太陽の在りかがわからないほどの暗闇に包まれていた男にとって、一筋の光りだった彼女の存在。周りにいる者を明るくすることが出来るその微笑みが欲しくて追いかけた。
強い意志が感じられる真っ直ぐな瞳を自分に、自分だけに向けて欲しかった。
自分を取り巻く暗闇ではなく、自分を照らしてくれる光りを求めもがいていた。
そしてやっと手に入れた女性、牧野つくし。
善良で自分にとって眩しいほどの輝きを持っていた女性。
そんな女性を地獄に引きずりこんだことを謝れと言った類の言葉は正しい。
『あたりまえのように思っていたあいつの笑顔がどんなに価値があるかおまえになら分かるはずだ。あいつの笑顔を消さないようにしてやるのがおまえの役目だ。』
類の放つ言葉は胸を刺されたほど痛かった。
類の愛は優しく包み込むことが出来るだろう。
好きな人の思いを受け止めることが愛。
傍にいて見守ることが愛だと言いたいはずだ。
だが自分の愛は見守ることではない。
心の底から、魂の底からぶつかり合うことが愛だ。
雨の日のあの瞬間までたとえ傷つくことがあってもそうして来た。
あの日、身体にしみついた雨の匂いは今でも覚えていた。
アスファルトを激しく叩く雨が二人の声をかき消すほど強かったことも。
喉が詰まるような声と雨に流されていたが、涙に濡れた頬があったことも。
あの別れを自分のせいとは思わず、彼女ばかり責めてしまった男は、己の後ろにあった暗闇に気がつくことはなかった。
生きるのに必要なのは愛ではなく金だと。
愛は人を惑わす。そして生きていくための防御といったものを壊すと言い放った男は己の父親。あの男は生きいく上で愛など必要ないと言った。生きるのに必要なのは愛ではなく金だと言い放った。この命はあの男に与えられた命だが、生まれてきた意味は道明寺家の為であり、他の何でもないと言った。
たとえ生まれて来た訳がそうだとしても、生きていく意味はわかっている。
生きる意味は彼女のため、大切な人のため生きるからこその人生。
彼女がいなければ生きている意味がない。
人は愛なくして生きる意味があるのか。
あの男に生きる意味があるのかと、問うてみたい。
だが問うだけ無駄というものだ。あの男に愛などわかるはずもないのだから。
ろくでなしだった男のろくでなしの人生は彼女に出会った瞬間から変わった。
それを分かれと言う方が土台無理だ。
人は生きるうえで辛いことがあれば、それを誰かのせいにする。
本当は原因が自分にあるとしても、それを他人のせいにしたがる。
そしてそうして自分を慰める。
だが牧野つくしはそうではない。
責任は自分にある。人生の責任は全て自分にあると考える。
だからこそあの日の別れは自分のせいだと考えている。
そして選ばざるを得なかった選択をしたことを後悔し、今まで生きて来た。
時が過ぎ、全てが忘れられていってもいいはずの10年は、自分にとって忘れられなかった10年だったが、牧野つくしにとっても同じだったことを改めて知った。
牧野つくしのような女はどこを探してもいるわけがない。
だから類もあいつのことを気にかけている。いや気にかけている以前の問題だ。
彼女の口からして特別な存在と言わしめる類の存在。
あの二人にはあの二人だけの世界があった。
自分もその立場になりたくて、彼女がいてくれるならどんなことでもするつもりでいたあの頃があった。
あれから10年経ったが、つまらない嫉妬は未だ健在か。
司は特別室の扉の前にいた。
扉の向うに牧野つくしがいる。
手が届かなかった女はすぐ傍にいる。
自分たちの愛が忌まわしいものに変わった日々があったが、それを許してもらうにはどんな言葉を口にすればいい?
復讐の動機は捨てられたことに対する冷酷で執念深い恨み。その行動は性の奴隷のような扱い。その事に対し何を口にすれば許してもらえる?
今さらながらどんな言葉を口にすればいいのかと躊躇う男は、真面目腐った口元で目の前の扉を開けた。
「道明寺?」
「・・ああ。牧野具合はどうだ?変わりはないか?」
ベッドのヘッドボードに立てかけた枕とクッションを背につくしは司を見た。
備え付けのテーブルには空になったプリンの容器が置かれ、手元には雑誌があった。
司は部屋に入るとベッドの傍に椅子に腰を降ろす
どこか気まずさが感じられるは自分だけだとわかっているが、その思いが伝わったのか、つくしは怪訝な顔で司を見た。
「なに?なにかあったの?あ、さっきね、類が来たの。このプリンも類のお土産でね、まだ冷蔵庫に沢山あるから道明寺にも食べさせろって。でも甘い物が苦手な人にこのプリンは無理だと思うけど食べてみる?」
柔らかく微笑みを浮かべた女は、病院の寝間着から司が用意させたパジャマに着替えていた。自分一人で着替えをすることは無理だが、看護師の手によって着替えたのだろう。
傷口を見ることはなかったが、手術の痕が残ることは確実で、以前のつくしの身体を知る男は、その傷口を見ればどれほど彼女の命が危うかったのかと思うはずだ。
司は顔には出さなかったが己の心臓が止まるかと思ったあの瞬間を思い出していた。
心が強くなければ、どうにかなっていたかもしれない。
だが自分は傷を負ってはいない。傷を負ったのは牧野つくしだ。
そして心にも傷を負っている。恐かったはずだ。
捕えられ、男の本気の力に勝てるはずがないと知った時の恐怖は如何ばかりのものだったか。かつて愛していた男の暴力的行為は死ぬほど怖かったはずだ。
だが彼女に対する激しい思いが、己の性格の一面である激しさがそんなことをさせたと言えばそれは言い訳になる。
「・・?道明寺?どうしたの?」
「あ・・ああ。牧野、少し話しをしてもいいか?」
「えっ?うん。もちろん・・」
男の改まった口調がつくしの居住まいを正し、開かれていた雑誌を閉じる。
もしキスだけで思いを伝えることが出来るなら、何度でもそうするだろう。
だが男としてのけじめをつけろと類に言われた。類に言われたからそうするわけではない。
自分でもつくしの心と身体を傷つけてしまったと認識がある。だからこそ、今のままでは許されないのだ。だがどんな言葉を口にすればいいのか。
「まきの・・これからも俺の傍にいてくれるのか?」
「どうしたの?いきなりそんな_」
「牧野、聞いてくれ。俺はおまえに酷いことをした。男として最低のことだ。嫌がる女を無理矢理自分のものにした」
改めて面と向かって話すことが、嫌な思いをさせはしないかと気になっていた。
司はつくしの表情に移ろうものを探し、緊張しながら言葉を継ぐ。
「俺はひとりの男として見て欲しくて、おまえに向き合ってきた俺を金のために捨てたおまえが憎かった。あの時のおまえの行動が理解できなかった。どうしてあの日だったのか、どうして俺のことを簡単に捨てることができたのか。何故とどうしてばかりが頭にあった」
一瞬その場があの日に戻る。
目を閉じれば瞼の裏に見えるのは雨に濡れたあの日の景色だ。
あの夜は永遠に脳裏に刻まれるのではないかとさえ感じられた。
司は息を深く吸って吐き出す。
「だが俺はどうしておまえが離れていったのか、その理由を深くは知ろうとしなかった」
いつもより低い声が出るのは緊張のためか。それともばつが悪く、声が掠れるのを誤魔化すためか。
今は多くを語らないが、二人ともその理由を知っている。
そして類の邸で暮らしていた理由も。
傍にいると言ったつくしの言葉が信じられないわけではない。
こんな男を愛してくれていることが信じられないわけではないが、それでもどこか信じられない思いがある。もしかすると己の身に起きたことは、幻ではなかったのか。
狂気に憑りつかれていた男は、幻聴を、幻を見たのではなかったのか。
だからこそ、どうしても彼女の口からきちんとした言葉で聞きたかった。
「・・まきの・・頼む・・いや。こんなことは頼めることじゃねぇ。・・けど許して欲しい。俺はおまえとのことを・・無理矢理おまえを抱いたことを許して欲しいなんてことは言えねぇけど、俺はおまえとの関係を台無しにはしたくない。おまえは俺を愛してるって言ってくれたよな?あれは夢で、やっぱあの言葉を取り消すっていうなら、その言葉を受け入れなければならねぇっていうなら受け入れる」
言いたくはないが、言わなければならなかった。
こんな話はしたくはない。だが覚悟を決めて言わなければならないならと言葉を継ぐ。
「・・なあ、牧野・・このネックレスは・・よかったらこのネックレスを持っていてくれないか?」
司が差し出したのは、囚われて間もなく彼女の首から持ち去られていたあのネックレス。
少年と少女が恥ずかし気に星を眺めていたあのとき、つくしのために特別に作らせたと言って自らの手で首にかけてくれたネックレス。大きな手からつくしの手にするりと落とされた小さく硬質なそれは、本来なら温かみなど感じることがない塊だが、温もりが感じられるということは、ずっと握りしめていたということか。
「もしこんなもん見たくもねぇと思うなら売れば金にはなる」
司は類の話を聞き、つくしがこのネックレスを大切にしてくれていたと知った。
だからこそ、このネックレスを受け取ってもらうことに意味がある。
試す訳ではないが、彼女の反応が気になった。
だが拒絶されるのではないかと思うと表情を窺うことが怖く、顔を見ることが出来なかった。
「・・・素敵なネックレスね・・」
まるで初めて見たように答えていた。
土星の形をした宝石の輝きは失われてはおらず、むしろあの当時より輝いて見える。
つくしの声は優しく耳に聞こえ、その言葉に微かな期待を感じ、司はネックレスから視線を彼女の顔に移す。
「まきの・・本当に俺の傍にいてくれるのか?」
喉から絞り出すような声。
「俺はおまえのことが・・おまえのことが好きだった・・10年一度も忘れたことはなかった。酷い男だと、世間から何を言われても気になんかならなかった」
誰に何を言われようが、自分にとって意味をなさない人間の言葉など、どうでもいい。
「今の思いは10年前よりも強い。いやあの時も強かったが、今は抑えきれなくなっちまってる。・・だからおまえを抱くことが止められなかった。おまえが俺の前から消えて10年。その間に経験したことは、人として最悪だった。そんな俺は他人に悪夢を見させることが楽しくてならなかった。自分の不幸を他人にも味合わせることが楽しかった」
不幸をばら撒くことが楽しい。
自らの不幸を他人に味合わせることが楽しい。
愛する人に捨てられた男の歪んだ思い。
「俺はずっと一人だった。あの日から、あの雨の日からずっと。誰か傍にいたとしても、それは心なんか無いただの人形だった。俺はあの日から自分を殻に閉じ込め、あの日を忘れるため、あの短くも楽しかった日を忘れるため、自分の心を殺した。なあ、牧野・・俺は今でもおまえが好きだ。好きで好きでたまんねぇ。愛してる。だから_」
行かないでくれ。
それは司が心の中に自らが築いていた壁が崩れた瞬間だった。
彼が誰も受け入れることが無かった心に築かれた壁は10年という長い年月の間に厚みを増し、そして強度を増していた。今まで誰も崩せなかった壁。
あの日、あの雨の日に口にした言葉と同じ。
行くな。
行かないでくれ。
まさか自分の口からまたその言葉が出るとは思いもしなかったはずだ。
だが、それが彼の心の中に、心の奥深くにあった本心。誰も触れることがなかった心の奥底にあった生々しい感情。
それなのに、どうしてその感情を今まで抑えることが出来たのか。
いつの日からか全てを受け入れていた女を前に、どうして今まで言えなかったのか。
道明寺司と言う男は、プライドが高い。もしプライドのせいだとすれば、それは愚かなプライドだ。
そんな男が一生に一度見せるかどうかの態度をたったひとりの女性の前で見せた。
「・・・最悪の状態の道明寺はもういないのよね?」
つくしの意外にさばさばした様子に司は驚いていた。
いくら人を簡単に許すことが出来るとはいえ、口を開いたつくしの瞳は輝いていた。
あの頃と同じ黒い瞳がきらきらと輝き、司を見た。
「道明寺ひとりが悪いわけじゃない・・あたしも悪かったの。あたしが知ってる道明寺は10年前の優しかった道明寺だけなの。・・最悪の状態の道明寺は・・あたしに出会う前の道明寺で、あたしはそんな男は知らないわ。だから許すも許さないもないわ」
罪悪感を引きずって生きる男は見たくない。
そんな男は道明寺司じゃない。
つくしの言葉は司の心に灯りをともしていた。どんな言葉を言われたとしても、甘んじて受けるつもりでいた男にとって情けないほど嬉しい言葉。
「あたしは雑草だから、どんなことをされても平気。それに撃たれたけど大丈夫だから・・アタタ・・あ、でもやっぱりこれはちょっと痛い・・それより道明寺、このネックレスね、チェーンが切れちゃったことがあるの・・。それで類がローマまで持って行ってくれたことがあってね、類の力で早く修理できたからよかったの。だってこのネックレスは_」
司は椅子から立ち上がると、ベッドに座るつくしを抱きしめていた。
まだ点滴の繋がれた腕を気遣い、優しく、そっと包み込む。
「知ってる。肌身離さず付けてたって聞いた」
そして心の拠り所だったとも聞かされた。
どんな言葉を聞かされるより、一番嬉しかったのは10年前に贈ったネックレスが大切に扱われていたことだ。言葉では言い表せないほど嬉しく、そして彼女が、牧野つくしが愛おしい。今はまだ愛し合うことは出来ない。
だがキスはいくらでもすることが出来る。
未だに頬をバラ色に染める女は、あの頃の牧野つくしと同じ。
司は唇を寄せながら囁いた。
「愛してる、牧野つくし」
プリンの味がするキスは、本物のプリンを食べたよりも甘いはずだ。
司は甘いものが苦手だが、それでもこのプリンなら食べてもいいかと思っていた。
愛は哀しいものだった10年があった。
だが今は互いに愛おしさだけが膨れ上がっていた。

にほんブログ村

応援有難うございます。
強い意志が感じられる真っ直ぐな瞳を自分に、自分だけに向けて欲しかった。
自分を取り巻く暗闇ではなく、自分を照らしてくれる光りを求めもがいていた。
そしてやっと手に入れた女性、牧野つくし。
善良で自分にとって眩しいほどの輝きを持っていた女性。
そんな女性を地獄に引きずりこんだことを謝れと言った類の言葉は正しい。
『あたりまえのように思っていたあいつの笑顔がどんなに価値があるかおまえになら分かるはずだ。あいつの笑顔を消さないようにしてやるのがおまえの役目だ。』
類の放つ言葉は胸を刺されたほど痛かった。
類の愛は優しく包み込むことが出来るだろう。
好きな人の思いを受け止めることが愛。
傍にいて見守ることが愛だと言いたいはずだ。
だが自分の愛は見守ることではない。
心の底から、魂の底からぶつかり合うことが愛だ。
雨の日のあの瞬間までたとえ傷つくことがあってもそうして来た。
あの日、身体にしみついた雨の匂いは今でも覚えていた。
アスファルトを激しく叩く雨が二人の声をかき消すほど強かったことも。
喉が詰まるような声と雨に流されていたが、涙に濡れた頬があったことも。
あの別れを自分のせいとは思わず、彼女ばかり責めてしまった男は、己の後ろにあった暗闇に気がつくことはなかった。
生きるのに必要なのは愛ではなく金だと。
愛は人を惑わす。そして生きていくための防御といったものを壊すと言い放った男は己の父親。あの男は生きいく上で愛など必要ないと言った。生きるのに必要なのは愛ではなく金だと言い放った。この命はあの男に与えられた命だが、生まれてきた意味は道明寺家の為であり、他の何でもないと言った。
たとえ生まれて来た訳がそうだとしても、生きていく意味はわかっている。
生きる意味は彼女のため、大切な人のため生きるからこその人生。
彼女がいなければ生きている意味がない。
人は愛なくして生きる意味があるのか。
あの男に生きる意味があるのかと、問うてみたい。
だが問うだけ無駄というものだ。あの男に愛などわかるはずもないのだから。
ろくでなしだった男のろくでなしの人生は彼女に出会った瞬間から変わった。
それを分かれと言う方が土台無理だ。
人は生きるうえで辛いことがあれば、それを誰かのせいにする。
本当は原因が自分にあるとしても、それを他人のせいにしたがる。
そしてそうして自分を慰める。
だが牧野つくしはそうではない。
責任は自分にある。人生の責任は全て自分にあると考える。
だからこそあの日の別れは自分のせいだと考えている。
そして選ばざるを得なかった選択をしたことを後悔し、今まで生きて来た。
時が過ぎ、全てが忘れられていってもいいはずの10年は、自分にとって忘れられなかった10年だったが、牧野つくしにとっても同じだったことを改めて知った。
牧野つくしのような女はどこを探してもいるわけがない。
だから類もあいつのことを気にかけている。いや気にかけている以前の問題だ。
彼女の口からして特別な存在と言わしめる類の存在。
あの二人にはあの二人だけの世界があった。
自分もその立場になりたくて、彼女がいてくれるならどんなことでもするつもりでいたあの頃があった。
あれから10年経ったが、つまらない嫉妬は未だ健在か。
司は特別室の扉の前にいた。
扉の向うに牧野つくしがいる。
手が届かなかった女はすぐ傍にいる。
自分たちの愛が忌まわしいものに変わった日々があったが、それを許してもらうにはどんな言葉を口にすればいい?
復讐の動機は捨てられたことに対する冷酷で執念深い恨み。その行動は性の奴隷のような扱い。その事に対し何を口にすれば許してもらえる?
今さらながらどんな言葉を口にすればいいのかと躊躇う男は、真面目腐った口元で目の前の扉を開けた。
「道明寺?」
「・・ああ。牧野具合はどうだ?変わりはないか?」
ベッドのヘッドボードに立てかけた枕とクッションを背につくしは司を見た。
備え付けのテーブルには空になったプリンの容器が置かれ、手元には雑誌があった。
司は部屋に入るとベッドの傍に椅子に腰を降ろす
どこか気まずさが感じられるは自分だけだとわかっているが、その思いが伝わったのか、つくしは怪訝な顔で司を見た。
「なに?なにかあったの?あ、さっきね、類が来たの。このプリンも類のお土産でね、まだ冷蔵庫に沢山あるから道明寺にも食べさせろって。でも甘い物が苦手な人にこのプリンは無理だと思うけど食べてみる?」
柔らかく微笑みを浮かべた女は、病院の寝間着から司が用意させたパジャマに着替えていた。自分一人で着替えをすることは無理だが、看護師の手によって着替えたのだろう。
傷口を見ることはなかったが、手術の痕が残ることは確実で、以前のつくしの身体を知る男は、その傷口を見ればどれほど彼女の命が危うかったのかと思うはずだ。
司は顔には出さなかったが己の心臓が止まるかと思ったあの瞬間を思い出していた。
心が強くなければ、どうにかなっていたかもしれない。
だが自分は傷を負ってはいない。傷を負ったのは牧野つくしだ。
そして心にも傷を負っている。恐かったはずだ。
捕えられ、男の本気の力に勝てるはずがないと知った時の恐怖は如何ばかりのものだったか。かつて愛していた男の暴力的行為は死ぬほど怖かったはずだ。
だが彼女に対する激しい思いが、己の性格の一面である激しさがそんなことをさせたと言えばそれは言い訳になる。
「・・?道明寺?どうしたの?」
「あ・・ああ。牧野、少し話しをしてもいいか?」
「えっ?うん。もちろん・・」
男の改まった口調がつくしの居住まいを正し、開かれていた雑誌を閉じる。
もしキスだけで思いを伝えることが出来るなら、何度でもそうするだろう。
だが男としてのけじめをつけろと類に言われた。類に言われたからそうするわけではない。
自分でもつくしの心と身体を傷つけてしまったと認識がある。だからこそ、今のままでは許されないのだ。だがどんな言葉を口にすればいいのか。
「まきの・・これからも俺の傍にいてくれるのか?」
「どうしたの?いきなりそんな_」
「牧野、聞いてくれ。俺はおまえに酷いことをした。男として最低のことだ。嫌がる女を無理矢理自分のものにした」
改めて面と向かって話すことが、嫌な思いをさせはしないかと気になっていた。
司はつくしの表情に移ろうものを探し、緊張しながら言葉を継ぐ。
「俺はひとりの男として見て欲しくて、おまえに向き合ってきた俺を金のために捨てたおまえが憎かった。あの時のおまえの行動が理解できなかった。どうしてあの日だったのか、どうして俺のことを簡単に捨てることができたのか。何故とどうしてばかりが頭にあった」
一瞬その場があの日に戻る。
目を閉じれば瞼の裏に見えるのは雨に濡れたあの日の景色だ。
あの夜は永遠に脳裏に刻まれるのではないかとさえ感じられた。
司は息を深く吸って吐き出す。
「だが俺はどうしておまえが離れていったのか、その理由を深くは知ろうとしなかった」
いつもより低い声が出るのは緊張のためか。それともばつが悪く、声が掠れるのを誤魔化すためか。
今は多くを語らないが、二人ともその理由を知っている。
そして類の邸で暮らしていた理由も。
傍にいると言ったつくしの言葉が信じられないわけではない。
こんな男を愛してくれていることが信じられないわけではないが、それでもどこか信じられない思いがある。もしかすると己の身に起きたことは、幻ではなかったのか。
狂気に憑りつかれていた男は、幻聴を、幻を見たのではなかったのか。
だからこそ、どうしても彼女の口からきちんとした言葉で聞きたかった。
「・・まきの・・頼む・・いや。こんなことは頼めることじゃねぇ。・・けど許して欲しい。俺はおまえとのことを・・無理矢理おまえを抱いたことを許して欲しいなんてことは言えねぇけど、俺はおまえとの関係を台無しにはしたくない。おまえは俺を愛してるって言ってくれたよな?あれは夢で、やっぱあの言葉を取り消すっていうなら、その言葉を受け入れなければならねぇっていうなら受け入れる」
言いたくはないが、言わなければならなかった。
こんな話はしたくはない。だが覚悟を決めて言わなければならないならと言葉を継ぐ。
「・・なあ、牧野・・このネックレスは・・よかったらこのネックレスを持っていてくれないか?」
司が差し出したのは、囚われて間もなく彼女の首から持ち去られていたあのネックレス。
少年と少女が恥ずかし気に星を眺めていたあのとき、つくしのために特別に作らせたと言って自らの手で首にかけてくれたネックレス。大きな手からつくしの手にするりと落とされた小さく硬質なそれは、本来なら温かみなど感じることがない塊だが、温もりが感じられるということは、ずっと握りしめていたということか。
「もしこんなもん見たくもねぇと思うなら売れば金にはなる」
司は類の話を聞き、つくしがこのネックレスを大切にしてくれていたと知った。
だからこそ、このネックレスを受け取ってもらうことに意味がある。
試す訳ではないが、彼女の反応が気になった。
だが拒絶されるのではないかと思うと表情を窺うことが怖く、顔を見ることが出来なかった。
「・・・素敵なネックレスね・・」
まるで初めて見たように答えていた。
土星の形をした宝石の輝きは失われてはおらず、むしろあの当時より輝いて見える。
つくしの声は優しく耳に聞こえ、その言葉に微かな期待を感じ、司はネックレスから視線を彼女の顔に移す。
「まきの・・本当に俺の傍にいてくれるのか?」
喉から絞り出すような声。
「俺はおまえのことが・・おまえのことが好きだった・・10年一度も忘れたことはなかった。酷い男だと、世間から何を言われても気になんかならなかった」
誰に何を言われようが、自分にとって意味をなさない人間の言葉など、どうでもいい。
「今の思いは10年前よりも強い。いやあの時も強かったが、今は抑えきれなくなっちまってる。・・だからおまえを抱くことが止められなかった。おまえが俺の前から消えて10年。その間に経験したことは、人として最悪だった。そんな俺は他人に悪夢を見させることが楽しくてならなかった。自分の不幸を他人にも味合わせることが楽しかった」
不幸をばら撒くことが楽しい。
自らの不幸を他人に味合わせることが楽しい。
愛する人に捨てられた男の歪んだ思い。
「俺はずっと一人だった。あの日から、あの雨の日からずっと。誰か傍にいたとしても、それは心なんか無いただの人形だった。俺はあの日から自分を殻に閉じ込め、あの日を忘れるため、あの短くも楽しかった日を忘れるため、自分の心を殺した。なあ、牧野・・俺は今でもおまえが好きだ。好きで好きでたまんねぇ。愛してる。だから_」
行かないでくれ。
それは司が心の中に自らが築いていた壁が崩れた瞬間だった。
彼が誰も受け入れることが無かった心に築かれた壁は10年という長い年月の間に厚みを増し、そして強度を増していた。今まで誰も崩せなかった壁。
あの日、あの雨の日に口にした言葉と同じ。
行くな。
行かないでくれ。
まさか自分の口からまたその言葉が出るとは思いもしなかったはずだ。
だが、それが彼の心の中に、心の奥深くにあった本心。誰も触れることがなかった心の奥底にあった生々しい感情。
それなのに、どうしてその感情を今まで抑えることが出来たのか。
いつの日からか全てを受け入れていた女を前に、どうして今まで言えなかったのか。
道明寺司と言う男は、プライドが高い。もしプライドのせいだとすれば、それは愚かなプライドだ。
そんな男が一生に一度見せるかどうかの態度をたったひとりの女性の前で見せた。
「・・・最悪の状態の道明寺はもういないのよね?」
つくしの意外にさばさばした様子に司は驚いていた。
いくら人を簡単に許すことが出来るとはいえ、口を開いたつくしの瞳は輝いていた。
あの頃と同じ黒い瞳がきらきらと輝き、司を見た。
「道明寺ひとりが悪いわけじゃない・・あたしも悪かったの。あたしが知ってる道明寺は10年前の優しかった道明寺だけなの。・・最悪の状態の道明寺は・・あたしに出会う前の道明寺で、あたしはそんな男は知らないわ。だから許すも許さないもないわ」
罪悪感を引きずって生きる男は見たくない。
そんな男は道明寺司じゃない。
つくしの言葉は司の心に灯りをともしていた。どんな言葉を言われたとしても、甘んじて受けるつもりでいた男にとって情けないほど嬉しい言葉。
「あたしは雑草だから、どんなことをされても平気。それに撃たれたけど大丈夫だから・・アタタ・・あ、でもやっぱりこれはちょっと痛い・・それより道明寺、このネックレスね、チェーンが切れちゃったことがあるの・・。それで類がローマまで持って行ってくれたことがあってね、類の力で早く修理できたからよかったの。だってこのネックレスは_」
司は椅子から立ち上がると、ベッドに座るつくしを抱きしめていた。
まだ点滴の繋がれた腕を気遣い、優しく、そっと包み込む。
「知ってる。肌身離さず付けてたって聞いた」
そして心の拠り所だったとも聞かされた。
どんな言葉を聞かされるより、一番嬉しかったのは10年前に贈ったネックレスが大切に扱われていたことだ。言葉では言い表せないほど嬉しく、そして彼女が、牧野つくしが愛おしい。今はまだ愛し合うことは出来ない。
だがキスはいくらでもすることが出来る。
未だに頬をバラ色に染める女は、あの頃の牧野つくしと同じ。
司は唇を寄せながら囁いた。
「愛してる、牧野つくし」
プリンの味がするキスは、本物のプリンを食べたよりも甘いはずだ。
司は甘いものが苦手だが、それでもこのプリンなら食べてもいいかと思っていた。
愛は哀しいものだった10年があった。
だが今は互いに愛おしさだけが膨れ上がっていた。

にほんブログ村

応援有難うございます。
- 関連記事
-
- Collector 49
- Collector 48
- Collector 47
スポンサーサイト
Comment:8
コメント
このコメントは管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

イ**マ様
こんにちは^^
4月から復帰でしたね。久しぶりの職場、毎日忙しくて目が回っていらっしゃるのではないでしょうか?
「愛してる、牧野つくし」
牧野だけでは、昔の司です。大人になり彼女からの信頼を取り戻し、前を向いて歩いて行くと決めたようです。その決意が籠る言葉だったのではないでしょうか?
愛が溢れている、そう感じて頂けて嬉しいです。
コメント有難うございました。
こんにちは^^
4月から復帰でしたね。久しぶりの職場、毎日忙しくて目が回っていらっしゃるのではないでしょうか?
「愛してる、牧野つくし」
牧野だけでは、昔の司です。大人になり彼女からの信頼を取り戻し、前を向いて歩いて行くと決めたようです。その決意が籠る言葉だったのではないでしょうか?
愛が溢れている、そう感じて頂けて嬉しいです。
コメント有難うございました。
アカシア
2017.04.27 21:38 | 編集

司×**ove様
こんばんは^^
つくしちゃんと向き合う司くん。
つくしちゃんは鬼畜な司に恐怖と絶望を感じたことでしょう。でも、そんな彼はもういません。
そしてつくしちゃんは人を許すことが出来ます。
10年前幼かった二人には、見えてなかった物事が、見えはじめたようです。
ネックレスも彼女の胸元に戻りました。
とりあえず良かったです。^^
月末はいつものことですが、月日が経つのは本当に早いと感じられます。最近は目の疲れが酷いです(笑)
本宅と別宅生活みたいですね?
色々とお忙しいと思いますが、お休みの日は気分転換することも必要です!とはいえ、難しいものがありますね?
お身体ご自愛下さいね。アカシアも気を付けたいと思います。
いつもご心配頂き、有難うございます。
コメント有難うございました。^^
こんばんは^^
つくしちゃんと向き合う司くん。
つくしちゃんは鬼畜な司に恐怖と絶望を感じたことでしょう。でも、そんな彼はもういません。
そしてつくしちゃんは人を許すことが出来ます。
10年前幼かった二人には、見えてなかった物事が、見えはじめたようです。
ネックレスも彼女の胸元に戻りました。
とりあえず良かったです。^^
月末はいつものことですが、月日が経つのは本当に早いと感じられます。最近は目の疲れが酷いです(笑)
本宅と別宅生活みたいですね?
色々とお忙しいと思いますが、お休みの日は気分転換することも必要です!とはいえ、難しいものがありますね?
お身体ご自愛下さいね。アカシアも気を付けたいと思います。
いつもご心配頂き、有難うございます。
コメント有難うございました。^^
アカシア
2017.04.27 22:15 | 編集

とん**コーン様
良かったね。道明寺&つくし。^^
本音を話すことは大切ですね?
言葉にすることは、難しいこともありますが、それでも伝えたいことは、伝えることが出来たようです。
聞き上手な女性はモテると思います。
つくしちゃんはせっかちではありません。
考え過ぎることもありますが、その態度は誠実さの現れなのかもしれません。
プリン!!(笑)道明寺、直接食べませんでした。
誰かの唇から、甘さを味わったようです(笑)
これは、果たして罰を受けたことになるのでしょうか?
コメント有難うございました^^
良かったね。道明寺&つくし。^^
本音を話すことは大切ですね?
言葉にすることは、難しいこともありますが、それでも伝えたいことは、伝えることが出来たようです。
聞き上手な女性はモテると思います。
つくしちゃんはせっかちではありません。
考え過ぎることもありますが、その態度は誠実さの現れなのかもしれません。
プリン!!(笑)道明寺、直接食べませんでした。
誰かの唇から、甘さを味わったようです(笑)
これは、果たして罰を受けたことになるのでしょうか?
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.04.27 22:29 | 編集

このコメントは管理人のみ閲覧できます

pi**mix様
こんばんは^^
坊っちゃんは小さい頃、親に怒られた経験はなかったでしょう。そんな坊っちゃんは、つくしちゃんに出会うまで人が傷付くことは知らなかったのでしょう。
対し、つくしちゃんは他人の痛みも分かる女の子でした。そんな二人が大人になり、坊っちゃんはつくしちゃんを傷付けましたが、その傷は因果応報と受け止めたつくしちゃんでした。
坊っちゃんの懺悔部屋(笑)そしてこれから過酷な懺悔ロードですか?(笑)つくしちゃんは執念深くありません。大丈夫だと思います。
王子のプリン(笑)司に食べさせろ、と類は言いましたが、果たしてあの方法だったのでしょうか?(笑)
なんと!プリンが悲惨なことになったんですね?
吹っ飛んだプリンの末路は悲しいものがあります。
やはりプリンは、はじめはカラメルのない状態がいいと、アカシアも思います(笑)
でも坊っちゃん、やはり甘くて食べることは出来ないような気がします。
つくしちゃんの唇の甘さで充分と思っていると思われます。プリン食べたいですねぇ・・
今回はプリンに思わず小笑いしました。(笑)
コメント有難うございました。^^
こんばんは^^
坊っちゃんは小さい頃、親に怒られた経験はなかったでしょう。そんな坊っちゃんは、つくしちゃんに出会うまで人が傷付くことは知らなかったのでしょう。
対し、つくしちゃんは他人の痛みも分かる女の子でした。そんな二人が大人になり、坊っちゃんはつくしちゃんを傷付けましたが、その傷は因果応報と受け止めたつくしちゃんでした。
坊っちゃんの懺悔部屋(笑)そしてこれから過酷な懺悔ロードですか?(笑)つくしちゃんは執念深くありません。大丈夫だと思います。
王子のプリン(笑)司に食べさせろ、と類は言いましたが、果たしてあの方法だったのでしょうか?(笑)
なんと!プリンが悲惨なことになったんですね?
吹っ飛んだプリンの末路は悲しいものがあります。
やはりプリンは、はじめはカラメルのない状態がいいと、アカシアも思います(笑)
でも坊っちゃん、やはり甘くて食べることは出来ないような気がします。
つくしちゃんの唇の甘さで充分と思っていると思われます。プリン食べたいですねぇ・・
今回はプリンに思わず小笑いしました。(笑)
コメント有難うございました。^^
アカシア
2017.04.28 21:30 | 編集
