つくしが深い眠りから覚めたとき、隣に寝ていた男にギョッとした。
別れたはずの男のベッドに、それも、その男の腕に抱かれていた。
NYから来た男がおまえを取り戻しに来たと言ったとき、心の中で嬉しさが湧き上がっていた。だが口をついて出た言葉は、素直ではなかった。
つくしは、自分自身の性格が、神経質過ぎるところがあると感じていた。
いつも一人でああでもない、こうでもない、と他人のことに気を配り、挙句の果てにくよくよと考え、弱気になったり、勝手に寂しくなったりしていた。
もっと若い頃の自分は、そんな性格ではなかったはずだ。とつくしは思う。
だが遠い昔、彼と付き合いを始めると宣言したが、撤回したこともあった。
だがそんなつくしに対し、いとも簡単に行動に移すことが出来るのが、道明寺司という男だ。昔からそうだった。先を読む、石橋を叩いて渡るといったことはなく、感傷に浸るといった言葉が無縁のような強靭さを持ち、余計なことは考えるなといった態度でつくしを引っ張って行った。そして今、またその行動力が発揮される時が来たということだ。
そんな男から見れば、今のつくしは、支離滅裂に思えるはずだ。
今のつくしは、素の自分を前面に出すことが下手な女だ。
事実、心の中は矛盾だらけだ。
別れたはずの男の胸に抱かれ眠る女。
それは、3年前の根拠のない不安に襲われた結果の別れを引きずってない女の行動。
彼が来てくれたことが嬉しいくせに、差し出されたその手を素直に取ることが出来ない気持ちの表れだ。素直にゴメン。変な誤解をして。と言って彼の胸に飛び込めばいいものを、それが出来ないからこうして悩んでいた。
あの頃は二人の間に距離があった。それは心の距離ではなく、物理的な距離。
だが心の距離もいつの間にか存在していたのかもしれない。
しかし今なら互いの心が届く場所にいる。同じ街の、同じ空の下に。
「・・あたし、何してんだろ・・」
あれから3年。
3年しか経ってないのか、それとももう3年経ったのか。
どちらにしても3年ぶりに会った男は、変わっていない。
ホテルの部屋で目覚めたとき、身体に回されていた腕をそっと解き、ベッドの端へと身体を移し、そっと足を下ろすとクローゼットにかけてあったスーツを掴み、まるで悪戯が見つかるのを恐れた子供のように慌ててバスルームへ入って行った。
身支度を整え、恐る恐るバスルームの扉を開いたが、彼が起きている様子はなく、背を向け横たわっていた。疲れていたのだと思う。恐らく昨日、帰国したばかりで会いに来てくれたはずだ。それは3年前までもそうだった。忙しい身体で日本に戻ると、必ず最初の夜に会いに来てくれた。身体が疲れたといった言葉を口にすることはなく、心が疲れたといった様子も感じさせない男だった。だが、それはつくしの彼に対する思い込みだったのかもしれない。
いつも、彼女の前では、そんな素振りを感じさせることがなかった男だったから。
週刊誌の記事なんて嘘だと分かっていたが、最後の夜、喧嘩をし、勝手にしろと言われ傷ついた。多分、あのとき、彼のその言葉の前に、彼の言葉を遮るようなことを言ってしまったのだと思う。だから彼は勝手にしろと突き放すように言った。
あの頃、自分の仕事にゆきづまりを感じ、誰かに聞いてもらいたかった。
毎日の業務は、自分がやりたい仕事ではないと、不満を感じ始めていた頃だった。
そんな時、久しぶりに会った彼のぬくもりを感じたかった。
いつも当然のように与えられていた愛情を感じたかった。
だが口論したばかりに、それが感じられなかった。
自分を大切に、大事に想っていてくれることが、当たり前だと考えていた。そして彼からの優しさを当然のように受け取っていた。だから勝手にしろと言われ、ショックだった。
どちらの愛が強いかといえば、彼の方だと思っていた。
二人の愛のバランスは、いつもつくしが優位に立っていた。
つまり、つくしは彼の優しさに浸かり切っていたため、あの日の彼の態度に勝手に傷ついていた。
いつもなら、相手を思いやることが当たり前だったが、その気持ちが失われていた。
甘えていたのだ。
彼の優しさに。
今日は土曜だ。本来なら休日は、普段出来ない用事を済ませ、掃除をし、食料品の買い出しに出掛け、それから部屋でのんびりと過ごすのが定番だ。
だが1人で部屋にいると、どうしても彼の事ばかり考えてしまう自分がいた。
だからこうして外へ出た。
特にどこかへ行こうと思ったわけではない。だからといって目的もなく街をぶらつくといったことをしたいとは思わなかった。それならと思い付いたのは、近くの公園だ。
春は池のほとりの桜が水面にその姿を映し、夏は木々の緑が鮮やかさを増し、清々しい空気が楽しめる公園。木々が多いため、木陰も多く、ベンチで風を感じながら休むことも出来る。
7月の空は、珍しく朝から雲が多かったが、午後になり、その雲が空全体に広がってきた。ただでさえ蒸し暑い東京の夏。やがて空気が重い湿気を含んだように変わり、今にも雨が降り出しそうになっていた。
傘を持たずに出たが、この季節の雨は、スコールのように降り注ぎ、すぐに止むことが多い。
まるで熱帯の国のような気候だと言われるようになった東京の夏。
もし、長い時間降り注ぐなら、どこかで雨宿りでもすればいい。公園の近くには、セルフサービスのコーヒーショップもある。
今年のNYの夏は、やはり暑いのだろうか。
だが日本と違うのは、ここまで湿度が高くないということだ。
つくしがNYを訪れたのは、二度。一度目は高校生の頃、真冬のNYだった。
そして二度目は、二人が大学生だった秋。そのとき初めて彼に抱かれた。
大きな交差点に差し掛かると、案の定雨が降り始めた。
傘を持たないつくしは、降り始めた雨に濡れていた。だがまだ雨足は弱い。信号は赤だ。このまま信号が変わるまで待って進むか、それとも引き返すか。コーヒーショップはこの交差点の向うにある。
周りでは傘の花が咲き初め、交差点の向うには、一組の男女が1本の傘に収まっている姿があった。互いの身体に腕を回し、その姿は堂々としていた。別にそれが悪いといった訳ではないが、見ている方が恥ずかしく感じられることもあった。なぜなら、その男女は交差点の向うで唇を重ね合わせていたから。
やがて信号が変わり、コーヒーショップを目指し、つくしは横断歩道を渡り始めた。
同じように向う側から歩いて来る男女は、楽しそうに笑っていた。歩幅の大きな男性が歩みを緩め、彼女の足許を気遣い歩く姿は、見ていて羨ましいと感じてしまっていた。
周囲を気にすることなく、唇を重ね合わせ、互いの身体に腕を回し歩く姿は、世間のしがらみなど何も感じさせることがない明るさが感じられた。恐らくまだ20代前半の男女だ。彼らの明るさが眩しく、羨ましいと思った。
そして自分達にもあんな頃があったと懐かしく思った。
交差点を渡り切り、右に曲がった。信号が変わり、車道は車の往来が始まっていた。
雨は徐々に粒が大きくなり始めていた。だが走ることはしなかった。慌てたところで、交差点で信号が変わるのを待つ間にすでに濡れているのだから今更だ。そして暫く歩くと、目的地であるコーヒーショップが近づいて来た。
すると、一台の車が彼女の視線の斜め前に止った。
それは大きな車で、三車線ある車道のうちの一車線を完全に塞いでいた。周囲の迷惑など考えないその行為に、後続車からクラクションが鳴らされてもおかしくないはずだが、鳴らされることはなかった。何故なら、ロングボディの黒の大型車に乗る人物の素性を考えたとき、むやみやたらとクラクションを鳴し、何かあってはと考えるのが普通だからだ。
そして中から長身の男が差しかけられた傘の下、降りてくるのが見えた。
周囲の視線を全く意識しない堂々とした姿。高級そうな黒の靴は、雨に濡れたところで一向に構わないといった様子だ。高級そうではない。高級なのだ。つくしは、その靴が彼女の一か月分の給料以上の値段がすることを知っていた。そしてその男のスーツも、ネクタイも、左手首にいつも嵌められている金の時計も、全てが彼だけの為に作られたものであることを知っていた。
「・・牧野。やっと見つけた。まあおまえの行きそうな場所は頭の中にあるから簡単だがな」
と言った司は、つくしの頭上に傘を差しかけた。
「おまえ、傘も持たずに出かけたのか?朝から天気が悪かっただろうが。・・ったく手間のかかる女だな」
1本の傘に男女が収まる姿は、横断歩道ですれ違ったあの男女を彷彿させた。
互いの身体に腕を回し、唇を重ねていたあの二人に。
「・・で、牧野。おまえ、気持ちの整理はついたのか?」
勝手に寂しくなった女の気持ちの整理。
そんな女は、まるで今まで毎日会っていたように男に頷いた。
そんな女に対し、にやっ、と笑みを浮かべた男。
「そうか。ま、それならそれでいい。・・それより早く車に乗れ。いくら夏だからって雨に濡れてるのがいいわけねぇからな」
雨脚が強くなり、もうこれ以上雨に濡れることがないようにと、司は、つくしの肩をしっかりと抱き、車へと促した。
かすかにこわばった華奢な肩。だがそれは一瞬のことだ。
大きな傘は彼女の上だけに差しかけられ、高級なスーツの肩を濡らす雨は激しくなっていたが、司は気にはしなかった。遠い昔、二人は雨が降る夜、別れた時があった。
あのとき、やはり傘もささずにいた彼女に、早く車に乗れと言ったことがあった。
だが、彼女が車に乗ることはなく、二人はあの日別れを経験した。
「それにしてもおまえは気持ちの整理をつけるのに、どんだけ時間がかかるんだ?いいか?言っとくがおまえのその我儘に付き合える男は俺くらいなもんだ。・・・まあ。おまえのその強情さは今に始まったことじゃねぇってのは分かってるつもりだ。だいだい真面目な人間ほど柔軟性に欠けるってのがある。けど俺たちは4年っていう長い時間を離れて過ごした経験がある。それに俺には、おまえの為ならどんなことでも乗り越えられる自信がある」
司は高校生の頃、追いかけて、捕まえて、やっと手に入れた女を離すつもりはない。
あの頃も離れたことがあった。でも彼の元へ戻った。そして高校を卒業と同時に離れた。
だが二人は、気持ちだけは決して離れないと誓った。そんな男の、一途な気持ちはあの頃と変わることもなく、これから先も決して変わることはないと断言できる。
「いいか?牧野。おまえは俺の性分は分かってるはずだ。俺は一度こうと決めたことは、どんなことがあっても守る。昔言ったはずだ。俺はおまえのためならどんなことでもしてやるってな。それに俺はおまえ以外欲しくねぇし、他の女なんか目に入ったこともねぇ。その辺を歩いてるのは、犬か猫くれぇにしか思ってねぇ。だから犬や猫はその仲間内で相手を探せばいい。間違っても俺の傍には近寄らせねぇ。だいいち俺は犬も猫も苦手だ」
離れて、近づいて、そして離れたが、彼女以外欲しくない。
そして司の口はいつも真実しか伝えない。司はやっと自分の気持ちが彼女に伝わったと感じていた。身長差があり、傘をさしているため顔は見えなくとも、どんな気持ちでいるか感じることが出来た。彼女も司と同じで、彼女には彼しかいないと思っていると。
二人は、運転手がドアを開けて待つ車に乗り込んだ。
「なあ牧野。俺たちは同病相憐れむじゃねぇけど、俺もこの3年間すげぇ惨めだったんだぞ?」
つくしの方へ身体を向け、彼女の鼻先へ顔を近づけ言った言葉は、低い声を響かせるように愚痴めいた言い方だが、どこかあっけらかんとした口調だ。
だがそれは、彼女に負い目を感じさせないための気遣いだとつくしは思った。だからつくしは、3年前のことに後ろめたさと恥ずかしさを感じ、小さな声でしか返事を返すことが出来なかった。
「・・あたしだってそうよ」と。
途端、司の唇がつくしの唇に重なった。
それは、もうこれ以上の言葉は必要ないと言っていた。
今はただこの腕の中に大人しく抱かれてくれと、熱い思いを受け取ってくれと、司の唇は、ただそれだけを伝えていた。

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NYから来た男がおまえを取り戻しに来たと言ったとき、心の中で嬉しさが湧き上がっていた。だが口をついて出た言葉は、素直ではなかった。
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もっと若い頃の自分は、そんな性格ではなかったはずだ。とつくしは思う。
だが遠い昔、彼と付き合いを始めると宣言したが、撤回したこともあった。
だがそんなつくしに対し、いとも簡単に行動に移すことが出来るのが、道明寺司という男だ。昔からそうだった。先を読む、石橋を叩いて渡るといったことはなく、感傷に浸るといった言葉が無縁のような強靭さを持ち、余計なことは考えるなといった態度でつくしを引っ張って行った。そして今、またその行動力が発揮される時が来たということだ。
そんな男から見れば、今のつくしは、支離滅裂に思えるはずだ。
今のつくしは、素の自分を前面に出すことが下手な女だ。
事実、心の中は矛盾だらけだ。
別れたはずの男の胸に抱かれ眠る女。
それは、3年前の根拠のない不安に襲われた結果の別れを引きずってない女の行動。
彼が来てくれたことが嬉しいくせに、差し出されたその手を素直に取ることが出来ない気持ちの表れだ。素直にゴメン。変な誤解をして。と言って彼の胸に飛び込めばいいものを、それが出来ないからこうして悩んでいた。
あの頃は二人の間に距離があった。それは心の距離ではなく、物理的な距離。
だが心の距離もいつの間にか存在していたのかもしれない。
しかし今なら互いの心が届く場所にいる。同じ街の、同じ空の下に。
「・・あたし、何してんだろ・・」
あれから3年。
3年しか経ってないのか、それとももう3年経ったのか。
どちらにしても3年ぶりに会った男は、変わっていない。
ホテルの部屋で目覚めたとき、身体に回されていた腕をそっと解き、ベッドの端へと身体を移し、そっと足を下ろすとクローゼットにかけてあったスーツを掴み、まるで悪戯が見つかるのを恐れた子供のように慌ててバスルームへ入って行った。
身支度を整え、恐る恐るバスルームの扉を開いたが、彼が起きている様子はなく、背を向け横たわっていた。疲れていたのだと思う。恐らく昨日、帰国したばかりで会いに来てくれたはずだ。それは3年前までもそうだった。忙しい身体で日本に戻ると、必ず最初の夜に会いに来てくれた。身体が疲れたといった言葉を口にすることはなく、心が疲れたといった様子も感じさせない男だった。だが、それはつくしの彼に対する思い込みだったのかもしれない。
いつも、彼女の前では、そんな素振りを感じさせることがなかった男だったから。
週刊誌の記事なんて嘘だと分かっていたが、最後の夜、喧嘩をし、勝手にしろと言われ傷ついた。多分、あのとき、彼のその言葉の前に、彼の言葉を遮るようなことを言ってしまったのだと思う。だから彼は勝手にしろと突き放すように言った。
あの頃、自分の仕事にゆきづまりを感じ、誰かに聞いてもらいたかった。
毎日の業務は、自分がやりたい仕事ではないと、不満を感じ始めていた頃だった。
そんな時、久しぶりに会った彼のぬくもりを感じたかった。
いつも当然のように与えられていた愛情を感じたかった。
だが口論したばかりに、それが感じられなかった。
自分を大切に、大事に想っていてくれることが、当たり前だと考えていた。そして彼からの優しさを当然のように受け取っていた。だから勝手にしろと言われ、ショックだった。
どちらの愛が強いかといえば、彼の方だと思っていた。
二人の愛のバランスは、いつもつくしが優位に立っていた。
つまり、つくしは彼の優しさに浸かり切っていたため、あの日の彼の態度に勝手に傷ついていた。
いつもなら、相手を思いやることが当たり前だったが、その気持ちが失われていた。
甘えていたのだ。
彼の優しさに。
今日は土曜だ。本来なら休日は、普段出来ない用事を済ませ、掃除をし、食料品の買い出しに出掛け、それから部屋でのんびりと過ごすのが定番だ。
だが1人で部屋にいると、どうしても彼の事ばかり考えてしまう自分がいた。
だからこうして外へ出た。
特にどこかへ行こうと思ったわけではない。だからといって目的もなく街をぶらつくといったことをしたいとは思わなかった。それならと思い付いたのは、近くの公園だ。
春は池のほとりの桜が水面にその姿を映し、夏は木々の緑が鮮やかさを増し、清々しい空気が楽しめる公園。木々が多いため、木陰も多く、ベンチで風を感じながら休むことも出来る。
7月の空は、珍しく朝から雲が多かったが、午後になり、その雲が空全体に広がってきた。ただでさえ蒸し暑い東京の夏。やがて空気が重い湿気を含んだように変わり、今にも雨が降り出しそうになっていた。
傘を持たずに出たが、この季節の雨は、スコールのように降り注ぎ、すぐに止むことが多い。
まるで熱帯の国のような気候だと言われるようになった東京の夏。
もし、長い時間降り注ぐなら、どこかで雨宿りでもすればいい。公園の近くには、セルフサービスのコーヒーショップもある。
今年のNYの夏は、やはり暑いのだろうか。
だが日本と違うのは、ここまで湿度が高くないということだ。
つくしがNYを訪れたのは、二度。一度目は高校生の頃、真冬のNYだった。
そして二度目は、二人が大学生だった秋。そのとき初めて彼に抱かれた。
大きな交差点に差し掛かると、案の定雨が降り始めた。
傘を持たないつくしは、降り始めた雨に濡れていた。だがまだ雨足は弱い。信号は赤だ。このまま信号が変わるまで待って進むか、それとも引き返すか。コーヒーショップはこの交差点の向うにある。
周りでは傘の花が咲き初め、交差点の向うには、一組の男女が1本の傘に収まっている姿があった。互いの身体に腕を回し、その姿は堂々としていた。別にそれが悪いといった訳ではないが、見ている方が恥ずかしく感じられることもあった。なぜなら、その男女は交差点の向うで唇を重ね合わせていたから。
やがて信号が変わり、コーヒーショップを目指し、つくしは横断歩道を渡り始めた。
同じように向う側から歩いて来る男女は、楽しそうに笑っていた。歩幅の大きな男性が歩みを緩め、彼女の足許を気遣い歩く姿は、見ていて羨ましいと感じてしまっていた。
周囲を気にすることなく、唇を重ね合わせ、互いの身体に腕を回し歩く姿は、世間のしがらみなど何も感じさせることがない明るさが感じられた。恐らくまだ20代前半の男女だ。彼らの明るさが眩しく、羨ましいと思った。
そして自分達にもあんな頃があったと懐かしく思った。
交差点を渡り切り、右に曲がった。信号が変わり、車道は車の往来が始まっていた。
雨は徐々に粒が大きくなり始めていた。だが走ることはしなかった。慌てたところで、交差点で信号が変わるのを待つ間にすでに濡れているのだから今更だ。そして暫く歩くと、目的地であるコーヒーショップが近づいて来た。
すると、一台の車が彼女の視線の斜め前に止った。
それは大きな車で、三車線ある車道のうちの一車線を完全に塞いでいた。周囲の迷惑など考えないその行為に、後続車からクラクションが鳴らされてもおかしくないはずだが、鳴らされることはなかった。何故なら、ロングボディの黒の大型車に乗る人物の素性を考えたとき、むやみやたらとクラクションを鳴し、何かあってはと考えるのが普通だからだ。
そして中から長身の男が差しかけられた傘の下、降りてくるのが見えた。
周囲の視線を全く意識しない堂々とした姿。高級そうな黒の靴は、雨に濡れたところで一向に構わないといった様子だ。高級そうではない。高級なのだ。つくしは、その靴が彼女の一か月分の給料以上の値段がすることを知っていた。そしてその男のスーツも、ネクタイも、左手首にいつも嵌められている金の時計も、全てが彼だけの為に作られたものであることを知っていた。
「・・牧野。やっと見つけた。まあおまえの行きそうな場所は頭の中にあるから簡単だがな」
と言った司は、つくしの頭上に傘を差しかけた。
「おまえ、傘も持たずに出かけたのか?朝から天気が悪かっただろうが。・・ったく手間のかかる女だな」
1本の傘に男女が収まる姿は、横断歩道ですれ違ったあの男女を彷彿させた。
互いの身体に腕を回し、唇を重ねていたあの二人に。
「・・で、牧野。おまえ、気持ちの整理はついたのか?」
勝手に寂しくなった女の気持ちの整理。
そんな女は、まるで今まで毎日会っていたように男に頷いた。
そんな女に対し、にやっ、と笑みを浮かべた男。
「そうか。ま、それならそれでいい。・・それより早く車に乗れ。いくら夏だからって雨に濡れてるのがいいわけねぇからな」
雨脚が強くなり、もうこれ以上雨に濡れることがないようにと、司は、つくしの肩をしっかりと抱き、車へと促した。
かすかにこわばった華奢な肩。だがそれは一瞬のことだ。
大きな傘は彼女の上だけに差しかけられ、高級なスーツの肩を濡らす雨は激しくなっていたが、司は気にはしなかった。遠い昔、二人は雨が降る夜、別れた時があった。
あのとき、やはり傘もささずにいた彼女に、早く車に乗れと言ったことがあった。
だが、彼女が車に乗ることはなく、二人はあの日別れを経験した。
「それにしてもおまえは気持ちの整理をつけるのに、どんだけ時間がかかるんだ?いいか?言っとくがおまえのその我儘に付き合える男は俺くらいなもんだ。・・・まあ。おまえのその強情さは今に始まったことじゃねぇってのは分かってるつもりだ。だいだい真面目な人間ほど柔軟性に欠けるってのがある。けど俺たちは4年っていう長い時間を離れて過ごした経験がある。それに俺には、おまえの為ならどんなことでも乗り越えられる自信がある」
司は高校生の頃、追いかけて、捕まえて、やっと手に入れた女を離すつもりはない。
あの頃も離れたことがあった。でも彼の元へ戻った。そして高校を卒業と同時に離れた。
だが二人は、気持ちだけは決して離れないと誓った。そんな男の、一途な気持ちはあの頃と変わることもなく、これから先も決して変わることはないと断言できる。
「いいか?牧野。おまえは俺の性分は分かってるはずだ。俺は一度こうと決めたことは、どんなことがあっても守る。昔言ったはずだ。俺はおまえのためならどんなことでもしてやるってな。それに俺はおまえ以外欲しくねぇし、他の女なんか目に入ったこともねぇ。その辺を歩いてるのは、犬か猫くれぇにしか思ってねぇ。だから犬や猫はその仲間内で相手を探せばいい。間違っても俺の傍には近寄らせねぇ。だいいち俺は犬も猫も苦手だ」
離れて、近づいて、そして離れたが、彼女以外欲しくない。
そして司の口はいつも真実しか伝えない。司はやっと自分の気持ちが彼女に伝わったと感じていた。身長差があり、傘をさしているため顔は見えなくとも、どんな気持ちでいるか感じることが出来た。彼女も司と同じで、彼女には彼しかいないと思っていると。
二人は、運転手がドアを開けて待つ車に乗り込んだ。
「なあ牧野。俺たちは同病相憐れむじゃねぇけど、俺もこの3年間すげぇ惨めだったんだぞ?」
つくしの方へ身体を向け、彼女の鼻先へ顔を近づけ言った言葉は、低い声を響かせるように愚痴めいた言い方だが、どこかあっけらかんとした口調だ。
だがそれは、彼女に負い目を感じさせないための気遣いだとつくしは思った。だからつくしは、3年前のことに後ろめたさと恥ずかしさを感じ、小さな声でしか返事を返すことが出来なかった。
「・・あたしだってそうよ」と。
途端、司の唇がつくしの唇に重なった。
それは、もうこれ以上の言葉は必要ないと言っていた。
今はただこの腕の中に大人しく抱かれてくれと、熱い思いを受け取ってくれと、司の唇は、ただそれだけを伝えていた。

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司×**OVE様
おはようございます^^
リアルにおはようございますの時間が近づいて参りました(笑)
つくしちゃん物事は複雑に考えてしまいますが、行動パターンは読まれていますね?(笑)
でもあの司ですからねぇ。逃げられるとは思えませんでした。
道行く恋人同士に羨ましさを感じた彼女。
それが、素直な感情だと思います。
そして捕まりました。3年ぶりの恋人同士の・・・となるのでしょうか?(´艸`*)
コメント有難うございました^^
おはようございます^^
リアルにおはようございますの時間が近づいて参りました(笑)
つくしちゃん物事は複雑に考えてしまいますが、行動パターンは読まれていますね?(笑)
でもあの司ですからねぇ。逃げられるとは思えませんでした。
道行く恋人同士に羨ましさを感じた彼女。
それが、素直な感情だと思います。
そして捕まりました。3年ぶりの恋人同士の・・・となるのでしょうか?(´艸`*)
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.07.16 02:37 | 編集

pi**mix様
ひとりの女しか知らない男なのに、こなれ感が(笑)
この余裕はなんでしょうね?(笑)
坊っちゃんも大人になったということです(笑)
つくしちゃんの性格を見抜いている男に焦りはありません。
そして、つくしちゃんもアレコレ考えることは、お休みしたようです。
唇奪ってその先は?
え?御曹司以外でパスワードを使いたいですか?
えー(笑)パスなしなんですが、如何でしょう?(笑)
ところで、pi**mix様は、御曹司の中ではどのお話がお好きですか?
よろしければお教え下さい(低頭)
コメント有難うございました^^
ひとりの女しか知らない男なのに、こなれ感が(笑)
この余裕はなんでしょうね?(笑)
坊っちゃんも大人になったということです(笑)
つくしちゃんの性格を見抜いている男に焦りはありません。
そして、つくしちゃんもアレコレ考えることは、お休みしたようです。
唇奪ってその先は?
え?御曹司以外でパスワードを使いたいですか?
えー(笑)パスなしなんですが、如何でしょう?(笑)
ところで、pi**mix様は、御曹司の中ではどのお話がお好きですか?
よろしければお教え下さい(低頭)
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.07.16 02:46 | 編集

L**A様
お久しぶりです^^
>PCが壊れた・・
それは大変です!そしてそんな中でもお読み下さって有難うございます^^
アカシアも目の状況は同じです(笑)
今年になって遠近両用にシフトしました(笑)
この坊ちゃん。つくしちゃんを見守る余裕があるんですから随分と大人の男になりました(笑)こんな司でよろしければ、またお立ち寄りくださいませ^^
拍手コメント有難うございました^^
お久しぶりです^^
>PCが壊れた・・
それは大変です!そしてそんな中でもお読み下さって有難うございます^^
アカシアも目の状況は同じです(笑)
今年になって遠近両用にシフトしました(笑)
この坊ちゃん。つくしちゃんを見守る余裕があるんですから随分と大人の男になりました(笑)こんな司でよろしければ、またお立ち寄りくださいませ^^
拍手コメント有難うございました^^
アカシア
2017.07.30 23:02 | 編集
