2017
08.13

時の撚り糸 21

かつて嵐の中を進む船は、二人の運命の方向を決定付けた。
この船があの時と同じだとは思わないが、それでも人生が大きく変わるようなことが起こる。そんな気がしていた。


「・・あのね、聞いて欲しいことがあるの」

長い沈黙を破り、つくしはかすれた声で言った。
それは勇気が挫ける前になんとか搾りだした声。

「ああ。なんだ。言ってみろ。おまえの言うことならどんなことでも聞いてやる。いや、聞かせてくれ」

司は重い口を開いたつくしの言葉を待っていた。
どんなことが語られても彼自身が知りたいと望んだことだ。
心の中に溜め込んでいた何かを話そうとしている。司はそう感じていた。
だがその何かを引き出そうとしても、そう簡単にはいかないこと分かっていた。
だからこれから語られる言葉のひとつひとつを心に刻み込むつもりだ。

口が開かれるまで時間がかかったのは、自分の思いを纏めようとしていたからであって、逃げるための言い訳を考えているわけではない。
だが、どこか強張ったような表情と声に緊張感が感じられた。

彼女の口からどんなことが語られようと受け止めるつもりでいた。
司が知らなかった9年の間に何かがあったのなら、もし彼女が傷ついているのならその気持ちを受け止めてやる。困ったことがあるのなら、どんな悩みでも解決してやる。今の司に望んで叶えられないことはひとつもない。だからつくしが何か望むならどんなことでも、何でも叶えてやれる。
それが4年間苦しい思いをさせたことへの贖罪になるとは思えないが、望みは全て叶えてやりたい思いがある。

司は、ありもしないものを、手にはいらないものを望んではいない。
ただ目の前のつくしが欲しいだけ。かつて結婚の約束をした女性と再び一緒にいたいだけ。
あの頃二人が望んでも叶わなかった想いを叶えたいだけだ。



つくしは少しだけ目を伏せ、そして息を吸った。
それから顔を上げ、司を真っ直ぐに見た。

「あたし、赤ちゃんがいたの」

司は一瞬その言葉の意味を受け止めることが出来なかった。
短い言葉で理解出来ない言葉ではない。だがその言葉が心に到達したとき、どんなことでも冷静に受け止めようと思っていた男の頭を過ったのは、彼女は自分と別れた後、他の男の子供を産んだということだ。

9年間知ることがなかったが、彼女は誰か他の男を好きになったということか。
自分が持っていた想いと、彼女が持っていた想いはすれ違っていたのか。
顔の見えない男の姿に司は言葉が出ないでいた。
そして、これだけ年月が経っていれば、彼女に子供がいてもおかしくないといった思いが頭を過った。何か重大なことを言われるのではないかと思ってはいたが、考えもしなかった彼女の言葉に、何を言えばいいのか思考が纏まらずにいた。

そうだ。ショックを受けていた。
そして生まれたのは嫉妬という感情。
それが紛れもない事実として心の中にあった。だが、自分と別れた後、彼女の人生の選択に文句を言える立場ではなかった。だがその言葉に冷静さが失われ、視線が彼女の顔を外れた。


「・・でも生まれなかったの・・」

その言葉に複雑な感情が湧き上がる。
そして司の視線は再びつくしの顔へと注がれた。慰めの言葉をかけるべきだと、そうしろという思いと共に別の感情があった。それは嫉妬という感情と入れ替わった安堵という思い。
本来なら彼女が哀しみに沈んでいるのであれば、その想いを共に受け止めてやるべきだろう。しかし心の中に思うのは、彼女が自分だけのものでいて欲しかったといった男のエゴ。
つくしは自分だけのもので、司自身は彼女だけのもの。そんな想いを抱えて生きていたからだ。
だがその想いを呑み込んだ。

「・・牧野_」

「ごめん道明寺・・。産んであげられなくて」

そのとき司が見たのは、雨に濡れたような黒曜石の瞳がじっと自分を見つめる様子。
その瞳はかつて澄んだ輝きを持って彼を見つめていた。だが今、その瞳は溢れんばかりの水をたたえ零れ出そうとしていた。

司は一瞬のうちに理解した。
どんな男でも今の言葉が理解できないはずがない。ついさっきまで、他の男との間に生まれた赤ん坊に対し、理不尽な嫉妬心が湧き上がっていたが、その感情を押さえ、突き付けられた事実を受け入れようとした男に向けられた言葉に衝撃を受けていた。
そして、真っ直ぐ司を見つめる瞳は、確かに彼女が言いたかった想いを伝えていた。

それは、牧野つくしは司の子供を身ごもっていたという事実。
だが過去形で語られるその言葉は、子供が生まれることがなかったという事実。
そのことが今、司の目の前にあった。

「・・・赤ちゃん・・・産んであげられなかった・・」

司はあまりにも動揺したせいか、言葉を失っていた。
そして心臓をわしづかみにされたような胸の痛みを感じ、かすれた声で繰り返された言葉を反芻しようとした。だが、脳は動きを止め、身体が震え、膝から崩れ落ちそうになっていた。
それでも、彼女の口から辛そうに語られた事実に応えなければならないと言葉を発した。

「・・いったい・・」

かすれた声は自分の声なのか?
空気を吸おうとしたが、肺が言うことを聞かず、苦しげに息を吐き出すことしかしない。
身体が震え、どこかにつかまらなければ倒れるのではないか。それでも、冷静に事実を受け止めようとしていた。

「どうしてか_分からないの。お腹に_痛みを感じて病院へ行ったときには_」

彼女は泣いている。
声は震え言葉は詰まり、溢れ出した涙が頬を伝い、肩は震えていた。
そしてその涙は止まることなく、息が詰まりそうになりながらも継ぐ言葉は哀しみだけが溢れていた。瞳に住み着いた哀しみが見え、これまで彼女がひとり胸に抱えてきた想いが手に取るように感じられた。

見返りを求めず愛だけを求めた彼女が失ってしまった小さな命。
司は二人が創造した尊い命を失い、つくしがひとり過ごして来た年月に己の年月を重ねていた。そして悔やんだ。なぜ彼女を諦めるようなことをしてしまったのか。
なぜ手を離してしまったのか。あの時、別れたのは彼女の幸せを願ったからではなかったのか。

「あたし_道明寺の赤ちゃんが欲しかった。産んで_育てたかった。大きくなったらお父さんがどんな人で、どんなにあたしがあなたのお父さんを愛していたか伝えるつもりでいた」

頬を伝う涙はポタポタと音を立てつくしの足元に落ちていた。
涙声で詫びるその姿に胸が張り裂けそうだ。

司はつくしの悲しみを吸収したかった。そして何も知らずにいたことに自責の念を感じていた。誰よりも人を思いやる心を持つ彼女が泣く姿が辛かった。
かつて我慢強いと言われた少女が嗚咽を漏らす姿は、我慢に我慢を重ねたが、ついに感情の堰を切った瞬間だ。それは赤ん坊のことだけではないはずだ。ひと目を避けるように過ごした4年間と両親の死。そして抑制し続けた孤独と胸の奥に閉じ込めていた憂いが溢れ出た瞬間だ。

そして司には、つくしが独り病院のベッドに横たわる姿が見えた。
たった独り誰に知らせるでもなく、身体が回復するのを待つ姿が見え、胸をえぐられた。
そして泣いているのは、自分を責めているということも。責任感の強い彼女は、子供が生まれなかったのは、自分のせいだと自分自身を責めている。人に頼ることなく、全てを自分ひとりが背負うことが当然だといった態度は昔からそうだった。それは泣きたいのに泣こうとせず、心の襞の奥に哀しみを抱え込み、その想いを自身の心の中で浄化させようとする姿。司はそんな彼女の姿を何度も目にしていた。

司は彼女の想いを受け止めたかった。
だが今の司は、彼女の言葉に応えるどころではなかった。
なぜなら、彼自身がつくしと同じ哀しみを胸に抱いていたからだ。
そして思い出すのは、二人が最後に過ごしたあの日。それは38歳の自分ではなく、29歳の自分。そして28歳のつくし。スローモーションのように目の前を流れるのは『さよなら』と言って部屋の扉が閉じられた9年前の別れ。

視界が霞んだのは、濡れた髪のせいではない。
それは瞳から溢れ出る涙。
今この瞬間、司は願った。
時間を戻して欲しい。
別れたあの日に戻り、何も無かったようにやり直したい。
愛は失われてはいない。愛は今も二人の間にある。

司が溢れる涙をそのままにつくしを両の腕で抱き寄せると、小さな身体は嗚咽を繰り返し、濡れた頬を彼のシャツに押し付けしがみついた。

「・・牧野・・なんで・・どうして俺に言わなかった?」

いつだって司は、つくしのためならなんでもするつもりでいた。
それは二人が愛を育み始めた頃から変わらない思い。
地獄の果てまで追いかけると言った。
彼女がどこにいようと、駆け付ける思いでいた。
彼女の哀しみも苦しみも全てを取り去ってやりたいといった思いは、今も変わらずこの胸の中にあった。

「言えなかった・・言えるはずがないじゃない・・」

結婚していた男を気遣ったその言葉は、紛れもない彼女の本心。
司は、9年前彼女が胸に抱く事がなかった我が子に思いを馳せた。
それは、自分が彼女の傍にいれば、助かったかもしれない命。二人にとってはかけがえのない命。どんなものにも代えがたい命。小さな命が彼女の身体に存在した事実はこれから一生忘れることはない。そして自分が抱く事がなかった我が子に詫びた。
傍にいてやれなかったことを。

離れたくはなかったが、離れなければならなかった司が感じているのは胸の痛み。
そしてそれよりも強いのは後悔の念。
あのとき、彼女の手は離しても、心まで離したわけではなかったのだから、もっと彼女のことを気にかけるべきだったと。


涙が出るほど誰かを愛したことがあるか、と問われれば勿論だと言える。
それは彼女と生まれることがなかった二人の子供に対しての想い。
司は、つくしを抱く腕に力を込め、その髪に顔を埋め、ただ泣いていた。





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コメント
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dot 2017.08.13 06:16 | 編集
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dot 2017.08.13 06:47 | 編集
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dot 2017.08.13 09:02 | 編集
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dot 2017.08.13 23:00 | 編集
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dot 2017.08.15 23:45 | 編集
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dot 2017.08.17 02:07 | 編集
じ**こ様
産まれて来るはずだった赤ちゃんがいた。
9年ぶりに会った恋人から聞かされた言葉。
そのことを知った司の気持ちを考えると、さぞかし辛かったことでしょう。
誰にも頼ることなく、ひとり出産を決意したつくしの思いは、母親になり、愛する人の面影を感じられる子どもが欲しかった。ただそれだけだったことでしょう。
二人、これから幸せを掴んで欲しいですね?^^
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.08.17 21:03 | 編集
イ**マ様
吐き出すことが出来たつくし。
司は、初めて耳にしたその事実に自責の念ばかりを感じているようですが、これからは、つくしを愛することで彼女の哀しみと、彼自身の辛い思いが和らぐはずです。そして二人の未来はこれからです^^
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.08.17 21:09 | 編集
司×**OVE様
おはようございます^^
つくし、司に話すことが出来ましたが、こういった話しをするのは、大変だと思います。
それは、自分自身にとっても相手の男性にとっても心を痛める話しですからねぇ。
心の奥へそっと仕舞っておきたいといった話しですが、短くも宿った二人の愛の結晶ですから、やはり司にも知っておいて欲しい。そして知る権利といったものもあったはずです。
それでも、二人が再会しなければ、つくしは伝えることはなかったと思われます。
デリケートなお話となりましたので、感情的に揺さぶられた場面もあったかもしれません。
司は、つくしの口から語られた事実に言葉を失うのは当然でしょうねぇ。
少し勘違いもありましたが、9年間という歳月がありましたので、そういった思いが過ったことは、仕方ありません。

お盆休み、リフレッシュといいますか、お盆ですからねぇ。
色々と忙しくしておりました。
御曹司と黒い坊っちゃんを読み返して下さったんですか?有難うございます。
そろそろ次の黒い坊っちゃんを・・と思っています。
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.08.17 21:14 | 編集
さと**ん様
司、赤ん坊の父親を勘違いしましたねぇ。
9年間、知ることのなかったつくしの状況でしたから、それも仕方のないことなのかもしれません。
それでも真実を知った彼には、衝撃的なことだったことでしょう。
自分の知らない間につくしの身に起きたことに、そして何もしてやれなかったことに悔やんでも悔やみきれない思いがあったはずです。
つくしの哀しみを受け止めることが出来るのは、司だけです。
さあ、これから先、二人幸せになって欲しいですね?
司が泣くといった感情が素直に出せるのは、つくしの前だけですが、その思いは彼女と産まれなかった我が子に対しての思いで一杯です。
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.08.17 21:23 | 編集
マ**チ様
こんばんは^^
お盆休み。あっという間に終わりました~。
マ**チ様も世話しなくお過ごしだったとのこと。お疲れが出ませんように。
物語りの山場を迎えています。つくし、司に重い口を開きました。
司にしてみれば、思いもよらぬ告白でした。
悲しい事実を語るつくしと、それを聞かされた司の想いはひとつ。
産まれることがなかった我が子への想いです。でもこれから先は、哀しみを乗り越え、歩んで行って欲しいですね?
>司は哀しみごとつくしを包んで・・
包み込んで欲しいですねぇ^^

そして先日の事件。
ベランダから飛び降りて無傷。そして覚えてないほど身軽に飛び降りた。
人間の危険を避けようとする力がそのような状況を生み出したのかもしれませんね?
明日から再開です。また覗いて下さいませ^^
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.08.17 21:28 | 編集
pi**mix様
こんにちは^^
子供が出来たかも・・と戸惑いがあったかもしれませんが、確信に変わったとき、母に変わったつくしの心。好きな人の子供は、相手が結婚していたとしても、産む事に迷いは無かったようです。
つくしから告白をされ、自分以外の男のことが頭を過ってしまった司。
嫉妬しましたが、それと同時につくしの気持ちを慮るところもありました。
産まれることがなかった我が子に対しての想い。愛し合っていた二人でしたから、傍にいてやれなかったことを悔やむしかありません。
二人の今の気持ちは、ただ互いを思いやっている。
そんな気がします。
そして、愛にも色々な表現の仕方があると思います。
つくしの愛は、地下水脈の流れのように愛の水を流し続けていた。
司の愛は、炎のような愛。激しく燃える愛。でもその愛の炎も消えることがない。
そんな二人の思いは遠いあの日から変わらない・・そう思っていいと思います。
昏い場面展開ですが光りが射すようなお話だと感じて頂ければ、二人の愛も大丈夫です。

休み明け(笑)
身体が重いですが、頑張ります!
>お盆休み、ズラした・・そのおかげでお休み無しなんですね?
アラーム無しの朝(笑)確かにいいです。しかし、休みの間も、いつもの時間に目覚めるといったもったいない思いをしてしまいました。
そして、また明日から再開です^^
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.08.17 22:12 | 編集
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