世界がどんなに変わろうと、決して変わらないものがあるとすればそれは何か。
ひそやかに、音もなく変わるものがあるとすればそれは何なのか?
人は過去の人生の中、思い出として残したいものがあれば、それは何らかの形で心の中に残っている。しかし時が流れれば、全ての思い出は浄化されて行く。
だが彼女に対する思いは、どれほど時が流れようと変わることがなく、自分にとってかけがえのない日々を思い出になど出来なかった。いや、思い出になどしたくはなかった。
そして、あの頃の若く感じやすい心は決して失われることなく、今も心の中に息づいていた。
NYから日本支社へと来て二週間が過ぎた。
その間、司は会社とホテルのバーを往復する毎日に明け暮れた。
取引先との会食は早々に済ませ、長引きそうだと思えば、体調が優れないと嘘を言って断っていた。例え彼女が来なくても、あの場所での時間は誰にも邪魔されたくはなかった。
大切な人を悲しませた場所での時間を。
日本に着いて早々、鍵のかかった引き出しから取り出した小さな箱が頭から離れたことはなかった。今も自室のデスクの上に置かれた小さな箱。
それは随分と昔、イタリアで渡した指輪が入った箱だった。
とりあえず婚約だけでもしないかと、二人で結婚の約束をしたあの日、手渡したものだった。だがあのバーで別れを告げたとき、鞄の中からその箱を取り出され、カウンターの上にそっと置かれた。あの頃、大々的に発表された別の女との婚約発表が、どれほど深く彼女の気持ちを傷つけたかと、今更ながら思わずにはいられなかった。
「・・婚約者の人にあげて・・あ、そうようね、ごめんね。別の女にあげたものなんて失礼よね?」
と言って笑っていた。
カウンターに横並びで座った二人が、互いの顔を見ることなく会話を交わすことに不自然さはない。声だけ聴けば、切実さは感じられず、むしろあっさりとしたものに感じられた。
だが、彼女の顔はそうではないと分かっていた。少し俯いた顔は黒い髪に隠れ分からなかったが、聞こえて来た明るい声の裏側にはいつも意志的な顔をし、前を向いて歩く人間のプライドといったものが感じられた。
わざと明るい声を出し笑った彼女が痛々しかった。
そしてその顔に本物の笑顔が浮かぶことがないことが辛かった。
一番大切だった彼女の笑顔。
どんなに疲れていても彼女の笑顔を見れば安らぐことが出来た。その笑顔は自分が奪ってしまったのだと、感情を抑制させてしまったのは自分だと己を責めていた。だがそんな男の気持ちを察したのだろう。昔から揉め事や争い事が嫌いな女は自分を犠牲にし、言った。
「・・道明寺、自分を責めないで。あたしは今まで幸せだったよ?」
何かを決心した言葉は明瞭で淀みがなかった。
そして渡された小さな箱。
あの指輪は受け取ったままでいて欲しかった。
離れていた男が何もしてやれなかったことへの償いだと、幸せにしてやることが出来なかった男の償いだと、この指輪を売ればかなりの金額になる。だからいざとなれば売ればいいと。
だが持っていることは出来ないと、独り言のように呟く声が聞えた。
そして俺の心の負担を考え、道明寺の生き方が間違っているとは思わないで。そう言われた。
何かを犠牲にしなければ得られないものがあるとすれば、いったいそれは何なのか?
あの日から8年が過ぎ、彼女を傷つけてまでも救わなければならなかった会社は持ち直し、二度と、あの時の轍を踏むことのないようにと、全てに於いて危機感を持ち事業を進めていた。世界経済は刻一刻と変化する。激動といえることはないにしろ、いつ、どこで、何があるか分からない世の中だ。リスクを回避する為の手段は幾つあってもいい。
母親が社長だった頃、すべてを社長の独断で決めていたことも、大組織なるが故、物事の進みに歯がゆさを感じることがあれど、旧態依然とした制度は廃止し、各部門の責任者にある程度の権限を持たせた。
自分の身に何かあったとしても、会社は何事もなかったように回るようにと。
帰国してすぐ、牧野つくしの居場所を調べた。
自宅の住所は分かったが、訪ねる勇気が持てずにいた。
だから秘書から手渡された住所に手紙を送った。
必ず手元に届くようにとの手配を忘れずに。
そして配達された証拠である受け取りは確かにあった。
今更だと言われることはわかっていた。
だがどうしても会いたい。
だからあのバーで待つと手紙を書いた。
だが会いに来てはくれなかった。
いつも生きることにひたむきだった彼女。
彼女から聞かされる言葉は、厳しいビジネスの世界で生きる男にとって心が温まるような言葉ばかりだった。
そんな女性に8年前、自分の都合で別れて欲しいと言って別れた。
だが会いたい。一度手放したものを探しに行くことが許されるのなら、かすかな望みがあるなら、屈託のない笑顔で笑っていたあの時の彼女を抱きしめたい。
彼女の住むマンションの場所は頭の中にある。
そこは比較的新しいマンションで、独身者用によくみられるワンルームマンションではない。近くに公園があり、親子だったり、家族連れが賑わう場所だと聞いていたが、休日である今日、その公園の中に人影はなかった。
早春の今。
桜の花が咲くにはまだ早い。
夜は一睡もできないまま朝を迎えた。まるで子供が遠出する前の緊張から眠れない夜を過ごすかのように眠ることが出来なかった。そして自らの運転でここまで来たが、桜の木の下に車を止め、暫くハンドルを握りしめたまま動くことが出来なかった。もし、このままここで1時間を過ごせと言われても、容易く過ごすことが出来るはずだ。それほど足を外へと踏み出すのが躊躇われた。
ここまで来たんだ。何も急ぐことはないはずだ。
そんな思いもあるが、だからと言ってここでゆっくりする理由もない。
だが彼女が自分の到着を待っている訳ではない。
結局自分はいったい何がしたいのか。彼女に会いたいのではないか。
だが会ってどうするというのか。8年前に彼女を捨て、会社の為とは言え別の女性と結婚した。
あのとき、道明寺の生き方が間違っているとは思わないから。
今の自分が選んだ生き方が間違っているとは思わないで、と言われ、心のどこかでその言葉に彼女を捨てたことを許して貰えたと思っていた。
・・バカな。
そうではないはずだ。
許してもらえるなど考えてはいなかった。
8年前、彼女が去った店のなか、渡された小さな箱を手に何を思った?
男の身勝手とも言える別れの言葉を責めることなく、受け入れ、そしてそんな男に心配をかけまいと毅然とした後ろ姿ともいえる潔さに、彼女の精神の強さを見たはずだ。
彼女はいつもそうだった。
出会った頃から。
他人の為に犠牲になることを良しとするような女性だった。
そんな女性の、嬉しそうに笑う姿が思い出された。彼女が笑えば、自分もつい笑っていた。
彼女が嬉しいと、自分も嬉しいと感じるから。
だが、思考ばかり巡らせても仕方がない。辿り着く場所はいつも彼女のことなのだから。
それなら、直接会いに行けばいいはずだ。何もこの場所でハンドルを握りじっとしている理由はないはずだ。
司は車のドアを開け、足を外へと踏み出した。
雨上がりのアスファルトは水をはじいてはいるが、ところどころに水たまりがあった。
それを避けることなく真っ直ぐ歩けば、革の靴は濡れるはずだ。
今まで自分の前に、そんな水たまりがあることなど気に留めたことなどなかったが、それは常に誰かが前にある道を均していたからだ。
だが、水に濡れようが、泥を被ろうが構わない。
忘れようとしても忘れることなど出来なかった女性に会える。
8年前に途切れてしまった二人の関係を取り戻したい。
今の自分は懐かしさの一歩手前にいる。
鼻先で扉を閉められたとしても、それでも構わない。
かすかな望みがあるなら、この手に掴みたい。
そして同じ時を再び生きていきたい。
もし、許してもらえるのなら。

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NYから日本支社へと来て二週間が過ぎた。
その間、司は会社とホテルのバーを往復する毎日に明け暮れた。
取引先との会食は早々に済ませ、長引きそうだと思えば、体調が優れないと嘘を言って断っていた。例え彼女が来なくても、あの場所での時間は誰にも邪魔されたくはなかった。
大切な人を悲しませた場所での時間を。
日本に着いて早々、鍵のかかった引き出しから取り出した小さな箱が頭から離れたことはなかった。今も自室のデスクの上に置かれた小さな箱。
それは随分と昔、イタリアで渡した指輪が入った箱だった。
とりあえず婚約だけでもしないかと、二人で結婚の約束をしたあの日、手渡したものだった。だがあのバーで別れを告げたとき、鞄の中からその箱を取り出され、カウンターの上にそっと置かれた。あの頃、大々的に発表された別の女との婚約発表が、どれほど深く彼女の気持ちを傷つけたかと、今更ながら思わずにはいられなかった。
「・・婚約者の人にあげて・・あ、そうようね、ごめんね。別の女にあげたものなんて失礼よね?」
と言って笑っていた。
カウンターに横並びで座った二人が、互いの顔を見ることなく会話を交わすことに不自然さはない。声だけ聴けば、切実さは感じられず、むしろあっさりとしたものに感じられた。
だが、彼女の顔はそうではないと分かっていた。少し俯いた顔は黒い髪に隠れ分からなかったが、聞こえて来た明るい声の裏側にはいつも意志的な顔をし、前を向いて歩く人間のプライドといったものが感じられた。
わざと明るい声を出し笑った彼女が痛々しかった。
そしてその顔に本物の笑顔が浮かぶことがないことが辛かった。
一番大切だった彼女の笑顔。
どんなに疲れていても彼女の笑顔を見れば安らぐことが出来た。その笑顔は自分が奪ってしまったのだと、感情を抑制させてしまったのは自分だと己を責めていた。だがそんな男の気持ちを察したのだろう。昔から揉め事や争い事が嫌いな女は自分を犠牲にし、言った。
「・・道明寺、自分を責めないで。あたしは今まで幸せだったよ?」
何かを決心した言葉は明瞭で淀みがなかった。
そして渡された小さな箱。
あの指輪は受け取ったままでいて欲しかった。
離れていた男が何もしてやれなかったことへの償いだと、幸せにしてやることが出来なかった男の償いだと、この指輪を売ればかなりの金額になる。だからいざとなれば売ればいいと。
だが持っていることは出来ないと、独り言のように呟く声が聞えた。
そして俺の心の負担を考え、道明寺の生き方が間違っているとは思わないで。そう言われた。
何かを犠牲にしなければ得られないものがあるとすれば、いったいそれは何なのか?
あの日から8年が過ぎ、彼女を傷つけてまでも救わなければならなかった会社は持ち直し、二度と、あの時の轍を踏むことのないようにと、全てに於いて危機感を持ち事業を進めていた。世界経済は刻一刻と変化する。激動といえることはないにしろ、いつ、どこで、何があるか分からない世の中だ。リスクを回避する為の手段は幾つあってもいい。
母親が社長だった頃、すべてを社長の独断で決めていたことも、大組織なるが故、物事の進みに歯がゆさを感じることがあれど、旧態依然とした制度は廃止し、各部門の責任者にある程度の権限を持たせた。
自分の身に何かあったとしても、会社は何事もなかったように回るようにと。
帰国してすぐ、牧野つくしの居場所を調べた。
自宅の住所は分かったが、訪ねる勇気が持てずにいた。
だから秘書から手渡された住所に手紙を送った。
必ず手元に届くようにとの手配を忘れずに。
そして配達された証拠である受け取りは確かにあった。
今更だと言われることはわかっていた。
だがどうしても会いたい。
だからあのバーで待つと手紙を書いた。
だが会いに来てはくれなかった。
いつも生きることにひたむきだった彼女。
彼女から聞かされる言葉は、厳しいビジネスの世界で生きる男にとって心が温まるような言葉ばかりだった。
そんな女性に8年前、自分の都合で別れて欲しいと言って別れた。
だが会いたい。一度手放したものを探しに行くことが許されるのなら、かすかな望みがあるなら、屈託のない笑顔で笑っていたあの時の彼女を抱きしめたい。
彼女の住むマンションの場所は頭の中にある。
そこは比較的新しいマンションで、独身者用によくみられるワンルームマンションではない。近くに公園があり、親子だったり、家族連れが賑わう場所だと聞いていたが、休日である今日、その公園の中に人影はなかった。
早春の今。
桜の花が咲くにはまだ早い。
夜は一睡もできないまま朝を迎えた。まるで子供が遠出する前の緊張から眠れない夜を過ごすかのように眠ることが出来なかった。そして自らの運転でここまで来たが、桜の木の下に車を止め、暫くハンドルを握りしめたまま動くことが出来なかった。もし、このままここで1時間を過ごせと言われても、容易く過ごすことが出来るはずだ。それほど足を外へと踏み出すのが躊躇われた。
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だが彼女が自分の到着を待っている訳ではない。
結局自分はいったい何がしたいのか。彼女に会いたいのではないか。
だが会ってどうするというのか。8年前に彼女を捨て、会社の為とは言え別の女性と結婚した。
あのとき、道明寺の生き方が間違っているとは思わないから。
今の自分が選んだ生き方が間違っているとは思わないで、と言われ、心のどこかでその言葉に彼女を捨てたことを許して貰えたと思っていた。
・・バカな。
そうではないはずだ。
許してもらえるなど考えてはいなかった。
8年前、彼女が去った店のなか、渡された小さな箱を手に何を思った?
男の身勝手とも言える別れの言葉を責めることなく、受け入れ、そしてそんな男に心配をかけまいと毅然とした後ろ姿ともいえる潔さに、彼女の精神の強さを見たはずだ。
彼女はいつもそうだった。
出会った頃から。
他人の為に犠牲になることを良しとするような女性だった。
そんな女性の、嬉しそうに笑う姿が思い出された。彼女が笑えば、自分もつい笑っていた。
彼女が嬉しいと、自分も嬉しいと感じるから。
だが、思考ばかり巡らせても仕方がない。辿り着く場所はいつも彼女のことなのだから。
それなら、直接会いに行けばいいはずだ。何もこの場所でハンドルを握りじっとしている理由はないはずだ。
司は車のドアを開け、足を外へと踏み出した。
雨上がりのアスファルトは水をはじいてはいるが、ところどころに水たまりがあった。
それを避けることなく真っ直ぐ歩けば、革の靴は濡れるはずだ。
今まで自分の前に、そんな水たまりがあることなど気に留めたことなどなかったが、それは常に誰かが前にある道を均していたからだ。
だが、水に濡れようが、泥を被ろうが構わない。
忘れようとしても忘れることなど出来なかった女性に会える。
8年前に途切れてしまった二人の関係を取り戻したい。
今の自分は懐かしさの一歩手前にいる。
鼻先で扉を閉められたとしても、それでも構わない。
かすかな望みがあるなら、この手に掴みたい。
そして同じ時を再び生きていきたい。
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Comment:6
コメント
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悠*様
> 情景が浮かんで・・
モノクロ映画のようですか?(笑)
二人は映画の主人公なのかもしれませんね。
何しろドラマチックな人生ですからねぇ(笑)
コメント有難うございました^^
> 情景が浮かんで・・
モノクロ映画のようですか?(笑)
二人は映画の主人公なのかもしれませんね。
何しろドラマチックな人生ですからねぇ(笑)
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.03.20 22:47 | 編集

とん**コーン様
ドキドキが沢山ありすぎです!(笑)
でもそれしか言えないんですね?そのドキドキが続くといいのですが・・・。
コメント有難うございました^^
ドキドキが沢山ありすぎです!(笑)
でもそれしか言えないんですね?そのドキドキが続くといいのですが・・・。
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.03.20 23:07 | 編集

司×**OVE様
こんにちは^^
そんなに読んで頂けて感謝です!!ありがとうございます^^
寝起きがこんなお話しで大丈夫ですか?
布団の中で泣く・・周囲のご家族様があらぬ誤解を生まないかと心配です。
こちらのお話し司視点がメインです。
財閥なんてどうでもなれ!と思っていたのは高校生の頃までです。
つくしちゃんに諭されるように学んで行ったことも多かったと思いますよ。
従業員には家族がいて、そして小さな系列会社にも色々なことがある。
司もそんなことは分かるはずです。辛い別れですが、つくしちゃんは静かに身を引きました。
司の離婚は成立しましたが、彼も色々と考えているようですね。
今さら・・と、そんな思いを抱えているようです。
さて、つくしちゃんはどうするのでしょうねぇ・・
コメント有難うございました^^
こんにちは^^
そんなに読んで頂けて感謝です!!ありがとうございます^^
寝起きがこんなお話しで大丈夫ですか?
布団の中で泣く・・周囲のご家族様があらぬ誤解を生まないかと心配です。
こちらのお話し司視点がメインです。
財閥なんてどうでもなれ!と思っていたのは高校生の頃までです。
つくしちゃんに諭されるように学んで行ったことも多かったと思いますよ。
従業員には家族がいて、そして小さな系列会社にも色々なことがある。
司もそんなことは分かるはずです。辛い別れですが、つくしちゃんは静かに身を引きました。
司の離婚は成立しましたが、彼も色々と考えているようですね。
今さら・・と、そんな思いを抱えているようです。
さて、つくしちゃんはどうするのでしょうねぇ・・
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.03.20 23:09 | 編集
