冷たい雨が二人を引き離した夜があった。
まだ幼かったとしか言えなかった少年と少女の別れは理不尽な別れ。
そして二度目の別れは少年が刺され生死の境を彷徨い、意識を回復し少女を忘れたとき。
あれは人生をちょうど半分生きた頃だ。
あの事件から18年が過ぎたある日、かつて少年だった男は少女のことを思い出していた。
そしてまた再び出会った二人。
それは18年目の記憶の想起がもたらした出会い。思い出したきっかけは、彼が手にしたネックレスとその持ち主だった少女に会ったこと。だがその少女はもう少女ではなく、自分と同じ大人になっていた。
彼女はそれまで彼の周りにいた女性と違い、煌びやかさは皆無の真面目な女性。
そんな女性が少女だった頃感じさせてくれたのは、明るさと温もり。
彼はその温もりが欲しくて、黙って傍にいてくれるだけでもいいといった思いで結婚を前提に交際を申し込んだ。だが、日本を留守にした間にその女性はいなくなっていた。
「司。牧野から預かってきた。受け取れないそうだ。」
帰国したとき、執務室に訪ねて来たあきらから手渡されたのは見覚えがある小さな箱。
受け取っては貰えたが、返されるのではないかという思いはどこかにあった。
もしも願いが叶うなら、そんな思いで無理矢理手の中に握らせたが、昔のように強引な束縛に似た行為はなかったはずだ。
だが、司の手の中に戻ったその箱は彼の願いを叶えてはくれなかった。
「あきら・・なんでおまえが持って・・・そうか。」
外見の容貌は着実に年を刻み、今では鋭くも冷静な判断力と毅然とした佇まいを身に付けた男の顔が微かに歪んだ。男としての魅力も、経済力も一流と言われる男にそんな顏をさせることが出来るのは、彼にとっては唯一無二の女性。
そして、そんな男はかつてその女性の言葉に頬を緩め笑ったこともあった。
「あきらはあいつが嘘をついてるってこと知ってんだろ?」
司は気づいていた。牧野つくしが自分のことを知らないと言ったが、それは嘘だと。
だが、気づいていないふりをした。そうすることで、つくしの気持ちが落ち着くのなら暫くはそれでいいと思っていた。何しろ自分には彼女に対し負い目がある。
彼女の人生は、良く悪くも一人の男に狂わされたようなものではないかと思っていたからだ。彼女の人生を狂わせたのは自分だ。そう感じていた。
男の大きな掌に乗った箱は不似合いだ。
指輪を返されたということの意味は十分過ぎるほど分かっている。
そして、そんなもので彼女の心が手に入らないということも。牧野つくしの本質を知る者なら、彼女がそんなものに関心を覚えるはずがないと知っているはずだ。昔から聡明剛毅なところがある女性だったというのに、そのことを忘れているということを恥じた。
そして、今の自分は彼女の気持ちを動かすだけのものを持っていないのではないかと思った。
もうそんな力は自分には無いのかと。
「司、聞いてくれ。おまえに嘘をついたのは俺だ。牧野じゃない。俺がおまえに嘘をついた。あいつが心に傷を負ってPTSDになったって言ったろ?俺が__おい、待て。おまえ知ってたのか?あいつの病気が嘘だってことを?」
「・・ああ。」
やはりというか予想通りというか、司の落ち着いた態度にあきらは確信を得た。
この男は知っていた、分かっていたのかと。
だが、嘘をついたことに瞬殺するような鋭い目で睨まれるかと思ったがそれもなく、落ち着き払った態度といい、10代後半のあの頃と比べたとき、比べようがないほど大人になり、分別を身に付けた男の姿にあきらはどこか淋しさを覚えていた。
「・・頼まれたんだろ?俺のことなんて覚えてないって言ってくれって?」
「・・すまん、司。・・けど、おまえがいつまでも牧野の態度に気付かないはずねぇよな。でもどうしてわかったんだ?」
「いや。初めて会った時は気付かなかったが、すぐに気付いた。」
道明寺司にとっての牧野つくしは、自分の運命を決定する女なのだろう。
記憶を取り戻した男は好きな女に関しては、どんな勘も鈍らせていないようだ。
「珈琲だ。」
「珈琲?」
「ああ。あいつ俺の邸に住み込んでたとき、俺の好きな珈琲の淹れ方を婆さんに仕込まれた。・・けど、俺に関することを全て忘れたなら、俺好みの珈琲の淹れ方も忘れてるはずだ。
だがある日、出された珈琲は俺が好きな淹れ方がしてあった。あの味を引き出すことが出来る人間はホテルにはいない。だから聞いた。誰が淹れたんだってな。」
全てに於いて最上のものを常としてきた男が口にするのは、決まった銘柄のコーヒー豆。
そして、その淹れ方にも決まりがあった。
「それが牧野だったってことか?」
「ああ。普段の会議はレストランから運ばせるが、あの日は少人数の会議でレストランから運ばせるより近場で淹れた方が早いってことになった。」
「そうか。それで牧野が淹れたってことか。で、おまえはそれで気づいたってことか。まあ、あいつ芝居っての下手そうだよな?昔から嘘をつくのが苦手だったってのにおまえの前で大芝居を打とうとするんだ。考えてみれば無謀な女だな。」
司は言わなかったがつくしが淹れた珈琲には昔から癖があった。
いくら司好みの珈琲の淹れ方を習ったとはいえ、当時高校生だった女はインスタントコーヒー以外知りようがなかった状況で、本物の珈琲を淹れることに不慣れだった。そしてその時ついた癖のようなものがある。ハンドドリップで淹れるのだが、どこか雑味が残っていて今でもそれを感じさせた。
「あきら、俺をなんだと思ってる?あの頃、あいつのことが好きで、地獄の果てまで追いかけて行くって言った男だ。それにどんなにあいつが俺を知らないって顔しても、早い段階でわかった。珈琲はダメ押しだったってことだ。」
司はあきらから受け取った箱を開け中を見た。
そこには世界で一番美しいと言われるダイヤモンドが照明の光りを浴び、美しく輝いていた。
「それにおまえの言う通り、あいつは昔から嘘が苦手な女だっただろ?正直な女だった。そんな女が大人になったからって人間の性根がそう簡単に変わるとは思わねぇ。そんな女に一番感情が表れるのは目だ。目を見たらわかるもんだ。瞳の動きは誤魔化せない。あいつと一緒に仕事をしたが、微妙なタイミングで視線を外すんだがそれが下手くそだ。心の動揺ってのか?俺に言わせればあの演技はまだまだだな。ま、そうだとすれば、俺の少年時代の目つきは最悪で性根はどうだって言われれば返す言葉もねぇけど、俺はあいつに自分の中にあった腐り切った根性を叩き直されたんだ。今の俺があいつの嘘が見抜けない男だと思うか?」
NYの厳しいビジネスシーンで培った人を見る目には自信がある。
司の冷たく黒い瞳の奥には、研ぎたての鋭い刃物のような頭脳があり、今の彼には盲点はないと言われていた。そんな道明寺司を騙せるような人間はいないはずだ。
牧野つくしとの出会いは、司が生きて来た人生で一番大切な出会いだった。
あれは運命の出会い。
だが運命は残酷な道行きを二人の用意していた。
そして別々の道を歩むことになった二人だが、今、時が再び二人が出会うことを許したのかもしれなかった。
それは過去の時間からの贈り物なのか?
またもう一度やり直せばいいと。
初めて会ったあの日のように。
「なあ、あきら。・・けど、どうして嘘をつく?そんなに俺のことが嫌なのか?もう俺を忘れたかったのか?だから嘘をつき続けたのか?」
司は以前あきらに言った。友人でもいいから傍にいたいと。
あの言葉は嘘ではない。友人にもなれないものは恋人にはなれないからだ。
二人の仲が昔と違うならそれでいい。
それなら友人から始めればいい。だが友人にもなれずどうして恋人になることができる?
一度目の恋はダメだったとしても、二度でも三度でも恋をすればいいはずだ。
傍にいれば、やがて気持ちの変化もみられるはずだ。だから傍にいたかった。
だが、友人関係でいるなんてことは考えていなかった。だから結婚を前提につき合って欲しいと言った。そんななか、牧野つくしはいなくなっていた。
「・・司。そんなことねぇぞ?あいつは、牧野はおまえのことが嫌いだなんてことはない。」
あきらはつくしの思いを口にしてもいいものかどうか迷った。
親友である司のことは勿論大事だ。
だが、その親友と同じくらい牧野つくしのことも心配していた。
司の人生が彼女によって変わったのと同じように、あきらもまた牧野つくしと知り合って人生が変わったのだから。なにしろ、男と女の間に恋愛感情がなくてもつき合えるのは、牧野つくしだけだ。
「あいつは迷ってた。おまえの前で本当の自分を隠してたかもしれねぇけど、牧野はあの頃の牧野と変わってない。俺はあいつを見守ってきたからわかる。誤解するなよ?俺と牧野は兄と妹みたいなもんだ。前にも言ったが、あいつはおまえがあいつのことを忘れたからって簡単に他の男に心を許すような女じゃない。むしろ年取るにつれて頑なになるって言った方がいいかもしれねぇな。そうだ、あいつは今じゃ頑固の固まりかもしれねぇな。だからあの年で宿泊課長なんてやってんだぞ?」
道明寺グループのホテルで宿泊課長と言えば、かなりのキャリアだ。
その職を30代前半で手に入れたのだから仕事に対しての取り組みは若い頃から違った。
あきらはそんなつくしを見て来たのだから間違いない。だがそんな女は過去の恋を抱えたまま生きていた。
「だけどな、司。いいか。あいつはおまえがあいつを忘れてから表面上は変わらなかったが本当に酷かったんだ。魂が入ってない状態っての?そんな状態だった頃があった。そのうちお前がもう自分の元に戻ってくることはないってことが心の中に定着したんだろう。それから気持ちが変に固まったっていうのか、無表情に近い状態で無感動だった頃が日常化したことがあったのは事実だ。まあ、それも何年もかけてやっと普通になったって言うのか。あいつがおまえの前で嘘が上手かったのは、そんなことがあったからだ。表情が読めない牧野なんて信じられねぇかもしれねぇけど、それだけおまえを失ったショックが大きかったってことだ。」
高校時代のイメージとはかけ離れた女性になっていた理由がわかった。
そして、あの当時彼女が全身全霊で彼を思っていてくれた姿も。
「それにしてもどうしておまえら二人はこんなにもドラマチックな人生なんだ?」
司と牧野つくしの上にばかりドラマは降りかかるとあきらは思った。そのドラマの共演者として駆り出されているのは、いつも自分だと思っていた。そしてその余波を受けているようなものだと。まさに二人の人生はドラマを見ているようだ。
「知るかよ。そんなこと。俺だって好きであいつのことを忘れた訳じゃねぇ。」
司は18年の歳月を捨てれるものなら捨てたいと思った。自分人生の中にあった18年の歳月を切り取って捨て、そこに本来ならあり得たつくしとの歳月を入れたかった。
だが、それが出来ない以上、18年前の恋を超えるような恋をすればいいはずだと思った。
そうするため、必要なことがあるならどんなことでもするつもりでいる。
その理由はただひとつ。今でもあいつを愛しているから。
そんな自覚をすればするほど今の自分がどうしてこうも躊躇してしまっているのかと苦笑した。
「・・まあいい。どうってことねぇよ。俺にとっては。」
「なんだよ司?何がどうってことねぇんだよ?」
「決まってんだろ?牧野のことだ。どうせあいつ、昔の癖でまたどっかに逃げたんだろ?」
ひとり全ての責任を背負って逃げたことがあった少女。
責任感があると言えば聞こえがいいが、残された者はいい迷惑だった。
「さすが司だ、よく分かってるじゃねぇか。なあ、司。あいつの心に刺さった棘だが針だかを抜いてこい。それが出来るのはおまえだけだ、司。けど、丁寧に抜け?おまえのことだからいきなり抜いたりしたら、ただでさえ細いあいつだ。出血多量で死んじまうぞ?」
「・・ンなことするかよ。あいつに死なれて困るのは俺じゃねぇか。」
司は口元に微笑みを浮かべ、あきらを見ると立ち上がって窓のところに歩いて行った。
そして窓の外を見た。その景色は夜が包み込む前の街。日は殆ど沈みかけている時間、宵闇が訪れようとしていた。そんななか、窓辺に立つ男の背中はいつもと変わらず自信に満ち溢れ堂々としていた。そしてそれはまるで何かを決意したかのように見えた。
本来の道明寺司の雄の本能とも言える態度が感じられたからだ。
当時彼が持っていた牧野つくしに対しての情熱溢れる思いが。
地獄へ逃げようが追いかけて行って捕まえてやると自ら言ったように。
その背後に向かってあきらが言った。
「なあ、司。あいつ俺に聞いてきたぞ。恋を忘れるにはどうしたらいいのかってな。俺にそれを聞くなって言ったけどな。・・だからあいつはまだお前のことを思ってるはずだ。」
張りつめた男の背中の緊張が少しだけ緩んだ。
誰かがその背中を押してやることが必要なのだろうか。
いや、それはもう必要ないはずだ。
「司。おまえが愛してる女は誰だ?牧野だぞ?あいつ、幾つになっても意地っ張りだぞ?おまえのやることは分かってるよな?」
「言われなくてもそんなモン分かってる。」
司は、自分が求めるものがなんであるのか分かっている。
一度手を放してしまったが、記憶が戻った瞬間から、彼女がどうしても欲しいのだと思いを決するのに、長い時間はかからなかったはずだ。
彼女が、牧野つくしが欲しかった。
18年前も。そして今も。

にほんブログ村

応援有難うございます。
まだ幼かったとしか言えなかった少年と少女の別れは理不尽な別れ。
そして二度目の別れは少年が刺され生死の境を彷徨い、意識を回復し少女を忘れたとき。
あれは人生をちょうど半分生きた頃だ。
あの事件から18年が過ぎたある日、かつて少年だった男は少女のことを思い出していた。
そしてまた再び出会った二人。
それは18年目の記憶の想起がもたらした出会い。思い出したきっかけは、彼が手にしたネックレスとその持ち主だった少女に会ったこと。だがその少女はもう少女ではなく、自分と同じ大人になっていた。
彼女はそれまで彼の周りにいた女性と違い、煌びやかさは皆無の真面目な女性。
そんな女性が少女だった頃感じさせてくれたのは、明るさと温もり。
彼はその温もりが欲しくて、黙って傍にいてくれるだけでもいいといった思いで結婚を前提に交際を申し込んだ。だが、日本を留守にした間にその女性はいなくなっていた。
「司。牧野から預かってきた。受け取れないそうだ。」
帰国したとき、執務室に訪ねて来たあきらから手渡されたのは見覚えがある小さな箱。
受け取っては貰えたが、返されるのではないかという思いはどこかにあった。
もしも願いが叶うなら、そんな思いで無理矢理手の中に握らせたが、昔のように強引な束縛に似た行為はなかったはずだ。
だが、司の手の中に戻ったその箱は彼の願いを叶えてはくれなかった。
「あきら・・なんでおまえが持って・・・そうか。」
外見の容貌は着実に年を刻み、今では鋭くも冷静な判断力と毅然とした佇まいを身に付けた男の顔が微かに歪んだ。男としての魅力も、経済力も一流と言われる男にそんな顏をさせることが出来るのは、彼にとっては唯一無二の女性。
そして、そんな男はかつてその女性の言葉に頬を緩め笑ったこともあった。
「あきらはあいつが嘘をついてるってこと知ってんだろ?」
司は気づいていた。牧野つくしが自分のことを知らないと言ったが、それは嘘だと。
だが、気づいていないふりをした。そうすることで、つくしの気持ちが落ち着くのなら暫くはそれでいいと思っていた。何しろ自分には彼女に対し負い目がある。
彼女の人生は、良く悪くも一人の男に狂わされたようなものではないかと思っていたからだ。彼女の人生を狂わせたのは自分だ。そう感じていた。
男の大きな掌に乗った箱は不似合いだ。
指輪を返されたということの意味は十分過ぎるほど分かっている。
そして、そんなもので彼女の心が手に入らないということも。牧野つくしの本質を知る者なら、彼女がそんなものに関心を覚えるはずがないと知っているはずだ。昔から聡明剛毅なところがある女性だったというのに、そのことを忘れているということを恥じた。
そして、今の自分は彼女の気持ちを動かすだけのものを持っていないのではないかと思った。
もうそんな力は自分には無いのかと。
「司、聞いてくれ。おまえに嘘をついたのは俺だ。牧野じゃない。俺がおまえに嘘をついた。あいつが心に傷を負ってPTSDになったって言ったろ?俺が__おい、待て。おまえ知ってたのか?あいつの病気が嘘だってことを?」
「・・ああ。」
やはりというか予想通りというか、司の落ち着いた態度にあきらは確信を得た。
この男は知っていた、分かっていたのかと。
だが、嘘をついたことに瞬殺するような鋭い目で睨まれるかと思ったがそれもなく、落ち着き払った態度といい、10代後半のあの頃と比べたとき、比べようがないほど大人になり、分別を身に付けた男の姿にあきらはどこか淋しさを覚えていた。
「・・頼まれたんだろ?俺のことなんて覚えてないって言ってくれって?」
「・・すまん、司。・・けど、おまえがいつまでも牧野の態度に気付かないはずねぇよな。でもどうしてわかったんだ?」
「いや。初めて会った時は気付かなかったが、すぐに気付いた。」
道明寺司にとっての牧野つくしは、自分の運命を決定する女なのだろう。
記憶を取り戻した男は好きな女に関しては、どんな勘も鈍らせていないようだ。
「珈琲だ。」
「珈琲?」
「ああ。あいつ俺の邸に住み込んでたとき、俺の好きな珈琲の淹れ方を婆さんに仕込まれた。・・けど、俺に関することを全て忘れたなら、俺好みの珈琲の淹れ方も忘れてるはずだ。
だがある日、出された珈琲は俺が好きな淹れ方がしてあった。あの味を引き出すことが出来る人間はホテルにはいない。だから聞いた。誰が淹れたんだってな。」
全てに於いて最上のものを常としてきた男が口にするのは、決まった銘柄のコーヒー豆。
そして、その淹れ方にも決まりがあった。
「それが牧野だったってことか?」
「ああ。普段の会議はレストランから運ばせるが、あの日は少人数の会議でレストランから運ばせるより近場で淹れた方が早いってことになった。」
「そうか。それで牧野が淹れたってことか。で、おまえはそれで気づいたってことか。まあ、あいつ芝居っての下手そうだよな?昔から嘘をつくのが苦手だったってのにおまえの前で大芝居を打とうとするんだ。考えてみれば無謀な女だな。」
司は言わなかったがつくしが淹れた珈琲には昔から癖があった。
いくら司好みの珈琲の淹れ方を習ったとはいえ、当時高校生だった女はインスタントコーヒー以外知りようがなかった状況で、本物の珈琲を淹れることに不慣れだった。そしてその時ついた癖のようなものがある。ハンドドリップで淹れるのだが、どこか雑味が残っていて今でもそれを感じさせた。
「あきら、俺をなんだと思ってる?あの頃、あいつのことが好きで、地獄の果てまで追いかけて行くって言った男だ。それにどんなにあいつが俺を知らないって顔しても、早い段階でわかった。珈琲はダメ押しだったってことだ。」
司はあきらから受け取った箱を開け中を見た。
そこには世界で一番美しいと言われるダイヤモンドが照明の光りを浴び、美しく輝いていた。
「それにおまえの言う通り、あいつは昔から嘘が苦手な女だっただろ?正直な女だった。そんな女が大人になったからって人間の性根がそう簡単に変わるとは思わねぇ。そんな女に一番感情が表れるのは目だ。目を見たらわかるもんだ。瞳の動きは誤魔化せない。あいつと一緒に仕事をしたが、微妙なタイミングで視線を外すんだがそれが下手くそだ。心の動揺ってのか?俺に言わせればあの演技はまだまだだな。ま、そうだとすれば、俺の少年時代の目つきは最悪で性根はどうだって言われれば返す言葉もねぇけど、俺はあいつに自分の中にあった腐り切った根性を叩き直されたんだ。今の俺があいつの嘘が見抜けない男だと思うか?」
NYの厳しいビジネスシーンで培った人を見る目には自信がある。
司の冷たく黒い瞳の奥には、研ぎたての鋭い刃物のような頭脳があり、今の彼には盲点はないと言われていた。そんな道明寺司を騙せるような人間はいないはずだ。
牧野つくしとの出会いは、司が生きて来た人生で一番大切な出会いだった。
あれは運命の出会い。
だが運命は残酷な道行きを二人の用意していた。
そして別々の道を歩むことになった二人だが、今、時が再び二人が出会うことを許したのかもしれなかった。
それは過去の時間からの贈り物なのか?
またもう一度やり直せばいいと。
初めて会ったあの日のように。
「なあ、あきら。・・けど、どうして嘘をつく?そんなに俺のことが嫌なのか?もう俺を忘れたかったのか?だから嘘をつき続けたのか?」
司は以前あきらに言った。友人でもいいから傍にいたいと。
あの言葉は嘘ではない。友人にもなれないものは恋人にはなれないからだ。
二人の仲が昔と違うならそれでいい。
それなら友人から始めればいい。だが友人にもなれずどうして恋人になることができる?
一度目の恋はダメだったとしても、二度でも三度でも恋をすればいいはずだ。
傍にいれば、やがて気持ちの変化もみられるはずだ。だから傍にいたかった。
だが、友人関係でいるなんてことは考えていなかった。だから結婚を前提につき合って欲しいと言った。そんななか、牧野つくしはいなくなっていた。
「・・司。そんなことねぇぞ?あいつは、牧野はおまえのことが嫌いだなんてことはない。」
あきらはつくしの思いを口にしてもいいものかどうか迷った。
親友である司のことは勿論大事だ。
だが、その親友と同じくらい牧野つくしのことも心配していた。
司の人生が彼女によって変わったのと同じように、あきらもまた牧野つくしと知り合って人生が変わったのだから。なにしろ、男と女の間に恋愛感情がなくてもつき合えるのは、牧野つくしだけだ。
「あいつは迷ってた。おまえの前で本当の自分を隠してたかもしれねぇけど、牧野はあの頃の牧野と変わってない。俺はあいつを見守ってきたからわかる。誤解するなよ?俺と牧野は兄と妹みたいなもんだ。前にも言ったが、あいつはおまえがあいつのことを忘れたからって簡単に他の男に心を許すような女じゃない。むしろ年取るにつれて頑なになるって言った方がいいかもしれねぇな。そうだ、あいつは今じゃ頑固の固まりかもしれねぇな。だからあの年で宿泊課長なんてやってんだぞ?」
道明寺グループのホテルで宿泊課長と言えば、かなりのキャリアだ。
その職を30代前半で手に入れたのだから仕事に対しての取り組みは若い頃から違った。
あきらはそんなつくしを見て来たのだから間違いない。だがそんな女は過去の恋を抱えたまま生きていた。
「だけどな、司。いいか。あいつはおまえがあいつを忘れてから表面上は変わらなかったが本当に酷かったんだ。魂が入ってない状態っての?そんな状態だった頃があった。そのうちお前がもう自分の元に戻ってくることはないってことが心の中に定着したんだろう。それから気持ちが変に固まったっていうのか、無表情に近い状態で無感動だった頃が日常化したことがあったのは事実だ。まあ、それも何年もかけてやっと普通になったって言うのか。あいつがおまえの前で嘘が上手かったのは、そんなことがあったからだ。表情が読めない牧野なんて信じられねぇかもしれねぇけど、それだけおまえを失ったショックが大きかったってことだ。」
高校時代のイメージとはかけ離れた女性になっていた理由がわかった。
そして、あの当時彼女が全身全霊で彼を思っていてくれた姿も。
「それにしてもどうしておまえら二人はこんなにもドラマチックな人生なんだ?」
司と牧野つくしの上にばかりドラマは降りかかるとあきらは思った。そのドラマの共演者として駆り出されているのは、いつも自分だと思っていた。そしてその余波を受けているようなものだと。まさに二人の人生はドラマを見ているようだ。
「知るかよ。そんなこと。俺だって好きであいつのことを忘れた訳じゃねぇ。」
司は18年の歳月を捨てれるものなら捨てたいと思った。自分人生の中にあった18年の歳月を切り取って捨て、そこに本来ならあり得たつくしとの歳月を入れたかった。
だが、それが出来ない以上、18年前の恋を超えるような恋をすればいいはずだと思った。
そうするため、必要なことがあるならどんなことでもするつもりでいる。
その理由はただひとつ。今でもあいつを愛しているから。
そんな自覚をすればするほど今の自分がどうしてこうも躊躇してしまっているのかと苦笑した。
「・・まあいい。どうってことねぇよ。俺にとっては。」
「なんだよ司?何がどうってことねぇんだよ?」
「決まってんだろ?牧野のことだ。どうせあいつ、昔の癖でまたどっかに逃げたんだろ?」
ひとり全ての責任を背負って逃げたことがあった少女。
責任感があると言えば聞こえがいいが、残された者はいい迷惑だった。
「さすが司だ、よく分かってるじゃねぇか。なあ、司。あいつの心に刺さった棘だが針だかを抜いてこい。それが出来るのはおまえだけだ、司。けど、丁寧に抜け?おまえのことだからいきなり抜いたりしたら、ただでさえ細いあいつだ。出血多量で死んじまうぞ?」
「・・ンなことするかよ。あいつに死なれて困るのは俺じゃねぇか。」
司は口元に微笑みを浮かべ、あきらを見ると立ち上がって窓のところに歩いて行った。
そして窓の外を見た。その景色は夜が包み込む前の街。日は殆ど沈みかけている時間、宵闇が訪れようとしていた。そんななか、窓辺に立つ男の背中はいつもと変わらず自信に満ち溢れ堂々としていた。そしてそれはまるで何かを決意したかのように見えた。
本来の道明寺司の雄の本能とも言える態度が感じられたからだ。
当時彼が持っていた牧野つくしに対しての情熱溢れる思いが。
地獄へ逃げようが追いかけて行って捕まえてやると自ら言ったように。
その背後に向かってあきらが言った。
「なあ、司。あいつ俺に聞いてきたぞ。恋を忘れるにはどうしたらいいのかってな。俺にそれを聞くなって言ったけどな。・・だからあいつはまだお前のことを思ってるはずだ。」
張りつめた男の背中の緊張が少しだけ緩んだ。
誰かがその背中を押してやることが必要なのだろうか。
いや、それはもう必要ないはずだ。
「司。おまえが愛してる女は誰だ?牧野だぞ?あいつ、幾つになっても意地っ張りだぞ?おまえのやることは分かってるよな?」
「言われなくてもそんなモン分かってる。」
司は、自分が求めるものがなんであるのか分かっている。
一度手を放してしまったが、記憶が戻った瞬間から、彼女がどうしても欲しいのだと思いを決するのに、長い時間はかからなかったはずだ。
彼女が、牧野つくしが欲しかった。
18年前も。そして今も。

にほんブログ村

応援有難うございます。
スポンサーサイト
Comment:6
コメント
このコメントは管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

よ**様
つくしの演技を見破っていた司。
大人の彼は落ち着いた目でつくしを見ることが出来たようですね?(笑)
逃げるつくし(笑)
つくしは、逃げるのはあいつの癖と言われ怒っているかもしれませんね(笑)
コメント有難うございました^^
つくしの演技を見破っていた司。
大人の彼は落ち着いた目でつくしを見ることが出来たようですね?(笑)
逃げるつくし(笑)
つくしは、逃げるのはあいつの癖と言われ怒っているかもしれませんね(笑)
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.03.09 22:41 | 編集

司×**OVE様
おはようございます^^
司はつくしの嘘なんて見破るのは簡単だったことでしょう。
彼女に対しての思いは激しい男ですものね(笑)
つくし、何処へ行ったのでしょうか。でもつくしも大人ですからね(笑)
大人の司も無茶はしません(笑)
そうですねぇ。私の場合10話までなら短編に入ると思っています。
コメント有難うございました^^
おはようございます^^
司はつくしの嘘なんて見破るのは簡単だったことでしょう。
彼女に対しての思いは激しい男ですものね(笑)
つくし、何処へ行ったのでしょうか。でもつくしも大人ですからね(笑)
大人の司も無茶はしません(笑)
そうですねぇ。私の場合10話までなら短編に入ると思っています。
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.03.09 22:52 | 編集

さと**ん様
司とあきらの大人の会話。
あきらも、悪いのはつくしじゃなく自分だと言うところが優しいですね。
そしてそんなあきらを責めない司も大人になりましたね。(笑)
違いの分かる男、司です。珈琲の味も分かったようですね?
つくしドリップする時、どんな癖があるのでしょう(笑)
つくしの目の動きで演技と分かったところも流石ですね。
好きな女性のことは、どんな些細なことでも勘が働く。そんな男でしたからねぇ(笑)
意地っ張りのつくし。司の健闘を祈ります。
コメント有難うございました^^
司とあきらの大人の会話。
あきらも、悪いのはつくしじゃなく自分だと言うところが優しいですね。
そしてそんなあきらを責めない司も大人になりましたね。(笑)
違いの分かる男、司です。珈琲の味も分かったようですね?
つくしドリップする時、どんな癖があるのでしょう(笑)
つくしの目の動きで演技と分かったところも流石ですね。
好きな女性のことは、どんな些細なことでも勘が働く。そんな男でしたからねぇ(笑)
意地っ張りのつくし。司の健闘を祈ります。
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.03.09 23:02 | 編集
