2017
09.16

もうひとつの橋 2

スイス製高級ライターが灯した炎は、煙草の先に火をつけるとすぐに消された。
そして、口から吐き出された白い煙はゆっくりと上へと昇っていった。
だがその煙草は、直ぐに灰皿の上でくの字に折れ曲がり、紙を捲る乾いた音だけが執務室に聞こえていた。

道明寺司。道明寺HDの副社長であり、道明寺財閥の後継者。
彼は手元の書類に目を通していた。

初対面の人間に対し、冷たい印象を与えると言われる切れ長の瞳。
だがその瞳は、言い換えれば涼しげな眼元といった言い方も出来るはずだ。
そして、今その瞳が追うのは、日本企業が8年ぶりにアメリカを逆転したと言われる総資産利益率のグラフだ。

総資産とは、企業が持つ借入金も含め、工場や店舗、現金などの全財産のことだが、道明寺HDは、財務テクニックを駆使することよりも、不要な分野からの撤退や事業売却を進め、成長分野に集中投資した結果、利益率が上がっていた。

それを成し遂げたのは、25歳で専務取締役となり、30歳で副社長の座に着いた司だ。


そして35歳の今、ひとりの女性を探していた。



その女性は彼を暗闇から連れ出したくれた女性。
彼の周りにあった漆黒の闇を取り払ってくれた人。
彼の初恋の女性だ。彼女の名前は牧野つくし。
司は彼女との大切な想い出を記憶の中で反芻していた。
それはまさに追憶にふけっていると言っても過言ではない。

何故なら、司の記憶には、彼女の存在は高校生の時から止まったままだからだ。

あるひとつのことだけを忘れてしまった男。

それは、記憶を失う前に一番拘り、執着していたことだけを完全に忘れ去っていた。

司は暴漢に刺され、瀕死の重傷を負い、以来過去の記憶の一部を失ってしまう所謂特殊な記憶喪失と呼ばれる症状に陥っていた。そしてその症状を抱えたままNYへと住まいを移していた。


そんな司に周りの人間は、思い出せと言ったが、思い出すことはなく、苛立ちばかりを募らせていた頃があった。その苛立ちの原因はいったい何なのか。
日を追うごとに募るその感情に、頭の中にどろどろとした澱(おり)が溜まる一方であり、晴れることはなかった。

だが財閥後継者として名声を馳せ、ビジネス取引を子供の頃の喧嘩と引き換えに楽しむようになれば、味も香りもない勝利であっても、それを勝ち取る楽しさを覚えた。
やがて、どんな勝負にも勝つことが求められるビジネスの世界に於いて、勝ち取る勝利が多ければ多いほど高揚感が高まり、この世界で生きて行くことが悪いとは思わなくなっていた。

だが、結婚だけはどうしてもする気になれなかった。
どんなに美しいと言われる女を抱いても満たされることはなく、何かが足りなかった。
欲しい物は全て手に入れることが出来る地位にいたが、手に取るものは求めるものではない。いつもそう感じていた。


だがそんなある日、突然記憶が戻った。
NYの執務室。椅子の向きを変え、窓の外に見える赤く染まった夕陽を眺めていたとき、高校生だった彼女が現れた。

次第に明晰になり、頭の中に甦る牧野つくしの存在。
姿が瞼に浮かび、声が確実に甦り耳に聞こえていた。
時は着実に流れているが、頭の中に現れたのは、高校生の頃の彼女の姿。
忘却していたいくつもの出来事が、一度に頭の中に甦り、視線は窓の外を眺めているも、抜け殻のように中空を彷徨っていた。
あのとき、椅子に座っていなければ、倒れていたはずだ。
そして目の前に見える夕陽に押し潰されそうになっていた。

ある日突然、天から贈られた記憶の欠片。
やがて、記憶の中にある少女の顔が涙で歪んで見え、後悔などといった生易しいもので片づけられるようなものではない感情が湧き上がっていた。

そして、それから1時間以上、秘書の入室も許さず電話も取り次がせなかった。




そんな司が帰国し、三条桜子が銀座で経営する小さなバーを初めて訪れた。
彼女が店をオープンしたのが丁度5年前、6坪ほどの小さな店だが評判がいいと言われていた。

それは三条の客に対する態度が、次から次へと客を呼び込むからだ。
決して一見さんお断りといった店ではないが、ああいった店は、人の繋がりから顧客が増えていく。

誰かが連れて来た客が、また別の客を呼び、口コミで広がる客の輪。
それが企業経営者や文化人といった上質な客といったレベルになれば、その店の格も上がって来る。
そうなるとそこは、所謂紳士の隠れ家的存在の店となり、常連だけが訪れるような店になる。
三条の店はそういった店だ。

それに三条には、どこか品があった。
元々旧華族といった由緒ある家に生まれた彼女は、その生まれが訪れる客からすれば魅力的でもあるが、華がある。

そして今でこそバーのママといった立場だが、その店も元々親族の女性が経営していたバーを引き継ぎ始めた道楽のようなものだ。今の彼女はバーの他にもアロマオイルを販売する小さな店のオーナーでもあった。

そんな三条は大学も出ており、芸能、スポーツそして政治経済の分野まで幅広い知識を持っており、客との話も弾んでいた。そのためには、もちろん自分の知識を増やすことも必要だが、彼女はそれを見事にやってのけていた。

そして、相手の話したいことを黙って聞くといったことも得意だった。
彼女は鋭い観察眼といったものも持ち合わせており、黙る時は黙り、相手が欲しいと思う答えを返すことが出来た。

だが遠い昔、司にとって三条桜子は嫌な女だった。
両親亡きあと、彼らが残した資産で祖母に育てられた少女は、猫を被るのが得意で、人を騙すのが得意だと言われていた。そして、自分の存在を無視し、自尊心を傷つけた司に復讐することを目的に、彼が好きだった少女へ近づき、彼女を罠に嵌め、貶めようとしたことがあった。
だがそんな三条は、自分が貶めた少女に助けられたことにより、彼女の親友となり、それからはどんなことがあろうと、彼女の傍で彼女を支え続けたと言われていた。

そして、司が牧野つくしの記憶を失い、牧野つくしの存在を跳ね除けていた頃、それでも執拗に彼女のことを伝えて来たのが三条だった。

三条だけが、何年も牧野つくしのことを彼に伝えて来ていた。


そんな三条だからこそ、彼女の、牧野つくしの居場所を知っているはずだ。
そう思った司は三条桜子の店を訪れていた。
だが三条の口は堅かった。

司が理解に及ばない相手と言う人間も稀にいるが、その一人が三条桜子だ。
三条は、ほほ笑みを浮かべることが商売だが、その瞳は笑ってはいなかった。
だが女に直感があるなら、男にも直感といったものがある。
特に司は、牧野つくしに対しての感だけは特出したものがあった。
それにどれだけ三条が隠そうとしても、心の微妙な乱れといったものを感じることが出来た。

今では、あの頃の、遠い昔のわだかまりはない。
それは、三条を牧野つくしの友人と認めているからだ。
そうでなければ、女を一人相手にするほど簡単なことはない。
ただ店を潰してやるとでも言えばいい。だが牧野つくしの友人相手に言う言葉ではない。
だから名刺を渡した。
この名刺を彼女に渡して欲しいと。
そして連絡をくれるようにと。


名刺に書かれた11桁の番号。


だがその番号が鳴ることはなかった。





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コメント
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dot 2017.09.16 06:03 | 編集
司×**OVE様
おはようございます^^
そうなんです。司、記憶喪失でした(笑)
記憶を失っていても、結婚だけはしなかった。
そして、これからつくしを探し、会いに行くようです。

ご不便をおかけしましたが、パスワード、元に戻りました。
「欲望図鑑」自分で読んで、よくもまあ、こんなお話を書いたものだと我ながら思いました(笑)
坊ちゃんのイメージ、崩れますよね?(笑)

台風が日本列島縦断ですね?
大荒れの天気間違いないのですが、今年は災害が多い年ですので、これ以上被害がないことを祈ります。
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.09.16 22:19 | 編集
H*様
おはようございます^^
今の桜子は、こんな感じで生活をしていました。
スッキリして頂け良かったです。
拍手コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.09.16 22:24 | 編集
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