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2017
08.11

時の撚り糸 20

小さな奇跡が宿ったのを知ったのは、別れて間もなくのこと。
二人とも避妊には気を遣っていたが、必ずしもそれが100パーセント確実だとは言えないはずだ。規則正しく訪れていた生理が止り、吐き気と眠気が襲うようになれば、疑うことはただひとつ。密やかな愛の証がお腹の中にいる。そう思った瞬間、両手をお腹にあて、優しく包み込んでいた。

堕ろそうとは思わなかった。
産婦人科医院を出たとき、頭の中にあったのは産もうということだけで笑顔を浮かべた自分がいた。
あのとき、ひとりでも新しい一歩を踏み出そうとしていた。
失ってしまった彼の代わりに得た新しい命を喜んで受け入れた。
超音波装置の画面に映し出された小さな影は尊い贈り物ともいえた彼の子供。
結婚式がなくても、父親がいなくても構わない。どんなことがあっても産んで慈しんで育てようと決めた。

もし、あのとき彼がいたらどんな顔をしたか。
それはビーチで抱いた赤ん坊に目を細めた姿を見れば容易に想像できるはずだ。
きっとお腹の中にいる赤ん坊を心配し、何もさせようとはしないはずだ。
極端な話、箸の上げ下げまで制限されそうな気がした。

妊娠を知り1ケ月が経過すれば、お腹に赤ん坊がいることが現実味を帯びた。しかし体型が変わることはなく、服を新しく買う必要はなかった。2ヶ月経ってもそれは同じだった。
だから誰にも気づかれることはなく、赤ん坊と二人、静かに過ごすことができた。
それは彼の名誉を守るためでもある。結婚している男が外に子供を作ったとなれば、名門財閥と呼ばれた道明寺家の家名を汚すことになるからだ。

だが、神様からの貴重な贈り物を受け取ることは出来なかった。
ある日、激しい痛みで目が覚めタクシーで病院へ急行したが、残念です、と言われ赤ん坊を失ったことを知らされた。

遠く離れた場所にいる彼に伝えられることがなかった妊娠と流産。
仕方がなかった結婚とはいえ、彼は他の女性の夫だった。これから先後継者を必要とされる事態になれば、正式な妻との間に子供を作る必要があるはずだ。
そんな彼に生まれなかった子供のことを知らせても、傷つけるだけだと分かっていた。
だから知らせることはなかった。

それでも心は彼の元にあり、失ってしまった赤ん坊を知るはずのない彼の分まで涙を流した。それは家族も友人も知ることのない私ひとりの心にある出来事。彼と別れた私が気の抜けたような生活をしていると滋は言ったが、それは、赤ん坊と一緒に自分自身も失ってしまったように感じたからだ。そして暫くは、不安定な気持ちを抱え落ち込むこともあった。

あの頃、目を閉じ、瞼の裏に見えたのは、屈託なく笑う彼の姿。
もう会うことはないと思っていた私は、その姿を忘れることがないようにと、心に刻みつけようとしていた。
これが心の奥底に沈めていた想い。
誰にも気付かれることがなかった秘密だ。


やがて両親が相次いで亡くなり、父親の7回忌も終わりやっと落ち着いた今、叔母がいつまでも一人でいる姪に見合い話を持ってきた。

そんな状況の中、彼の離婚が成立したことを知った。
そして司はもう一度やり直そうと言っている。
もう一度恋をしようと言っている。
失った赤ん坊の父親である司は、今でも私を愛してると言った。
そんな彼と向き合いたい気持ちはある。
だが、それと同時に彼の子供を産んであげられなかったことに罪の意識がある。
そして、二度と会う事はないと思っていたとはいえ、彼の子供を産めなかったことは、申し訳なさを感じていた。


こうして彼と二人南の島でバカンスを過ごすことを決めたが、心の中にはあのことがわだかまっていた。
だから彼の腕の中に飛び込んで行くことが出来ないのだ。
妊娠も流産も伝えることがなく、彼と一緒に過ごすことなど出来ないはずだ。だが今更どう言えばいいのか、どう伝えればいいのか、わからなかった。
言えない言葉ではないはずだ。だが、9年を経て伝えられる言葉が耳に心地よいはずもなく、彼が傷つくだけだとわかっていた。
そして、何故、あのとき言わなかったのかと責めるはずだ。
どうして妊娠したことを教えてくれなかったのかと責めるはずだ。
いや。それは違う。責任は自分自身にあると己を責めるはずだ。
あの当時の二人の関係が私の心に大きな負担を強いていたことを、彼自身も分かっていたはずだから。




夕方になりビーチを離れ、島の中心部であるメインストリートに戻ったが、大勢いた観光客の数は減っていた。何か買い物でもするかと聞かれ、土産物屋に飾られていたぬいぐるみに目がいった。それはあまり日本では見かけることのないイグアナのぬいぐるみ。
彼は、おまえは相変わらず金の掛からない女だな。と言いながらも買ってくれた。
そして、おまえが気に入ったんなら、ひとつと言わず何個でも買ってやると言われたが、さすがにイグアナのぬいぐるみを10個も20個も必要ないと断った。
だが、もし子供がいたら、沢山のぬいぐるみに目を輝かせていたはずだ。







司は、赤ん坊を抱いたつくしの様子が極端すぎるほど変わったことに気付いていた。
ビーチでのあの一件は司の心に引っ掛かりを残していた。
展望台ではイグアナの出現に驚き、声を上げていたが楽しそうな顔をしており、司もわれ知らず笑みを浮かべていた。

だが、ビーチで見知らぬ女から、ほんの少しの間だけ赤ん坊を見ていて欲しいと言われ、その態度が急変した。心拍数が一気に跳ね上がったような慌てぶりは、突然押し付けられた幼子に対しての不安なのかと思ったが、違和感を覚えた。

女性なら誰もが持つと言われる母性本能が欠けているといった訳ではない。
子供は苦手かと聞いたが、子供は好きだと言った。そして遠い昔、二人で子供の数について話しをしたことがあった。あのとき、出来れば3人は欲しいといった話しをしたことがあった。それだけに、あの態度が腑に落ちないでいた。そして動揺を隠そうとする態度が見て取れた。それは視線を外し、海を見た姿勢に現れていた。そして緊張していると感じた。
どんなに長い間離れていたとしても、彼女のことなら分かる。
二人が別れたことが、何らかの影響を与えている。
それだけは、間違いないはずだ。

二人がひと目を避けた4年間は長い。
それはNYと東京での遠距離恋愛期間と同じだったが、その間にすべてが捧げられた訳ではない。心は互いのものだったが、身体は傍にいることが出来なかった。
だがつくしを抱く唯一の男は、司だけだ。これから先もずっとそのはずだ。
つくしが赤ん坊に対し見せた反応は、二人が持つことが出来なかった子供に対しての過剰反応なのか?もし、そうなら今からでも子供を作ればいい。
彼女の気持ちは、間違いなく自分にある。それが40を目前にした男の勘違いだとすれば、面白くはない。
そして、身体が半分過去に落ち込んでしまったような強い不安に襲われるのは、彼女の言葉に何かを感じているからだ。





二人が埠頭に戻ると、クルーズ船で来た観光客は、お目当ての免税品を買い求めたのか、大きな買い物袋を抱えた姿があちこちに見えた。やがて太陽が沈みかけ、辺りが暗くなると船に明かりが灯り、大勢の観光客を乗せたクルーズ船は出航して行った。

そしてクルーザーに戻ったとき、そこへ雨粒が落ち始めた。
天気予報ではこの先の天気は下り坂だと言っていたが、雨は思ったより早く降り始めていた。最初は弱い雨だったが、たちまち激しく降り始め、デッキいた二人は慌てて船内へ駆け込んだ。

「いきなり降り始めたな。天気予報じゃもう少し持つかと思ったが、思ったより雲の流れが早かったってことか」

激しく降り始めた雨に、司の髪の毛は、あっと言う間にストレートに変わり、つくしの髪も濡れていた。

「なあ、牧野。40を前にした男だが、まだイケてるか?」

司は優しく語りかけた。かつて癖の強い髪型が嫌だと言われ、本気でストレートに変えたことがあった。そしてそれが似合うと言われ、気を良くした男がいた。
そんな男の優しい口調は、重苦しさを感じた始めた二人の間の空気を払拭しようとしていた。

「俺はおまえとやり直したいただの男だ。今の俺たちには何のしがらみもないはずだ。俺とおまえが一緒になったからって誰も反対しねぇし、誰にも文句は言わせねぇ。
それに今おまえが何かを考えているのは分かるんだが、思ってることは言葉にしてくれ。いいか、牧野。俺はおまえの事ならどんなことでも理解してやるし、受け止めてやる。だから心の奥に溜め込んでることがあるなら言ってくれ」

そうは言ったがつくしは黙ったまま、二人の視線が絡まった。
そしてどちらもじっとして動かなかった。
動かないのは、緊張を意味しているのか。それとも言うことは無いということか?彼女を説得するのはいつも大変だったといくつかある過去の出来事を反芻した。そして、待てど暮らせど話そうとしない彼女に司はそれならば、と口を開こうとした。
だが、先に沈黙を破ったのはつくしの方だ。


「・・あのね、聞いて欲しいことがあるの」






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コメント
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dot 2017.08.11 08:16 | 編集
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dot 2017.08.11 08:32 | 編集
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dot 2017.08.11 10:33 | 編集
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dot 2017.08.11 18:11 | 編集
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dot 2017.08.12 01:28 | 編集
か**り様
そうですねぇ、若い頃は意固地なつくしちゃんでしたが、今回はまたそれとは少し違うような気がします。今のこの状況でお見合い結婚をしても幸せにはなれないと思います。
やはり心は司にある訳ですから、心を全てさらけ出すことが大切です。
大人になると考えることも、若い頃とは違うのではないかと思いますが、自分の心に正直に生きることを選んで欲しいですね?
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.08.12 20:51 | 編集
pi**mix様
司はつくしの変化には敏感ですが、男と女の事情は複雑です。
それでも、二人にしか分からない空気といったものは、どんなカップルでもあるはずです。
つくしも年を重ねた分だけ、考えることも増えたと思いますが、ちゃんと言えて、知ってもらうことが大切なこともありますからねぇ。
つくしちゃんにも司にも思いっきり泣いてもらいたいですね。
そうすることが、生まれてこなかった我が子に対する供養となるはずです。
司なら全てを受け止めてくれるはずです!頑張れ、二人。
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.08.12 20:56 | 編集
司×**OVE様
おはようございます^^
哀しい経験をしてしまったつくしちゃん。
司はつくしのことならどんなことでも受け止めることが出来ると思います
司に伝えられることがなかった妊娠。つくしは、子供を心の支えとして生きていこうと思ったはずです。
これから伝えることで、二人の新たな一歩となればと思います。
そして絆を深めて欲しいですね?^^

只今お盆休みですが、日頃の疲れを取り、そしてお盆の行事?を済ませる予定です。
お嬢様、青春真っただ中なんですね?
青春!←え?死語なんですか?(笑)
司×**OVE様もお疲れを出しませんようにお過ごし下さいませ。
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.08.12 21:06 | 編集
さと**ん様
司との間に出来た子供を失ってしまったつくし。
絶望感は相当なものだったと思います。
誰にも言わない。言えない関係の子供です。それでも彼女は愛している人の子供なら迷うことなく産むと決めた。なかなか決断できることではないと思いますが、自分の信じる道を進む彼女は、好きな人の面影を身近に感じることが幸せだと感じていたのでしょうねぇ。
そして、どんなに自分が苦しくても、相手のことを考える。彼女らしいですね?
そんなつくしは司に打ち明けることにしたようです。
司なら受け止めてくれるはずです。その悲しみも寂しさも。
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.08.12 21:14 | 編集
マ**チ様
こんばんは^^
つくし、生きる希望を宿していましたが、残念なことになり哀しみの底に沈んでいたと思います。でも、彼女には司がいます!9年の歳月を経て、迎えにきてくれました。
このままもう二度と会わないで・・。大丈夫です。そんなことはないと思います。
つくし、素直に司の胸に飛び込んで下さい!

そして劇場有難うございます!
なんと!(笑)事件はマ**チ邸で起きていたんですね?
ん~誰が悪いかと言えば、パパさんですね?(笑)
デ*ちゃんの時といい、なかなかアグレッシブですね?
そしてその事件をつかつくの『いつもの夜よりラブラブ計画』として披露して下さったマ**チ様に感謝します(笑)
愛のため、いつもより手の込んだことを考えた司。とんだことになりましたね!
計画自体はとても良い計画だと思います。でもつくしの立場になれば、怖かったと思います。
そしてベランダから外に逃げるとは、勇気がありますねぇ?かなりの高さですから怖いです。
刑事ドラマのようにカッコよくいけばいいのですが、下手をすると大怪我です。
え~現実問題としてお怪我はなかったのでしょうか?
そしてあっちへもこっちへも平謝り。(≧▽≦)録画機能(笑)確かにあります!!
呼ばれて来た公務員の方々も初めは緊張感を持たれていたことでしょう。しかし、着いてみれば、なんのことはない。関係者によるイタズラだった!(笑)
司がつくしと部屋の中で膝を突き合わせ向かい合って座る姿が笑えます。つくしに説教される司(笑)そして最後は計画が頓挫しておあずけの司。(≧▽≦)御曹司も顔負けです(笑)

ところで、今回の件は、色々な意味でパパさん反省ですね?
とても楽しいお話でした!ありがとうございます^^
お盆休み初日、忙しい一日でしたが笑えました!
そして、夜更かしイエーイ!(笑)←夜更かしし過ぎです!
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.08.12 21:30 | 編集
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