2017
10.12

もうひとつの橋 23

あの頃、頭のいい少女は、司に出会うまではごく普通の高校生だった。
強情だったが、それは彼女の本質である恥ずかしがり屋の部分を隠すため自制心が働いていたと言ってもいいはずだ。だが照れというのは、時に臆病にとって代わる。
当時、牧野つくしは、司から見れば恋に臆病な少女だった。

一歩足を踏みだすごとに、石橋を叩くではないが、常に周りを確かめながらといったところがあった。だから、彼女の場合、慎重すぎて石橋を渡たることを躊躇していたと言った方が正しいはずだ。
だがその橋を一緒に渡ろうと手を差し出したのが司だった。
しかし、渡ろうとした橋は脆くも崩れ去った。
そして17年後、彼女の前に現れたが、既に彼女は結婚していた。

自分ではない、誰か他の男が彼女と結婚している。そのことを知ったとき、いったい自分は17年の間、何をしてきたのか。どうでもいい世界で満たされることがなかったというのに、それに気付いていたのに何もしようとしなかった。
何故、自分の心が満たされないのか、確かめようとはしなかった。だからすべてが遅い。
考えたくはなかったが、そう考えざるを得ないと感じた。だが、彼女の結婚が本物の結婚ではないと知ったとき、期待をした自分がいた。 

好き勝手に生きてきた男が許されるのかと言われれば、それは彼女次第ということになる。
けれど、どうしても彼女の傍にいたい。それだけは、あの頃と変わらぬ思い。
記憶が戻った途端、その思いを叶えたいと願った。
いつまでも彼女の傍にいたいと。

そして彼女の流した涙が言葉だとすれば、それは言霊となって司の心の中に届いた。
どうしてあたしを忘れたのよ、と繰り返したその言葉は司にとっては、愛の告白に等しい言葉。
怒りたければ怒ればいい。殴りたければ殴ればいい。
何をされたとしても文句は言えないのだから。
それに、彼女の想いはあの頃と変わらないと知ったのだから、何をされてもそれでいい。








「・・ね、ねえ。お鍋、食べなきゃ・・煮過ぎたら美味しくなくなるから・・」

と、哀しみを強さに変え生きてきた女は、司の胸に押し付けていた濡れた顔を上げた。
そして彼の腕の中から抜け出し、テーブルの上で、ぐつぐつと音を立てている鍋の火力を弱めた。


本当ならずっと胸の中に抱きしめ、忘れていた過去を呼び覚ましたいと思った。
だが、現実にそった生き方をする女は、今ここでそれを許すことはしなかった。
だが、それが正しい事に思えた。ここは、彼女と雄一の家であり、二人の間がどうであろうと、彼女は彼の妻であり、倫理観が強い女が、自分の行動を恥じ入ることが理解できた。
ただ、話題転換の仕方が下手なのは昔と変わらずで、それがあの頃と変わらないことを嬉しく思う。


「あ?・・ああそうだな・・けど、この鍋、グダグダだな」

再び椅子に座った二人は目の前で煮えた鍋の中を見た。
みそ鍋のみそは煮立ち、野菜はくたくたに煮え、豆腐は形を成さないほど崩れていた。
それでも、司は箸を取り、鍋の中から野菜や鶏肉を取ると口へ運ぶ。

「・・けど美味い。あの時食べた鍋と・・いや、あの時以上に美味い。お前も早く食え」

「え?うん・・」

自分から煮過ぎたら美味しくなくなるから、と言いながらどこか戸惑っている姿が、やはり牧野つくしらしいと思わず笑みが零れる。

そして司の言葉にも嘘ない。
不味いものには美味いとは言えない。確かあの時もそんな話もしたはずだ。
人生の中で誰かと鍋を囲んだことは、高校生の頃つくしと一度あっただけで、それ以降鍋など食べたことがない。だから人生で誰かと囲む鍋とすれは、この鍋が二度目の鍋だ。
好きな人と食べるものなら、どんなものでも美味いと感じるが、今の司にとって鍋というのは特別な料理のひとつだ。

二人は、17年の時を戻し、あの頃の二人に戻ろうとしている。
そして奇妙な静寂は、あの頃のことを思い出しているとすれば、まさにそのはずだ。
あの時、中途半端に終わった鍋を今度こそ、食べ切るつもりでいた。
その時、どちらともなく口を開いた。

「おい・・」
「あの・・」

重なり合った言葉を譲ったのはつくしの方だ。

「・・篠田は・・あの男は大丈夫なのか?」

『僕は帰えらない。ゆっくりして行って下さい』

そして約束があると出かけた雄一は、二人に気を遣ったという訳ではないはずだ。何故なら、あの目は嘘をついている目ではなかったからだ。

雄一という男は、男の寛容さを身に付けた人間だと感じた。それは、司にはなかったことであり、簡単に身に付けられるものではなかった。
そして雄一という男に対し、悪いという感情はない。むしろ残り少ない命を削っても会いたい人がいる。だから自ら行動を起こしたことに、男としてエールを送りたい。
そして、そんな男がつくしの傍にいた事が悪い影響を与えたとは、考えられなかった。


「雄一さんは・・彼は大丈夫よ。ああ見えても気力はあるから。・・病気になると体力もだけど気力が奪われちゃうけど、彼はそんなことはないから・・それに自分のことが自分で出来るうちは、人の手は借りたくないって言う人だから、まだそんなに心配しなくても大丈夫よ」

命の密度が薄れても、気力がある人間は違うと言うが、それでも衣類に隠された部分は、見える部分よりも痩せているはずだ。

「俺に何か出来ることはないのか?」

「え?」

「うちの病院にも専門医がいる。もし篠田雄一が望めば診せることも出来る」

「ど、どうしたの?そんなこと言うなんて」

まさか司の口から聞くとは思わなかった言葉に、つくしは驚いた顔をした。

「どうしてってお前の・・夫だろ?それにあいつ、好きな女に会いに行ったんだろ?それならもっと生きたいと思うんじゃねぇのか?」

雄一の身体について、何か言える立場にはない。聞ける立場にもいない。
それでも、司はそんな言葉を口にしていた。それはあの男が、司に向かってあなたは友人ですと言った言葉が心の中にあるからだ。

雄一は、牧野つくしの「夫」という立場にいる人間ではあるが、本当の夫婦ではないただの友人という男。
司は、その男に、奇妙な連帯感といったものを感じていた。雄一の話の中にもそういった趣旨の言葉があった。同じ女の優しさに触れた男だと。
そして、彼女がどうして篠田雄一という男を支えてやろうと思ったのか、分かったような気がした。雄一という男は、誠実で真面目な男だ。だから彼女も心を許したのだろう。
つまりは、友人として付き合うには、これ以上の相手はいないといったところなのだろう。

そして、そこにあるのは、雄一という男に対しての嫉妬心といったものではない気持ちだ。
本来なら嫉妬心に加え、独占欲といったものがあってもおかしくないはずだが、何故かそういったものが、雄一に対しては感じられなかった。端から男女関係がなかったからそう思えたのか。どこか、二人の関係を納得していた。

「あたし・・彼が最期の時を迎えるその日まで一緒にいるって約束したの。それに雄一さんには傍にいてくれる人が必要なの。だから今、あの人の傍を離れることは出来ない」

ポツリと呟くように言われた言葉は、本心からの言葉。

「俺はお前が選んだ人生にどうこう言える立場にねぇってことぐらい分ってる。それにそれはお前の篠田の友情に対する思いだろ?」

結局彼女はさっきから箸を動かすことなく、自分の夫という立場にいる男のことを終始気にしていた。だが口をついた言葉にあるのは、人を思いやる心。これまで共に支え合っていた人間に対する思い。
だから司は彼女の想いを受け止めた。
昔から自分のことより、身近な人の幸せを考える少女だったから。
そして一途とも言える献身さが彼女の中にはある。
その性格は例え歳月を重ねようと変わることがないことを知っている。
だからこそ、彼女は今まで自分を好きでいてくれたのだ。


「俺は待つ。お前が・・雄一という男の最期を看取るまで。いや俺もあの男の・・人生に悔いが残ることがないようにしてやりたい。そうしてやることが俺の・・あの男に対する礼義だ」


そうすることが、一番大切な人である牧野つくしの愛のためになるなら、といった思いもあるが、それだけではない。そして言い切ると、頭の中が澄み切った青空のようにスッキリとしていく気がした。
雄一の牧野つくしという友人に対する今までの行動に心が動いたのだ。
彼女のために自分に会いに来たこと。そしてこうして二人だけの時間を作ってくれたこと。
この空間と時間が雄一の策略だというのなら、そうだろう。
今はただ、時に身を任せて生きることしか出来ない男の行動は、二人の男女を近づけてくれた。だからこそ、雄一の行動と思いに対する礼を尽くしたい。
だが、ただの友人である女性に対しての行動としては、どうかと思うが、それが雄一という男の思いなら、とそれを素直に受け取った。
そして、雄一が訪ねて来たとき、司に向かって言った『私が死ぬまでは彼女を私に貸して下さい』その約束は守るつもりでいる。


「・・・覚えてるか?昔どこにも行かないかって俺に聞いたことを。それからお前は俺に言い含めるようにこう言った。必ずここに・・俺の元に戻ってくるってな」

あれは、それまで何でも自分の思い通りにしてきた男が味わった初めての焦り。
何処かへ行ってしまいそうになった彼女の心を追いかけ、他の男と乗ったバスを追った。

「・・覚えてるよ・・」

あの時、司の元を去るかどうか決めることで彼女は迷っていた。
そして、自分の問題は自分がひとりでカタをつけると言った。

「・・・あの時ね、風化しない想いがあるのかって聞かれた」

「・・そうか。それで、お前はなんて答えた?」

「・・分らないって・・分らないって答えた。
でも今なら分かる。・・だって17年経っても風化しなかった・・。あたしの想いはあの頃と同じ。だから・・」

殆どの人間が17年という歳月を経れば想いは風化する。
だが時が移ろいはしたが彼女の想いは風化しなかった。
記憶は古ぼけて行くはずだったが、忘れられることなく鮮明にあった。
そして傷ついた心の奥にあったのは、哀しい運命に負けることがなかった愛。

「・・分かってる。俺は待つ。お前は気が済むまであいつにしてやりたいことをしてやればいい。それがお前と篠田雄一との友情なら俺は文句は言わねぇから。それに俺は文句を言える立場にねぇからな・・それより、早くこの鍋、食っちまおうぜ」







二人の間に小さな未来でいい。
それが彼女の瞳の中に見えたのなら、今はそれでいい。
涙の痕が乾き始めた今、彼女のほほ笑む顔を見ることが出来るのならそれで。





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コメント
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dot 2017.10.12 06:18 | 編集
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dot 2017.10.12 09:31 | 編集
このコメントは管理者の承認待ちです
dot 2017.10.12 14:27 | 編集
司***OVE様
おはようございます^^
雄一さん、延命治療は望まなくても、別れた女性と会ったことにより、何かが変わるかもしれませんね?その時は、司が最高の医療を提供してくれるのは、間違いないでしょう。
司にとっては背中を押してくれた人物である雄一。
彼には感謝していることでしょう。
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.10.12 21:28 | 編集
とん**コーン様
前回無かった牡蠣もそろそろ出回っている頃です(笑)
そして鶏なら年中あります!
そして鍋のシーズンがやって来ます。二人も差し向かいで鍋を食しているようです。
鍋、いいですね~。
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.10.12 21:32 | 編集
ま*こ様
こんにちは^^
そうです。坊ちゃんには甘いアカシアです(笑)
簡単に人を許すことが出来るつくしの懐の深さは、海よりも深いといったところですね?(笑)
そして主題歌にして頂いている曲。そうですよね、つくしの気持ちとして合うところがあると思います。
二度と会いたくない!と言われれば、坊ちゃんどうしたでしょうね(笑)
つくしにも素敵な彼の一人や二人いてもOKですか?(笑)
しかし、どこまでも一途に司を愛する女が拙宅のつくしちゃんでしょうかねぇ(笑)

そして、バブル時代の御曹司(笑)
御曹司、妄想癖が抜けません(笑)
坊ちゃんのイメージが崩れると思いながらの御曹司ですが、楽しんで頂けて良かったです。
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.10.12 21:37 | 編集
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