つくしが金沢に暮らすようになったのは5年前。
きっかけは、この街に暮らす絵本作家の担当になったからだ。
奨学金を使い大学を卒業したつくしは、小さな出版社を就職先に選んだ。
何故その出版社を就職先に選んだか。
それは本屋で偶然手に取った一冊の絵本に惹かれたからだ。
絵本と言えば、どうしても子供が読む物と思ってしまうが、その絵本は子供が読むというよりも、大人が読むに値する内容が書かれていた。
しかし絵本は絵が主流であって、書かれた文章は短文な物が多く、大人が読めば1~2分もあれば簡単に読み終えてしまう。
だが、その絵本を読み終わったとき、胸に残るなんとも言えない温かさを感じ、再びその絵本の表紙を開いてしまっていた。
書かれているのは、命の大切さについてだったが、絵本を見て目頭が熱くなる。
そんな経験を今までしたことがなかったつくしは、絵本編集の仕事に就きたいと思った。
そして願いが叶い、入社して3年後、ひとりの女性絵本作家の担当を任されたが、その女性作家が金沢在住であり、そんなことから月に一度は金沢へ足を運んでいた。
その女性絵本作家は作も絵も両方を自分ひとりで描いていたが、それは大変な苦労があった。だがその作家は4年前、65歳で亡くなった。
それは丁度つくしが30歳の誕生日を迎えた翌日。
年の瀬の粉雪が舞う寒い日の朝だった。
癌だったが、宣告され、余命一年と言われたとき、つくしは身寄りの無いその女性の世話をしたいと、女性が亡くなる1年前、29歳の時この街へ住まいを移していた。
そして、その女性が亡くなった後、東京の出版社は退職し、この街で新しい就職先を見つけそのまま暮らしていた。
女性作家は最期を看取ってくれたつくしに絵を残してくれた。
それはキャンバスに描かれた油絵。
金沢の風景が描かれているものが数点。そしてつくしの肖像画だった。
風景絵画のひとつに、金沢の街を流れる川が描かれていたものがあった。
金沢という街には犀川と浅野川という二つの川が流れている。
犀川には「男川」浅野川には「女川」といった別名があるが、犀川は、水の量が豊かで勢いがあることから男川と呼ばれ、浅野川は、歩いて渡れそうなほど水の流れがゆっくりとしていることから女川と呼ばれ金沢市民に親しまれていた。
女性作家が残してくれた川の絵は、「女川」と呼ばれる浅野川の風景だった。
浅野川は、金沢を代表する伝統工芸品である加賀友禅を作る過程で行われる糊を洗い流す作業を行ってきた川だ。だが今ではその川で糊を流す友禅流しをする染色店は少ない。それでも、加賀友禅を制作するうえで欠かせない浅野川の清流。
その清流に感謝し、また加賀友禅に携わって来た故人を供養するため、毎年行われる加賀友禅燈ろう流しは一見の価値がある。
つくしはそんな浅野川の河畔を歩くのが好きだ。
特に大正時代に架けられ、国の登録有形文化財に指定されたアーチ橋である浅野川大橋の姿を眺め、その向うにある、ひがし茶屋街と呼ばれる金沢らしい地区があるが、移り住んだ頃から度々訪れていた。
東京で生まれ育ったつくしにとって、街の中を大きな川がゆったりと流れる姿は、憧憬を感じさせ、今まで嗅いだこともなかった川面を渡る風の匂いに、移り行く季節を肌で感じながら、何故か懐かしさを感じていた。それは、恐らくまだ幼かった頃、両親に連れられ父方の祖父母のいる田舎を訪ねたとき感じた懐かしさだと思っていた。
祖父母の住んでいたのは、小さな地方都市であり、街中を大きな川が流れ、遠くに山を眺めることができた。
そして、郊外には田んぼが広がり、カエルが鳴いていたと記憶していた。
既に他界してしまった祖父母は、つくし達が東京へ戻るとき、「またおいで」と言ってくれたが、交通費が掛かることもあり、そう何度も訪れることは無かったが、その街の匂いと金沢の街の匂いがどこか似ていると感じていた。
そして今まさに感じているのは、そんな匂いだ。
つくしはバスを降り、夕暮れ時が始まった街を歩きながら考えていた。
桜子から電話を受けたが、彼がNYから帰国したことが信じられなかったが、一時帰国だと思っていただけに、偶然手にした週刊誌に、道明寺司が生活の拠点を日本に移すと書かれた記事に悪い冗談のような気がしていた。
そして、あのとき桜子の口から語られた「道明寺さんの記憶は戻ってます」の言葉が頭の中でずっと回っていた。
つくしは自分に言い聞かせた。
記憶が戻ったからといって、どうしろというのか。
もう関係ないはずだ。二人はあの時別れた。記憶が戻ったからと会いに来られても困るが、携帯電話の番号を知ったところで電話を掛けることなどない。
あの日、つくしに向けられた切れ長の目の中に、激しい感情を見たが、その感情のうねりに愛情が感じられることはなく、憎しみが感じられた。そして眼元に浮かんだのは皮肉をこめた笑いだった。
あの時、どれくらい悲しんだか。
今はもう覚えて無かった。
いや、思い出すことはしなくなったといった方が正しいのかもしれない。
「 Time cures all things 」
時が全てを癒してくれる。
時薬(ときぐすり)、日にち薬といった言葉があるが、そうなのかもしれなかった。
過ぎてしまった想い出。今ならそう言える。
東京の記憶は東京に置いておくことがいいはずだ。
自宅マンションはバス停から歩いて15分の場所にある。
こうして考え事をするには、ちょうどいい距離と時間だと思う。
今日は帰りにスーパーに寄る必要はない。昨日のうちにカレーを作り置きしているからだ。
とは言え、サラダくらいは作ろうと思う。その為の材料が冷蔵庫にあることも確認済だ。
玄関の鍵を開け、靴を脱ぐと、廊下の先にある部屋に急いだ。
そこはリビングダイニングルームだ。
手にした鞄を置き、カウンターで仕切られたキッチンへゆくと、壁のフックに掛けてあるエプロンを身に付けた。
そして、ソファに座る人物に声をかけた。
「ごめんね、少し遅くなっちゃった」

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きっかけは、この街に暮らす絵本作家の担当になったからだ。
奨学金を使い大学を卒業したつくしは、小さな出版社を就職先に選んだ。
何故その出版社を就職先に選んだか。
それは本屋で偶然手に取った一冊の絵本に惹かれたからだ。
絵本と言えば、どうしても子供が読む物と思ってしまうが、その絵本は子供が読むというよりも、大人が読むに値する内容が書かれていた。
しかし絵本は絵が主流であって、書かれた文章は短文な物が多く、大人が読めば1~2分もあれば簡単に読み終えてしまう。
だが、その絵本を読み終わったとき、胸に残るなんとも言えない温かさを感じ、再びその絵本の表紙を開いてしまっていた。
書かれているのは、命の大切さについてだったが、絵本を見て目頭が熱くなる。
そんな経験を今までしたことがなかったつくしは、絵本編集の仕事に就きたいと思った。
そして願いが叶い、入社して3年後、ひとりの女性絵本作家の担当を任されたが、その女性作家が金沢在住であり、そんなことから月に一度は金沢へ足を運んでいた。
その女性絵本作家は作も絵も両方を自分ひとりで描いていたが、それは大変な苦労があった。だがその作家は4年前、65歳で亡くなった。
それは丁度つくしが30歳の誕生日を迎えた翌日。
年の瀬の粉雪が舞う寒い日の朝だった。
癌だったが、宣告され、余命一年と言われたとき、つくしは身寄りの無いその女性の世話をしたいと、女性が亡くなる1年前、29歳の時この街へ住まいを移していた。
そして、その女性が亡くなった後、東京の出版社は退職し、この街で新しい就職先を見つけそのまま暮らしていた。
女性作家は最期を看取ってくれたつくしに絵を残してくれた。
それはキャンバスに描かれた油絵。
金沢の風景が描かれているものが数点。そしてつくしの肖像画だった。
風景絵画のひとつに、金沢の街を流れる川が描かれていたものがあった。
金沢という街には犀川と浅野川という二つの川が流れている。
犀川には「男川」浅野川には「女川」といった別名があるが、犀川は、水の量が豊かで勢いがあることから男川と呼ばれ、浅野川は、歩いて渡れそうなほど水の流れがゆっくりとしていることから女川と呼ばれ金沢市民に親しまれていた。
女性作家が残してくれた川の絵は、「女川」と呼ばれる浅野川の風景だった。
浅野川は、金沢を代表する伝統工芸品である加賀友禅を作る過程で行われる糊を洗い流す作業を行ってきた川だ。だが今ではその川で糊を流す友禅流しをする染色店は少ない。それでも、加賀友禅を制作するうえで欠かせない浅野川の清流。
その清流に感謝し、また加賀友禅に携わって来た故人を供養するため、毎年行われる加賀友禅燈ろう流しは一見の価値がある。
つくしはそんな浅野川の河畔を歩くのが好きだ。
特に大正時代に架けられ、国の登録有形文化財に指定されたアーチ橋である浅野川大橋の姿を眺め、その向うにある、ひがし茶屋街と呼ばれる金沢らしい地区があるが、移り住んだ頃から度々訪れていた。
東京で生まれ育ったつくしにとって、街の中を大きな川がゆったりと流れる姿は、憧憬を感じさせ、今まで嗅いだこともなかった川面を渡る風の匂いに、移り行く季節を肌で感じながら、何故か懐かしさを感じていた。それは、恐らくまだ幼かった頃、両親に連れられ父方の祖父母のいる田舎を訪ねたとき感じた懐かしさだと思っていた。
祖父母の住んでいたのは、小さな地方都市であり、街中を大きな川が流れ、遠くに山を眺めることができた。
そして、郊外には田んぼが広がり、カエルが鳴いていたと記憶していた。
既に他界してしまった祖父母は、つくし達が東京へ戻るとき、「またおいで」と言ってくれたが、交通費が掛かることもあり、そう何度も訪れることは無かったが、その街の匂いと金沢の街の匂いがどこか似ていると感じていた。
そして今まさに感じているのは、そんな匂いだ。
つくしはバスを降り、夕暮れ時が始まった街を歩きながら考えていた。
桜子から電話を受けたが、彼がNYから帰国したことが信じられなかったが、一時帰国だと思っていただけに、偶然手にした週刊誌に、道明寺司が生活の拠点を日本に移すと書かれた記事に悪い冗談のような気がしていた。
そして、あのとき桜子の口から語られた「道明寺さんの記憶は戻ってます」の言葉が頭の中でずっと回っていた。
つくしは自分に言い聞かせた。
記憶が戻ったからといって、どうしろというのか。
もう関係ないはずだ。二人はあの時別れた。記憶が戻ったからと会いに来られても困るが、携帯電話の番号を知ったところで電話を掛けることなどない。
あの日、つくしに向けられた切れ長の目の中に、激しい感情を見たが、その感情のうねりに愛情が感じられることはなく、憎しみが感じられた。そして眼元に浮かんだのは皮肉をこめた笑いだった。
あの時、どれくらい悲しんだか。
今はもう覚えて無かった。
いや、思い出すことはしなくなったといった方が正しいのかもしれない。
「 Time cures all things 」
時が全てを癒してくれる。
時薬(ときぐすり)、日にち薬といった言葉があるが、そうなのかもしれなかった。
過ぎてしまった想い出。今ならそう言える。
東京の記憶は東京に置いておくことがいいはずだ。
自宅マンションはバス停から歩いて15分の場所にある。
こうして考え事をするには、ちょうどいい距離と時間だと思う。
今日は帰りにスーパーに寄る必要はない。昨日のうちにカレーを作り置きしているからだ。
とは言え、サラダくらいは作ろうと思う。その為の材料が冷蔵庫にあることも確認済だ。
玄関の鍵を開け、靴を脱ぐと、廊下の先にある部屋に急いだ。
そこはリビングダイニングルームだ。
手にした鞄を置き、カウンターで仕切られたキッチンへゆくと、壁のフックに掛けてあるエプロンを身に付けた。
そして、ソファに座る人物に声をかけた。
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Comment:6
コメント
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司×**OVE様
おはようございます^^
金沢本当に情緒溢れるいい街ですねぇ。
そんな街で暮らすつくし。
桜子から聞かされていた司の記憶が戻っているの言葉。
大人になった彼女の胸の内は複雑ですねぇ。
さて、大人の二人のこれからは、どうなるのか。
つくし、電話をするのか、しないのか。
そして、最後に登場した人物は・・。
そうです。17年も経ってます。それだけの時間が経てば人生も変わっている。
そう考えて頂ければと思います。
コメント有難うございます^^
おはようございます^^
金沢本当に情緒溢れるいい街ですねぇ。
そんな街で暮らすつくし。
桜子から聞かされていた司の記憶が戻っているの言葉。
大人になった彼女の胸の内は複雑ですねぇ。
さて、大人の二人のこれからは、どうなるのか。
つくし、電話をするのか、しないのか。
そして、最後に登場した人物は・・。
そうです。17年も経ってます。それだけの時間が経てば人生も変わっている。
そう考えて頂ければと思います。
コメント有難うございます^^
アカシア
2017.09.19 21:48 | 編集

H*様
最後に登場した人物はいったい誰?
司がつくしを忘れ去ってから二人の人生は色々あったと思います。
そして、時は確実に流れていますので、見届けて頂ければと思います。
拍手コメント有難うございました^^
最後に登場した人物はいったい誰?
司がつくしを忘れ去ってから二人の人生は色々あったと思います。
そして、時は確実に流れていますので、見届けて頂ければと思います。
拍手コメント有難うございました^^
アカシア
2017.09.19 21:55 | 編集

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pi**mix様
こんばんは^^
伏線を探している・・
そんなところにAアラート!←上手い(≧▽≦)
す、すみません・・。
こちらのお話、大人仕様ですので、色々とあります。
当時子供だった二人が見失ってしまった恋の行方探しです。
そして、桜子から送られた名刺によって司への距離が近くなる・・と思っていたら、誰かが・・・。
Aアラートが鳴っている。
明日はそのアラートはどうなっているのか・・。
コメント有難うございました^^
こんばんは^^
伏線を探している・・
そんなところにAアラート!←上手い(≧▽≦)
す、すみません・・。
こちらのお話、大人仕様ですので、色々とあります。
当時子供だった二人が見失ってしまった恋の行方探しです。
そして、桜子から送られた名刺によって司への距離が近くなる・・と思っていたら、誰かが・・・。
Aアラートが鳴っている。
明日はそのアラートはどうなっているのか・・。
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.09.19 23:18 | 編集

ゆ*様
はじめまして^^
そうですねぇ。つくしは、自分を忘れ去った人の名刺と携帯電話の番号に今更何を・・といった思いがあります。
司は原作のキャラで行けば、非情に執念深い性格(笑)いえ、愛情が深い男なんでしょうね。記憶を取り戻した途端、一番に思い浮かんだのは、彼女に会いたいといった思い。
しかし17年といった年月が流れました。
彼の知らないこともあるでしょうね・・・。
大人の二人は今後どうなるのか、といったところです^^
拍手コメント有難うございました^^
はじめまして^^
そうですねぇ。つくしは、自分を忘れ去った人の名刺と携帯電話の番号に今更何を・・といった思いがあります。
司は原作のキャラで行けば、非情に執念深い性格(笑)いえ、愛情が深い男なんでしょうね。記憶を取り戻した途端、一番に思い浮かんだのは、彼女に会いたいといった思い。
しかし17年といった年月が流れました。
彼の知らないこともあるでしょうね・・・。
大人の二人は今後どうなるのか、といったところです^^
拍手コメント有難うございました^^
アカシア
2017.09.19 23:36 | 編集
