧野さん」
と紹介された。

「はじめまして牧野さん。常務担当秘書の石井誠子です。随分と早く出社したのね?でもあなた偉いわね?」

久美子が言っていた専務や常務といった役員にはお局クラスの秘書がいるといった話しは、この二人のことだろう。二人とも同じ年頃であり、随分と落ち着いて見えた。
そして考えてみたが、もしかすると二人のうちのどちらかが、秘書の仕事から離れることになり、その後任としてつくしが選ばれたのかもしれないといった思いが過る。
そして、そんな二人から感じられるのは、母か姉かといった雰囲気で、よくある新人に対し意地悪をするとか、仲間外れにするという低次元の話はここにはないようだ。

「牧野さん。あなた副社長の秘書として西田室長の下に付くことになったそうだけど、あの副社長が女性秘書を受け入れるなんて信じられないことなのよ?」

「そうよ?秘書課の女性はわたし達二人だけで、あとの役員についているのは男性なの。以前副社長がNYからこちらにいらした時、女性の秘書がついたことがあったのよ?だけどすぐに異動させられたわ。まあね、彼女は秘書というよりも、女を前面に出すような人だったから副社長にしてみれば目障りだったんだと思うわ。何しろ副社長は公私混同を嫌う方なの。だから彼女のような人はお嫌いだったの。はっきり言えば人選を間違ったとしか言いようがないの。でも今回あなたを選んだのは西田室長だから、心配してないわ」

二人の女性の会話から、つくしが思い描いたどちらかの女性の後任として抜擢されたという微かな期待は、見事に打ち消された。そしてやはり自分が仕えるのは、副社長である道明寺司であることがはっきりした。

「でも牧野さんは食品事業部だったのよね?それもコーヒー三課。じゃあ副社長のお好みのコーヒーの淹れ方もすぐにマスターできるわね?あの方はブルマンのブラックがお好みなの。でもね、淹れ方は副社長の好みがあるの。だからそれは西田室長から直接教えてもらえばいいと思うけど頑張ってね。朝まず飲まれるのはそのコーヒーだからその一杯が重要よ?まさにその一杯が副社長のご機嫌を左右するではないけれど、無きにしも非ずってところかしらね?だから牧野さん次第で副社長の一日が決まることになるのかもしれないわね?」


秘書課の古参秘書から聞かされる話に耳を傾けていたが、そうこうするうちに秘書室の監視モニターが映し出したのは、開いたエレベーターの扉からひとりの男が降りて来た姿と、彼の後ろに従う男の姿だ。

「あら。今日はいつもより早いわね?さあ、牧野さん。副社長がいらしたわ。ご挨拶に行きましょう」









司は、今まで秘書からおはようございます、と声をかけられてもそちらを見ることはなかった。
だが今朝の彼は機嫌が良かった。
ものごとは、思い通りに行くことと、そうでないことがあるが、司の場合思い通りに行かないことはない。
そんな彼の前にある日突然現れた牧野つくしは、思わぬ楽しみを味あわせてくれた。
今まで彼の周りにいた容姿だけが取り柄で頭はカラッポといった女と違い、司に意見するだけの気骨があった。
だが仕事上で相手に合わせなければならないことは、合わせることが出来るのだろう。
牧野つくしについて調べさせた結果、周りから見た仕事の評価もよく、そして人柄も問題ないと書いてあった。
そしてあの日の出来事から、とにかく、正義感が強い女だということは理解出来た。
自分が信じることに対しては、揺るぐことない信念を持ち行動する女。
そんな女が目新しいと感じたのか、それともただ単に退屈しのぎとして傍においてみたいと感じたのか。どちらにしても、彼女は今日から司の秘書として彼の傍で働く事になった。

だがまさか、その年になって秘書として働き始めることになるとは、思いもしなかったはずだ。
何故なら、司の会社では異動があるとしても、ある程度関連のある部門への異動が殆どだったからだ。だから今回のようにまったく違う部署への異動は稀な話であり、誰もが驚いて当然だ。そして本人が嫌だと言っても、社員である以上嫌だとは言えない立場にあり、もし嫌だと言えば、辞めざるを得ない。そんなことからも、当の本人がしぶしぶ承諾する様子が目に浮かんだ。


司は彼女に視線を向けたが、特に何も言わず、目の前を通り過ぎ、執務室へと向かった。
その代わり西田が彼女に声をかけた。

「牧野さん。さっそくですが本日より宜しくお願いいたします。それでは、副社長室へどうぞ。そちらで詳しいお話をさせていただきます」

司は牧野つくしへの奇妙な反応を抑えつけ、落ち着いた口調で有無を言わさないと言われる西田の声を背中で聞いていた。そしてその声に静かに答える声は、本人は隠そうとしているが、緊張が感じられ、先日の勇ましさを今はどこかへ収めているのだろうと感じていた。

さしずめあの時は、針を纏った河豚だったが、今は野兎の毛皮を纏ったリスといったところだ。恐らく買ったばかりのスーツを身に纏い、武装ではないが、その姿は彼女がイメージする秘書といったものを表しているはずだ。

地味な紺のスーツに地味な靴。
そして恐らく一度も染めたことなどない真っ黒な髪。
だが紺という色は、色の濃い分、額縁のように中にある肌を引き立たせるが、まさに細く白い首筋を引き立たせていた。だがキュッと結ばれた唇と大きな瞳は、相変わらず司のことを最低な人と思っているようだ。

あの時、太田という社員を庇うようなことなど口にしなければいいものを、あの出来事は後悔していないように見える。だが、何故自分が55階で仕事をすることになったのかは、薄々気づいているはずだ。

だがそれは、司にも言えることだ。牧野つくしを女として意識している気持ちが無いのかと言われれば、それは違うはずだが、まずは牧野つくしの感情の移り変わる様子が面白く、近くで見てみたいといった気にさせられていた。

いずれにせよ、執務室の中、ほんの1週間前に立っていたその場所で、今は西田に秘書としての心得といったものを伝授されようとしている女が、これからどういった働きをしてくれるのか楽しみだ。



「あなたは本日よりわたくしの下で副社長の秘書として働いて頂くことになります。秘書の仕事というものは、机上で学ぶことはありません。仕事は実践あるのみということで身体で覚えて頂きますが、秘書の仕事は他人には見えずらい仕事といったものが殆どです。
そして秘書の仕事は評価されにくい仕事です。この仕事をしたからといって数字が上がるといった訳でもございません」

司は西田の話を聞きながら、牧野つくしが今何を考えているのか知ろうとした。
だがその表情は、1週間前の態度とは大違いで、これから仕える男に失礼にならないようにといった気持ちが現れていた。


「しかしながら多くの機密文書も扱うことになります。ですからご自分の立場をきちんと理解して頂くことが必要です。つまり口は堅くといったことが要求されます。いいですか。牧野さん。秘書の仕事は上司のニーズに応えることが役目です。ですが、上司に言われてからでは遅いことがあります。ですから、そういったことが無いように、自らが上司のニーズを把握し、自分の役割を認識することが重要となります。そして秘書というのは、上司の経営の補佐といったものが仕事であり、本来なら身の回りのお世話や健康管理といったものは秘書の仕事ではありません。ですが副社長のように独身となりますとある程度秘書が補佐する必要がある。そうお考えいただけたらと思います」

西田はそこで一旦話しを終えたが、次の言葉が口をついたとき、司の目の前に立つ女の大きな瞳が、つい先ほどとは一転し、あの時と同じように険悪な表情で彼を見つめる様子に笑いを堪えた。

「と、いうことで牧野さん。明日から副社長のお迎えは牧野さんがいらして下さい」





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コメント
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dot 2017.11.20 06:42 | 編集
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dot 2017.11.20 19:54 | 編集
司*****E様
おはようございます^^
ついに秘書課勤務の日が来ました。
そして副社長である司の秘書としての勤務が分かりました。
司は楽しそうですね?(笑)
そして西田さんもどうなんでしょう(笑)
そんな西田さん。つくしに毎朝のお迎えを命じました。
本当に「え?」ですよね?
二人の今後は西田さん次第?(笑)
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.11.20 21:45 | 編集
か**り様
1時間前に出勤しましたが、古参の秘書のお二人は既に出勤されていました。
さすがです!
つくしが秘書検定を受験した経験があったのか?う~ん(笑)どうなんでしょうか?
そして副社長と西田室長もいつもより早い出勤!(笑)
どうしたんでしょうか、この二人は!

え?アカシアの文章で笑えてますか?(笑)
>切なかったり、しんみりしたり、アホかったり、恐ろしかったり。
そう言えば、「Obsession」で笑えたとコメントを頂いたとき、アカシア、これは御曹司の妄想だったのか?と自問しました!(≧▽≦)
このようなサイトですが、楽しんでいただけて嬉しいです^^
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.11.20 21:58 | 編集
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