類は世田谷の道明寺邸に電話をかけていた。
司がラウンドすると言われていたゴルフ場に現れなかったからだ。
取引先の会長との回る予定だったが、先方が体調を崩したことにより急遽中止となったことはゴルフ場に着いてから知った。多くの政治家や有名人が好んで利用するゴルフ場は当然だが情報管理にも厳しい。誰がいつこの場所を訪れるかなど外部に漏れることは決して無い。
当然司のスケジュールなどわかるはずのない類だったが、思わぬところで知ることになった。司が一緒にラウンドする相手は、花沢物産とも懇意な関係にある会社の会長だったからだ。その会長の口から何気に漏れた司の名前とその日付。
類は今まで何度も司に連絡を取ろうと試みても、秘書がそれを受け入れることはなかった。
牧野つくしの一件以来、自分が憎まれていることはわかっているだけに、無駄だとは思っていても、会おうとすることを止めるわけにはいかなかった。
類は電話に出た使用人からの沈黙に耳を傾けていた。
暫くすると、当然のように司は留守だと答えが返って来た。どうすれば会えるかなど今更聞いても無駄だとわかっていた。
しかし、あの邸にいることはわかっていたが、訪ねたところで会えないこともわかっていた。
今、あの邸には二人の間に立って調整機能を果たしてくれる人間はいない。司のような男に意見が言えるとすれば、今日一緒にラウンドするはずだった会長くらいだ。だから司もゴルフにつき合うことにしたはずだ。
司のことだ。思わぬ時間を手に入れたからには牧野の所へ行くに決まっている。
その場所がどこだかわからないが、牧野欲しさにあれだけ追い回していた男だ。あの男がどんなに変わろうと恐らくその点だけは、昔と変わらないはずだ。
***
男が乗った車は雨の中、山荘までの山道を順調に走っていた。
到着に思ったほど時間がかかることはなく、予定していた時刻よりも早いくらいだ。
鋭く角ばった顔立ちは見れば印象に残る顔だ。だからいつも印象に残らないように工夫していた。だがこんな山の中で変装をする必要などない。そしてこの場所ならあと片づけをする必要もない。それが彼の仕事だとしても。
男が受けた命令は牧野つくしを息子の前から消すこと。
手段は問わず。
黒い噂がある道明寺の父親と息子。
この二人はどちらも頭がいい。目的を達成するまではその刃を収めることがない。
そして彼らの祖父もまた然りだった。
だからこそ、道明寺財閥は戦後の混乱期も潰れることなく大きくなっていった。
祖父、父親、そして息子と3代に渡って築き上げてきた企業は今では巨大化していた。
子会社は無数にあり、記念財団や美術財団までも有している。そして医療法人まであった。
あの親子はどちらも冷酷な決定を平気で下す。
だが息子は牧野つくしと再会してから、どこか変わったということだろう。父親は危惧すべきことが出て来たようだ。
息子が望んだのは、牧野つくしに子どもを産ませるということ。そして結婚するということだ。牧野つくしに再会する前の道明寺司なら、ほぼ父親の望むような男だった。ビジネスに冷酷で、政治家を利用し、例え国益に反しようが会社の利益が上がればそれでいいというような男だったはずだ。
ビジネスではいつも必ず勝者となる男。
真綿でじわじわと相手の首を絞めるのではなく、荒縄で一気に絞める男。
競争社会の勝者であり、格差社会の頂点にいる男。
そんな男だった息子が変わっていく姿を父親は許せなかったということか。
親子であって親子でない道明寺司とその父親。
この対決が大きなうねりとならないうちに押さえ込もうとする父親は、息子の幸せなどどうでもいいらしい。
だが、その場で押さえることが出来ても、別の場所で大きなうねりを作り出すこともある。 穏やかに寄せては返す波も、時に突然その大きさを増して襲いかかることがある。まさにそれと同じことが人生にも起こる。いつも良いことばかり続かないというのは、そういうことだ。
人生とは実にバランスよく出来ていて、良いことと悪いことが繰り返し起こるものだ。
男は山荘から少し離れた林に車を乗り入れるとエンジンを止めた。そしてハンドルに腕を乗せて暫くじっとしていた。やがて助手席に置かれている一枚の写真に目を向けていた。
そこに写る女は間違いなく牧野つくし。この写真はいつ撮られたものか。隠し撮りをされた写真は女のほほ笑みを綺麗に写し出していた。柔らかくほほ笑む姿は何を思ってほほ笑んだのか。
だが気の毒にと思わずにはいられなかった。あの父親に目を付けられてはどうしようもないだろう。例え息子が守ろうとしても、いつかのあの日の様に痛い目を見ることになる。
昔、男はある仕事をした。
だがそれはあくまでも不幸な事故だった。
あの頃はこの少女のことは知らなかった。
それに自分は血も涙もない殺し屋ではない。
「どちらにしても、厄介なことにならないうちに、なんとかするのがあの父親のやり方なんだろう」
***
昔と何も変わらない風景がそこにあった。
生まれてこのかた自然に興味など示したことがないというのに、こうして外の風景を眺めていると、幼かった日々が甦るようだ。
自分にも無邪気で世間の暗い部分を知らない頃があった。だが、いつの頃からか暗い闇が己の前に広がっていたことに気づいていた。そしてその暗闇はまだ彼の前に広がったままでいた。
自分はひとりで生きて来た。いつもひとりぼっちだった。
それは厳然たる事実で、その事実は常に邸の中にあった。幼い頃から両親はおらず、広大な邸に姉と年老いた使用人と暮らしているようなもので、その二人以外の人間とまともに口など利いたことがなかった。
両親に会うことは年に一度か二度あればいい方で、会わずに終わる年もあった。そんな中で久しぶりに会う自分の子どもに対する態度は、いつも″お好きなように″と言った態度だった。
そんな親を持ち、何をしても眉をしかめることもない人間に囲まれて育てば、人として何が許され、何が許さないのかも理解出来なかった。
ある日、邸の中に飾られていた花瓶を叩き壊して歩いたことがあった。
花瓶をつかみ、堅い床めがけて叩きつけて歩く。そんな自分の後ろには、粉々に砕け散った陶器が散乱していた。生けられていた花は足で踏みつけていた。
花なんぞ生けて何が楽しい?
花に色があることさえ憎らしい、すべてが暗闇に包まれてしまいえばいい。
自分と同じ暗闇に咲けばいい。
いつもそう考えていた。
ある時、邸の中に母親がいたことがあったが、それはまさに年に一度あるかないかの帰国。
そんな時もドアを開け放つと、あの女の前まで歩いていき、コンソールテーブルの上に飾られていた花瓶を掴んで床に叩きつけたこともあったはずだ。それなのに自分の子どもを叱るということもしない女。自分の子どもに興味がないのか表情が変わることはなく、デスクに向かって仕事を続けていた。
部屋から出る前、振り返って見ても変わらずの姿勢に、あの女が自分の母親であることは間違いない。そのことを確信した。
それはまさに、此の親にして此の子ありかと実感できた瞬間でもあったはずだ。
飾られていた花を息子の足で踏みつけられても、眉をしかめることもしない女。
そんな女だから、道端に咲く雑草のような花も平気で踏みつけることが出来ると知った。
あの女は、牧野つくしはそんな母親に屈服することなく戦ったこともあったはずだ。
それなのに、あの女は、牧野はどうして俺を捨てた?
ヘリは都内から牧野つくしのいる山荘に向かっていた。
ずっと一緒に居たいと願い、何もかも捨てるとさえ告げた女の元へ。
かつて司の居場所は彼女の傍だった。
そう_あの日までは。
狂った世の中を叩き壊す。
狂った時間を。
狂った夜を。
己の周りにある全ての物を壊してしまいたい。
そんな中で手にした女は司の心の中に巣食ってしまった。
手に入れた瞬間、歓びよりも復讐心の方が大きかったはずだ。それなのに今となっては、再会する以前の、会いたかったという思いの方が大きくなっていた。
だがこの世界は虚ろで、司の心は氷よりも冷たくなっていた。
目覚めて太陽の光を浴びても溶けることのない彼の心。そんな心と10年も過ごせば、己の心があるのかさえ分からなくなっている。その心を生み出したのはひとりの少女。
あの日の雨の中、自分を捨てて去った女。振り返ることなく去っていった後ろ姿が目に焼き付いていて、何年経とうが頭から離れようとはしなかった。その光景の中に何か見落としてしまったものがないかと、希望を見つけることが出来るのではないかと、幾度か思い出しても浮かぶことはなく、ただ、ひたすらあの雨の音と冷たさだけが思い出されて来るばかりだ。
だがもう10年も前の話だ。
まるで夢だったとでも言えるあの短い恋。
それは束の間の夢。
そしてそれはいつの頃からか見果てぬ夢となって、悪夢となって、司を、彼の心を蝕んでいた。だがあの女を手に入れた。どこにも逃がさないと閉じ込めた。そしてもう他の誰も触れることがない。それなのに心の飢えは収まることがなく、そして心が晴れることがない。
だが、今さら何を?心が晴れるだと?そんなことを望んだことなどなかったはずだ。
だがいったい自分は何をしているのか。
いったい自分は何をしたいのか。
今では自分の心の奥底を覗くことを避けようとしている。
皮肉な思いが頭に浮かんでいた。
自分と同じレベルまであの女を落として共に暮らすことだけを望んでいるのか。
人生を選択することが許されなかった自分と同じ状況に置きたいというのなら、もう十分その状況に置かれているはずだ。
狂った世の中から抜け出したい。
いや。
狂ったのは自分だけで、世の中は狂っていないのかもしれない。
ならばいっそ狂った己を壊してしまおうか。
狂ったと言われているこの精神を。そしてこの肉体を。
軋む骨から肉をそぎ落としてどこかの獣にくれてやるか。
道明寺という肥大化した組織からそぎ落とした肉を。
だがこの世界は狂ってしまう己のために用意されていたのかもしれない。
そんな思いが頭の中を過る。
今の司が囚われている世界は道明寺という檻。
他人は豪華なその檻の中に入りたがるが、彼はかつてその檻から抜け出そうとした。
そして実際抜け出せると思っていた。
常に苛立ちに襲われていたあの頃、檻から抜け出せると思った。
恋を知った高揚感に心が躍り、陶酔までした女のためにあの家を捨てようとした。
互いに惹きつけられた。それは確かにあったはずだ。
例えばあの日。
似合いもしない場所でコーヒーを飲み、あの邸を出ると言った。ガキの遊び場で、互いのプライドをかけたような遊びもした。深い意味はないと言われキスをされ、今までの人生で一番幸せな時間を経験したはずだった。
それはまるで、太陽が沈み切る前の最後の輝きだったかのようだ。
幸せな人生の始まりの光り。そう感じていた。だがやはりそれは、最後の輝きだったのかもしれない。
あの日、二人の関係は終幕を迎え、そして司は豪華な檻から抜け出すことは出来なかった。
あの手で連れ出して欲しかった。
司はあの日から誰にも傷つけられまいと、もう二度と本当の心をさらけ出さまいと決めた。
二度と傷ついてなるものかと。
再会して以来抵抗を示していた女は、いつの頃からか、まるでその肉体を古代の神に生贄として捧げられる処女のように受け身になっていた。略奪しかない行為に、愛など感じられるはずのない行為に、まるで男の欲望の捌け口としてそこにいるかのように大人しくなっていた。それは逃げないと言ってから、己の運命を受け入れたかのようでもあり、施しを与えるかのようでもあった。
自分の心を守ることを忘れたかのようなその行為。
かつて小憎らしいほど彼に歯向かって来た女はもういないのか。
華奢な体で立ち向かってきたあの少女は10年たった今、乳白色の肌をさらけ出して抱かれることを拒みはしなかった。
本当なら、二人で体を重ねることで、心を重ねることであの瞬間を夢みていたはずの少年の心があったはずだった。
司は口もとを歪めることが癖となっていた。
それはあの頃と違って笑いを含むものではなく、嘲りの微笑。
彼の心に吹きすさぶ風は、これから先も決して止む事はないだろう。
こんな世界は、狂ってしまった己の世界は、これからどの道破滅に向かっているはずだ。
まるで司の乗ったヘリが日没を迎える西の空に向かって飛行しているかのように。
西の国にあるという黄泉の国。そこで待つのは、冥府の王ハデスとなった己と共に地獄の底を歩いてくれる女なのか?それともそこから連れ出してくれる女なのか。
司はいつしか温かみが消えてしまったあの頃には戻りたくはなかった。
あの雨の日には。
だがいつか終わりが来る。
終わりが来るのか、己が終わらせるのか。
どちらにしても、誰かが二人の邪魔をしようとすることだけは、確信とも言える自信があった。それは砂時計の砂が落ちることを止めることが出来ないのと同じだ。
あのときこの手に掴んだと思った幸せが、まさに砂を掴んだ如く、さらさらと指の間から零れ落ちるのを見た。
砂は決して形を成さない。指の間から零れた砂はいつか風に吹かれてどこかへ飛ばされて行ってしまう。そして彼の足元に残されるものは、恐らく何もない。
幸せの定義があるなら教えて欲しい。
何を持って幸せというのか。
だが今の自分が感じているこの思いが幸せだと言うのなら、何をこんなに考える必要があるというのか。
あの日心にぽっかりと空いた穴を埋める砂はなく、いつまでたってもその穴が埋められることはなかった。やがて時の経過と共に流し込まれた砂は、留まることなく流砂となって全てのものを呑み込んでしまっていた。もがけばもがくほど沈み込んでいく砂のように、そこにあったはずの心もどこかへ行ってしまった。
こんな状況でもいつか誰かが二人の間の邪魔をする。
だが、それが誰であろうと司は許すつもりはなかった。

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当然司のスケジュールなどわかるはずのない類だったが、思わぬところで知ることになった。司が一緒にラウンドする相手は、花沢物産とも懇意な関係にある会社の会長だったからだ。その会長の口から何気に漏れた司の名前とその日付。
類は今まで何度も司に連絡を取ろうと試みても、秘書がそれを受け入れることはなかった。
牧野つくしの一件以来、自分が憎まれていることはわかっているだけに、無駄だとは思っていても、会おうとすることを止めるわけにはいかなかった。
類は電話に出た使用人からの沈黙に耳を傾けていた。
暫くすると、当然のように司は留守だと答えが返って来た。どうすれば会えるかなど今更聞いても無駄だとわかっていた。
しかし、あの邸にいることはわかっていたが、訪ねたところで会えないこともわかっていた。
今、あの邸には二人の間に立って調整機能を果たしてくれる人間はいない。司のような男に意見が言えるとすれば、今日一緒にラウンドするはずだった会長くらいだ。だから司もゴルフにつき合うことにしたはずだ。
司のことだ。思わぬ時間を手に入れたからには牧野の所へ行くに決まっている。
その場所がどこだかわからないが、牧野欲しさにあれだけ追い回していた男だ。あの男がどんなに変わろうと恐らくその点だけは、昔と変わらないはずだ。
***
男が乗った車は雨の中、山荘までの山道を順調に走っていた。
到着に思ったほど時間がかかることはなく、予定していた時刻よりも早いくらいだ。
鋭く角ばった顔立ちは見れば印象に残る顔だ。だからいつも印象に残らないように工夫していた。だがこんな山の中で変装をする必要などない。そしてこの場所ならあと片づけをする必要もない。それが彼の仕事だとしても。
男が受けた命令は牧野つくしを息子の前から消すこと。
手段は問わず。
黒い噂がある道明寺の父親と息子。
この二人はどちらも頭がいい。目的を達成するまではその刃を収めることがない。
そして彼らの祖父もまた然りだった。
だからこそ、道明寺財閥は戦後の混乱期も潰れることなく大きくなっていった。
祖父、父親、そして息子と3代に渡って築き上げてきた企業は今では巨大化していた。
子会社は無数にあり、記念財団や美術財団までも有している。そして医療法人まであった。
あの親子はどちらも冷酷な決定を平気で下す。
だが息子は牧野つくしと再会してから、どこか変わったということだろう。父親は危惧すべきことが出て来たようだ。
息子が望んだのは、牧野つくしに子どもを産ませるということ。そして結婚するということだ。牧野つくしに再会する前の道明寺司なら、ほぼ父親の望むような男だった。ビジネスに冷酷で、政治家を利用し、例え国益に反しようが会社の利益が上がればそれでいいというような男だったはずだ。
ビジネスではいつも必ず勝者となる男。
真綿でじわじわと相手の首を絞めるのではなく、荒縄で一気に絞める男。
競争社会の勝者であり、格差社会の頂点にいる男。
そんな男だった息子が変わっていく姿を父親は許せなかったということか。
親子であって親子でない道明寺司とその父親。
この対決が大きなうねりとならないうちに押さえ込もうとする父親は、息子の幸せなどどうでもいいらしい。
だが、その場で押さえることが出来ても、別の場所で大きなうねりを作り出すこともある。 穏やかに寄せては返す波も、時に突然その大きさを増して襲いかかることがある。まさにそれと同じことが人生にも起こる。いつも良いことばかり続かないというのは、そういうことだ。
人生とは実にバランスよく出来ていて、良いことと悪いことが繰り返し起こるものだ。
男は山荘から少し離れた林に車を乗り入れるとエンジンを止めた。そしてハンドルに腕を乗せて暫くじっとしていた。やがて助手席に置かれている一枚の写真に目を向けていた。
そこに写る女は間違いなく牧野つくし。この写真はいつ撮られたものか。隠し撮りをされた写真は女のほほ笑みを綺麗に写し出していた。柔らかくほほ笑む姿は何を思ってほほ笑んだのか。
だが気の毒にと思わずにはいられなかった。あの父親に目を付けられてはどうしようもないだろう。例え息子が守ろうとしても、いつかのあの日の様に痛い目を見ることになる。
昔、男はある仕事をした。
だがそれはあくまでも不幸な事故だった。
あの頃はこの少女のことは知らなかった。
それに自分は血も涙もない殺し屋ではない。
「どちらにしても、厄介なことにならないうちに、なんとかするのがあの父親のやり方なんだろう」
***
昔と何も変わらない風景がそこにあった。
生まれてこのかた自然に興味など示したことがないというのに、こうして外の風景を眺めていると、幼かった日々が甦るようだ。
自分にも無邪気で世間の暗い部分を知らない頃があった。だが、いつの頃からか暗い闇が己の前に広がっていたことに気づいていた。そしてその暗闇はまだ彼の前に広がったままでいた。
自分はひとりで生きて来た。いつもひとりぼっちだった。
それは厳然たる事実で、その事実は常に邸の中にあった。幼い頃から両親はおらず、広大な邸に姉と年老いた使用人と暮らしているようなもので、その二人以外の人間とまともに口など利いたことがなかった。
両親に会うことは年に一度か二度あればいい方で、会わずに終わる年もあった。そんな中で久しぶりに会う自分の子どもに対する態度は、いつも″お好きなように″と言った態度だった。
そんな親を持ち、何をしても眉をしかめることもない人間に囲まれて育てば、人として何が許され、何が許さないのかも理解出来なかった。
ある日、邸の中に飾られていた花瓶を叩き壊して歩いたことがあった。
花瓶をつかみ、堅い床めがけて叩きつけて歩く。そんな自分の後ろには、粉々に砕け散った陶器が散乱していた。生けられていた花は足で踏みつけていた。
花なんぞ生けて何が楽しい?
花に色があることさえ憎らしい、すべてが暗闇に包まれてしまいえばいい。
自分と同じ暗闇に咲けばいい。
いつもそう考えていた。
ある時、邸の中に母親がいたことがあったが、それはまさに年に一度あるかないかの帰国。
そんな時もドアを開け放つと、あの女の前まで歩いていき、コンソールテーブルの上に飾られていた花瓶を掴んで床に叩きつけたこともあったはずだ。それなのに自分の子どもを叱るということもしない女。自分の子どもに興味がないのか表情が変わることはなく、デスクに向かって仕事を続けていた。
部屋から出る前、振り返って見ても変わらずの姿勢に、あの女が自分の母親であることは間違いない。そのことを確信した。
それはまさに、此の親にして此の子ありかと実感できた瞬間でもあったはずだ。
飾られていた花を息子の足で踏みつけられても、眉をしかめることもしない女。
そんな女だから、道端に咲く雑草のような花も平気で踏みつけることが出来ると知った。
あの女は、牧野つくしはそんな母親に屈服することなく戦ったこともあったはずだ。
それなのに、あの女は、牧野はどうして俺を捨てた?
ヘリは都内から牧野つくしのいる山荘に向かっていた。
ずっと一緒に居たいと願い、何もかも捨てるとさえ告げた女の元へ。
かつて司の居場所は彼女の傍だった。
そう_あの日までは。
狂った世の中を叩き壊す。
狂った時間を。
狂った夜を。
己の周りにある全ての物を壊してしまいたい。
そんな中で手にした女は司の心の中に巣食ってしまった。
手に入れた瞬間、歓びよりも復讐心の方が大きかったはずだ。それなのに今となっては、再会する以前の、会いたかったという思いの方が大きくなっていた。
だがこの世界は虚ろで、司の心は氷よりも冷たくなっていた。
目覚めて太陽の光を浴びても溶けることのない彼の心。そんな心と10年も過ごせば、己の心があるのかさえ分からなくなっている。その心を生み出したのはひとりの少女。
あの日の雨の中、自分を捨てて去った女。振り返ることなく去っていった後ろ姿が目に焼き付いていて、何年経とうが頭から離れようとはしなかった。その光景の中に何か見落としてしまったものがないかと、希望を見つけることが出来るのではないかと、幾度か思い出しても浮かぶことはなく、ただ、ひたすらあの雨の音と冷たさだけが思い出されて来るばかりだ。
だがもう10年も前の話だ。
まるで夢だったとでも言えるあの短い恋。
それは束の間の夢。
そしてそれはいつの頃からか見果てぬ夢となって、悪夢となって、司を、彼の心を蝕んでいた。だがあの女を手に入れた。どこにも逃がさないと閉じ込めた。そしてもう他の誰も触れることがない。それなのに心の飢えは収まることがなく、そして心が晴れることがない。
だが、今さら何を?心が晴れるだと?そんなことを望んだことなどなかったはずだ。
だがいったい自分は何をしているのか。
いったい自分は何をしたいのか。
今では自分の心の奥底を覗くことを避けようとしている。
皮肉な思いが頭に浮かんでいた。
自分と同じレベルまであの女を落として共に暮らすことだけを望んでいるのか。
人生を選択することが許されなかった自分と同じ状況に置きたいというのなら、もう十分その状況に置かれているはずだ。
狂った世の中から抜け出したい。
いや。
狂ったのは自分だけで、世の中は狂っていないのかもしれない。
ならばいっそ狂った己を壊してしまおうか。
狂ったと言われているこの精神を。そしてこの肉体を。
軋む骨から肉をそぎ落としてどこかの獣にくれてやるか。
道明寺という肥大化した組織からそぎ落とした肉を。
だがこの世界は狂ってしまう己のために用意されていたのかもしれない。
そんな思いが頭の中を過る。
今の司が囚われている世界は道明寺という檻。
他人は豪華なその檻の中に入りたがるが、彼はかつてその檻から抜け出そうとした。
そして実際抜け出せると思っていた。
常に苛立ちに襲われていたあの頃、檻から抜け出せると思った。
恋を知った高揚感に心が躍り、陶酔までした女のためにあの家を捨てようとした。
互いに惹きつけられた。それは確かにあったはずだ。
例えばあの日。
似合いもしない場所でコーヒーを飲み、あの邸を出ると言った。ガキの遊び場で、互いのプライドをかけたような遊びもした。深い意味はないと言われキスをされ、今までの人生で一番幸せな時間を経験したはずだった。
それはまるで、太陽が沈み切る前の最後の輝きだったかのようだ。
幸せな人生の始まりの光り。そう感じていた。だがやはりそれは、最後の輝きだったのかもしれない。
あの日、二人の関係は終幕を迎え、そして司は豪華な檻から抜け出すことは出来なかった。
あの手で連れ出して欲しかった。
司はあの日から誰にも傷つけられまいと、もう二度と本当の心をさらけ出さまいと決めた。
二度と傷ついてなるものかと。
再会して以来抵抗を示していた女は、いつの頃からか、まるでその肉体を古代の神に生贄として捧げられる処女のように受け身になっていた。略奪しかない行為に、愛など感じられるはずのない行為に、まるで男の欲望の捌け口としてそこにいるかのように大人しくなっていた。それは逃げないと言ってから、己の運命を受け入れたかのようでもあり、施しを与えるかのようでもあった。
自分の心を守ることを忘れたかのようなその行為。
かつて小憎らしいほど彼に歯向かって来た女はもういないのか。
華奢な体で立ち向かってきたあの少女は10年たった今、乳白色の肌をさらけ出して抱かれることを拒みはしなかった。
本当なら、二人で体を重ねることで、心を重ねることであの瞬間を夢みていたはずの少年の心があったはずだった。
司は口もとを歪めることが癖となっていた。
それはあの頃と違って笑いを含むものではなく、嘲りの微笑。
彼の心に吹きすさぶ風は、これから先も決して止む事はないだろう。
こんな世界は、狂ってしまった己の世界は、これからどの道破滅に向かっているはずだ。
まるで司の乗ったヘリが日没を迎える西の空に向かって飛行しているかのように。
西の国にあるという黄泉の国。そこで待つのは、冥府の王ハデスとなった己と共に地獄の底を歩いてくれる女なのか?それともそこから連れ出してくれる女なのか。
司はいつしか温かみが消えてしまったあの頃には戻りたくはなかった。
あの雨の日には。
だがいつか終わりが来る。
終わりが来るのか、己が終わらせるのか。
どちらにしても、誰かが二人の邪魔をしようとすることだけは、確信とも言える自信があった。それは砂時計の砂が落ちることを止めることが出来ないのと同じだ。
あのときこの手に掴んだと思った幸せが、まさに砂を掴んだ如く、さらさらと指の間から零れ落ちるのを見た。
砂は決して形を成さない。指の間から零れた砂はいつか風に吹かれてどこかへ飛ばされて行ってしまう。そして彼の足元に残されるものは、恐らく何もない。
幸せの定義があるなら教えて欲しい。
何を持って幸せというのか。
だが今の自分が感じているこの思いが幸せだと言うのなら、何をこんなに考える必要があるというのか。
あの日心にぽっかりと空いた穴を埋める砂はなく、いつまでたってもその穴が埋められることはなかった。やがて時の経過と共に流し込まれた砂は、留まることなく流砂となって全てのものを呑み込んでしまっていた。もがけばもがくほど沈み込んでいく砂のように、そこにあったはずの心もどこかへ行ってしまった。
こんな状況でもいつか誰かが二人の間の邪魔をする。
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pi**mix様
いつも大変お待たせして申し訳ございません(低頭)
そして過分なお言葉を有難うございます。
司の心が変化して来ました。人間らしくなって来ましたね。
つくしちゃんがいることで、少しは人間らしさを取り戻してくれたような気がします(笑)
最近の彼は自分の心の奥底を覗くことが怖いそうです。
10年間失っていた心がどこかにあった・・そう思いたいですね^^
次回更新。なるべく早く・・といつも思うのですがこちらは遅筆になってしまいます。
「エンドロールは~」の方も楽しみにして下さって有難うございます^^
バリバリのキャリアウーマンつくしちゃん。恋も仕事も頑張って欲しいですね。
コメント有難うございました^^
いつも大変お待たせして申し訳ございません(低頭)
そして過分なお言葉を有難うございます。
司の心が変化して来ました。人間らしくなって来ましたね。
つくしちゃんがいることで、少しは人間らしさを取り戻してくれたような気がします(笑)
最近の彼は自分の心の奥底を覗くことが怖いそうです。
10年間失っていた心がどこかにあった・・そう思いたいですね^^
次回更新。なるべく早く・・といつも思うのですがこちらは遅筆になってしまいます。
「エンドロールは~」の方も楽しみにして下さって有難うございます^^
バリバリのキャリアウーマンつくしちゃん。恋も仕事も頑張って欲しいですね。
コメント有難うございました^^
アカシア
2016.11.13 19:56 | 編集

司×**OVE様
こんにちは^^
本当に久しぶりの更新で、お話忘れますよね?(笑)
そうなんです。つくしの気持ちは少し前に変化が現れました。
そして今は司の気持ちに変化が感じられるようになりました。
ただ、司の父親の不穏な動きがすぐそこまで感じられるようになりました。
司もつくしも少しずつですが、気持ちが動き初めたところで・・・。
彼ら二人の運命は司の父親が関係しているかもしれませんね。
なるべく早く更新します。努力します(笑)
コメント有難うございました^^
こんにちは^^
本当に久しぶりの更新で、お話忘れますよね?(笑)
そうなんです。つくしの気持ちは少し前に変化が現れました。
そして今は司の気持ちに変化が感じられるようになりました。
ただ、司の父親の不穏な動きがすぐそこまで感じられるようになりました。
司もつくしも少しずつですが、気持ちが動き初めたところで・・・。
彼ら二人の運命は司の父親が関係しているかもしれませんね。
なるべく早く更新します。努力します(笑)
コメント有難うございました^^
アカシア
2016.11.13 20:03 | 編集

き**ち様
いつも大変お待たせしております(低頭)
次回更新なるべく早くと言っておきながらの、この放置(笑)
二人の気持ちに変化が感じられる昨今。
司の父親の動きが気になるところですが、本日これまででした^^
次回なるべく早く・・努力します。
コメント有難うございました^^
いつも大変お待たせしております(低頭)
次回更新なるべく早くと言っておきながらの、この放置(笑)
二人の気持ちに変化が感じられる昨今。
司の父親の動きが気になるところですが、本日これまででした^^
次回なるべく早く・・努力します。
コメント有難うございました^^
アカシア
2016.11.13 20:08 | 編集
