待ち合わせの場所がメープルのコーヒーラウンジなのは、この場所で初めて相手と顔を合わせたからだ。それは今からちょうど3ヶ月前の話。それから3度食事をした。
約束の時間には少し早かったが、相手の男性は既に席についており、つくしに気付くと立ち上がって彼女が傍に来るのを待っていた。
大手の建設会社で働く2歳年上の建築設計士の男性は、つくしがテーブルを挟んだ向かい側の席に座ると、コーヒーでいいですか?と聞き、軽く片手を上げ、ウェイターに合図を送った。
男性は、やはり仕事帰りといった服装でスーツを着ていたが、やはり制服と呼んでいる仕事用スーツを着たつくしと一緒にいれば、まるでビジネスの延長線上、仕事の打ち合わせのように見えるはずだ。そしてそれは、どう見ても親しい間柄の男女の姿にはほど遠い雰囲気だ。
そして、運ばれてきたコーヒーを口元へ運び、それからつくしを見た。
「牧野さん。お帰りなさい。NYはいかがでした?お友達にお会いになるとおっしゃていましたが楽しんで来られましたか?」
穏やかな声で話しかけて来る男性の関心は今、つくしだけに向けられていた。
そして返事を待っている。それだけのため、今日ここへ来たのだということが感じられた。
悪い人ではない。つくしの年齢の女性たちから言えば十分及第点を越えていた。
学歴、職業、年収、家族構成そして容姿。どれを取っても問題はないはずだ。
だがこの男性は今まで結婚したいと思ったことはなかったと言う。それが何故かこの年になり、急に結婚したくなったというのだから、何か心境の変化があったとしか言えないはずだ。
だが、その変化について聞かなかった。もし聞いたとすれば、つくしに対しても同じ質問が繰り返されるからだ。しかしつくしは、その質問に答えることは出来なかったはずだ。
誰か傍にいて欲しかったといった言葉でも言えればいいのだが、叔母から見合いの話を持ち込まれ、ただなんとなく受けた状態だったのだから、理由などなかった。
だがもしつくしがNYへ滋に会いに行かなければ、目の前の男性と結婚していたかもしれない。
それは見合いというシステムから言えば、すでに3回も会っており、相手の男性に対し好きだという思いを抱かなくても、叔母に言わせれば、見合いなんてそんなものよ。結婚してから愛が芽生えることだってあるわ。それに、つくしの年齢から言えば、愛だの恋だのより、将来ひとりでいることを考えれば、誰か傍にいてくれる人がいるに越したことはないのよ?ひとりの老後は淋しいのよ?おひとり様だなんて言葉があるけど、誰も好きでひとりでいる人間はいなんだからね?つくしはまだ恵まれている方よ、こんないい人とお見合い出来たなんて。人によっては老いた親の面倒を見させる為の介護要員が欲しいから結婚したいだなんて男性もいるんだからね?いい、つくし。つくしがあの人と結婚してくれれば、千恵子姉さんも安心してくれるはずよ?
と、いうことになり、叔母から言わせれば、好条件であり、纏まりかけたこの見合い話を破談にしようとするつくしの気持ちが理解出来ないはずだ。
そして、どんな言葉で断ろうかと考えていたが、一向に纏まらず、一番初めに思い付いた言葉は気持的にしっくりこないだっただけに、その言葉で断ろうとしていたが、やはり言葉として足らないような気がしていた。
「あの、坂本さん」
「はい」
「あの_」
つくしは、結局この期に及んでも、まだなんと言えばいいかと言葉を探していた。
やはり滋に言われた通り、単刀直入に言うべきなのだろうか。
「つくしさんはNYでどちらへ行かれましたか?」
「えっ?どちらへ…ですか?」
「ええ。NYで観光されたんですよね?」
どちらへ行かれたか。と問われても実はどこへも行ってはいない。
5番街を歩いているとき、司に車へ押し込まれ、それからカリブ海へ向かったのだ。
だがそんなことが言えるはずもなく、以前訪れたとき行った場所を思い出していた。
「メトロポリタン美術館とエンパイアステートビル、…自由の女神それから…ミュージカルを見ました。それから他にも色々…」
真面目に思い出しながら答えたが、その記憶は大学生の頃の話でどれも司と二人で出かけたものだ。
「ミュージカルですか。僕も演劇は好きですよ。それでつくしさんはどんなミュージカルをご覧になられたんですか?」
「えーっと…」
しまった。
つい最近見たばかりだと言うのにタイトルを忘れている方がおかしい。
だが見ていないのだから今何を上演しているかなんて知らなかった。
遠い昔、司と見たのは“キャッツ”だったが今でも上演しているのか分からない。
つくしはNYで見たミュージカルの看板を必死に思い出そうとしていた。
「お、“オペラ座の怪人”です!オペラ座の怪人を見たんです!」
「そうですか。楽しかったですか?」
「はい。とても!」
向うで読んだ雑誌にオペラ座の怪人についての記事が載っていたのを思い出した。
「いい席が取れましたか?」
「えっ?…ええ。友人が用意してくれた席で…中央の席でとてもいい席でした」
「そうですか。それはとてもラッキーでしたね?…ところでどの場面が印象的でしたか?」
「えっ?ええっと…」
見ていないのだから印象も何もない。
それに適当にはぐらかそうとしたが、まさか坂本が演劇を好きだとは知らなかった。
つくしはあの時読んだ雑誌の記事を思い出そうとした。だが、思い出せそうにない。
何しろあの記事は、セントクロイ島の司の別荘で何気なく捲っていた雑誌に載っていた記事であり、絢爛豪華な美術セットの写真に目が奪われただけで、ぼんやりと眺めていたようなものだった。
ただ、オペラ座の怪人は有名な作品であり、世界中で上演されている話しだけに、なんとなく知ってはいるが詳しくは知らない。何しろ今まで見たミュージカルと言えば、司と一緒に見たキャッツだけなのだから。こうなったら話しを合わせるしかない。
「僕はやはりシャンデリアが落ちてくるシーンでしょうか。あの場面は有名ですから」
「あ、私もあのシーンは印象的でした。事故にならなくてよかったですよね?どうして落ちて来たんでしょうね?ふ、古いシャンデリアだったんですね、きっと…」
と、つくしが口にした途端、坂本は少し表情を変えた。
だがその表情は決して見ている方が不快に思うような表情ではなく、どこか困ったような顔だ。
「…あのシーンは怪人の嫉妬なんです。古いから落ちて来たのではありません。主役の女性を愛している怪人が他の男とキスをしている女性に嫉妬をしてその怒りがシャンデリアを女性の上に落としたんですよ」
「そ、そうだったんですね。英語だったからよくわからなくて…でも舞台は楽しかったです。それに、落ちたシャンデリアもそんなにたいしたことなくて…」
つくしは「あっ」と思った。
何故そう思ったのか。
思いのほか自分の声が上ずってしまったからだ。
それはまさに緊張のサインであり、言い訳がましいことを言わんとするとき、そういった特徴が出る。
「…つくしさん、あなた英語は得意だと言ってましたよね?それから落ちたシャンデリアはたいしたものですよ。何しろ客席の真上に設置された巨大なシャンデリアが落ちてくるんですから初めてあの舞台を見た人は、皆さんその迫力に驚くんですよ?…とは言え、実際には途中で止まり、客席までは落ちては来ません」
坂本は、そこで一旦言葉を切った。
そして苦笑いし、言葉を継いだが、表情には物淋しいかげりが感じられた。
「つくしさん、見てもない舞台について話さなければならないようなことでもあったんですか?」
二人の間には重苦しい空気が流れ、暫く沈黙が続いていた。
どうやらつくしが口を開けば開くほど、坂本にとっては虚しく感じられるようだ。
つくしは、もうこれ以上嘘をつくのは止めようと思った。
それに彼は気付いている。つくしが嘘をついていることも。そしてこの見合いを断ろうとしていることを。
「あの…ごめんなさい」
「そうですか。否定せず謝るということは、嘘をつくような何かがあった、ということですね?」
そうだ。あった。
あったからつくしはこの場にこうしているのが苦しくなっていた。
世間には見合いをしたからといって、結婚の約束をしているわけではないからと、他の男性と寝てもいいという女性もいる。だがつくしはその考えには否定的だった。結婚を前提にするのが見合いなのだから、もしかするとその人と一生を遂げるかもしれないのだ。そんな相手がいながら他の男性とそういった関係になることが決していいことだとは思わなかった。
それはあくまでもつくしの倫理観であり、法の上に定められたものではないのだから、気にするなと言われればそれまでのことだが、つくしは自分の思いが抑えられなかったばかりに、自分自信が持つ倫理観を裏切り、司とそういった関係になっていた。
それがたとえ坂本が知らないことだとしても、自分の中ではやはり坂本に対し申し訳ない気持でいた。
それは司と4年間不倫関係にあった時とはまた別の後ろめたさだ。
「あの、坂本さん。申し訳ございません。今回のお見合いの話は‥‥お断りさせて下さい」
つくしは頭を下げ、坂本の言葉を待った。
平気で嘘をつく女は嫌いだと言われてもいい。
裏切られた気分だと言われてもいい。
実際裏切っているのだから。
ところが坂本は、落ち着いた声で口をきった。
「いいんです。仕方がありません。これは見合いで二人ともそれぞれ断る権利があるんですから、つくしさんが断ったところで僕は何も言えません。…つくしさん頭を上げて下さい」
事実を知らないから言える言葉だと思った。
いくら見合いとはいえ、断わるまでは相手に誠実な態度でいるべきだった。
こうして本人を目の前にすれば、益々そういった思いに囚われてしまっていた。
だがつくしが頭を上げたとき、坂本はあっさりとした表情で彼女を見ていた。
「はじめてあなたを見たとき、どこか淋しそうな人だと思いました。その淋しさの向うに見えるのは人恋しさだと感じました。だから僕がその淋しさを補えるならと思いましたが、どうやらその淋しさを埋める人が現れたようですね?」
大人の顔をした本当の大人というのは、坂本のような人のことを言うのではないだろうか。
その顔は何かを達観しているように思えた。
「つくしさんは僕といる間、笑ったことはありませんでした。でもあなたの笑顔は素敵なんでしょうね。そしてその笑顔を引き出すことが出来る人がいる。そうですよね?」
つくしは何も言えなかった。
もしそうだと言えば、見合いをしながら別の男に心を動かしていたことになる。
それではあまりにも相手を傷つけるような気がした。だからただ黙って彼の話を聞くことしか出来なかった。
「本当に大事な物が見えたとき、人はそれを自らの手に欲しいと望むはずです。あなたはそれを見つけた_。つくしさん、僕のことは気にしないで下さい。これは見合いであり互いに対等な立場で臨んだはずですから。…まあ、僕としては残念としか言いようがないですが、こればかりは仕方がありません」
感情的になることなく淡々と語られるその声は、年こそ、つくしより二つ上だが、実際はもう少し上のような気がした。
そしてその時、ふと思っていた。
隣の部署の課長である高山とよく似ていると。
「…じゃあ、僕はこれで失礼します。二人の未来のベクトルは別の方向を向いていたということで」
坂本は、ここは僕がと言い、伝票を手に取り立ち上がった。
そして再び頭を下げたつくしに声をかけた。
「お幸せに」と。
午前中の太陽はすでに空の高い位置にあり、ガラス窓を突き抜けた9月の陽射しはまだ暑かった。
目の前を過ぎて行く航空機は離陸予定の機体だが、羽田空港の滑走路はいつも混雑している状態だ。その影響か、まるで道路が渋滞するように航空機は列を成し、滑走する順番を待っていた。
空を飛ぶ航空機の姿はカッコいいと思うが、大きな翼を持ちながら陸を走る姿は飛べない鳥のようでどこか滑稽だ。
羽田からNYまでのフライト時間は13時間弱。
本日のビジネスクラスは満席だといった表示がされていた。
優先搭乗となるビジネスクラスの客は殆どがビジネスマンであり、専用ラウンジで待つ間も、スーツを着た大勢の人間がパソコンを開き世界を相手に仕事をしている姿があった。
つくしは、ラウンジの片隅の席に座り窓の外を眺めていた。
見えるのは、青い空の彼方から飛んできた機体。その機体が上空で陽射しを反射しながら数珠つなぎ状態で着陸の順番を待っている様子が見て取れた。
もう間もなくすると、つくしの乗る航空機への搭乗案内がアナウンスされるはずだ。
そしてこれから向かう街は、つくしが愛する人のいる街。
暫くは、東京の景色も見ることはないはずだ。
窓から見える景色と、そして上空から見る景色が見納めになるとは思わないが、しっかりと心に刻み、瞼に焼き付けようと思う。
二人はこの街で出会い、この街で愛することを学んだのだから。

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大手の建設会社で働く2歳年上の建築設計士の男性は、つくしがテーブルを挟んだ向かい側の席に座ると、コーヒーでいいですか?と聞き、軽く片手を上げ、ウェイターに合図を送った。
男性は、やはり仕事帰りといった服装でスーツを着ていたが、やはり制服と呼んでいる仕事用スーツを着たつくしと一緒にいれば、まるでビジネスの延長線上、仕事の打ち合わせのように見えるはずだ。そしてそれは、どう見ても親しい間柄の男女の姿にはほど遠い雰囲気だ。
そして、運ばれてきたコーヒーを口元へ運び、それからつくしを見た。
「牧野さん。お帰りなさい。NYはいかがでした?お友達にお会いになるとおっしゃていましたが楽しんで来られましたか?」
穏やかな声で話しかけて来る男性の関心は今、つくしだけに向けられていた。
そして返事を待っている。それだけのため、今日ここへ来たのだということが感じられた。
悪い人ではない。つくしの年齢の女性たちから言えば十分及第点を越えていた。
学歴、職業、年収、家族構成そして容姿。どれを取っても問題はないはずだ。
だがこの男性は今まで結婚したいと思ったことはなかったと言う。それが何故かこの年になり、急に結婚したくなったというのだから、何か心境の変化があったとしか言えないはずだ。
だが、その変化について聞かなかった。もし聞いたとすれば、つくしに対しても同じ質問が繰り返されるからだ。しかしつくしは、その質問に答えることは出来なかったはずだ。
誰か傍にいて欲しかったといった言葉でも言えればいいのだが、叔母から見合いの話を持ち込まれ、ただなんとなく受けた状態だったのだから、理由などなかった。
だがもしつくしがNYへ滋に会いに行かなければ、目の前の男性と結婚していたかもしれない。
それは見合いというシステムから言えば、すでに3回も会っており、相手の男性に対し好きだという思いを抱かなくても、叔母に言わせれば、見合いなんてそんなものよ。結婚してから愛が芽生えることだってあるわ。それに、つくしの年齢から言えば、愛だの恋だのより、将来ひとりでいることを考えれば、誰か傍にいてくれる人がいるに越したことはないのよ?ひとりの老後は淋しいのよ?おひとり様だなんて言葉があるけど、誰も好きでひとりでいる人間はいなんだからね?つくしはまだ恵まれている方よ、こんないい人とお見合い出来たなんて。人によっては老いた親の面倒を見させる為の介護要員が欲しいから結婚したいだなんて男性もいるんだからね?いい、つくし。つくしがあの人と結婚してくれれば、千恵子姉さんも安心してくれるはずよ?
と、いうことになり、叔母から言わせれば、好条件であり、纏まりかけたこの見合い話を破談にしようとするつくしの気持ちが理解出来ないはずだ。
そして、どんな言葉で断ろうかと考えていたが、一向に纏まらず、一番初めに思い付いた言葉は気持的にしっくりこないだっただけに、その言葉で断ろうとしていたが、やはり言葉として足らないような気がしていた。
「あの、坂本さん」
「はい」
「あの_」
つくしは、結局この期に及んでも、まだなんと言えばいいかと言葉を探していた。
やはり滋に言われた通り、単刀直入に言うべきなのだろうか。
「つくしさんはNYでどちらへ行かれましたか?」
「えっ?どちらへ…ですか?」
「ええ。NYで観光されたんですよね?」
どちらへ行かれたか。と問われても実はどこへも行ってはいない。
5番街を歩いているとき、司に車へ押し込まれ、それからカリブ海へ向かったのだ。
だがそんなことが言えるはずもなく、以前訪れたとき行った場所を思い出していた。
「メトロポリタン美術館とエンパイアステートビル、…自由の女神それから…ミュージカルを見ました。それから他にも色々…」
真面目に思い出しながら答えたが、その記憶は大学生の頃の話でどれも司と二人で出かけたものだ。
「ミュージカルですか。僕も演劇は好きですよ。それでつくしさんはどんなミュージカルをご覧になられたんですか?」
「えーっと…」
しまった。
つい最近見たばかりだと言うのにタイトルを忘れている方がおかしい。
だが見ていないのだから今何を上演しているかなんて知らなかった。
遠い昔、司と見たのは“キャッツ”だったが今でも上演しているのか分からない。
つくしはNYで見たミュージカルの看板を必死に思い出そうとしていた。
「お、“オペラ座の怪人”です!オペラ座の怪人を見たんです!」
「そうですか。楽しかったですか?」
「はい。とても!」
向うで読んだ雑誌にオペラ座の怪人についての記事が載っていたのを思い出した。
「いい席が取れましたか?」
「えっ?…ええ。友人が用意してくれた席で…中央の席でとてもいい席でした」
「そうですか。それはとてもラッキーでしたね?…ところでどの場面が印象的でしたか?」
「えっ?ええっと…」
見ていないのだから印象も何もない。
それに適当にはぐらかそうとしたが、まさか坂本が演劇を好きだとは知らなかった。
つくしはあの時読んだ雑誌の記事を思い出そうとした。だが、思い出せそうにない。
何しろあの記事は、セントクロイ島の司の別荘で何気なく捲っていた雑誌に載っていた記事であり、絢爛豪華な美術セットの写真に目が奪われただけで、ぼんやりと眺めていたようなものだった。
ただ、オペラ座の怪人は有名な作品であり、世界中で上演されている話しだけに、なんとなく知ってはいるが詳しくは知らない。何しろ今まで見たミュージカルと言えば、司と一緒に見たキャッツだけなのだから。こうなったら話しを合わせるしかない。
「僕はやはりシャンデリアが落ちてくるシーンでしょうか。あの場面は有名ですから」
「あ、私もあのシーンは印象的でした。事故にならなくてよかったですよね?どうして落ちて来たんでしょうね?ふ、古いシャンデリアだったんですね、きっと…」
と、つくしが口にした途端、坂本は少し表情を変えた。
だがその表情は決して見ている方が不快に思うような表情ではなく、どこか困ったような顔だ。
「…あのシーンは怪人の嫉妬なんです。古いから落ちて来たのではありません。主役の女性を愛している怪人が他の男とキスをしている女性に嫉妬をしてその怒りがシャンデリアを女性の上に落としたんですよ」
「そ、そうだったんですね。英語だったからよくわからなくて…でも舞台は楽しかったです。それに、落ちたシャンデリアもそんなにたいしたことなくて…」
つくしは「あっ」と思った。
何故そう思ったのか。
思いのほか自分の声が上ずってしまったからだ。
それはまさに緊張のサインであり、言い訳がましいことを言わんとするとき、そういった特徴が出る。
「…つくしさん、あなた英語は得意だと言ってましたよね?それから落ちたシャンデリアはたいしたものですよ。何しろ客席の真上に設置された巨大なシャンデリアが落ちてくるんですから初めてあの舞台を見た人は、皆さんその迫力に驚くんですよ?…とは言え、実際には途中で止まり、客席までは落ちては来ません」
坂本は、そこで一旦言葉を切った。
そして苦笑いし、言葉を継いだが、表情には物淋しいかげりが感じられた。
「つくしさん、見てもない舞台について話さなければならないようなことでもあったんですか?」
二人の間には重苦しい空気が流れ、暫く沈黙が続いていた。
どうやらつくしが口を開けば開くほど、坂本にとっては虚しく感じられるようだ。
つくしは、もうこれ以上嘘をつくのは止めようと思った。
それに彼は気付いている。つくしが嘘をついていることも。そしてこの見合いを断ろうとしていることを。
「あの…ごめんなさい」
「そうですか。否定せず謝るということは、嘘をつくような何かがあった、ということですね?」
そうだ。あった。
あったからつくしはこの場にこうしているのが苦しくなっていた。
世間には見合いをしたからといって、結婚の約束をしているわけではないからと、他の男性と寝てもいいという女性もいる。だがつくしはその考えには否定的だった。結婚を前提にするのが見合いなのだから、もしかするとその人と一生を遂げるかもしれないのだ。そんな相手がいながら他の男性とそういった関係になることが決していいことだとは思わなかった。
それはあくまでもつくしの倫理観であり、法の上に定められたものではないのだから、気にするなと言われればそれまでのことだが、つくしは自分の思いが抑えられなかったばかりに、自分自信が持つ倫理観を裏切り、司とそういった関係になっていた。
それがたとえ坂本が知らないことだとしても、自分の中ではやはり坂本に対し申し訳ない気持でいた。
それは司と4年間不倫関係にあった時とはまた別の後ろめたさだ。
「あの、坂本さん。申し訳ございません。今回のお見合いの話は‥‥お断りさせて下さい」
つくしは頭を下げ、坂本の言葉を待った。
平気で嘘をつく女は嫌いだと言われてもいい。
裏切られた気分だと言われてもいい。
実際裏切っているのだから。
ところが坂本は、落ち着いた声で口をきった。
「いいんです。仕方がありません。これは見合いで二人ともそれぞれ断る権利があるんですから、つくしさんが断ったところで僕は何も言えません。…つくしさん頭を上げて下さい」
事実を知らないから言える言葉だと思った。
いくら見合いとはいえ、断わるまでは相手に誠実な態度でいるべきだった。
こうして本人を目の前にすれば、益々そういった思いに囚われてしまっていた。
だがつくしが頭を上げたとき、坂本はあっさりとした表情で彼女を見ていた。
「はじめてあなたを見たとき、どこか淋しそうな人だと思いました。その淋しさの向うに見えるのは人恋しさだと感じました。だから僕がその淋しさを補えるならと思いましたが、どうやらその淋しさを埋める人が現れたようですね?」
大人の顔をした本当の大人というのは、坂本のような人のことを言うのではないだろうか。
その顔は何かを達観しているように思えた。
「つくしさんは僕といる間、笑ったことはありませんでした。でもあなたの笑顔は素敵なんでしょうね。そしてその笑顔を引き出すことが出来る人がいる。そうですよね?」
つくしは何も言えなかった。
もしそうだと言えば、見合いをしながら別の男に心を動かしていたことになる。
それではあまりにも相手を傷つけるような気がした。だからただ黙って彼の話を聞くことしか出来なかった。
「本当に大事な物が見えたとき、人はそれを自らの手に欲しいと望むはずです。あなたはそれを見つけた_。つくしさん、僕のことは気にしないで下さい。これは見合いであり互いに対等な立場で臨んだはずですから。…まあ、僕としては残念としか言いようがないですが、こればかりは仕方がありません」
感情的になることなく淡々と語られるその声は、年こそ、つくしより二つ上だが、実際はもう少し上のような気がした。
そしてその時、ふと思っていた。
隣の部署の課長である高山とよく似ていると。
「…じゃあ、僕はこれで失礼します。二人の未来のベクトルは別の方向を向いていたということで」
坂本は、ここは僕がと言い、伝票を手に取り立ち上がった。
そして再び頭を下げたつくしに声をかけた。
「お幸せに」と。
午前中の太陽はすでに空の高い位置にあり、ガラス窓を突き抜けた9月の陽射しはまだ暑かった。
目の前を過ぎて行く航空機は離陸予定の機体だが、羽田空港の滑走路はいつも混雑している状態だ。その影響か、まるで道路が渋滞するように航空機は列を成し、滑走する順番を待っていた。
空を飛ぶ航空機の姿はカッコいいと思うが、大きな翼を持ちながら陸を走る姿は飛べない鳥のようでどこか滑稽だ。
羽田からNYまでのフライト時間は13時間弱。
本日のビジネスクラスは満席だといった表示がされていた。
優先搭乗となるビジネスクラスの客は殆どがビジネスマンであり、専用ラウンジで待つ間も、スーツを着た大勢の人間がパソコンを開き世界を相手に仕事をしている姿があった。
つくしは、ラウンジの片隅の席に座り窓の外を眺めていた。
見えるのは、青い空の彼方から飛んできた機体。その機体が上空で陽射しを反射しながら数珠つなぎ状態で着陸の順番を待っている様子が見て取れた。
もう間もなくすると、つくしの乗る航空機への搭乗案内がアナウンスされるはずだ。
そしてこれから向かう街は、つくしが愛する人のいる街。
暫くは、東京の景色も見ることはないはずだ。
窓から見える景色と、そして上空から見る景色が見納めになるとは思わないが、しっかりと心に刻み、瞼に焼き付けようと思う。
二人はこの街で出会い、この街で愛することを学んだのだから。

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司×**OVE様
おはようございます^^
お見合い相手はいい人でした。坂本さん大人でしたね?
舞台の話から綻び・・
そうですよねぇ。見ていない舞台について語るのは難しいでしょうねぇ。
3度しか会ったことがなくても、大人の坂本さんには分かりましたね?
ある程度年齢を重ね、人を見る目があれば、相手の態度、語る口調で相手が自分のことをどう思っているのか分かります。人は第一印象である程度わかりますから(笑)
そして、波乱はありませんでした!
二人の新しい未来を祝福してあげたいと思います。
コメント有難うございました^^
おはようございます^^
お見合い相手はいい人でした。坂本さん大人でしたね?
舞台の話から綻び・・
そうですよねぇ。見ていない舞台について語るのは難しいでしょうねぇ。
3度しか会ったことがなくても、大人の坂本さんには分かりましたね?
ある程度年齢を重ね、人を見る目があれば、相手の態度、語る口調で相手が自分のことをどう思っているのか分かります。人は第一印象である程度わかりますから(笑)
そして、波乱はありませんでした!
二人の新しい未来を祝福してあげたいと思います。
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.09.01 21:20 | 編集

み**ゃん様
おはようございます^^
坂本さん、大人の男性でした。
お見合いといったシステムを理解している男性でしたね?
断わられたら終わりですから、潔く引き下がりました。
そんな坂本さん、つくしのことを気に入っていましたが、彼では司に太刀打ちは出来ません。
そうですね・・・。つくしが彼を愛せなくても、恐らく穏やかな結婚生活を送ることは出来たと思います。
でも、坂本さんじゃダメなんです。運命の恋人は司ですから。
すべてを終え、NYに旅立ったつくし。
あとは・・・。
コメント有難うございました^^
おはようございます^^
坂本さん、大人の男性でした。
お見合いといったシステムを理解している男性でしたね?
断わられたら終わりですから、潔く引き下がりました。
そんな坂本さん、つくしのことを気に入っていましたが、彼では司に太刀打ちは出来ません。
そうですね・・・。つくしが彼を愛せなくても、恐らく穏やかな結婚生活を送ることは出来たと思います。
でも、坂本さんじゃダメなんです。運命の恋人は司ですから。
すべてを終え、NYに旅立ったつくし。
あとは・・・。
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.09.01 21:29 | 編集

H*様
坂本さん、いい人でしたがでもつくしには司なんです。
H*様、坂本さんに謝って下さったのですね?ありがとうございます。
司も「気を遣わせてすまねぇな」と言っていました。
司、つくしを待ってるんでしょうね・・。
拍手コメント有難うございました^^
坂本さん、いい人でしたがでもつくしには司なんです。
H*様、坂本さんに謝って下さったのですね?ありがとうございます。
司も「気を遣わせてすまねぇな」と言っていました。
司、つくしを待ってるんでしょうね・・。
拍手コメント有難うございました^^
アカシア
2017.09.01 21:33 | 編集

とん**コーン様
別れ話は辛いですよね・・。
するのもされるのも。
え?とん**コーン様はする方がキツイ?
あ!もしかして、沢山経験がおありなのでしょうか?(笑)
別れた後、太陽が眩しかった!!ワオ!
そして次はもっといい男と出会うぞ!と目標に向かって気合いを入れて・・(*^^*)
“メトロポリスの片隅で”かすかな追い風を受け、そんなことを思いつつ歩いていたんですね?
いや~。とん**コーン様、実にいい女です!
コメント有難うございました^^
別れ話は辛いですよね・・。
するのもされるのも。
え?とん**コーン様はする方がキツイ?
あ!もしかして、沢山経験がおありなのでしょうか?(笑)
別れた後、太陽が眩しかった!!ワオ!
そして次はもっといい男と出会うぞ!と目標に向かって気合いを入れて・・(*^^*)
“メトロポリスの片隅で”かすかな追い風を受け、そんなことを思いつつ歩いていたんですね?
いや~。とん**コーン様、実にいい女です!
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.09.01 21:37 | 編集

pi**mix様
お久しぶりです!もちろん覚えています‼
スマホ没収!お嬢様とそのようなお約束を!
そしてやっとその約束期間も終わり、無事手元に戻ってきたのですね?
いつも何気に利用しているものが手元に無いというのは、確かに苦痛ですよね?
ですが、お約束は守り抜いたんですね?これでお部屋も片付いたのでしょうか?(*^^*)
そして、お留守の間にお話は進みました。
つくしちゃんのお見合い相手の坂本さん。大人の男性です。彼は何も悪くはありません。
打算と計算と色々が絡むのが見合いですが、坂本さんにはそういったものは見受けられませんでした。そしてつくしも。
しかし、坂本さんはつくしと一緒になっても、彼女の愛は得られなかったことでしょうねぇ。
つくしちゃんの愛はNYの彼のものですから。
そしてNYへ旅立ったつくし。
お話の先は見えましたね?(笑)
コメント有難うございました^^
お久しぶりです!もちろん覚えています‼
スマホ没収!お嬢様とそのようなお約束を!
そしてやっとその約束期間も終わり、無事手元に戻ってきたのですね?
いつも何気に利用しているものが手元に無いというのは、確かに苦痛ですよね?
ですが、お約束は守り抜いたんですね?これでお部屋も片付いたのでしょうか?(*^^*)
そして、お留守の間にお話は進みました。
つくしちゃんのお見合い相手の坂本さん。大人の男性です。彼は何も悪くはありません。
打算と計算と色々が絡むのが見合いですが、坂本さんにはそういったものは見受けられませんでした。そしてつくしも。
しかし、坂本さんはつくしと一緒になっても、彼女の愛は得られなかったことでしょうねぇ。
つくしちゃんの愛はNYの彼のものですから。
そしてNYへ旅立ったつくし。
お話の先は見えましたね?(笑)
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.09.01 21:44 | 編集
