生き馬の目を抜くようなビジネスの世界で生きてきた男は、自身がサラブレッドと呼ばれる道明寺財閥の御曹司だ。
そしてそれは、彼の父親である貴もそうだった。
司と同じ血を持つ男も、産まれたときからその運命は決まっていた。
自分の人生を自由に生きる。そんな考えが許されるはずもなく、男の前に用意されていたのは、財閥の後継者として生きる道。いくら自由が欲しいと願ったところで、決して叶えられることは無いと知っていた。
サラブレッドにはサラブレッドの運命がある。
財界のサラブレッドと呼ばれた男が結婚した相手も、やはりサラブレッドだ。
道明寺楓は、旧華族の家に生まれた娘だ。二人の結婚は、親同士が決めたもので、甘いとか切ないとかの思いもなく、当然のように結婚した。高貴な家の結婚とは、代々そういったものだ。決められたレールの上を進むのが当然なのだ。
あの夫婦の間に愛が感じられることもなく、家族としての意味もない、まさにビジネスパート―ナー以外の何者でもない。
そんな二人の間に生まれた最初の子供は娘。
だが、家を継ぐのは、男でなければならない。家督相続は男子のみ。そんな古い考え方をする男。貴が妻を抱くのは、子供を作るため。それが彼に課せられた義務だった。
そうやって引き継がれていく道明寺という名の血脈。だがあの男の息子であることに、誇りなど見いだせるはずもなく、チャンスがあるならその顔に唾を吐きかけたい思いでいた。
天に唾すれば、その唾は自らにかかるが、自らと同じ顔に吐けば、それは己に吐いたと同じこと。今の司には、それを甘んじて受ける覚悟があった。
司が世田谷の邸に足を向けたのは、自分の父親に会う為だ。
招かれなくとも足を踏み入れることが出来る人間は限られている。
あの男はそんな数少ない人間の一人だ。
NYにいたあの男と電話で話をし、気持ちがふっ切れていた。
そして自分たち親子が向かい合う日が来ると分かっていた。
それは自らがNYへ出向いたあの日以来だ。
今の司の頭の中を占めているのは、つくしではなく、あの男のことだ。
陽が沈んでもう随分と時間が経つ。
今夜は目に見えなかった何かが変わる夜となるはずだ。
世田谷の一等地にある大きな邸。
司がこの邸を受け継ぐと、外周を囲っていた鋳鉄の柵は高い塀に変わり、あちこちに監視カメラを設置していた。
今では世界各国に多くの邸を構える道明寺の本宅。先祖から受け継がれた土地は、プライベートジェットの発着が出来るほどの広さがあった。
人の気配を感じさせない広大な公園とも言える庭は、夜間照明に照らされており、おびえた小動物がいても、警備が巡らされたこの邸では、逃げも隠れも出来はしない。
一般人なら我が家とは言えない広さの邸だが、ここが司の育った場所だ。
そして忘れたくない記憶を刻んだのも、忘れたい記憶を刻んだのもこの場所だ。だが今の司には、忘れたい記憶などない。どの記憶も今では彼にとって大切な記憶となっていた。
大勢の使用人が出迎える中、正面玄関に止った車から降りて来た男は、開口一番老婆に声をかけた。
「・・タマ、病院には行ったのか?」
杖をついてはいるが、曲がった腰をシャンと伸ばし、どんな時でもこの邸の主を迎えるのが自分の役目と思う老婆は、この邸で一番権威を持つ男に頭を下げた。
「おかえりなさいませ。坊っちゃん・・はい。行ってまいりました。つくしも元気そうで安心致しました」
坊っちゃん・・
この邸で司にそう呼びかけることが出来る唯一の人間はこの老婆だけだ。
幼い頃からいつも傍にいた使用人だが、いつからか、それ以上の存在として司の傍にいた。
両親不在のなか、姉とこの老婆だけが、彼の心を理解しようとした。
母親がいないと泣いて淋しがる子供を優しい言葉で慰めてくれた老婆。
高価なアンティークの花瓶を壊して回っていた少年を、彼が満足なら、と咎めはしなかった。やがてその少年が恋をし、自らの中に優しさを見つけ出したとき、その優しさが長く続きますようにと祈ったのも老婆と姉だ。
そしてこの10年間の男の態度がどんなに酷かろうと、老婆だけは、変わることなく彼の傍で見守っていた。
「タマ、あの男はどこにいる?」
「はい。大旦那様はお食事前に一杯飲まれると申されましたので、ご用意させていただきました」
かつて自分が壊して回った花瓶があった廊下は、今は別の花瓶が飾られてはいるが、あの当時と変わらないよそよそしさが感じられる。照らす明かりは明るいが、その明るさに温かみを感じることはない。
冷たい霊廟であり巨大な石棺である邸に温かみを感じたことがあったかといえば、それは一度だけ。彼女が暮らしていたあの頃の一度だけだ。
あれ以来、ここが霊廟であることに変わりはなく、空気はいつもひんやりとしたままだ。
そんな邸にいくつ部屋があり、いくつ窓があろうが興味はない。だが、東の角部屋と彼女が短い間暮らした部屋だけは別だ。
ノックもせず、いきなり部屋に入り目に入ったのは、バーカウンターの前に立つ、司と同じ黒い癖毛を後ろへ撫でつけた年齢を感じさせない男だ。だがどこか老いの影を感じることも出来る。
そんな男の貴族的な顔立ちは、年を取れば取るほど凄みを増す。そしてその顏に影が落ち、視線が鋭く尖ったとき、それはまさに自分と同じ顔になる。
獲物を狙う男の顔に_。
「何だね?司。ノックもなしに。まあいい。スコッチだがおまえも一杯飲むかね?」
貴は最高級のスコッチをストレートで飲むことを好む。
近年医者からは、薄めて飲めと言われていたが、今夜はそうではない。
自分好みの酒を口にしている男は、満足しきった表情で、喉を焼くような酒を楽しんでいた。
「ここの酒は補充する必要がありそうだ。この邸をおまえに譲ってからどうもバーボンばかりが増えたような気がする。タマも年を取ったが、わたしの好みを忘れたわけではあるまい」
無駄な贅肉などなく、すらっとした体型に非の打ち所がない服装をした男は、自分を睨みつける男に何事もなかったような口を利いていた。
司は黙ったまま、目の前にいる男を見つめていた。
とうの昔に親ではなくなった男は、自分にとっていったいどういった存在なのか。ここで改めて見極めようとしていた。
まだどこか親としての気持ちがあるのではないか。
息子に掛ける優しい言葉のひとつもあるのではないか。
そんな思いが一瞬でも頭を過ったことは嘘ではない。
自分は変わった。
それなら、目の前にいるこの男も変われるのではないか・・そんな思いが心のどこかにあった。
人は変わろうと思えば、変わることが出来るのだと。
「・・司。おまえあのUSBはどうした?牧野浩が持っていたUSBだ。今ここにあるのか?いや。そうに違いない。おまえは持ち歩いているはずだ。それにコピーもある・・そうだな?おまえが今持っているのがコピーだろうが構わん。わたしに渡せ」
唐突に切り出されたが、司は返事をしなかった。
高価なスコッチを飲み干した男は、酔いが回ることはない。
目の前にいる男も司と同じで酒に強い。酒は喉を潤す水だ。
そして、老いた獅子ではあるが、プライドの高さは息子以上だ。
そんな男が感情をあらわに話始めた。
「司。いいか、よく聞け。今のおまえはどうかしている。愛だの恋だのおまえはそんなことをするために生まれて来たのではない。・・いいか、おまえは自分が賢いと思っているようだが、あんな娘を好きになって何が賢いものか!おまえは大馬鹿者だ!おまえはいったい何を考えている!!あの娘のどこがそんなにいい?それにあの娘の父親はあの情報を手にわたしを、道明寺を脅迫しようとした!」
司はただ男の言いたいことを黙って聞いていた。
彼の頭の中では、親子であろうが、互いの心と心が通じあったことのない男との会話は、何の意味もない言葉であり、深い川底に溜まった泥のように感じられていた。
光りの届かない暗い水の底で沈殿し、動こうとしない泥。そこへただ落ち、溜まっていくだけの言葉。それはやがて泥の中に消えていく。そう思えるのは、司にとって、どうでもいい男の言葉だからだ。意味のない言葉をどれだけ聞かされようが、心に残ることはない。
そしてそんな男より、自分と牧野つくしとの繋がりが、より深いところで繋がっているように感じられていた。
今の司は確かにそう感じていた。目の前の男との血の繋がりよりも、もっと深いものを彼女に感じていた。
「それにおまえが花沢で何を言ったか、わたしが知らんとでも思っているのか!おまえは後先も考えることが出来なくなったのか!あの土地は・・買収する会社の土地にどれだけの価値があるのかおまえは分かっているはずだ!」
財閥の買収先を勝手に譲ると言った話しは既に貴の耳に届いていた。
「それとも女に溺れて頭の中はセックスのことで一杯か?おまえはあの娘に子供を産ませ、この家を継がせると言ったが、これだけ時間がかかっても子供が出来ないのはどういうことだ?おまえはNYへ渡ったころ、女を妊娠させたことがあったな。あれは残念ながら流れてしまったが、簡単に女を孕ませることが出来るおまえにしては随分と手をこまねいているようだが、あの娘は子どもを産むことが出来ないんじゃないのか?」
つくしに子供が出来ないことは、貴にとっては喜ばしいことだ。
どこの馬の骨か分からないような女が産んだ子供に、道明寺家の跡を取らせるなどもっての外だ。貴は司の返事を待たず、一方的に話し続けていた。それは、まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるようだ。
「司、いい加減にしろ!目を覚ませ!それほどあの娘が欲しいなら愛人にしろ。愛人にしておまえは子供の出来るちゃんとした家の娘と結婚しろ!それが財閥のためだ!それが道明寺の家のためだ!おまえの生きる意味はその為だけにある!いいか?おまえがあの娘に持つ執着心など財閥にはなんの足しにもならんのだ!」
司の黒い瞳は、己と同じ顔をした男を、まるで病に侵された人間のように見た。
そして、彼には似合わない穏やかな声で言い放った。
「・・なあ。そろそろ俺から話しをしてもいいか?・・あんた黙って聞いてりゃ言いたい放題だな。後先も考えねぇのはてめぇの方だろうが。人の命狙っといて偉そうなこと言うんじゃねぇよ。ま、何度言ったところで否定されるのは分かってる。あんなことやらせといて、はい、そうです。なんて認める人間はいやしねぇからな」
真実を知る人間はこの世で二人しかおらず、そのうち一人は目の前にいる男だが、話すつもりはないことは分かっている。
そしてもう一人は狙撃した人間だが、見つけることは出来なかった。
「それから色々質問されたから答えてやるよ。まずあのUSBだ。あれは確かに俺が持っている。確かにあの内容が公になれば、財閥は一大スキャンダルに見舞われることになる。それにリストに名前のある政治家どもの進退は間違いなく問われる。そうなれば、うちで飼ってる政治家はいなくなるってことだ。そうなったとき、困るのは財閥の仕事だろうな・・」
「司、おまえもそれがわかっているならいい。だからあの情報を、リストを表に漏らしてはならんのだ!」
「・・そう思うんなら、牧野に手を出すな。あんたがあいつに手を出さないならリストを公開することはしねぇよ。・・けど、もしあんたがあいつに手を出そうとするなら俺は迷うことなく公開してやるよ。あれが10年前で例え時効だとしても、週刊誌で書き立ててやる。
どうせ政治家先生は叩けば埃はいくらでも出る。あれをきっかけに二弾、三弾と書かせてやる。そうなったら辞職に追い込まれる先生方もいるはずだ。何しろ花沢物産から横取りした会社も政治家頼みだ。あの時は選挙の資金が足りねぇってことだったな・・あの先生、政治資金収支報告書なんての、真面目に書いたことあんのか?」
企業が政党や政治資金団体へ献金することは認められているが、政治家個人に献金を行うことは政治資金規正法で禁止されている。それは企業への有利な法案成立や口利きを頼んでいると考えられるからだ。実際、花沢物産が系列化を計画していた会社を道明寺がかすめ取ったとき、子飼いの政治家の力が働いた。そしてその見返りが選挙資金の援助だ。
「司、おまえは何を考えている!馬鹿なことを言うな!・・おまえにそんなことが出来るはずがない!会社を駄目にすることがどんなことになるのかおまえには理解出来んのか!」
「あんた俺に出来ないと思ってるのか?・・そうか、それならいいモノ見せてやるよ」
司は手に持っていたA4サイズの封筒を貴に手渡した。
「・・いったいこれはなんだ!誰がこんなことを!」
貴が手にしたのは、『道明寺ホールディングス未公開株の政治家・官僚への譲渡疑惑』と書かれた一枚の紙だ。そこには10年前、財閥が関連会社の上場前の株式を当時の政権を担っていた与党の大物政治家を含む官僚に無償で譲り渡したことが記されていた。だが、その内容はあくまでも臆測にすぎないが、と書かれており、俗に言う社内で出回る怪文書だ。
「それはうちのビルの男子トイレに貼ってあったそうだ。今のところ、役員フロアだけらしいが個室の扉の内側と、小便をする時の目の高さに合わせて貼ってあったらしいぜ」
「・・そんな場所に貼られたものなど・・誰が信じる!誰がこんなことを!!」
真偽不明なことを、もっともらしく書かれれば、目にする者の興味を誘う。
それこそ週刊誌に書かれているレベルかもしれないが、それが社内の中で行われた意味は大きい。つまりそれは、不正を暴くための内部告発と捉えることが出来る。
「・・司・・まさかとは思うがおまえか!?おまえはいったい何を考えてこんなことをする!道明寺がどうなっても構わんのか!」
「ああ。道明寺の家がどうなろうが俺には関係ねぇな。ただし、会社が無くなれば困るのは従業員だろ?そこらへんはわきまえてるつもりだが、あんたどう思う?・・それから俺はあいつ以外と寝るつもりなんてねぇから。それに勿論子供を作るつもりもねぇ。他の女とヤルくれぇならパイプカットでもしてやるよ。俺の遺伝子はあんたと違ってどうでもいい女の腹ん中に残したくはねぇんだわ」
両親の結婚を揶揄する言葉。
互いに愛のない結婚をした男女の間に生まれた子供など悲劇でしかない。
「・・あんた自分の遺伝子を受け継ぐ人間が欲しいなら、今からでも若い女に産ませろ。俺は腹違いの弟でも全然構わねぇけど?そいつに道明寺を継がせろ。そうすりゃ俺はお役御免だ」
司が目を合わせた男は、彼を睨みつけてきた。
だが司は逆にその目を睨み返し、口元に冷たい笑みを浮かべた。
「ああ、それからリストを公開しない条件がもうひとつある。あんたには会長を辞めてもらう。引退しろ。そうすりゃあんたは発言権のないただの男だ」
「なんだと!そんなことが許されると思っているのか!この会社はわたしがここまで大きくした会社だ!それを_」
「それを潰したくねぇだろ?あんたさえ身を引けば黙っててやるよ、親父さん?」
多くは望まない。
司が求めているのは、ただ、彼女と一緒にいることだけ。
何があろうと、ただそれだけでよかった。
それが道端の草と同じ名前の女性だとしても。
自分に合うのは、その人しかいないのだから。

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そしてそれは、彼の父親である貴もそうだった。
司と同じ血を持つ男も、産まれたときからその運命は決まっていた。
自分の人生を自由に生きる。そんな考えが許されるはずもなく、男の前に用意されていたのは、財閥の後継者として生きる道。いくら自由が欲しいと願ったところで、決して叶えられることは無いと知っていた。
サラブレッドにはサラブレッドの運命がある。
財界のサラブレッドと呼ばれた男が結婚した相手も、やはりサラブレッドだ。
道明寺楓は、旧華族の家に生まれた娘だ。二人の結婚は、親同士が決めたもので、甘いとか切ないとかの思いもなく、当然のように結婚した。高貴な家の結婚とは、代々そういったものだ。決められたレールの上を進むのが当然なのだ。
あの夫婦の間に愛が感じられることもなく、家族としての意味もない、まさにビジネスパート―ナー以外の何者でもない。
そんな二人の間に生まれた最初の子供は娘。
だが、家を継ぐのは、男でなければならない。家督相続は男子のみ。そんな古い考え方をする男。貴が妻を抱くのは、子供を作るため。それが彼に課せられた義務だった。
そうやって引き継がれていく道明寺という名の血脈。だがあの男の息子であることに、誇りなど見いだせるはずもなく、チャンスがあるならその顔に唾を吐きかけたい思いでいた。
天に唾すれば、その唾は自らにかかるが、自らと同じ顔に吐けば、それは己に吐いたと同じこと。今の司には、それを甘んじて受ける覚悟があった。
司が世田谷の邸に足を向けたのは、自分の父親に会う為だ。
招かれなくとも足を踏み入れることが出来る人間は限られている。
あの男はそんな数少ない人間の一人だ。
NYにいたあの男と電話で話をし、気持ちがふっ切れていた。
そして自分たち親子が向かい合う日が来ると分かっていた。
それは自らがNYへ出向いたあの日以来だ。
今の司の頭の中を占めているのは、つくしではなく、あの男のことだ。
陽が沈んでもう随分と時間が経つ。
今夜は目に見えなかった何かが変わる夜となるはずだ。
世田谷の一等地にある大きな邸。
司がこの邸を受け継ぐと、外周を囲っていた鋳鉄の柵は高い塀に変わり、あちこちに監視カメラを設置していた。
今では世界各国に多くの邸を構える道明寺の本宅。先祖から受け継がれた土地は、プライベートジェットの発着が出来るほどの広さがあった。
人の気配を感じさせない広大な公園とも言える庭は、夜間照明に照らされており、おびえた小動物がいても、警備が巡らされたこの邸では、逃げも隠れも出来はしない。
一般人なら我が家とは言えない広さの邸だが、ここが司の育った場所だ。
そして忘れたくない記憶を刻んだのも、忘れたい記憶を刻んだのもこの場所だ。だが今の司には、忘れたい記憶などない。どの記憶も今では彼にとって大切な記憶となっていた。
大勢の使用人が出迎える中、正面玄関に止った車から降りて来た男は、開口一番老婆に声をかけた。
「・・タマ、病院には行ったのか?」
杖をついてはいるが、曲がった腰をシャンと伸ばし、どんな時でもこの邸の主を迎えるのが自分の役目と思う老婆は、この邸で一番権威を持つ男に頭を下げた。
「おかえりなさいませ。坊っちゃん・・はい。行ってまいりました。つくしも元気そうで安心致しました」
坊っちゃん・・
この邸で司にそう呼びかけることが出来る唯一の人間はこの老婆だけだ。
幼い頃からいつも傍にいた使用人だが、いつからか、それ以上の存在として司の傍にいた。
両親不在のなか、姉とこの老婆だけが、彼の心を理解しようとした。
母親がいないと泣いて淋しがる子供を優しい言葉で慰めてくれた老婆。
高価なアンティークの花瓶を壊して回っていた少年を、彼が満足なら、と咎めはしなかった。やがてその少年が恋をし、自らの中に優しさを見つけ出したとき、その優しさが長く続きますようにと祈ったのも老婆と姉だ。
そしてこの10年間の男の態度がどんなに酷かろうと、老婆だけは、変わることなく彼の傍で見守っていた。
「タマ、あの男はどこにいる?」
「はい。大旦那様はお食事前に一杯飲まれると申されましたので、ご用意させていただきました」
かつて自分が壊して回った花瓶があった廊下は、今は別の花瓶が飾られてはいるが、あの当時と変わらないよそよそしさが感じられる。照らす明かりは明るいが、その明るさに温かみを感じることはない。
冷たい霊廟であり巨大な石棺である邸に温かみを感じたことがあったかといえば、それは一度だけ。彼女が暮らしていたあの頃の一度だけだ。
あれ以来、ここが霊廟であることに変わりはなく、空気はいつもひんやりとしたままだ。
そんな邸にいくつ部屋があり、いくつ窓があろうが興味はない。だが、東の角部屋と彼女が短い間暮らした部屋だけは別だ。
ノックもせず、いきなり部屋に入り目に入ったのは、バーカウンターの前に立つ、司と同じ黒い癖毛を後ろへ撫でつけた年齢を感じさせない男だ。だがどこか老いの影を感じることも出来る。
そんな男の貴族的な顔立ちは、年を取れば取るほど凄みを増す。そしてその顏に影が落ち、視線が鋭く尖ったとき、それはまさに自分と同じ顔になる。
獲物を狙う男の顔に_。
「何だね?司。ノックもなしに。まあいい。スコッチだがおまえも一杯飲むかね?」
貴は最高級のスコッチをストレートで飲むことを好む。
近年医者からは、薄めて飲めと言われていたが、今夜はそうではない。
自分好みの酒を口にしている男は、満足しきった表情で、喉を焼くような酒を楽しんでいた。
「ここの酒は補充する必要がありそうだ。この邸をおまえに譲ってからどうもバーボンばかりが増えたような気がする。タマも年を取ったが、わたしの好みを忘れたわけではあるまい」
無駄な贅肉などなく、すらっとした体型に非の打ち所がない服装をした男は、自分を睨みつける男に何事もなかったような口を利いていた。
司は黙ったまま、目の前にいる男を見つめていた。
とうの昔に親ではなくなった男は、自分にとっていったいどういった存在なのか。ここで改めて見極めようとしていた。
まだどこか親としての気持ちがあるのではないか。
息子に掛ける優しい言葉のひとつもあるのではないか。
そんな思いが一瞬でも頭を過ったことは嘘ではない。
自分は変わった。
それなら、目の前にいるこの男も変われるのではないか・・そんな思いが心のどこかにあった。
人は変わろうと思えば、変わることが出来るのだと。
「・・司。おまえあのUSBはどうした?牧野浩が持っていたUSBだ。今ここにあるのか?いや。そうに違いない。おまえは持ち歩いているはずだ。それにコピーもある・・そうだな?おまえが今持っているのがコピーだろうが構わん。わたしに渡せ」
唐突に切り出されたが、司は返事をしなかった。
高価なスコッチを飲み干した男は、酔いが回ることはない。
目の前にいる男も司と同じで酒に強い。酒は喉を潤す水だ。
そして、老いた獅子ではあるが、プライドの高さは息子以上だ。
そんな男が感情をあらわに話始めた。
「司。いいか、よく聞け。今のおまえはどうかしている。愛だの恋だのおまえはそんなことをするために生まれて来たのではない。・・いいか、おまえは自分が賢いと思っているようだが、あんな娘を好きになって何が賢いものか!おまえは大馬鹿者だ!おまえはいったい何を考えている!!あの娘のどこがそんなにいい?それにあの娘の父親はあの情報を手にわたしを、道明寺を脅迫しようとした!」
司はただ男の言いたいことを黙って聞いていた。
彼の頭の中では、親子であろうが、互いの心と心が通じあったことのない男との会話は、何の意味もない言葉であり、深い川底に溜まった泥のように感じられていた。
光りの届かない暗い水の底で沈殿し、動こうとしない泥。そこへただ落ち、溜まっていくだけの言葉。それはやがて泥の中に消えていく。そう思えるのは、司にとって、どうでもいい男の言葉だからだ。意味のない言葉をどれだけ聞かされようが、心に残ることはない。
そしてそんな男より、自分と牧野つくしとの繋がりが、より深いところで繋がっているように感じられていた。
今の司は確かにそう感じていた。目の前の男との血の繋がりよりも、もっと深いものを彼女に感じていた。
「それにおまえが花沢で何を言ったか、わたしが知らんとでも思っているのか!おまえは後先も考えることが出来なくなったのか!あの土地は・・買収する会社の土地にどれだけの価値があるのかおまえは分かっているはずだ!」
財閥の買収先を勝手に譲ると言った話しは既に貴の耳に届いていた。
「それとも女に溺れて頭の中はセックスのことで一杯か?おまえはあの娘に子供を産ませ、この家を継がせると言ったが、これだけ時間がかかっても子供が出来ないのはどういうことだ?おまえはNYへ渡ったころ、女を妊娠させたことがあったな。あれは残念ながら流れてしまったが、簡単に女を孕ませることが出来るおまえにしては随分と手をこまねいているようだが、あの娘は子どもを産むことが出来ないんじゃないのか?」
つくしに子供が出来ないことは、貴にとっては喜ばしいことだ。
どこの馬の骨か分からないような女が産んだ子供に、道明寺家の跡を取らせるなどもっての外だ。貴は司の返事を待たず、一方的に話し続けていた。それは、まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるようだ。
「司、いい加減にしろ!目を覚ませ!それほどあの娘が欲しいなら愛人にしろ。愛人にしておまえは子供の出来るちゃんとした家の娘と結婚しろ!それが財閥のためだ!それが道明寺の家のためだ!おまえの生きる意味はその為だけにある!いいか?おまえがあの娘に持つ執着心など財閥にはなんの足しにもならんのだ!」
司の黒い瞳は、己と同じ顔をした男を、まるで病に侵された人間のように見た。
そして、彼には似合わない穏やかな声で言い放った。
「・・なあ。そろそろ俺から話しをしてもいいか?・・あんた黙って聞いてりゃ言いたい放題だな。後先も考えねぇのはてめぇの方だろうが。人の命狙っといて偉そうなこと言うんじゃねぇよ。ま、何度言ったところで否定されるのは分かってる。あんなことやらせといて、はい、そうです。なんて認める人間はいやしねぇからな」
真実を知る人間はこの世で二人しかおらず、そのうち一人は目の前にいる男だが、話すつもりはないことは分かっている。
そしてもう一人は狙撃した人間だが、見つけることは出来なかった。
「それから色々質問されたから答えてやるよ。まずあのUSBだ。あれは確かに俺が持っている。確かにあの内容が公になれば、財閥は一大スキャンダルに見舞われることになる。それにリストに名前のある政治家どもの進退は間違いなく問われる。そうなれば、うちで飼ってる政治家はいなくなるってことだ。そうなったとき、困るのは財閥の仕事だろうな・・」
「司、おまえもそれがわかっているならいい。だからあの情報を、リストを表に漏らしてはならんのだ!」
「・・そう思うんなら、牧野に手を出すな。あんたがあいつに手を出さないならリストを公開することはしねぇよ。・・けど、もしあんたがあいつに手を出そうとするなら俺は迷うことなく公開してやるよ。あれが10年前で例え時効だとしても、週刊誌で書き立ててやる。
どうせ政治家先生は叩けば埃はいくらでも出る。あれをきっかけに二弾、三弾と書かせてやる。そうなったら辞職に追い込まれる先生方もいるはずだ。何しろ花沢物産から横取りした会社も政治家頼みだ。あの時は選挙の資金が足りねぇってことだったな・・あの先生、政治資金収支報告書なんての、真面目に書いたことあんのか?」
企業が政党や政治資金団体へ献金することは認められているが、政治家個人に献金を行うことは政治資金規正法で禁止されている。それは企業への有利な法案成立や口利きを頼んでいると考えられるからだ。実際、花沢物産が系列化を計画していた会社を道明寺がかすめ取ったとき、子飼いの政治家の力が働いた。そしてその見返りが選挙資金の援助だ。
「司、おまえは何を考えている!馬鹿なことを言うな!・・おまえにそんなことが出来るはずがない!会社を駄目にすることがどんなことになるのかおまえには理解出来んのか!」
「あんた俺に出来ないと思ってるのか?・・そうか、それならいいモノ見せてやるよ」
司は手に持っていたA4サイズの封筒を貴に手渡した。
「・・いったいこれはなんだ!誰がこんなことを!」
貴が手にしたのは、『道明寺ホールディングス未公開株の政治家・官僚への譲渡疑惑』と書かれた一枚の紙だ。そこには10年前、財閥が関連会社の上場前の株式を当時の政権を担っていた与党の大物政治家を含む官僚に無償で譲り渡したことが記されていた。だが、その内容はあくまでも臆測にすぎないが、と書かれており、俗に言う社内で出回る怪文書だ。
「それはうちのビルの男子トイレに貼ってあったそうだ。今のところ、役員フロアだけらしいが個室の扉の内側と、小便をする時の目の高さに合わせて貼ってあったらしいぜ」
「・・そんな場所に貼られたものなど・・誰が信じる!誰がこんなことを!!」
真偽不明なことを、もっともらしく書かれれば、目にする者の興味を誘う。
それこそ週刊誌に書かれているレベルかもしれないが、それが社内の中で行われた意味は大きい。つまりそれは、不正を暴くための内部告発と捉えることが出来る。
「・・司・・まさかとは思うがおまえか!?おまえはいったい何を考えてこんなことをする!道明寺がどうなっても構わんのか!」
「ああ。道明寺の家がどうなろうが俺には関係ねぇな。ただし、会社が無くなれば困るのは従業員だろ?そこらへんはわきまえてるつもりだが、あんたどう思う?・・それから俺はあいつ以外と寝るつもりなんてねぇから。それに勿論子供を作るつもりもねぇ。他の女とヤルくれぇならパイプカットでもしてやるよ。俺の遺伝子はあんたと違ってどうでもいい女の腹ん中に残したくはねぇんだわ」
両親の結婚を揶揄する言葉。
互いに愛のない結婚をした男女の間に生まれた子供など悲劇でしかない。
「・・あんた自分の遺伝子を受け継ぐ人間が欲しいなら、今からでも若い女に産ませろ。俺は腹違いの弟でも全然構わねぇけど?そいつに道明寺を継がせろ。そうすりゃ俺はお役御免だ」
司が目を合わせた男は、彼を睨みつけてきた。
だが司は逆にその目を睨み返し、口元に冷たい笑みを浮かべた。
「ああ、それからリストを公開しない条件がもうひとつある。あんたには会長を辞めてもらう。引退しろ。そうすりゃあんたは発言権のないただの男だ」
「なんだと!そんなことが許されると思っているのか!この会社はわたしがここまで大きくした会社だ!それを_」
「それを潰したくねぇだろ?あんたさえ身を引けば黙っててやるよ、親父さん?」
多くは望まない。
司が求めているのは、ただ、彼女と一緒にいることだけ。
何があろうと、ただそれだけでよかった。
それが道端の草と同じ名前の女性だとしても。
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司×**OVE様
おはようございます^^
父親と対決。司は父親に人間性を期待していましたが、無理でしたね?(笑)
親としての心も0.1%どころか、全く感じられないといった感じですね。
そうなんです。NYで孕ませたことがあったんです。え?認めたくないから頭の中から消去されていたんですね?(笑)
これから先、まだ何かありそうな気がします。
色々と疑問もあると思いますが、今は応援してあげて下さい^^
コメント有難うございました^^
おはようございます^^
父親と対決。司は父親に人間性を期待していましたが、無理でしたね?(笑)
親としての心も0.1%どころか、全く感じられないといった感じですね。
そうなんです。NYで孕ませたことがあったんです。え?認めたくないから頭の中から消去されていたんですね?(笑)
これから先、まだ何かありそうな気がします。
色々と疑問もあると思いますが、今は応援してあげて下さい^^
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.05.17 21:18 | 編集

とん**コーン様
司。格好良過ぎですか?(笑)
あの道明寺貴。スコッチを少し飲むどころか、ストレートでがぶ飲みしているご様子でした。
司は自分の父親を敵に回してもつくしを守るつもりでいます。
彼にとって、つくしはいい女なんでしょうねぇ(笑)
つくし、妊娠しないな~の件・・・読み落としていません(笑)
そして今の司なら、愛のある営みが出来るはずですね?(笑)
アカシアもそうなることを願います。
コメント有難うございました^^
司。格好良過ぎですか?(笑)
あの道明寺貴。スコッチを少し飲むどころか、ストレートでがぶ飲みしているご様子でした。
司は自分の父親を敵に回してもつくしを守るつもりでいます。
彼にとって、つくしはいい女なんでしょうねぇ(笑)
つくし、妊娠しないな~の件・・・読み落としていません(笑)
そして今の司なら、愛のある営みが出来るはずですね?(笑)
アカシアもそうなることを願います。
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.05.17 21:29 | 編集

pi**mix様
イケメン親子対決。すべて坊っちゃんが勝ちましたか?(笑)
坊っちゃんが何を言ってもかっこいい(笑)
思いっきり仕事させてあげたら、どんなお仕事をしてくれるのか。そんな思いもあります。
愛を知った男の覚悟。何しろ今までが今まででしたから、目覚めた坊っちゃんは最強です(笑)
司の貴への思いの中には、親としての優しさを期待していた面もありますが、それは残念ながら無理でしたね?貴も親としてのプライドもあり、この父と子は心が通じ合うことは、なさそうですねぇ。
最後はどこか客観的に見る坊っちゃん。
今回は、坊っちゃんの勝利でした(笑)
コメント有難うございました^^
イケメン親子対決。すべて坊っちゃんが勝ちましたか?(笑)
坊っちゃんが何を言ってもかっこいい(笑)
思いっきり仕事させてあげたら、どんなお仕事をしてくれるのか。そんな思いもあります。
愛を知った男の覚悟。何しろ今までが今まででしたから、目覚めた坊っちゃんは最強です(笑)
司の貴への思いの中には、親としての優しさを期待していた面もありますが、それは残念ながら無理でしたね?貴も親としてのプライドもあり、この父と子は心が通じ合うことは、なさそうですねぇ。
最後はどこか客観的に見る坊っちゃん。
今回は、坊っちゃんの勝利でした(笑)
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.05.17 21:32 | 編集
