牧野つくし。
その名前の女性はすぐに見つかった。
彼女はホテルに勤務していた。それも司のグループ会社のホテルだ。
高校を卒業し、大学を出たその女性が選んだ就職先が彼の会社が経営するホテルだったとは、これは何かの巡り合わせなのか、それとも偶然なのか。
自分のホテルならもしかすると、どこかで会ったことがあるかもしれないと思った。だが思い出すことは出来なかった。なにしろ司は他人には興味がない男だ。仕事上、ライバルとなるような人間の顔と名前は覚えているが、それ以外の人間には全くといっていいほど興味がない。ましてや会社の、それもグループ会社のひとつであるホテルの従業員の顔などいちいち覚えてなどいない。それでも余程印象深い人間か、もしくは不祥事を起こした社員なら思い出したかもしれないが、そんなこともなければ、膨大な従業員のデーターから名前を探すことは、ない。
司が会いたいと望んだその女性は宿泊部門の課長として働いていた。
時に営業として旅行代理店との折衝。宿泊客から寄せられる無理難題を聞き入れ、突然の珍客にも対応しなければならない。そんな部署で課長となった女性。
再会を決めたが、どんな態度で臨めばいいのか迷いがあった。
経営母体の代表者としての顔なのか、遠い昔つき合ったことのある男としての顔なのか。
その男は彼女のことが記憶にないというのに、いったいどんな顔をすればいいのか。
だが牧野つくしという女性は、かつてつき合っていたと言われる男が会いたいと言っていると聞かされたとき、果たしてどんな顔をしたのか知りたいと思った。
そしてこれから実際会うその女性の顔にどんな表情が現れるのか見たいと思った。
自分のことを好きだと言ってくれたその女性の顔に移ろう表情を。
支配人室で待つ彼の元を訪れた女性は、肩の長さの髪をした女性。
黒く艶やかなストーレートの髪に、雌鹿のような瞳。
白い肌はおそらくノーメークでもシミひとつない肌のはずだ。
ホテルの制服である黒のスーツ。胸にはゴールドのネームプレートがあり、苗字がローマ字で記されていた。そしてそんな姿の女性はとても落ち着いて見えた。
「宿泊課の牧野です。お呼びだとお伺い致しましたが、何か不手際でもございましたでしょうか?」
その女性は即座に言った。
口ぶりは接客業ならではの礼儀正しさが感じられた。
その表情も彼が今まで目にしたことがあるホテルの人間の態度そのものだ。女性らしさをことさら強調することなく、あくまでもホテルの備品のように控えめで目立つことのない人工的な姿がそこにあった。
いつもなら何事に対しても躊躇などすることがない男は、そんな女性になんと声をかければいいのか迷っていた。笑顔も態度も全てが人工的でそつがない。型に嵌められたようなその態度は、いつも見慣れているはずだというのに。なにしろ、彼の周りにはそんな人間ばかりなのだから。だが今はその女性から本物のほほ笑みを向けられたいと思った。一人の人間が思いやりと愛を持ってほほ笑む姿を自分に向けて欲しいと感じていた。
「・・あなたが牧野さんですか?」
司は椅子に腰かけた姿勢で正面に立つ女性に聞いた。
「突然だが牧野さん。どこかでお会いしたことはありませんか?」
「大変申し訳ございません。わたくしの記憶違いでしたら大変申し訳ないのですが、お会いした覚えがございません。」
デスクの向う側にいる女性は落ち着いた声色で答えた。
声を聞けば何か思い出すかと思ったが、何も思い出せなかった。
それに、それは司が聞きたかった答えではなかった。
それならいったいどんな答えが聞きたかったのか。
昔、付き合っていたよしみから、お久しぶりですとでも言ってもらえると思ったのか?
自分は彼女のことを覚えていないというのに、そんな言葉を期待する男は一体何を求めているというのか。目の前にいる女性が自分にとってどんな女性だったか聞かされ知っているとはいえ、今、この女性は自分をどう思っているのか知りたいという身勝手とも言える思いが心の中にあった。
自分より一つ年下だと聞いたが実年齢より若く見える女性。
化粧は最低限と思われるほどで、職業柄匂いのするものはつけてはいない。身体の前で緩く重ね合わせた手の指には、薄いマネキュアが施されているが指輪はない。袖口から覗く時計が見えたがブランドものではなく、ごく一般的な文字盤が見えた。
そんな女性は頭の良い女性だと思った。
凛として咲く花の如く背筋をピンと伸ばし立っているが、この女性はどんな人間に対しても変わることがないものがあるのだろう。視線や言葉使いの勢いは相手がどんな立場にいようと変わることはないはずだ。しっかりと自分を持つ女性。そう感じられた。
この女性は今、何を考えているのだろう。
大きな黒い瞳は真っ直ぐこちらを見つめているが、表情はない。だが決して感情がない訳ではない。頭の中では、目まぐるしく考えているはずだ。どうして自分がこの場所に呼ばれたのかと。普段ホテル事業とは全くといっていいほど関係のない男に呼び出されたのだから。
友人から聞かされた二人の関係は、この女性にとって簡単に忘れられるものだったのだろうか。司はなんの表情も見せることなく佇む女性に再び声をかけた。
「・・そうでしたか。以前どこかでお会いしたような気がしていたのですが。気のせいでしたか。昔の知り合いに似ていたような気がしまして、話がしたいと思いお呼びいたしました。ですが、わたしの勘違いだったようです。申し訳ない。仕事に戻っていただいて結構です。」
女性は丁寧にお辞儀をすると、失礼いたします、とだけ言葉を残し、支配人室を出て行った。
閉じられた扉のこちら側は静寂が漂っていた。
そんななか、どこか懐かしい空気が感じられた。
どう表現すればいいのだろう。
人は匂いで古い記憶が思い出されることがあるという。
匂いというものは、頭の片隅の仄暗く思い出したくない記憶まで掘り起こしてしまうことがあるという。
だが、今の女性は香水などつけてはいなかった。
それなら何故?
それはその人が持つオーラという空気の流れなのかもしれない。
彼女が纏っている彼女自身の香りというものかもしれなかった。
司は言われたことがある。あなたは人が近づくことが躊躇われるようなオーラがあると。
それは言い換えればカリスマ性というのかもしれないが、彼には独特の雰囲気があった。
人は誰でも自分の周りに漂わせている空気の流れがある。司は自分の中でその女性の持つ空気を感じとっていた。司との接触を拒むかのような冷たさだったが、それでも感じるものがあった。そして、その空気が長い階段の上の方から強い下降気流のように一気に自分の方へと押し寄せてきたように感じられ、その瞬間、頭の中にあった古く錆びついていた鉄の扉が押し開かれたのがわかった。
身動きが出来なかった。
視線が彷徨った。
何かを求めて。
今まで見えなかった何かが見えた。
そして目を閉じた。
司は否定できない思いが湧き上がってくるのを感じていた。
彼女が、牧野つくしが自分の心の中に入り込んだのがわかった。
雨が降るたび、頭の中を過る光景があった。
それは激しい雨の降る夜の光景。司の前で傘をさすことなく佇む一人の少女の姿。
だが顔は見えない。その光景は眠れない長い夜の明け方に見た夢の中の光景だったのかもしれないが、その少女のことを責めている自分の姿があった。
夢の中の自分は、気持ちに整理をつけ別れた人がいた。
実らぬ恋に苦悩し、思い悩んでいる自分の姿が見えることがあった。
しかし、その別れた人物が誰であるかわからなかった。
だが、今わかった。
他の誰に言われなくとも。
さっきまで、目の前にいた人こそが、かつて自分が愛した人だと。
彼女こそが心の中にあった人だと。
かつて暗闇の中にいた自分の元へ届いた日の光りだった人。
自分の中にあった孤独を追い払ってくれた人。
司は目を開いた。
彼女の名前を口にしてもいいのだろうか。
その権利はまだ自分にあるのだろうか。
18年ぶりに口にするその名前。
唇は動くが言葉には出来なかった。
あの日からいったいどれだけの歳月が流れたか、考えるだけで恐ろしかった。
忘れたくないと思っていた当時の思いが甦る。
記憶に残る瞬間はいくつもあった。初めて出会ったあの階段。
あのとき、俺はあいつを天敵であるかのように睨みつけていた。
初めてキスをした船の上。不器用ともいえる二人がいた。
精一杯の気持ちを伝えたが親友が好きだと知った日があった。
雪山でいなくなったあいつを探し求め遭難しそうになったこともある。
走り去るバスを追いかけたこともあった。
あのとき、俺はなんと言った?
おまえじゃなきゃだめだ。
おまえのいない毎日は意味がない。
地獄だろうがどこだろうが、追いかけていって捕まえてやる。と。
――あぁ。
決して一生離さないと誓った人が目の前にいたというのに、手を伸ばすことは許されないのか。なぜなら、その女性は司と会った覚えがないと言った。
今、この瞬間は自分にとって歓びなのか。それとも苦悩なのか。
あいつの表情は俺を見ても変わらなかった。
会ったことがないと言い切った。
それはもう記憶の中に無いと言いたいのだろうか。
あの頃二人が共有した思いは、今はもう無いといいたいのだろうか。
思い出は風化するというが、あいつの中にはあの頃の思いはすでに無いということなのか。
だが覚えていないはずがない。
一度も会ったことがないふりをしていたのか。それともかつてつき合っていたことを俺に思い出させることが嫌だったからなのか。もし、後者だとすれば、あの時の態度が今も尾を引いているのだろう。記憶を失った男が女に浴びせかけた言葉に心を痛めたことは聞かされ知っている。二度と来るな、顔を見せるなと罵倒した。そんなことを言われ、もう二度と来ないと言って自分の前を立ち去った後ろ姿も思い出しているが、そのことを伝えることを躊躇している自分が滑稽だと思えた。
忘れていたおまえのことを思い出したと何故口にできない?
今すぐ走って行ってそう言えばいいはずだ。
だが出来なかった。
それはあいつの態度がそうさせるのかもしれない。
あいつは俺のことを自分の事を忘れ去った男として見ていた。
だから何も言わなかったのか?
今さら何を?そんな思いなのだろうか?
それなら、あいつの記憶がない男と思われている自分は、その男を見知らぬ男とし、接する女とこれから知り合えばいいではないか。
「まきの・・」
やっと口にすることが出来た愛しい人の名前。
だが、頭を過ったのは、
『お会いした覚えがございません。』
今の司には、人工的な受け答えを聞く事以外出来ないとしても、これから知り合えばいいはずだ。
たとえ、あなたのことは知りませんと言われたとしても。

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彼女はホテルに勤務していた。それも司のグループ会社のホテルだ。
高校を卒業し、大学を出たその女性が選んだ就職先が彼の会社が経営するホテルだったとは、これは何かの巡り合わせなのか、それとも偶然なのか。
自分のホテルならもしかすると、どこかで会ったことがあるかもしれないと思った。だが思い出すことは出来なかった。なにしろ司は他人には興味がない男だ。仕事上、ライバルとなるような人間の顔と名前は覚えているが、それ以外の人間には全くといっていいほど興味がない。ましてや会社の、それもグループ会社のひとつであるホテルの従業員の顔などいちいち覚えてなどいない。それでも余程印象深い人間か、もしくは不祥事を起こした社員なら思い出したかもしれないが、そんなこともなければ、膨大な従業員のデーターから名前を探すことは、ない。
司が会いたいと望んだその女性は宿泊部門の課長として働いていた。
時に営業として旅行代理店との折衝。宿泊客から寄せられる無理難題を聞き入れ、突然の珍客にも対応しなければならない。そんな部署で課長となった女性。
再会を決めたが、どんな態度で臨めばいいのか迷いがあった。
経営母体の代表者としての顔なのか、遠い昔つき合ったことのある男としての顔なのか。
その男は彼女のことが記憶にないというのに、いったいどんな顔をすればいいのか。
だが牧野つくしという女性は、かつてつき合っていたと言われる男が会いたいと言っていると聞かされたとき、果たしてどんな顔をしたのか知りたいと思った。
そしてこれから実際会うその女性の顔にどんな表情が現れるのか見たいと思った。
自分のことを好きだと言ってくれたその女性の顔に移ろう表情を。
支配人室で待つ彼の元を訪れた女性は、肩の長さの髪をした女性。
黒く艶やかなストーレートの髪に、雌鹿のような瞳。
白い肌はおそらくノーメークでもシミひとつない肌のはずだ。
ホテルの制服である黒のスーツ。胸にはゴールドのネームプレートがあり、苗字がローマ字で記されていた。そしてそんな姿の女性はとても落ち着いて見えた。
「宿泊課の牧野です。お呼びだとお伺い致しましたが、何か不手際でもございましたでしょうか?」
その女性は即座に言った。
口ぶりは接客業ならではの礼儀正しさが感じられた。
その表情も彼が今まで目にしたことがあるホテルの人間の態度そのものだ。女性らしさをことさら強調することなく、あくまでもホテルの備品のように控えめで目立つことのない人工的な姿がそこにあった。
いつもなら何事に対しても躊躇などすることがない男は、そんな女性になんと声をかければいいのか迷っていた。笑顔も態度も全てが人工的でそつがない。型に嵌められたようなその態度は、いつも見慣れているはずだというのに。なにしろ、彼の周りにはそんな人間ばかりなのだから。だが今はその女性から本物のほほ笑みを向けられたいと思った。一人の人間が思いやりと愛を持ってほほ笑む姿を自分に向けて欲しいと感じていた。
「・・あなたが牧野さんですか?」
司は椅子に腰かけた姿勢で正面に立つ女性に聞いた。
「突然だが牧野さん。どこかでお会いしたことはありませんか?」
「大変申し訳ございません。わたくしの記憶違いでしたら大変申し訳ないのですが、お会いした覚えがございません。」
デスクの向う側にいる女性は落ち着いた声色で答えた。
声を聞けば何か思い出すかと思ったが、何も思い出せなかった。
それに、それは司が聞きたかった答えではなかった。
それならいったいどんな答えが聞きたかったのか。
昔、付き合っていたよしみから、お久しぶりですとでも言ってもらえると思ったのか?
自分は彼女のことを覚えていないというのに、そんな言葉を期待する男は一体何を求めているというのか。目の前にいる女性が自分にとってどんな女性だったか聞かされ知っているとはいえ、今、この女性は自分をどう思っているのか知りたいという身勝手とも言える思いが心の中にあった。
自分より一つ年下だと聞いたが実年齢より若く見える女性。
化粧は最低限と思われるほどで、職業柄匂いのするものはつけてはいない。身体の前で緩く重ね合わせた手の指には、薄いマネキュアが施されているが指輪はない。袖口から覗く時計が見えたがブランドものではなく、ごく一般的な文字盤が見えた。
そんな女性は頭の良い女性だと思った。
凛として咲く花の如く背筋をピンと伸ばし立っているが、この女性はどんな人間に対しても変わることがないものがあるのだろう。視線や言葉使いの勢いは相手がどんな立場にいようと変わることはないはずだ。しっかりと自分を持つ女性。そう感じられた。
この女性は今、何を考えているのだろう。
大きな黒い瞳は真っ直ぐこちらを見つめているが、表情はない。だが決して感情がない訳ではない。頭の中では、目まぐるしく考えているはずだ。どうして自分がこの場所に呼ばれたのかと。普段ホテル事業とは全くといっていいほど関係のない男に呼び出されたのだから。
友人から聞かされた二人の関係は、この女性にとって簡単に忘れられるものだったのだろうか。司はなんの表情も見せることなく佇む女性に再び声をかけた。
「・・そうでしたか。以前どこかでお会いしたような気がしていたのですが。気のせいでしたか。昔の知り合いに似ていたような気がしまして、話がしたいと思いお呼びいたしました。ですが、わたしの勘違いだったようです。申し訳ない。仕事に戻っていただいて結構です。」
女性は丁寧にお辞儀をすると、失礼いたします、とだけ言葉を残し、支配人室を出て行った。
閉じられた扉のこちら側は静寂が漂っていた。
そんななか、どこか懐かしい空気が感じられた。
どう表現すればいいのだろう。
人は匂いで古い記憶が思い出されることがあるという。
匂いというものは、頭の片隅の仄暗く思い出したくない記憶まで掘り起こしてしまうことがあるという。
だが、今の女性は香水などつけてはいなかった。
それなら何故?
それはその人が持つオーラという空気の流れなのかもしれない。
彼女が纏っている彼女自身の香りというものかもしれなかった。
司は言われたことがある。あなたは人が近づくことが躊躇われるようなオーラがあると。
それは言い換えればカリスマ性というのかもしれないが、彼には独特の雰囲気があった。
人は誰でも自分の周りに漂わせている空気の流れがある。司は自分の中でその女性の持つ空気を感じとっていた。司との接触を拒むかのような冷たさだったが、それでも感じるものがあった。そして、その空気が長い階段の上の方から強い下降気流のように一気に自分の方へと押し寄せてきたように感じられ、その瞬間、頭の中にあった古く錆びついていた鉄の扉が押し開かれたのがわかった。
身動きが出来なかった。
視線が彷徨った。
何かを求めて。
今まで見えなかった何かが見えた。
そして目を閉じた。
司は否定できない思いが湧き上がってくるのを感じていた。
彼女が、牧野つくしが自分の心の中に入り込んだのがわかった。
雨が降るたび、頭の中を過る光景があった。
それは激しい雨の降る夜の光景。司の前で傘をさすことなく佇む一人の少女の姿。
だが顔は見えない。その光景は眠れない長い夜の明け方に見た夢の中の光景だったのかもしれないが、その少女のことを責めている自分の姿があった。
夢の中の自分は、気持ちに整理をつけ別れた人がいた。
実らぬ恋に苦悩し、思い悩んでいる自分の姿が見えることがあった。
しかし、その別れた人物が誰であるかわからなかった。
だが、今わかった。
他の誰に言われなくとも。
さっきまで、目の前にいた人こそが、かつて自分が愛した人だと。
彼女こそが心の中にあった人だと。
かつて暗闇の中にいた自分の元へ届いた日の光りだった人。
自分の中にあった孤独を追い払ってくれた人。
司は目を開いた。
彼女の名前を口にしてもいいのだろうか。
その権利はまだ自分にあるのだろうか。
18年ぶりに口にするその名前。
唇は動くが言葉には出来なかった。
あの日からいったいどれだけの歳月が流れたか、考えるだけで恐ろしかった。
忘れたくないと思っていた当時の思いが甦る。
記憶に残る瞬間はいくつもあった。初めて出会ったあの階段。
あのとき、俺はあいつを天敵であるかのように睨みつけていた。
初めてキスをした船の上。不器用ともいえる二人がいた。
精一杯の気持ちを伝えたが親友が好きだと知った日があった。
雪山でいなくなったあいつを探し求め遭難しそうになったこともある。
走り去るバスを追いかけたこともあった。
あのとき、俺はなんと言った?
おまえじゃなきゃだめだ。
おまえのいない毎日は意味がない。
地獄だろうがどこだろうが、追いかけていって捕まえてやる。と。
――あぁ。
決して一生離さないと誓った人が目の前にいたというのに、手を伸ばすことは許されないのか。なぜなら、その女性は司と会った覚えがないと言った。
今、この瞬間は自分にとって歓びなのか。それとも苦悩なのか。
あいつの表情は俺を見ても変わらなかった。
会ったことがないと言い切った。
それはもう記憶の中に無いと言いたいのだろうか。
あの頃二人が共有した思いは、今はもう無いといいたいのだろうか。
思い出は風化するというが、あいつの中にはあの頃の思いはすでに無いということなのか。
だが覚えていないはずがない。
一度も会ったことがないふりをしていたのか。それともかつてつき合っていたことを俺に思い出させることが嫌だったからなのか。もし、後者だとすれば、あの時の態度が今も尾を引いているのだろう。記憶を失った男が女に浴びせかけた言葉に心を痛めたことは聞かされ知っている。二度と来るな、顔を見せるなと罵倒した。そんなことを言われ、もう二度と来ないと言って自分の前を立ち去った後ろ姿も思い出しているが、そのことを伝えることを躊躇している自分が滑稽だと思えた。
忘れていたおまえのことを思い出したと何故口にできない?
今すぐ走って行ってそう言えばいいはずだ。
だが出来なかった。
それはあいつの態度がそうさせるのかもしれない。
あいつは俺のことを自分の事を忘れ去った男として見ていた。
だから何も言わなかったのか?
今さら何を?そんな思いなのだろうか?
それなら、あいつの記憶がない男と思われている自分は、その男を見知らぬ男とし、接する女とこれから知り合えばいいではないか。
「まきの・・」
やっと口にすることが出来た愛しい人の名前。
だが、頭を過ったのは、
『お会いした覚えがございません。』
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悠*様
時の流れは誰にも止められません。
そして時は誰にも平等に流れます。
この二人の間にはどんな時が流れたのでしょうねぇ・・。
コメント有難うございました^^
時の流れは誰にも止められません。
そして時は誰にも平等に流れます。
この二人の間にはどんな時が流れたのでしょうねぇ・・。
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.03.03 23:12 | 編集

司×**OVE様
おはようございます^^
司の記憶は戻りました。(笑)
心おだやかに読めますか?
つくしちゃん、さぞかしびっくり・・。
二人の間に流れた18年。どんな18年だったんでしょうねぇ・・。
コメント有難うございました^^
おはようございます^^
司の記憶は戻りました。(笑)
心おだやかに読めますか?
つくしちゃん、さぞかしびっくり・・。
二人の間に流れた18年。どんな18年だったんでしょうねぇ・・。
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.03.03 23:20 | 編集

とん**コーン様
おおっ!素敵な思い出をお持ちですね^^
それにしてもカッコイイ思い出ではないですか!
そうですね。思い出のある懐かしい香りと言うものは、一瞬で当時を思い出させる力があると思います。
匂いもそうですが、歌にも思い出がある場合が多いと思いますがいかがでしょうか?この歌が流行っていたとき、こうだった・・。そんなこともあるのではないでしょうか?
本業の方は月末を乗り越えましたが、今月はなかなか厳しい時もありそうです(笑)
お気遣い頂き、有難うございます。
とん**コーン様もお身体ご自愛下さいませ。
拍手コメント有難うございました^^
おおっ!素敵な思い出をお持ちですね^^
それにしてもカッコイイ思い出ではないですか!
そうですね。思い出のある懐かしい香りと言うものは、一瞬で当時を思い出させる力があると思います。
匂いもそうですが、歌にも思い出がある場合が多いと思いますがいかがでしょうか?この歌が流行っていたとき、こうだった・・。そんなこともあるのではないでしょうか?
本業の方は月末を乗り越えましたが、今月はなかなか厳しい時もありそうです(笑)
お気遣い頂き、有難うございます。
とん**コーン様もお身体ご自愛下さいませ。
拍手コメント有難うございました^^
アカシア
2017.03.03 23:31 | 編集

Hap***nding様
こんにちは^^
記憶喪失の司は色々おりますが、こんな司がお好きですか?
こちらのお話しは短編ですので、展開は早いです。
さら~っとお読み流し下さいませ(笑)
本業は月末を乗り越えましたが、なにしろ年度末。
脳内疲労です(笑)
コメント有難うございました^^
こんにちは^^
記憶喪失の司は色々おりますが、こんな司がお好きですか?
こちらのお話しは短編ですので、展開は早いです。
さら~っとお読み流し下さいませ(笑)
本業は月末を乗り越えましたが、なにしろ年度末。
脳内疲労です(笑)
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.03.03 23:41 | 編集

よ*ぎ様
はじめまして。こんにちは^^
記憶喪失の短編は何作かありますが、こちらの短編の雰囲気はいつもと違いますか?
もし夫や彼氏がいたらどうやって奪うか・・。
つくしを取り戻すため手を尽くす司。略奪の策を練る司。
本当に欲しいものは何としても手に入れるでしょうね。
ただ、つくしの心がないと彼は満足しないはずですから、その心を手に入れるため、どうするのでしょうねぇ。
考えてみるのも面白そうですね^^
コメント有難うございました^^
はじめまして。こんにちは^^
記憶喪失の短編は何作かありますが、こちらの短編の雰囲気はいつもと違いますか?
もし夫や彼氏がいたらどうやって奪うか・・。
つくしを取り戻すため手を尽くす司。略奪の策を練る司。
本当に欲しいものは何としても手に入れるでしょうね。
ただ、つくしの心がないと彼は満足しないはずですから、その心を手に入れるため、どうするのでしょうねぇ。
考えてみるのも面白そうですね^^
コメント有難うございました^^
アカシア
2017.03.03 23:58 | 編集
