2017
09.25

もうひとつの橋 9

司は金沢を訪れたことがなかった。
北陸という場所は東京から遠く離れており、今でこそ新幹線が開通し交通の便が良くなったと言えるが、以前なら航空機を使うことが一番に思い浮かぶような場所だ。
ましてやずっと海外で暮らしていた男が訪れる機会などあるはずもなく、街の名前は知っていたとしても、気に留めたこともない小さな地方都市のひとつに過ぎなかった。

今の司はその街を訪れることに何の迷いもない。
その街に彼がどうしても欲しいと望んだ女性が暮らしている。
だが長い間記憶の片隅にさえ存在しなかった女性だ。
そして、その女性に会うことに不安がないと言えば嘘になる。

記憶を失う前、掴み損ねた柔らかい小さな手があった。
もし、あの手を掴んでいれば、運命は変わっていたのだろうか。
あの手を掴んでいれば記憶を失うことは無かったのではないか。
ふと、そんなことが頭を過っていた。

今はあの日のことが鮮明に頭の中にある。
だがあの日のことを思い出せば、それと同時に腹の底が冷たくなる。それは彼女に対し冷たかった自分を想い出すからだ。取り返しのつかないことをした。思うのはただそのことだ。

リハビリを始めた男の元を、バイト帰り毎日のように訪れていた女を冷たく追い払い、他の女を招き入れるといったことを平気でしていた。
あの時、黒い瞳の奥に哀しみがあったはずだ。そんな目に見つめられ、どこか落ち着かない気持ちになったことがあった。なぜ、この女はそんな目で自分を見つめるのかと。
そしてそんな目で見つめられ苛立ちを感じていた。
いや、あの瞳に見られ感じたのは苛立ちだけではない。圧迫感といったものもあった。
誰かに無理矢理押さえつけられている。自分が望んだものはこんなものじゃない。そんな思いが何処かにあった。
あの時はそれが何であるのか分からずにいた。
だが今ならそれが何であったのか分かっていた。

彼女の瞳に映る自分の姿を見るのが嫌だったのだ。
何故、そう感じたのか。
それは、彼女のことを思い出さなかったとしても、心の奥深い場所にあったはずの彼女に対しての想いがそう感じさせたということだ。
潜在意識、つまり無意識の意識といったものがそうさせたと今なら理解することが出来た。
心の奥深くにあったはずの彼女の記憶。
それが、司に理解し難い苛立ちを感じさせていた。


総二郎と会ったあの日、この街で西門流の弟子を集めて講演会があると言われ、迷うことなく同行を決めた。それは、どんなチャンスも無駄にしたくないといった思いがそうさせた。

彼女の職場を調べ、水面下で手を回した。
講演会での参加人数は決められたものがあったが、総二郎は新たに二人分の席を用意し、人脈を使い、彼女の会社の同僚から篠田つくしを誘うように仕向けた。
それは、茶道を広めるため、今まで茶道に関心のなかった人間に興味を持たせたいといった趣旨を伝え、地元の人間ではないことを条件に出し、支店の中から誰かを連れてくるようにと指示を出した。
その結果、金沢支店の中で地元出身者以外と言えば、東京出身の篠田つくししかおらず、自ずと彼女が選ばれた。

そして、この場所に現れたのが、篠田つくしとなった牧野つくしだ。
だが、彼女が本当に来るのかといった思いもあり、もし、来なければまた別の手段を講じるつもりでいた。










「牧野・・・」


司の視界の中央で、背中を向けている女性がびくりと動いた。
だが直ぐに振り向くことはなかった。

司は息を詰め彼女の背中を見続けた。だがやはり振り返えろうとはしない。
会いたくないのか。顔も見たくないのか。
その両方だとしても何も言えなかった。

記憶の中に存在しなかった女性だが、その後ろ姿には覚えがある。
それは彼女を罵倒し、蔑み、二度と来るなと追い払った日。
司の元を去ったのと同じ後ろ姿があった。

あの日、立ち去った彼女は決して後ろを振り返ることはなかった。


そのとき、視線の先にいる女性が振り返った。
記憶を取り戻した司が17年振りに会う女性。
白い頬には薄っすらと化粧が施されているが、あの当時と同じ張りがあり、柔らかさが感じられた。そして黒々とした大きな瞳は、あの頃のままの輝きを放っていた。
だが、今ここにいるのは、あの時から17年という歳月を重ねた女性。
ひたすら可愛らしさを感じていた少女とはまた別の彼女がそこにいた。

人間も30を過ぎれば、誰もが生活の波に揉まれているはずだが、そんなことを感じさせないのは童顔と言われる彼女の顔がそう思わせるのか。
そしてそこに感じられるのは、驚いたというよりも戸惑ったような表情。そしてその顔が微かに揺れた。
それは、名刺が送られて来てからいつか本人が自分の前に現れることを彼女自身も分っていた。そんな表情が見て取れた。


二人がいる部屋から望む外の景色は、好天に恵まれた金沢の青い空が広がっており、晴れ渡った午後の明るい陽射しが感じられるが、長い庇(ひさし)のお陰で、その陽射しは部屋の中まで入り込むことはない。
司は沢山の敷かれた座布団を避けながら部屋の入口から中へと足を踏み入れた。

この再会を彼女はどう考えているのか。
記憶を取り戻してから、ずっと心のざわめきを感じていた。
彼女に会いたくて。彼女の今を知りたくて。
だが二人の間には長い年月が経過し、彼女は結婚し、牧野つくしではなくなっていた。

今の彼女の名前は篠田つくしであり夫の雄一という男は、東京でのサラリーマン生活を経て、兄が所長を務める篠田特許事務所で弁理士として働いている。そして病を抱えていた。
その病が癌であることまでは分かったが、どの程度なのか。報告書にはそこまで書かれてはいなかった。

そして添えられていた写真を見た。その写真の男が牧野つくしの惚れた男。
そう認識したとき、あれから17年経ったということが避けようのない事実であり、受け止めなければならない現実として司の前にあった。

写真の男は、背が高く細かった。
それは病気のため痩せてしまったのか。それとも元々がそういった体型だったのか。
そしてその写真に添えられたもう一枚の写真。
司の目は、その写真に吸い寄せられ暫く離れなかった。

写真は全てを伝えることはないと分かっていても、写真の中の彼女は、かつて彼に向けられた笑顔と同じような微笑みを浮かべていた。
そしてその視線の先にいたのは誰か。
何を見て笑っていたのか。
そのことを考えたとき、それまで心が傷つくことなどないと思っていた男の心に、無かったはずの薄い皮膜のようなものができ、その膜が破れ、心の中からゆっくりと流れていく何かがあった。


好きで彼女のことを忘れたわけではない。
望んで忘れたわけではない。
だが、忘れてしまった方が悪いと言われればそれまでだ。



司は動かないつくしの少し手前で立ち止まった。
何故なら、それ以上近づけば、彼女が逃げてしまうのではないかと感じていた。
そして目の前に立つ女性は司を真っ直ぐ見つめていた。
かつて彼が好きになったその黒い瞳は、あの頃と変わらぬ色を持っていた。
黒い瞳にどんな色があるのかと聞かれれば、それは清らかな黒。澄んだ黒。司の目にはいつもそう見えていた。

そんな瞳に見つめられ何と声をかければいいのか。ついさっきその背中に向かって言葉を投げかけることは出来たが、いざ正面に立ち、目をそらすことなく、揺るぎのない瞳で見つめられ、言葉を探してしまったのは、後ろめたさがあるからなのか。
そんな司に彼女も黙ったまま何も言わなかった。
司はそれでも口を開いた。

「・・・牧野・・久し振りだな」

久し振りだと言ったが、それは素直に懐かしがるといった感情ではない複雑な感情が含まれている。そんな思いを抱え思わず掠れそうになる声をなんとか堪えた。
そして言葉を継ごうとした。
だが司が口を開く前につくしが口を開いた。

「・・・道明寺・・あたし今は牧野つくしじゃない。2年前結婚したの」

目線はしっかりとしてぶれることない。
その瞳に吸い寄せられそうになる。
こういった再会に困る方はどちらなのか。
かつて愛した人を忘れ去った男なのか。
それとも忘れ去られた女の方なのか。

「・・ああ。そうらしいな・・」

再び口を開いたが、それ以上言葉が出なかった。









記憶の中にいた少女は大人になり、司のどこか緊張を含んだ声よりも、遥かに余裕を感じさせる静な声で話しをする。
そして、耳に届いた「結婚したの」の言葉が思いのほか心にもたれ、避けることの出来ない事実として司の前に置かれていた。





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コメント
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dot 2017.09.25 08:52 | 編集
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dot 2017.09.25 18:13 | 編集
司×**OVE様
おはようございます^^
水面下で画策した司と総二郎(笑)
本当に持つべきものは友ですね。舞台は用意したから後は頑張れよですね?
しかし、つくし結婚してますから簡単にはいかないでしょうねぇ・・・
誰が悪いわけでもない記憶喪失。これもまた不運ですよね。
しかし二人とも現実を見つめているはずです。
司も大人ですから、感情的になることはないでしょう(笑)

バブリーダンス(笑)中毒性がありますよねぇ(笑)
高校生(笑)まさか自分達の親世代があんな時代を生きていたとは、驚くでしょうねぇ(笑)
そして、あの動画で踊っている学生さん。皆さんがノラさんに見えます(笑)
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.09.26 00:04 | 編集
pi**mix様
寝落ち大丈夫です!(笑)
御曹司坊ちゃん。50妄想を超え、タイムマシーンも手に入れた(≧▽≦)
本当ですね!バブル時代の坊ちゃんになってしまいました(笑)
本当にあの坊ちゃん世間にはクールで出来る支社長で通っているのか疑問ですね?

そしてまだAアラートが鳴っていますか?(笑)
司に言わせると、「言葉は置くもんじゃねぇ」←(笑)確かにそう言われるかもしれませんね?
でもこの司。大人ですから大丈夫です。そして彼の心理状態として、「結婚したの」の言葉が大きく感じられたようです。
動かすことの出来ない事実として、それは彼の前にあるようです。
勿論読み方は主観でお読みいただければと思います^^
愛、伝わっていますからね!
コメント有難うございます^^
アカシアdot 2017.09.26 00:21 | 編集
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