泣いていた。
思わず零れた涙が、頬を伝い顎の先からテーブルの上へと続けざまに落ちていた。
涙が音を立て落ちる。果たして涙の音を聴くといったことが現実としてあるのだろうか。
だが17年前にそれを経験していた。
そして、恋をするほど哀しみが深くなるということを知ったのもあの頃だ。
それと同時に目の前に突き付けられたのは、悲しいほどの現実だった。
好きだった人が暴漢に刺され、意識不明の重体となり、今夜が山ですと言われた。
あの時、長い睫毛に縁どられた瞳が再び開かれることは無いと言われ、おびただしい涙が頬を流れ落ち、一生分の涙といったものを使い果たしたような気がした。だが涙が涸れることがないということも、知っていた。
何故なら、涙は止まることなどなく、とめどなく流れ続けたからだ。
その涙を流させた男は、今、目の前にいて、あの頃よりずっと大人になり、分別も身に付けている。そして、あの島で過ごす前、差し向かいで鍋を食べた時と同じ態度がそこにあった。
あのとき、鶏ガラで取ったスープを「うまい」と言って食べてくれた。あの日は、二人にとって最高の一日になるはずだった。だが、実際にはそうはならなかった。むしろ人生で最悪の日と言えた。
記憶が17年前に戻るたび、鼓膜に残る声は、お前なんか知らないと言い、向けられた目は敵を見る目だった。そして目障りだ、さっさと失せろと言った。
だから、そんな男に再会したとしても、願わくば人相が変わるくらい別人になっていればいいと思った。最後に会った酷い男のままでいてくれればいいと望んでいた。
そうすれば、再会したとしても、知らない振りをすることが出来るからだ。
そして、いつか永遠に記憶の中から消し去ることが出来るはずだと思っていた。
恋愛なんてしない。
恋人なんか要らない。
篠田雄一と出会い結婚し、一緒に暮らしていたが、その生活は透明なグラスの底のようにクリアであり、全てが明らかな生活だ。夫婦ではない互いを思いやる心は、恋とは違う友情という絆だ。
つくしは、感情のむらが激しい人間ではない。
だが長い間内側で眠っていた感情が、ふつふつと湧き出し、誰に向かってでもなく、言いたい言葉がある。
長い間、言いたくても言えなかった。
当時、17歳の少女がどう表現すればいいのか分からなかった心の内側といったものも、今なら言えるはずだ。
そして心がこれ以上黙っていることに耐えられなくなっていた。
誰に向かってでもなくと言ったが、やはり一番言いたいのは、今目の前にいる男に対してだ。
「・・あんたが刺されたことは、あんたの責任じゃないことは分かってる・・それに刺した人を恨んでもあんたの記憶が戻るわけじゃないってことは分かってた。・・起きたことをどうこう言ったところでどうにもならないことも分ってた。それに、あんたがあたしのことを忘れたことは、あんたのせいじゃない」
自分だけ忘れられたことを理不尽だと思ったが、どうしようもなかった。
もともと薄い氷の上に立っていた二人だった。
あの事件でその氷が割れ、二人の間に大きな川の流れが現れたのだ。
川の向う、対岸は別の世界であり、つくしが生きて来た世界とは違う世界。足を踏み入れることを躊躇われる世界だった。
そしてそこは、つくしの常識とは違う流れの常識といったものがある世界。
それは金がものを言う世界。人の価値は、その存在意義は、生まれた時から決められている世界。
だが、人はそれぞれ常識が違う。人の数だけ無数の常識があってもおかしくはない。
しかし人は、自分の持つ常識とは違う常識に触れたとき、その常識を非常識という。
つくしは、司のような人間の世界からみれば、非常識な世界の人間だった。
だから二人の交際には、司の母親からの反対を受けた。それでも、二人はそれぞれの世界から互いに歩み寄った。そして、共に生きて行きたいと望んだ。
だが一緒に生きて行くことは出来なかった。
それまでも理不尽と言われることは幾らでもあった。その最たるものが、司がつくしを忘れたことだった。けれど、まったく希望を失っていたわけではなかった。心の片隅、ほんの小さな欠片でもいいから、いつか思い出してくれるのではないかと願わずにはいられなかった。
「・・いつか、突然あたしのことを思い出したあんたが現れて、何怒ってんだよ・・って言ってくれる日が来ると思ってた。・・でもあたしは許さなくっていつまでも怒ってて、それを見たあんたがいい加減に許してくれって謝るの・・でもあたしは怖い顔をして許さないって言うの。そうしたら、そんな顏するとブスになるって言われて・・あたしは、そんなあんたを睨むんだけど、いつの間にか笑ってるの・・お互いに笑い合って・・それから抱きしめてくれるの。ごめん・・悪かったって・・」
そんなことを本気で考えた。
いつか思い出してくれる。
眉根を寄せながらも、唇の端を少し上げ、牧野、何やってんだ。早く来い。と言って手を差し出してくれる日がきっと来る。そういったことを思い描いていたこともあった。
「それにあれは夢だった・・長い夢を見てたんだよって誰かがあたしを起しに来てくれるんじゃないかと思ったこともあった・・でも誰も起こしに来てくれなかった・・」
その代わり、目に触れ、耳にするのは、好きだった男が他の女と過ごす姿。
辛かった。苦しかった。そして見たくない夢を見てはうなされ、冷たい汗をかき、飛び起きたことがあった。
ああ、今のは夢だ。あれは夢だ。刺されたのも、自分が忘れられたのも全部夢だ。そう思っても夢ではない現実があり、胸が潰れそうになることもあった。
そして、びっしょりと汗をかいたパジャマを着替えたことが幾度かあった。
「いっそのこと、あんたはあのとき死んだと思おうとした。死んだ人ならいくら待っても戻ってはこない。・・だから東京を離れて金沢の街に埋もれるように暮らすのも悪くはないと思った。それに知ってると思うけど、あたしがこの街に暮らすようになったのは、仕事で担当していた絵本作家の女性が癌になったからなの。その人は身寄りのない人であたしは、その人に生きる勇気をもらった・・だからその人の最期を看取ろうと決めたわ」
実際東京にいるより、他の街で暮らした方がいいと考えていた。
東京にいれば、多方面に渡り事業を展開する「道明寺」の名前を耳にする機会も多いからだ。
それに東京を離れれば、嫌な夢も見なくなると思った。東京という街が辛い夢を見させると考えたからだ。
「・・それに誰かに必要とされる、たとえ一人でも・・あたしのことを必要としてくれる人がいる・・そう思ったらこの街で暮らすのも悪くはないと思った」
とっとと失せろ、目障りだと言われた女が誰かに必要とされることがどんなに嬉しいか。
自分を必要としてくれる人がいる街へ行こう。そのことに迷いはなかった。
本当はたった一人の人にお前が欲しいと言われるだけで良かった。
ただひとり、他の誰にも愛されなくていい。ただひとりの人に愛されるだけでいい。本気でそう考えるようになっていた。
だが、重ねていく日々にそんな思いは形を変え、心の中に蓄積され大きくなる。やがて心の中に納まりきらないようになればその思いは何処へ行けばいいのか。
二人が一緒に過ごした時間は短かったが、その時間は10代のうちに経験するには濃密過ぎた。それでも、その中には一生忘れたくない、かけがえのない思い出もあった。
その思い出だけを支えに別の街で生きて行こうと決めた。
「あたしは・・・腹が立った・・でも何に対して腹が立ったのか・・分ってる。あんたが好きであたしを忘れたんじゃないってことは・・・でも突然・・終わりが来て悔しかった。悔しくて・・・・涙が出た・・」
「・・・牧野」
司が何か言いかけたが、つくしは、自分が口にした言葉に刺激を受け、自分の感情の流れといったものが止められなくなり、さらに涙が溢れ、そしてあの時、言いたかった言葉を再び口にした。
「・・どうして・・どうして忘れちゃったのよ・・あんなに・・あたしの事好きだって言ったじゃない!あたしだって・・好きだった・・それなのにどうして・・」
抑えに抑えていたものが、あっけなく綻ぶ姿は、かつて司が見たことがある牧野つくしの姿とは違った。何故なら、司がつくしを知る判断材料となるのは、17年前、まだ高校生の頃の彼女だからだ。頑固で意地っ張りで自分の感情を素直に認めようとしない少女だった。
だが、目の前にいる女は違う。そして女が泣いている姿に、司の瞳にも潤んだものが広がった。
人を疑うことをしない。
そして、どこまでも人を信じることが出来る人間の性分は、一度心を許した人間、そして好きになった相手を簡単には忘れることが出来ないということを司は知った。
彼女の口から語られたことは、司が彼女を忘れ去っていた間、心の中に抱えていた思い。
17年という歳月は、当事者でない者にとっては、短い時間だと感じられるだろう。
だが、当事者にとっては、とてつもなく長い時間だったはずだ。
事実、司もつくしの事を思い出してから、時の流れに驚愕していた。
そして今、17年前に記憶を巻き戻し、あの時と同じように二人が鍋を囲んだ姿を思い出す。
すると、懐かしく暖かい思い出が胸に広がり、湯気の向うにあった少女の笑顔が脳裏に広がった。
二人の恋は初めから無邪気な恋ではなかった。
だがその恋を求めたのは司だ。司が彼女を強く求めた。
そして傷つけたのも司だ。
たとえ記憶を失ったことが、司のせいではないとしても、責められるのは自分であり、謝罪しなければならないのが司自身であることは分かっている。
それでも、彼女の頬を流れる涙に意味を求めていいと言うのなら、その意味を歓喜の涙だと思いたい。
だが「好きだった」と過去形で言われ、その言葉から滲み出るのは、二人の恋は、すでに遠い過去の出来事だと感じられた。
だがどんなに非難されようと、罵られようと構わなかった。
心の中にある思いを全て吐き出して欲しい。17年間溜めたものがあるのなら、17年間変わらなかったものがあるのなら、その全てをぶつけて欲しい。
その上でやり直せるならやり直したい。過去を忘れてくれとは言わないが、今の自分を受け入れて欲しい。
激しい雨が二人を遮ったことがあった。だが今が、ありふれた雨の夜だとしても、二人の間を遮ることのない雨だと思いたい。
「牧野、聞いてくれ。俺は前も言ったが、お前を昔以上に愛してる。好きだ。お前のことを思い出してから今日まで一日たりとも、お前のことを思わなかった日はない。それだけは知っておいて欲しい」
かつて二人の間に確かに存在した愛。幼かった愛だとしても、それは確かに愛だった。
その存在がまた再び姿を現してくれる。そんな予感もあるが、あの頃と同じ思いを抱えているのは、自分だけなのだろうか。
司は、苦しい中にも、許してもらえるのではないかといった期待を込め、黒々と濡れたつくしの瞳を見つめた。しかし、女の瞳の淵は赤く染まり、溢れた涙は頬を濡らし、テーブルの上に小さな池を作っていた。
彼女がこんなにも涙を流す姿は初めて目にしたが、司が意識不明の重体となったとき、同じような状況でいたことを三条から聞かされていた。
その時の姿が今と同じなら、今目にしている彼女の姿を、そのまま網膜に焼き付けておかなければならないはずだ。それが、司が彼女を忘れ去ったことへの贖罪となるなら、一生この姿を覚えておく。
鍋の沸き立つ音だけが二人の間にあるが、つくしは、視線を反らし口を開いた。
「・・何度も同じ言葉を言えば、その通りになる。そんなことを言われた。思えば願いは必ず叶うからって・・言葉は口を出た途端、魂を持つって・・だから言霊って言葉があるのよって絵本作家の人に言われた。だから何度も繰り返した。道明寺があたしのことを思い出しますようにって。その言葉を聞いてから何度も繰り返して言葉に出した・・でもあんたは思い出してくれなかった」
ひと息に言い終えたつくしは、手にしていた箸をテーブルに投げ出し、立ち上がって流し台シンクの前に行き、司に背中を向けた。しかし何かを洗うわけでもなく、水を流す気配もない。司の目に映るのは、手に何かの箱を抱え、そこから紙を取り出している女の姿だ。
「・・何よ・・今更昔以上に愛してるなんて言わないでよ・・」
独り言を言う声が聞えた。
「今更で悪かった・・けど仕方ねぇだろ。俺はお前のことが好きなんだから」
いつの間にかつくしの傍には、ティッシュボックスを手にした男が立っていた。
「おい、そんなモンよりもこっちの方がいいだろ?なんかその紙は硬そうだ」
と言われ、つくしはキッチンペーパーを取り上げられ、ティシュを押し付けられた。
「それに言いたいことがあるなら言ってくれ。
俺はお前が17年間俺のことを思ってくれたことに感謝の言葉しかねぇけど、お前は俺に言いたいことが山のようにあるはずだ。だから吐き出したいことは吐き出してくれ。どんな言葉を言われたとしても、俺はお前の言葉は全て受け止める。否定なんか出来やしねぇ」
否定出来ないのは勿論だが、否定するつもりもない。どんな言葉でも甘んじて受けるつもりでいた。だがもし、死んで詫びろと言うならそれだけは勘弁して欲しいと言うつもりだが、それ以外のことならどんな事を言われてもいい。どんなことでもするつもりでいた。
司はティッシュを手に泣いている女の背中をゆっくりと撫でていたが、その手をそっと彼女の身体に回し、自分の方へ向けるとシャツの胸に抱きしめていた。
「悪かった・・17年もお前を忘れて・・」
腕の中で細い肩が震え頷いた。
そして、胸を濡らす温かい涙と嗚咽を感じていた。

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涙が音を立て落ちる。果たして涙の音を聴くといったことが現実としてあるのだろうか。
だが17年前にそれを経験していた。
そして、恋をするほど哀しみが深くなるということを知ったのもあの頃だ。
それと同時に目の前に突き付けられたのは、悲しいほどの現実だった。
好きだった人が暴漢に刺され、意識不明の重体となり、今夜が山ですと言われた。
あの時、長い睫毛に縁どられた瞳が再び開かれることは無いと言われ、おびただしい涙が頬を流れ落ち、一生分の涙といったものを使い果たしたような気がした。だが涙が涸れることがないということも、知っていた。
何故なら、涙は止まることなどなく、とめどなく流れ続けたからだ。
その涙を流させた男は、今、目の前にいて、あの頃よりずっと大人になり、分別も身に付けている。そして、あの島で過ごす前、差し向かいで鍋を食べた時と同じ態度がそこにあった。
あのとき、鶏ガラで取ったスープを「うまい」と言って食べてくれた。あの日は、二人にとって最高の一日になるはずだった。だが、実際にはそうはならなかった。むしろ人生で最悪の日と言えた。
記憶が17年前に戻るたび、鼓膜に残る声は、お前なんか知らないと言い、向けられた目は敵を見る目だった。そして目障りだ、さっさと失せろと言った。
だから、そんな男に再会したとしても、願わくば人相が変わるくらい別人になっていればいいと思った。最後に会った酷い男のままでいてくれればいいと望んでいた。
そうすれば、再会したとしても、知らない振りをすることが出来るからだ。
そして、いつか永遠に記憶の中から消し去ることが出来るはずだと思っていた。
恋愛なんてしない。
恋人なんか要らない。
篠田雄一と出会い結婚し、一緒に暮らしていたが、その生活は透明なグラスの底のようにクリアであり、全てが明らかな生活だ。夫婦ではない互いを思いやる心は、恋とは違う友情という絆だ。
つくしは、感情のむらが激しい人間ではない。
だが長い間内側で眠っていた感情が、ふつふつと湧き出し、誰に向かってでもなく、言いたい言葉がある。
長い間、言いたくても言えなかった。
当時、17歳の少女がどう表現すればいいのか分からなかった心の内側といったものも、今なら言えるはずだ。
そして心がこれ以上黙っていることに耐えられなくなっていた。
誰に向かってでもなくと言ったが、やはり一番言いたいのは、今目の前にいる男に対してだ。
「・・あんたが刺されたことは、あんたの責任じゃないことは分かってる・・それに刺した人を恨んでもあんたの記憶が戻るわけじゃないってことは分かってた。・・起きたことをどうこう言ったところでどうにもならないことも分ってた。それに、あんたがあたしのことを忘れたことは、あんたのせいじゃない」
自分だけ忘れられたことを理不尽だと思ったが、どうしようもなかった。
もともと薄い氷の上に立っていた二人だった。
あの事件でその氷が割れ、二人の間に大きな川の流れが現れたのだ。
川の向う、対岸は別の世界であり、つくしが生きて来た世界とは違う世界。足を踏み入れることを躊躇われる世界だった。
そしてそこは、つくしの常識とは違う流れの常識といったものがある世界。
それは金がものを言う世界。人の価値は、その存在意義は、生まれた時から決められている世界。
だが、人はそれぞれ常識が違う。人の数だけ無数の常識があってもおかしくはない。
しかし人は、自分の持つ常識とは違う常識に触れたとき、その常識を非常識という。
つくしは、司のような人間の世界からみれば、非常識な世界の人間だった。
だから二人の交際には、司の母親からの反対を受けた。それでも、二人はそれぞれの世界から互いに歩み寄った。そして、共に生きて行きたいと望んだ。
だが一緒に生きて行くことは出来なかった。
それまでも理不尽と言われることは幾らでもあった。その最たるものが、司がつくしを忘れたことだった。けれど、まったく希望を失っていたわけではなかった。心の片隅、ほんの小さな欠片でもいいから、いつか思い出してくれるのではないかと願わずにはいられなかった。
「・・いつか、突然あたしのことを思い出したあんたが現れて、何怒ってんだよ・・って言ってくれる日が来ると思ってた。・・でもあたしは許さなくっていつまでも怒ってて、それを見たあんたがいい加減に許してくれって謝るの・・でもあたしは怖い顔をして許さないって言うの。そうしたら、そんな顏するとブスになるって言われて・・あたしは、そんなあんたを睨むんだけど、いつの間にか笑ってるの・・お互いに笑い合って・・それから抱きしめてくれるの。ごめん・・悪かったって・・」
そんなことを本気で考えた。
いつか思い出してくれる。
眉根を寄せながらも、唇の端を少し上げ、牧野、何やってんだ。早く来い。と言って手を差し出してくれる日がきっと来る。そういったことを思い描いていたこともあった。
「それにあれは夢だった・・長い夢を見てたんだよって誰かがあたしを起しに来てくれるんじゃないかと思ったこともあった・・でも誰も起こしに来てくれなかった・・」
その代わり、目に触れ、耳にするのは、好きだった男が他の女と過ごす姿。
辛かった。苦しかった。そして見たくない夢を見てはうなされ、冷たい汗をかき、飛び起きたことがあった。
ああ、今のは夢だ。あれは夢だ。刺されたのも、自分が忘れられたのも全部夢だ。そう思っても夢ではない現実があり、胸が潰れそうになることもあった。
そして、びっしょりと汗をかいたパジャマを着替えたことが幾度かあった。
「いっそのこと、あんたはあのとき死んだと思おうとした。死んだ人ならいくら待っても戻ってはこない。・・だから東京を離れて金沢の街に埋もれるように暮らすのも悪くはないと思った。それに知ってると思うけど、あたしがこの街に暮らすようになったのは、仕事で担当していた絵本作家の女性が癌になったからなの。その人は身寄りのない人であたしは、その人に生きる勇気をもらった・・だからその人の最期を看取ろうと決めたわ」
実際東京にいるより、他の街で暮らした方がいいと考えていた。
東京にいれば、多方面に渡り事業を展開する「道明寺」の名前を耳にする機会も多いからだ。
それに東京を離れれば、嫌な夢も見なくなると思った。東京という街が辛い夢を見させると考えたからだ。
「・・それに誰かに必要とされる、たとえ一人でも・・あたしのことを必要としてくれる人がいる・・そう思ったらこの街で暮らすのも悪くはないと思った」
とっとと失せろ、目障りだと言われた女が誰かに必要とされることがどんなに嬉しいか。
自分を必要としてくれる人がいる街へ行こう。そのことに迷いはなかった。
本当はたった一人の人にお前が欲しいと言われるだけで良かった。
ただひとり、他の誰にも愛されなくていい。ただひとりの人に愛されるだけでいい。本気でそう考えるようになっていた。
だが、重ねていく日々にそんな思いは形を変え、心の中に蓄積され大きくなる。やがて心の中に納まりきらないようになればその思いは何処へ行けばいいのか。
二人が一緒に過ごした時間は短かったが、その時間は10代のうちに経験するには濃密過ぎた。それでも、その中には一生忘れたくない、かけがえのない思い出もあった。
その思い出だけを支えに別の街で生きて行こうと決めた。
「あたしは・・・腹が立った・・でも何に対して腹が立ったのか・・分ってる。あんたが好きであたしを忘れたんじゃないってことは・・・でも突然・・終わりが来て悔しかった。悔しくて・・・・涙が出た・・」
「・・・牧野」
司が何か言いかけたが、つくしは、自分が口にした言葉に刺激を受け、自分の感情の流れといったものが止められなくなり、さらに涙が溢れ、そしてあの時、言いたかった言葉を再び口にした。
「・・どうして・・どうして忘れちゃったのよ・・あんなに・・あたしの事好きだって言ったじゃない!あたしだって・・好きだった・・それなのにどうして・・」
抑えに抑えていたものが、あっけなく綻ぶ姿は、かつて司が見たことがある牧野つくしの姿とは違った。何故なら、司がつくしを知る判断材料となるのは、17年前、まだ高校生の頃の彼女だからだ。頑固で意地っ張りで自分の感情を素直に認めようとしない少女だった。
だが、目の前にいる女は違う。そして女が泣いている姿に、司の瞳にも潤んだものが広がった。
人を疑うことをしない。
そして、どこまでも人を信じることが出来る人間の性分は、一度心を許した人間、そして好きになった相手を簡単には忘れることが出来ないということを司は知った。
彼女の口から語られたことは、司が彼女を忘れ去っていた間、心の中に抱えていた思い。
17年という歳月は、当事者でない者にとっては、短い時間だと感じられるだろう。
だが、当事者にとっては、とてつもなく長い時間だったはずだ。
事実、司もつくしの事を思い出してから、時の流れに驚愕していた。
そして今、17年前に記憶を巻き戻し、あの時と同じように二人が鍋を囲んだ姿を思い出す。
すると、懐かしく暖かい思い出が胸に広がり、湯気の向うにあった少女の笑顔が脳裏に広がった。
二人の恋は初めから無邪気な恋ではなかった。
だがその恋を求めたのは司だ。司が彼女を強く求めた。
そして傷つけたのも司だ。
たとえ記憶を失ったことが、司のせいではないとしても、責められるのは自分であり、謝罪しなければならないのが司自身であることは分かっている。
それでも、彼女の頬を流れる涙に意味を求めていいと言うのなら、その意味を歓喜の涙だと思いたい。
だが「好きだった」と過去形で言われ、その言葉から滲み出るのは、二人の恋は、すでに遠い過去の出来事だと感じられた。
だがどんなに非難されようと、罵られようと構わなかった。
心の中にある思いを全て吐き出して欲しい。17年間溜めたものがあるのなら、17年間変わらなかったものがあるのなら、その全てをぶつけて欲しい。
その上でやり直せるならやり直したい。過去を忘れてくれとは言わないが、今の自分を受け入れて欲しい。
激しい雨が二人を遮ったことがあった。だが今が、ありふれた雨の夜だとしても、二人の間を遮ることのない雨だと思いたい。
「牧野、聞いてくれ。俺は前も言ったが、お前を昔以上に愛してる。好きだ。お前のことを思い出してから今日まで一日たりとも、お前のことを思わなかった日はない。それだけは知っておいて欲しい」
かつて二人の間に確かに存在した愛。幼かった愛だとしても、それは確かに愛だった。
その存在がまた再び姿を現してくれる。そんな予感もあるが、あの頃と同じ思いを抱えているのは、自分だけなのだろうか。
司は、苦しい中にも、許してもらえるのではないかといった期待を込め、黒々と濡れたつくしの瞳を見つめた。しかし、女の瞳の淵は赤く染まり、溢れた涙は頬を濡らし、テーブルの上に小さな池を作っていた。
彼女がこんなにも涙を流す姿は初めて目にしたが、司が意識不明の重体となったとき、同じような状況でいたことを三条から聞かされていた。
その時の姿が今と同じなら、今目にしている彼女の姿を、そのまま網膜に焼き付けておかなければならないはずだ。それが、司が彼女を忘れ去ったことへの贖罪となるなら、一生この姿を覚えておく。
鍋の沸き立つ音だけが二人の間にあるが、つくしは、視線を反らし口を開いた。
「・・何度も同じ言葉を言えば、その通りになる。そんなことを言われた。思えば願いは必ず叶うからって・・言葉は口を出た途端、魂を持つって・・だから言霊って言葉があるのよって絵本作家の人に言われた。だから何度も繰り返した。道明寺があたしのことを思い出しますようにって。その言葉を聞いてから何度も繰り返して言葉に出した・・でもあんたは思い出してくれなかった」
ひと息に言い終えたつくしは、手にしていた箸をテーブルに投げ出し、立ち上がって流し台シンクの前に行き、司に背中を向けた。しかし何かを洗うわけでもなく、水を流す気配もない。司の目に映るのは、手に何かの箱を抱え、そこから紙を取り出している女の姿だ。
「・・何よ・・今更昔以上に愛してるなんて言わないでよ・・」
独り言を言う声が聞えた。
「今更で悪かった・・けど仕方ねぇだろ。俺はお前のことが好きなんだから」
いつの間にかつくしの傍には、ティッシュボックスを手にした男が立っていた。
「おい、そんなモンよりもこっちの方がいいだろ?なんかその紙は硬そうだ」
と言われ、つくしはキッチンペーパーを取り上げられ、ティシュを押し付けられた。
「それに言いたいことがあるなら言ってくれ。
俺はお前が17年間俺のことを思ってくれたことに感謝の言葉しかねぇけど、お前は俺に言いたいことが山のようにあるはずだ。だから吐き出したいことは吐き出してくれ。どんな言葉を言われたとしても、俺はお前の言葉は全て受け止める。否定なんか出来やしねぇ」
否定出来ないのは勿論だが、否定するつもりもない。どんな言葉でも甘んじて受けるつもりでいた。だがもし、死んで詫びろと言うならそれだけは勘弁して欲しいと言うつもりだが、それ以外のことならどんな事を言われてもいい。どんなことでもするつもりでいた。
司はティッシュを手に泣いている女の背中をゆっくりと撫でていたが、その手をそっと彼女の身体に回し、自分の方へ向けるとシャツの胸に抱きしめていた。
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そして、胸を濡らす温かい涙と嗚咽を感じていた。

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司×**OVE様
想いを吐き出したつくし。
やはり心に溜めておくと精神的に辛い状態が続くのが人間です。
記憶を失ったのは彼のせいではありませんが、やはり、どうしてなの?の気持ちが一番だったと思います。17年を一気に飛び越えることは出来ませんが、ゆっくりでいいと思います。それに雄一さんのことがありますからね。
映画ですが、アカシアもその後、記事を目にすることがあり、読みました。
恋に堕ちるのは自然の感情と書いてありましたが、そうです。知らないうちに堕ちている。
この二人もそうですからねぇ(笑)
映画館で長時間座るよりも、自宅のソファでまったりの方がいいですよね?
腰痛持ちアカシア、長時間映画館はやはり無理です(笑)
コメント有難うございました^^
想いを吐き出したつくし。
やはり心に溜めておくと精神的に辛い状態が続くのが人間です。
記憶を失ったのは彼のせいではありませんが、やはり、どうしてなの?の気持ちが一番だったと思います。17年を一気に飛び越えることは出来ませんが、ゆっくりでいいと思います。それに雄一さんのことがありますからね。
映画ですが、アカシアもその後、記事を目にすることがあり、読みました。
恋に堕ちるのは自然の感情と書いてありましたが、そうです。知らないうちに堕ちている。
この二人もそうですからねぇ(笑)
映画館で長時間座るよりも、自宅のソファでまったりの方がいいですよね?
腰痛持ちアカシア、長時間映画館はやはり無理です(笑)
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.10.12 21:12 | 編集

とん**コーン様
いい感じに吐き出したつくし。
台所のシンクの前で読む!
分かります。朝の忙しい時間、情報収集はいつもそのパターンです(笑)
コメント有難うございました^^
いい感じに吐き出したつくし。
台所のシンクの前で読む!
分かります。朝の忙しい時間、情報収集はいつもそのパターンです(笑)
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.10.12 21:13 | 編集

H*様
実際17年も自分を忘れた男にどんな態度を取ればいいのか。
かなり複雑なのが当たり前です。
しかし、つくし。一途な女性故か心の奥には司の存在があったようです。
拍手コメント有難うございました^^
実際17年も自分を忘れた男にどんな態度を取ればいいのか。
かなり複雑なのが当たり前です。
しかし、つくし。一途な女性故か心の奥には司の存在があったようです。
拍手コメント有難うございました^^
アカシア
2017.10.12 21:18 | 編集

さと**ん様
17年。本当に長いですよね。
司に腹を立てますが、忘れられない男だったんですね?
あの時の恋が忘れられなかった、目の前の男でなければ駄目だったということですね?
一途ですねぇ・・・。
そういった恋が出来る彼女が羨ましいような気がします。
コメント有難うございました^^
17年。本当に長いですよね。
司に腹を立てますが、忘れられない男だったんですね?
あの時の恋が忘れられなかった、目の前の男でなければ駄目だったということですね?
一途ですねぇ・・・。
そういった恋が出来る彼女が羨ましいような気がします。
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.10.12 21:25 | 編集
