入院生活といったものは、決められたレールの上を走るようなものだ。
決まった時間に、決められたことをする。
検温も、食事も、薬の時間も回診時間も決まっていた。
もちろん特別室に入る人間は厳しくチェックされる。
それが例え見知った医師や看護師だとしても。
特別室は一般病棟と異なり、壁は白一色ではない。
特別室の代名詞として称されるのは、『まるでホテルのようだ』の言葉だが、この病院の特別室はそれ以上かもしれなかった。
病院によくあるスティールのベッドではなく、木製の大きなベッドに羽根布団が掛けられ、ソファやテーブルは重厚な作りで超一流品であることが見ただけで分かる。
冷蔵庫や大型テレビがあるのは当然だが、マッサージチェアや大型の金庫まである。
バスルームや、ミニキッチンは当然で、まるでコンドミニアムのような設備だ。そしてまさにホテルのコネクティングルームのような扉があり、その先には付き添いの人間が休むための部屋があると聞かされた。
道明寺財閥の病院は、著名人や政治家の避難場所として使われることもある。
だからこそ特別室の仕様が立派である必要があるのだ。
そしてここは、つくしが暮らしていたアパートの部屋よりも広かった。
無残にも司によって取り壊されてしまったアパートよりも・・。
つくしは昼食が終りベッドの上で、うつらうつらしていた。
今日も少し歩く練習をしましょうと言われ、食事の前、特別室の中を歩いていた。
ただ歩くだけだが暫くベッドで過ごしていたせいか、脚の筋力が落ちているのが自分でも分かった。少し身体を動かしただけだというのに、疲れてしまったのは、体力が落ちている証拠だった。
そして眠るとあの夢を見た。
命を落とすのではないかと思われた時の夢を。
あの時、司に向かって走っていた。
あれは彼の顔にピントが合った瞬間だった。
あの瞬間、一瞬なにが起きたのか分からなかった。
痛みを感じたのか、と聞かれればそうだろう。だがどこか他人事のような気がした。
おぼろげな記憶の中にあるのは、彼に抱きしめられ、名前を呼ばれていたことだけ。
それ以外あの時の記憶は一切ない。そして意識を取り戻したとき、傍にいてくれた彼は手を握り、心配そうにじっと見つめていた。
最初はどうして自分が病院のベッドの上で寝ているのか分からなかったが、頭がはっきりとしてくると、怪我をし、手術を受けたのだと教えられた。そしてその怪我が銃で撃たれたためだと教えられた。どうして・・と、思いながら心の中には錯綜する思いがあった。
それは複雑な思いだ。言葉にはしなかったが、自分の身に何かが起こるとすれば、全ての原因はあのこと以外ないと分かっていた。
いつだったか父親に言われた言葉。
生きていようが、死んでいようが関係なく財閥から金が手に入る。
それは両親の死後、発見したUSBメモリに記録されていた内容を見てわかった。
父親である浩はその情報を元に司の父親を脅迫したはずだ。
だが実際脅したかどうかつくしは確認しようがなかった。
両親が亡くなり、自分自身が怪我をした事故にあった理由も、初めはただの交通事故だと思っていたが、追突してきた車は見つからず、当然だが運転手も所有者も見つからずの状態。
警察は運転していた人間を捜してくれたが、その行方はようとして掴めなかった。
やがて、あのUSBメモリの存在から察することが出来た。
そして、どうして類が花沢邸で暮らすようにと言った理由も。
甲斐甲斐しく世話をしてくれる道明寺は、四六時中傍に居たいといった表情で見る。
そんな彼に対し、考えることは沢山あった。
それは長い間ずっと秘密にしていたUSBメモリの存在とその中身だ。
今はもう知られてしまったが、それでよかったのだろうか。
あの存在が道明寺の立場を苦しめるのではないだろうか。
そして財閥の立場を悪くするのではないだろうか。
あのとき、父親の遺品の中から見つけたが、処分してしまえばよかったのかもしれない。
今のあたしと道明寺の間には、語られはしないが、お互い何を言いたかったのか、伝えることが出来たはずだ。二人とも分かっている。あの頃、自分たちの知らないところで互いの両親が取った行動と、父親たちの間に何が起きていたのか今はもう知っている。
真実はと問われれば、それを知る人物は道明寺貴だが、その人に会って本当のことを話して欲しいと言うチャンスは、恐らくないだろう。
それにもし会うチャンスがあったとしても、好きな人の父親を怖いと感じてしまう。
恐ろしいといった思いが頭を過る。
こうなってしまった罪が誰にあるのかと問われれば、それは自分かもしれない。
あたしが、彼を、道明寺を好きになってしまったから。
道明寺楓にも言われたことがある。身分が違うと。道明寺家に相応しくないと。
でも彼の言葉を信じたあたしは、彼についていこうと思った。
でも出来なかった。弱い自分に負けた。家族のためとはいえ、弱い方へ流された自分がいた。
「・・・つくし?眠ってるのかい?」
ベッドの足元から声がした。
つくしは暫く夢とうつつの間にいるように、ぼんやりとしていた。
やがてその声は近づいて来た。
「・・つくし?」
夢ではない。その声は懐かしい人の声だ。
つくしはパッと目を見開くとベッドのすぐ傍に立つ女性を見た。
「タマさん!!」
つくしは起き上ろうとしたが痛みに呻いた。
「つくし・・つくし・・あんた・・大丈夫なのかい?起きなくていいから、あんたは寝てなさい」
「タマさん!ど、どうしてここに?」
「坊っちゃんだよ。坊っちゃんが教えて下さったんだよ」
道明寺邸で使用人頭を務める小柄な老婆は、長年気難しい主人に仕えてきた。
それは司の祖父の時代まで遡るが、歳月と共に仕える代は変わり、今では世田谷の邸は司のものになっていた。それと共に、老婆も人生の終焉を迎える前の最期の奉公といった年令になっているはずだ。出会った頃は、つっけんどんな態度や言葉に戸惑ったが、共に過ごす時間が増えれば、その言葉に裏に、温かな愛情が感じられるようになった。そしてそんな老婆は10年前、若い二人の恋を応援してくれていた。
「・・ちょっと座らせてもらうよ・・最近脚が悪くなってね・・杖だけで立っとくのが辛くてね・・」
タマはベッドの傍の椅子に腰を下ろした。
しばし沈黙し、つくしの顔をじっと見つめていたが、しんみりとした口調で話し始めた。
「あの時、あたしゃあんたに何もしてやることが出来なくて後悔した・・。それにどうして坊っちゃんがあんなことをしたのかも理解できなかった・・・」
タマに会うのはあの時以来だ。
それは世田谷の邸の地下室に監禁されていたとき、一度だけ食事の世話をしに来たことがあった。
あのとき優しく手を握られ、何もしてやることが出来ないけど頑張りなさい、と言ってあめ玉をひとつ手渡された。そして、どうしてこんなことになったのか、いつか話して欲しいと言われていた。
「タマさん、あたしね・・」
「つくし・・いいんだよ・・あのとき、どうして坊っちゃんと別れたあと、花沢の類坊っちゃんの元で暮らしていたのか教えてくれって聞いたけどね、もういいんだよ・・」
皺の寄った老婆の手は、あの時と同じく優しくつくしの手を握った。
「つくし・・あんたは坊っちゃんの心に開いた傷口を癒してくれたんだね?」
開いた傷口・・
それは確かにつくしが司の心に付けた傷だ。
タマから見れば、主人であるが、孫のような存在だった男を傷つけた女は自分だ。
雨に濡れる男を一人残し、後ろを振り返ることなく立ち去った。
あのとき、見捨てられた仔犬のような姿で立ちすくむ男にタマは胸を痛めたはずだ。
少し前まで至福な表情を浮かべた二人がいた。だがそれを早く忘れたかった女は、足早に立ち去っていた。
あの日、服に染み込んだ雨が、心の奥まで染み込み、頑な男にしてしまったのは自分のせいだ。あの時の道明寺の喪失感を思えば、それは人生にぽっかりと開いた大きな穴だったはずだ。
「つくし、ごめんよ。あたしが聞いたばっかりに、過去を思い出さちまって・・。でもそんなに自分を責めるんじゃないよ。辛い過去ってのは、いつでも鮮やかに思い出されるものなんだよ。だからっていつまでも自分を責めるなんてことをしていたら幸せになんかなれないんだよ?」
目を細めた老婆がつくしの考えを読んだように言った。
「いいかい、つくし。自分の弱さを恥じる必要もないんだよ・・・人間は弱さがあって当然だからね・・完璧な人間なんてどこにもいやしないんだ・・人生が傷ついていたとしても、その傷があるから人間は強くなれるんだ。辛い記憶があるんなら、その記憶から逃げるんじゃなくて記憶を抱きしめればいいんだよ・・あんた坊っちゃんを抱きしめることが出来るんだろ?それと同じだと思うがね?」
老婆の言葉は、あの日の午後、二人で過ごした楽しかった時間を蘇らせた。
別れるなど思いもしなかったあの日。無防備に笑う男を見た自分がいた。
そんな男と一緒に辛かった記憶を抱きしめればいい。老婆はそう言っている。
「つくし、もしこれからもあの日のことを思い出すことがあったとしても、あんたにとって必要なのは坊っちゃんの手以外何もないんだろ?いいかい?よくお聞き。坊っちゃんはもうあんたの手を離すことは絶対にない。これだけは言える。お小さい頃からずっと見て来たあたしが言うんだから間違いない。坊っちゃんは自分の大切な物は絶対に離しはしないよ・・それが例え一度手を離れたとしても取り戻すことが出来たんだ。二度と離しゃしないよ・・この10年の坊っちゃんは、あんたに会えなくて気が狂ってたんだよ・・そう思いな。だからこれから先、何があっても手を離すんじゃないよ」
手を離さない。
つくしは守られるだけの女じゃないと言った覚えがある。
守るべきものは自分で決めることが出来る女だ。
「それにしても、つくしは根っからの日本人だよ・・。忍耐は美徳って言うだろ?あんたは昔からそれを体現してる人間だ。今どきの若い人間にそんなことが出来るなんてね。日本もまだまだ捨てたもんじゃないね。あんた、10年間、秘密を守ったんだろ?」
「タマさん、あの・・」
「いいんだよ、つくし。坊っちゃんはタマには話してくれた・・色々とね。こう見えてもタマは道明寺家に代々仕えてきた身だよ。時代の流れと共に色んなことを見て来たからね。それに心配しなくても大丈夫。道明寺家の秘密は墓場まで持っていくのがあたしの仕事だからね。でも言うだろ?祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者心衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず・・。平家物語だよ。わかるだろ?ただ坊っちゃんにはそうなって欲しくない気持ちがあるんだよ・・色々あってもタマにとっては道明寺の家は永遠なんだよ。それに坊っちゃんはタマにとっては孫みたいなものだからね・・」
老婆にとって司は主であり、孫でもある存在。
かわいくて仕方がなかった幼い頃を思い出しているのだろう。
「つくし、坊っちゃんはね、昔から欲しいと思ったものは何でも与えてもらえる環境にいた。何かを犠牲にして手に入れる必要なんてなかった。でもあんたと知り合って、あんたを好きになってからの坊ちゃんは違っただろ?あの坊っちゃんが自分を犠牲にしてまであんたを欲しいと思ったんだ。自分の満足のためなら相手の痛みなんて気にも留めなかったあの坊っちゃんがね・・だからお願いだよ。もしこれから何かがあったとしても、坊っちゃんの傍を離れないでおくれ。それがあたしの今生の別れの言葉だと思ってくれないかい?」
人生には限りがある。
だから精一杯生きるんだよ。
そして人のしでかした事には、時効がある。
あんたなら、何があっても許してやることは出来るだろうけどね・・。
そう言ってタマは帰って行ったが、もちろん分かってる。
タマの心配そうな表情につくしはゆっくりと頷いた。

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特別室は一般病棟と異なり、壁は白一色ではない。
特別室の代名詞として称されるのは、『まるでホテルのようだ』の言葉だが、この病院の特別室はそれ以上かもしれなかった。
病院によくあるスティールのベッドではなく、木製の大きなベッドに羽根布団が掛けられ、ソファやテーブルは重厚な作りで超一流品であることが見ただけで分かる。
冷蔵庫や大型テレビがあるのは当然だが、マッサージチェアや大型の金庫まである。
バスルームや、ミニキッチンは当然で、まるでコンドミニアムのような設備だ。そしてまさにホテルのコネクティングルームのような扉があり、その先には付き添いの人間が休むための部屋があると聞かされた。
道明寺財閥の病院は、著名人や政治家の避難場所として使われることもある。
だからこそ特別室の仕様が立派である必要があるのだ。
そしてここは、つくしが暮らしていたアパートの部屋よりも広かった。
無残にも司によって取り壊されてしまったアパートよりも・・。
つくしは昼食が終りベッドの上で、うつらうつらしていた。
今日も少し歩く練習をしましょうと言われ、食事の前、特別室の中を歩いていた。
ただ歩くだけだが暫くベッドで過ごしていたせいか、脚の筋力が落ちているのが自分でも分かった。少し身体を動かしただけだというのに、疲れてしまったのは、体力が落ちている証拠だった。
そして眠るとあの夢を見た。
命を落とすのではないかと思われた時の夢を。
あの時、司に向かって走っていた。
あれは彼の顔にピントが合った瞬間だった。
あの瞬間、一瞬なにが起きたのか分からなかった。
痛みを感じたのか、と聞かれればそうだろう。だがどこか他人事のような気がした。
おぼろげな記憶の中にあるのは、彼に抱きしめられ、名前を呼ばれていたことだけ。
それ以外あの時の記憶は一切ない。そして意識を取り戻したとき、傍にいてくれた彼は手を握り、心配そうにじっと見つめていた。
最初はどうして自分が病院のベッドの上で寝ているのか分からなかったが、頭がはっきりとしてくると、怪我をし、手術を受けたのだと教えられた。そしてその怪我が銃で撃たれたためだと教えられた。どうして・・と、思いながら心の中には錯綜する思いがあった。
それは複雑な思いだ。言葉にはしなかったが、自分の身に何かが起こるとすれば、全ての原因はあのこと以外ないと分かっていた。
いつだったか父親に言われた言葉。
生きていようが、死んでいようが関係なく財閥から金が手に入る。
それは両親の死後、発見したUSBメモリに記録されていた内容を見てわかった。
父親である浩はその情報を元に司の父親を脅迫したはずだ。
だが実際脅したかどうかつくしは確認しようがなかった。
両親が亡くなり、自分自身が怪我をした事故にあった理由も、初めはただの交通事故だと思っていたが、追突してきた車は見つからず、当然だが運転手も所有者も見つからずの状態。
警察は運転していた人間を捜してくれたが、その行方はようとして掴めなかった。
やがて、あのUSBメモリの存在から察することが出来た。
そして、どうして類が花沢邸で暮らすようにと言った理由も。
甲斐甲斐しく世話をしてくれる道明寺は、四六時中傍に居たいといった表情で見る。
そんな彼に対し、考えることは沢山あった。
それは長い間ずっと秘密にしていたUSBメモリの存在とその中身だ。
今はもう知られてしまったが、それでよかったのだろうか。
あの存在が道明寺の立場を苦しめるのではないだろうか。
そして財閥の立場を悪くするのではないだろうか。
あのとき、父親の遺品の中から見つけたが、処分してしまえばよかったのかもしれない。
今のあたしと道明寺の間には、語られはしないが、お互い何を言いたかったのか、伝えることが出来たはずだ。二人とも分かっている。あの頃、自分たちの知らないところで互いの両親が取った行動と、父親たちの間に何が起きていたのか今はもう知っている。
真実はと問われれば、それを知る人物は道明寺貴だが、その人に会って本当のことを話して欲しいと言うチャンスは、恐らくないだろう。
それにもし会うチャンスがあったとしても、好きな人の父親を怖いと感じてしまう。
恐ろしいといった思いが頭を過る。
こうなってしまった罪が誰にあるのかと問われれば、それは自分かもしれない。
あたしが、彼を、道明寺を好きになってしまったから。
道明寺楓にも言われたことがある。身分が違うと。道明寺家に相応しくないと。
でも彼の言葉を信じたあたしは、彼についていこうと思った。
でも出来なかった。弱い自分に負けた。家族のためとはいえ、弱い方へ流された自分がいた。
「・・・つくし?眠ってるのかい?」
ベッドの足元から声がした。
つくしは暫く夢とうつつの間にいるように、ぼんやりとしていた。
やがてその声は近づいて来た。
「・・つくし?」
夢ではない。その声は懐かしい人の声だ。
つくしはパッと目を見開くとベッドのすぐ傍に立つ女性を見た。
「タマさん!!」
つくしは起き上ろうとしたが痛みに呻いた。
「つくし・・つくし・・あんた・・大丈夫なのかい?起きなくていいから、あんたは寝てなさい」
「タマさん!ど、どうしてここに?」
「坊っちゃんだよ。坊っちゃんが教えて下さったんだよ」
道明寺邸で使用人頭を務める小柄な老婆は、長年気難しい主人に仕えてきた。
それは司の祖父の時代まで遡るが、歳月と共に仕える代は変わり、今では世田谷の邸は司のものになっていた。それと共に、老婆も人生の終焉を迎える前の最期の奉公といった年令になっているはずだ。出会った頃は、つっけんどんな態度や言葉に戸惑ったが、共に過ごす時間が増えれば、その言葉に裏に、温かな愛情が感じられるようになった。そしてそんな老婆は10年前、若い二人の恋を応援してくれていた。
「・・ちょっと座らせてもらうよ・・最近脚が悪くなってね・・杖だけで立っとくのが辛くてね・・」
タマはベッドの傍の椅子に腰を下ろした。
しばし沈黙し、つくしの顔をじっと見つめていたが、しんみりとした口調で話し始めた。
「あの時、あたしゃあんたに何もしてやることが出来なくて後悔した・・。それにどうして坊っちゃんがあんなことをしたのかも理解できなかった・・・」
タマに会うのはあの時以来だ。
それは世田谷の邸の地下室に監禁されていたとき、一度だけ食事の世話をしに来たことがあった。
あのとき優しく手を握られ、何もしてやることが出来ないけど頑張りなさい、と言ってあめ玉をひとつ手渡された。そして、どうしてこんなことになったのか、いつか話して欲しいと言われていた。
「タマさん、あたしね・・」
「つくし・・いいんだよ・・あのとき、どうして坊っちゃんと別れたあと、花沢の類坊っちゃんの元で暮らしていたのか教えてくれって聞いたけどね、もういいんだよ・・」
皺の寄った老婆の手は、あの時と同じく優しくつくしの手を握った。
「つくし・・あんたは坊っちゃんの心に開いた傷口を癒してくれたんだね?」
開いた傷口・・
それは確かにつくしが司の心に付けた傷だ。
タマから見れば、主人であるが、孫のような存在だった男を傷つけた女は自分だ。
雨に濡れる男を一人残し、後ろを振り返ることなく立ち去った。
あのとき、見捨てられた仔犬のような姿で立ちすくむ男にタマは胸を痛めたはずだ。
少し前まで至福な表情を浮かべた二人がいた。だがそれを早く忘れたかった女は、足早に立ち去っていた。
あの日、服に染み込んだ雨が、心の奥まで染み込み、頑な男にしてしまったのは自分のせいだ。あの時の道明寺の喪失感を思えば、それは人生にぽっかりと開いた大きな穴だったはずだ。
「つくし、ごめんよ。あたしが聞いたばっかりに、過去を思い出さちまって・・。でもそんなに自分を責めるんじゃないよ。辛い過去ってのは、いつでも鮮やかに思い出されるものなんだよ。だからっていつまでも自分を責めるなんてことをしていたら幸せになんかなれないんだよ?」
目を細めた老婆がつくしの考えを読んだように言った。
「いいかい、つくし。自分の弱さを恥じる必要もないんだよ・・・人間は弱さがあって当然だからね・・完璧な人間なんてどこにもいやしないんだ・・人生が傷ついていたとしても、その傷があるから人間は強くなれるんだ。辛い記憶があるんなら、その記憶から逃げるんじゃなくて記憶を抱きしめればいいんだよ・・あんた坊っちゃんを抱きしめることが出来るんだろ?それと同じだと思うがね?」
老婆の言葉は、あの日の午後、二人で過ごした楽しかった時間を蘇らせた。
別れるなど思いもしなかったあの日。無防備に笑う男を見た自分がいた。
そんな男と一緒に辛かった記憶を抱きしめればいい。老婆はそう言っている。
「つくし、もしこれからもあの日のことを思い出すことがあったとしても、あんたにとって必要なのは坊っちゃんの手以外何もないんだろ?いいかい?よくお聞き。坊っちゃんはもうあんたの手を離すことは絶対にない。これだけは言える。お小さい頃からずっと見て来たあたしが言うんだから間違いない。坊っちゃんは自分の大切な物は絶対に離しはしないよ・・それが例え一度手を離れたとしても取り戻すことが出来たんだ。二度と離しゃしないよ・・この10年の坊っちゃんは、あんたに会えなくて気が狂ってたんだよ・・そう思いな。だからこれから先、何があっても手を離すんじゃないよ」
手を離さない。
つくしは守られるだけの女じゃないと言った覚えがある。
守るべきものは自分で決めることが出来る女だ。
「それにしても、つくしは根っからの日本人だよ・・。忍耐は美徳って言うだろ?あんたは昔からそれを体現してる人間だ。今どきの若い人間にそんなことが出来るなんてね。日本もまだまだ捨てたもんじゃないね。あんた、10年間、秘密を守ったんだろ?」
「タマさん、あの・・」
「いいんだよ、つくし。坊っちゃんはタマには話してくれた・・色々とね。こう見えてもタマは道明寺家に代々仕えてきた身だよ。時代の流れと共に色んなことを見て来たからね。それに心配しなくても大丈夫。道明寺家の秘密は墓場まで持っていくのがあたしの仕事だからね。でも言うだろ?祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者心衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず・・。平家物語だよ。わかるだろ?ただ坊っちゃんにはそうなって欲しくない気持ちがあるんだよ・・色々あってもタマにとっては道明寺の家は永遠なんだよ。それに坊っちゃんはタマにとっては孫みたいなものだからね・・」
老婆にとって司は主であり、孫でもある存在。
かわいくて仕方がなかった幼い頃を思い出しているのだろう。
「つくし、坊っちゃんはね、昔から欲しいと思ったものは何でも与えてもらえる環境にいた。何かを犠牲にして手に入れる必要なんてなかった。でもあんたと知り合って、あんたを好きになってからの坊ちゃんは違っただろ?あの坊っちゃんが自分を犠牲にしてまであんたを欲しいと思ったんだ。自分の満足のためなら相手の痛みなんて気にも留めなかったあの坊っちゃんがね・・だからお願いだよ。もしこれから何かがあったとしても、坊っちゃんの傍を離れないでおくれ。それがあたしの今生の別れの言葉だと思ってくれないかい?」
人生には限りがある。
だから精一杯生きるんだよ。
そして人のしでかした事には、時効がある。
あんたなら、何があっても許してやることは出来るだろうけどね・・。
そう言ってタマは帰って行ったが、もちろん分かってる。
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司×**OVE様
こんにちは^^
入院中は何もすることがなく、ぼんやりと過ごす以外ありません。
そんな状況でつくしちゃん、また色々と考えてしまいました。
司のパパとつくしのパパ。二人に翻弄されていたようです。
USBはひとつのお守りだったのかもしれませんね・・これがあるから司と繋がっていると考えたかもしれません。
タマさんも地下室に閉じ込められたつくしに会ったとき、驚いたと思います。
それでも、司がどこか変わっていく姿を目にし、安堵し始めていたことでしょう。
そんな時に会いに行って欲しいと事情を説明されたことでしょう。
二人が早く過去から解放されて欲しいですよね・・
頑張れ司、つくし!
コメント有難うございました^^
こんにちは^^
入院中は何もすることがなく、ぼんやりと過ごす以外ありません。
そんな状況でつくしちゃん、また色々と考えてしまいました。
司のパパとつくしのパパ。二人に翻弄されていたようです。
USBはひとつのお守りだったのかもしれませんね・・これがあるから司と繋がっていると考えたかもしれません。
タマさんも地下室に閉じ込められたつくしに会ったとき、驚いたと思います。
それでも、司がどこか変わっていく姿を目にし、安堵し始めていたことでしょう。
そんな時に会いに行って欲しいと事情を説明されたことでしょう。
二人が早く過去から解放されて欲しいですよね・・
頑張れ司、つくし!
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.05.13 22:57 | 編集

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マ**チ様
こんばんは^^
Her story・・彼女のお話しも、やはりとてもドラマチックですね?
自分を呼ぶ声だけを頼りに、必死で歩いてきた彼女の生きたいといった気持ちが伝わりました。そして、抱き上げた腕の中で眠ってしまった。心細かった彼女は、自分を守ってくれる腕の中で安心したんですね?
最初につけた名前が思い出せない!!でも新しい名前にすんなりと馴染んでくれた・・。
適応能力抜群ですね!(笑)主の意向を汲み取る能力に長けていたのでしょうねぇ。
不思議なお話し。確かに不思議ですね。
我が家にもあります。ああ・・そう言うことだったのね・・と言ったお話し。
理屈抜きで思えること・・。世の中には、そんなこともあると思います。
彼、彼女は「ママっ子」でしたか?誰が一番のボスだったのでしょう(笑)
次回、彼女の名前の秘密が明かされるんですね!!
Her story・・。楽しみにお待ちしております!^^
コメント有難うございました^^
こんばんは^^
Her story・・彼女のお話しも、やはりとてもドラマチックですね?
自分を呼ぶ声だけを頼りに、必死で歩いてきた彼女の生きたいといった気持ちが伝わりました。そして、抱き上げた腕の中で眠ってしまった。心細かった彼女は、自分を守ってくれる腕の中で安心したんですね?
最初につけた名前が思い出せない!!でも新しい名前にすんなりと馴染んでくれた・・。
適応能力抜群ですね!(笑)主の意向を汲み取る能力に長けていたのでしょうねぇ。
不思議なお話し。確かに不思議ですね。
我が家にもあります。ああ・・そう言うことだったのね・・と言ったお話し。
理屈抜きで思えること・・。世の中には、そんなこともあると思います。
彼、彼女は「ママっ子」でしたか?誰が一番のボスだったのでしょう(笑)
次回、彼女の名前の秘密が明かされるんですね!!
Her story・・。楽しみにお待ちしております!^^
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.05.14 20:32 | 編集

pi**mix様
こんばんは^^
イケメン親子の喧嘩に気を取られ、タマさんの存在を忘れていた!(笑)
はじめの頃、少しだけ出て来たタマさん。ここで再び登場されました。
タマさんは坊っちゃんのお小さい頃をよく知る人です。
坊っちゃんは気が狂っていたんだよ・・そんなことが言えるのはタマさんだけでしょうねぇ。
司が孫なら貴パパはタマさんにとって息子・・。そうですねぇ・・ばあばは、息子より孫が可愛いものと相場は決まっていますが、タマさん、どうだったんでしょうね?(笑)
パパ、孤独な人だったと思います。戦前の家督相続の考え方を色濃く残す道明寺家。
どんな教育を受けてきたのか・・・。
そう思えば、坊っちゃんにはタマさん、椿さん、F3、そしてつくしちゃんがいます。
やはり人の心を救うのは愛なんでしょうね。
こちらのお話し、まだ続きます(笑)過去を紐解きながら・・となるでしょうか(笑)
コメント有難うございました^^
こんばんは^^
イケメン親子の喧嘩に気を取られ、タマさんの存在を忘れていた!(笑)
はじめの頃、少しだけ出て来たタマさん。ここで再び登場されました。
タマさんは坊っちゃんのお小さい頃をよく知る人です。
坊っちゃんは気が狂っていたんだよ・・そんなことが言えるのはタマさんだけでしょうねぇ。
司が孫なら貴パパはタマさんにとって息子・・。そうですねぇ・・ばあばは、息子より孫が可愛いものと相場は決まっていますが、タマさん、どうだったんでしょうね?(笑)
パパ、孤独な人だったと思います。戦前の家督相続の考え方を色濃く残す道明寺家。
どんな教育を受けてきたのか・・・。
そう思えば、坊っちゃんにはタマさん、椿さん、F3、そしてつくしちゃんがいます。
やはり人の心を救うのは愛なんでしょうね。
こちらのお話し、まだ続きます(笑)過去を紐解きながら・・となるでしょうか(笑)
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.05.14 20:35 | 編集
