その電話はそろそろ退社しようかと思っていた頃かかってきた。
時刻は午後8時を回っていた。留守番電話に切り替わることのない番号にかけられてきたということは、お客様ではないということだろう。
つくしは受話器を取った。
「はい。成城不動産でございます」
「ああ。牧野君か?中村だ」
「あ、お疲れ様です」
かかってきた電話はつくしの上司の中村だった。
つくしの勤務する不動産会社が扱う物件には高額のものが多く、金持ちの客も多い。
そのおかげで会社の業績はいいのだが、金持ちの客というのは得てして我儘な客が多いのも実情だ。奇妙な時間に物件が見たいと言ってくる客も多いが客商売の仕事なら極力相手の都合に合わせて動かざるを得ない。こうして電話をかけてきた中村もそんな我儘な客の都合につき合わされた口だ。
「牧野君、明日だが何か予定は入っているか?」
「いいえ。明日はお客様をご案内する予定は入っていませんが・・」
つくしは自分の手帳をめくっていた。
「そうか。それは良かった。明日の夕方からで申し訳ないんだが、案内してもらいたいお客様がいる。19時からだから時間が少し遅くなるかもしれないが、都合はどうだ?」
「明日ですか?はい大丈夫です」
「助かるよ。何しろご紹介して下さった方がどうしても明日がいいとおっしゃっててね。それに相手の方は御忙しい方らしくその時間しか都合がつかないらしいんだ」
「大丈夫ですよ、中村課長。いつものことじゃありませんか。うちがお客様都合で動くのはあたりまえじゃないですか」
「そうか。すまんね。助かるよ」
不動産や車など大きな買い物をしようとする時は、一見で飛び込むより間に知人や紹介者を立てる方が話しもスムーズに行くことが多い。
それは互いに相手に対してのある種の責任というものが伴ってくるからだ。
売り手側にすれば一見の客よりも紹介者が間に入ることで、客筋もわかるというものだ。
金持ちの客が紹介する客は当然ながら金持ちが多い。その客との取引がうまく行けばまた次に金持ちの新しい客を紹介してもらえると言う金持ちのスパイラルが続いていくわけだ。
買い手としても間に入った人間の立場というものを考える。あの人の紹介なら間違いないはずだという安心感が生まれるし、全く知らない人間を相手にするよりも親近感も生まれやすくなるはずだ。
「中村課長、それでどちらの物件をご案内したらよろしいのですか?」
「ああ、あれだよあれ。完成したばかりのマンションがあるだろ?あそこの最上階だよ」
都内でも一等地と呼ばれる場所に完成したばかりの超高級マンション。
最上階というだけあってあの部屋からの眺めは素晴らしく、見る者に解放感を与えてくれる。そんな部屋を高額のローンなど組まなくても買える人間がいるということを知ったのは、この業界に入ってからだ。
「でも、課長、あのマンションは予約の段階で全て売れたんじゃなかったんですか?」
そうだ。確か完売したと聞いていた。
「いや。それがどうやらそうでもなかったようだ。もしかしたらキャンセルされたのかもしれないね」
「そうですか・・わかりました」
「じゃあ牧野君、すまないけど頼むよ。それで、お客様は田中様という女性だから君ひとりで案内に行ってもらっても大丈夫だよ」
つくしの勤務する会社では夕方以降暗くなってからの物件紹介に女性社員がひとりで行くことはしないことになっていた。もちろん昼間でもそうだがお客様が男性おひとりの場合、密室の中で何か間違いが起きては困るからだ。ただ逆にお客様が女性の場合は、男性社員がひとりだとそれはそれで間違いが起きては困るということで、女性社員が同行することがあった。
だが今回は田中様という女性のお客様がおひとりでいらっしゃると言うのだからつくしがひとりで案内に行っても不都合はなかった。
「なんでもその田中様は長い間アメリカで生活をされていたらしい。それに手広く事業をされていた方らしいぞ。年は聞かなかったがそういうことだから若い方ではないと思うから牧野君も気をつけてあげてくれないか?」
年配のお金持ちの女性か・・
アメリカで手広く事業を手掛けて来たということは、頭のいい女性なんだろう。
つくしの頭の中で描かれていたのは若い頃アメリカに渡って苦労の末に事業で成功を収めたが、年を取って日本が恋しくなって帰国してきたというイメージが出来上がっていた。
「じゃあ牧野君。明日の19時、あのマンションの前でお客様をお出迎えしてあげてくれ」
もし自分が買い手の立場だったらあの部屋をどうするかと空想を巡らせていたつくしは、課長の言葉に慌てて了承の返事をしていた。
***
司は正確な情報を手に入れていた。
あの女牧野つくしについてだ。素性はすぐにわかった。
不動産会社に勤務する33歳独身、ひとり暮らしの女。
勤務態度は特に問題もなく、生活も普通。どちからと言えば地味。
卒業した高校は都立で、大学は国立大学の経済学部。
司とはまったく接点が見当たらない。
いつもパーティーで司の目が届く範囲にいて自分を見つめていた女だ。
何か企んでいるのではないかという考えは今でもあったが、もうそんなことはどうでも良かった。だがあの強烈なパンチには意味があると思っている。まるで何かの恨みでもあるかのようなパンチ。
今までそんなパンチを女から受けたことなど当然だがなかった。あのとき何故油断してしまったのかを考えれば答えは出ていた。
気になっていたからだ。
あの生意気な口の利き方といい態度に今まで自分の周りにいなかった珍しい動物を見つけたような気になっていた。この動物にはどんな餌を与えたら自分に懐くのだろうか。
そんなことが頭の中を過っていたからか、あの女の動きに気づくのが遅れてしまっていた。
その結果、物の見事に噛みつかれたわけだ。
だがあの女を抱きしめたときの感触は今でも鮮明に残っている。
餌か・・
おびき寄せる為の餌が必要になる。
「支社長、車の用意が出来ました」
秘書が声をかけた。
「ああ。わかった」
司は答えると大股で執務室をあとにした。

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つくしは受話器を取った。
「はい。成城不動産でございます」
「ああ。牧野君か?中村だ」
「あ、お疲れ様です」
かかってきた電話はつくしの上司の中村だった。
つくしの勤務する不動産会社が扱う物件には高額のものが多く、金持ちの客も多い。
そのおかげで会社の業績はいいのだが、金持ちの客というのは得てして我儘な客が多いのも実情だ。奇妙な時間に物件が見たいと言ってくる客も多いが客商売の仕事なら極力相手の都合に合わせて動かざるを得ない。こうして電話をかけてきた中村もそんな我儘な客の都合につき合わされた口だ。
「牧野君、明日だが何か予定は入っているか?」
「いいえ。明日はお客様をご案内する予定は入っていませんが・・」
つくしは自分の手帳をめくっていた。
「そうか。それは良かった。明日の夕方からで申し訳ないんだが、案内してもらいたいお客様がいる。19時からだから時間が少し遅くなるかもしれないが、都合はどうだ?」
「明日ですか?はい大丈夫です」
「助かるよ。何しろご紹介して下さった方がどうしても明日がいいとおっしゃっててね。それに相手の方は御忙しい方らしくその時間しか都合がつかないらしいんだ」
「大丈夫ですよ、中村課長。いつものことじゃありませんか。うちがお客様都合で動くのはあたりまえじゃないですか」
「そうか。すまんね。助かるよ」
不動産や車など大きな買い物をしようとする時は、一見で飛び込むより間に知人や紹介者を立てる方が話しもスムーズに行くことが多い。
それは互いに相手に対してのある種の責任というものが伴ってくるからだ。
売り手側にすれば一見の客よりも紹介者が間に入ることで、客筋もわかるというものだ。
金持ちの客が紹介する客は当然ながら金持ちが多い。その客との取引がうまく行けばまた次に金持ちの新しい客を紹介してもらえると言う金持ちのスパイラルが続いていくわけだ。
買い手としても間に入った人間の立場というものを考える。あの人の紹介なら間違いないはずだという安心感が生まれるし、全く知らない人間を相手にするよりも親近感も生まれやすくなるはずだ。
「中村課長、それでどちらの物件をご案内したらよろしいのですか?」
「ああ、あれだよあれ。完成したばかりのマンションがあるだろ?あそこの最上階だよ」
都内でも一等地と呼ばれる場所に完成したばかりの超高級マンション。
最上階というだけあってあの部屋からの眺めは素晴らしく、見る者に解放感を与えてくれる。そんな部屋を高額のローンなど組まなくても買える人間がいるということを知ったのは、この業界に入ってからだ。
「でも、課長、あのマンションは予約の段階で全て売れたんじゃなかったんですか?」
そうだ。確か完売したと聞いていた。
「いや。それがどうやらそうでもなかったようだ。もしかしたらキャンセルされたのかもしれないね」
「そうですか・・わかりました」
「じゃあ牧野君、すまないけど頼むよ。それで、お客様は田中様という女性だから君ひとりで案内に行ってもらっても大丈夫だよ」
つくしの勤務する会社では夕方以降暗くなってからの物件紹介に女性社員がひとりで行くことはしないことになっていた。もちろん昼間でもそうだがお客様が男性おひとりの場合、密室の中で何か間違いが起きては困るからだ。ただ逆にお客様が女性の場合は、男性社員がひとりだとそれはそれで間違いが起きては困るということで、女性社員が同行することがあった。
だが今回は田中様という女性のお客様がおひとりでいらっしゃると言うのだからつくしがひとりで案内に行っても不都合はなかった。
「なんでもその田中様は長い間アメリカで生活をされていたらしい。それに手広く事業をされていた方らしいぞ。年は聞かなかったがそういうことだから若い方ではないと思うから牧野君も気をつけてあげてくれないか?」
年配のお金持ちの女性か・・
アメリカで手広く事業を手掛けて来たということは、頭のいい女性なんだろう。
つくしの頭の中で描かれていたのは若い頃アメリカに渡って苦労の末に事業で成功を収めたが、年を取って日本が恋しくなって帰国してきたというイメージが出来上がっていた。
「じゃあ牧野君。明日の19時、あのマンションの前でお客様をお出迎えしてあげてくれ」
もし自分が買い手の立場だったらあの部屋をどうするかと空想を巡らせていたつくしは、課長の言葉に慌てて了承の返事をしていた。
***
司は正確な情報を手に入れていた。
あの女牧野つくしについてだ。素性はすぐにわかった。
不動産会社に勤務する33歳独身、ひとり暮らしの女。
勤務態度は特に問題もなく、生活も普通。どちからと言えば地味。
卒業した高校は都立で、大学は国立大学の経済学部。
司とはまったく接点が見当たらない。
いつもパーティーで司の目が届く範囲にいて自分を見つめていた女だ。
何か企んでいるのではないかという考えは今でもあったが、もうそんなことはどうでも良かった。だがあの強烈なパンチには意味があると思っている。まるで何かの恨みでもあるかのようなパンチ。
今までそんなパンチを女から受けたことなど当然だがなかった。あのとき何故油断してしまったのかを考えれば答えは出ていた。
気になっていたからだ。
あの生意気な口の利き方といい態度に今まで自分の周りにいなかった珍しい動物を見つけたような気になっていた。この動物にはどんな餌を与えたら自分に懐くのだろうか。
そんなことが頭の中を過っていたからか、あの女の動きに気づくのが遅れてしまっていた。
その結果、物の見事に噛みつかれたわけだ。
だがあの女を抱きしめたときの感触は今でも鮮明に残っている。
餌か・・
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Comment:2
コメント
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司×**OVE様
おはようございます^^
大人の二人の恋は色々とあると思いますが、今のつくしは司のことはどうでもいい人ですからねぇ。
どうでもいいと言うか優紀をふった男ですからどう思っているんでしょうねぇ・・
優紀と司・・(笑)イメージが湧きませんよね?
司はどう出るのか・・つくしはどうするのか・・優紀との友情もありますからね・・よくある恋物語です。
え?無いですか?
さあ、今回のお話の司はどんなタイプなんでしょうか!
殴られて恋に落ちるなんてかなりMですね。原作もそうですが・・(笑)
「俺を殴りつける女がいるなんて・・」と言って殴られたところを手でスリスリしていたとか・・
そんな彼も見て見たいですねぇ(笑)物語はまだ始まったばかりですのでどうなるのでしょうか?
拙宅はこんな恋愛ストーリーを二人に演じさせたらシリーズみたいですよね?
そんなお話をお読みいただき、ありがとうございます。
コメント有難うございました^^
おはようございます^^
大人の二人の恋は色々とあると思いますが、今のつくしは司のことはどうでもいい人ですからねぇ。
どうでもいいと言うか優紀をふった男ですからどう思っているんでしょうねぇ・・
優紀と司・・(笑)イメージが湧きませんよね?
司はどう出るのか・・つくしはどうするのか・・優紀との友情もありますからね・・よくある恋物語です。
え?無いですか?
さあ、今回のお話の司はどんなタイプなんでしょうか!
殴られて恋に落ちるなんてかなりMですね。原作もそうですが・・(笑)
「俺を殴りつける女がいるなんて・・」と言って殴られたところを手でスリスリしていたとか・・
そんな彼も見て見たいですねぇ(笑)物語はまだ始まったばかりですのでどうなるのでしょうか?
拙宅はこんな恋愛ストーリーを二人に演じさせたらシリーズみたいですよね?
そんなお話をお読みいただき、ありがとうございます。
コメント有難うございました^^
アカシア
2016.08.09 23:07 | 編集
