つくしはベッドからゆっくりと這い降りた。
寝ている間に緊張していたとは思えないが体のこわばりが感じられた。
だがぐっすりと眠っていたはずだ。寝返りを打ったり、途中で目が覚めることはなかった。
それはひとりで眠りについたからだろうか。
それにかつて愛した人の夢も見ることはなかった。
ここのところ朝起きるたびに空気がひんやりとしてきたのが感じられ、日暮れもどんどん早くなり冬はすぐそこまできている。
ここ何日かで変わったことと言えば、散歩に連れて行ってもらえるようになったことだ。
管理人の男性がつくしを外に連れ出してくれる。もちろんそれは道明寺の許可があってのことだろう。
今までは長い一日のほとんどを山荘の中で過ごしていただけに目にする景色に心を奪われた。外に出てもこの場所がどこなのかわかるはずもなく、ただ山の上の山荘だということしかわからなかった。だがこうして毎日外に出て散歩をするだけでも気分転換にはなる。
本格的な冬が訪れればここは雪の覆われてしまうだろう。
そうすればここは陸の孤島となるはずだ。
山荘の周りは何もないが、けものみちとは明らかに違い、山に分け入るために人工的に整備された小径があった。整備されたといっても木々が開けた場所に簡単ではあるが人が歩きやすいようにと土が固められた程度だ。小径はまさに整備されたハイキングコースのようだった。
鳥の鳴き声がして見上げてみれば、つくしの頭上を黒い影が飛んで行くのが見えた。森の中の木々には葉がついておらず、枯れ落ちた葉がつくしの歩く足元でカサカサと音を立てていた。葉が落ちてしまった木々の向うには山稜が連なっているのが見え、やはりここが山岳地帯だと言うことに改めて気づかされた。
秋晴れとでも言うような、よく晴れわたった穏やかな日。おそろしいほどの晴天だ。
風もなく、穏やかな日。今のつくしの心とは正反対だ。
「牧野さん。あまりそちらへ行くと危ないですよ?」
つくしは山荘の管理人から名前で呼ばれることを望んだ。いつまでもお嬢さんと呼ばれるのは正直嫌だった。管理人の名前は木村と言い、むかし世田谷のお邸で働いていたことがあるということを知った。あまり口数の多い男ではなかったが、それでも道明寺以外誰も来ることがないこの山荘で唯一の話し相手だ。
「木村さん、ここは獣が出ると言っていましたよね?」
つくしは木村が肩から掛けている猟銃が気になっていた。落ち葉でいっぱいの小径にはところどころ窪みがあり、足を取られない様にと気をつけてはいたが、足元ばかり気にしてはいられなかった。
いったいこの場所はどこなのか。つくしは何かこの場所がわかるようなものはないかと気を配ってみたが、この荒涼たる山の景色ではその手がかりを探すことは無理かと諦めていた。だが猟銃を手にしなければならないような動物が出る場所であることだけはわかった。
それに以前木村が道明寺がまだ子供の頃、父親に連れられて狩に来たことがあると言っていたのを思い出した。
「前にもお話しましたが、カモシカも出ますがイノシシや熊もいますからね」
「そうですか・・熊も・・」
「ええ。ここには熊も生息しています。ツキノワグマですから生態は比較的おとなしいんですが、人間に出会って驚いて襲ってくることがあります。特に早朝と夕方は熊の活動が活発になる時間ですから我々もその時間は山に立ち入ることはしませんがね。熊は元来夜行性の動物ですから夜中に歩き回らなければ心配ないと思いますがね」
「それに、そろそろ冬眠に入る頃です。ですが冬眠前には餌を求めて活発に動き回りますからね。昼間とはいえ用心に越したことはありません」
木村はつくしと散歩をする時間帯を昼間だと決めた理由を暗に明かしていた。
理由を知ったところでつくしがひとりで山荘の外に出ることはないが、やはり熊は恐ろしい動物だ。
「このあたりは山に入るなら必ず銃を持ち歩かなければいけないんですよ?例えそれが山荘の近くでも。私も出来れば殺したくはないですがね。ですが身を守るためですから仕方がありません。それにこうして鈴を鳴らして歩くのは熊にこちらの居場所を知らせるためなんですよ」
木村は腰に下げた鈴をわざと大きな音を立てて振ってみせた。
「熊は音に敏感ですからね。こんな音は嫌いみたいですよ」
いつも沈黙と鈴の音だけを従えて歩いていたが、木村がすぐ後ろで鈴を鳴らしながら歩いていたのはそう言う理由があったのかとつくしは納得した。
「熊も生きるためには必死ですよ。彼らは雑食ですからなんでも食べますからね」
生きるためには必死・・・
つくしの心に父親の声が甦った。
『 生きようが死のうが今後は金に困る事はないからな 』
つくしは父親がいつかそんなことを言っていたのを思い出していた。
あれはどういう意味だったのだろうか・・
それに父親に言われたことがる。
おまえは真っ正直に生き過ぎる。
もっと楽な生き方をした方がいい。
「金」はつくしの両親にとっては魔法の言葉だった。
だがそんな両親も今はもういない。
道明寺の両親はお金が全てだという人たちだ。
そんな両親に育てられた道明寺をかわいそうだと思ったはずだった。
それなのにあたしは、お金のためにあんたとつき合ってたなんて言ってしまった。
いつかタマさんが言っていた。冷え切ったあの家で道明寺の心は何も感じなくなって、暴力だけを喜びとし地獄のような日々を送っていたと。あたしと出会う前までの道明寺の人生は一方的な暴力で相手を半殺しにしては両親が金で揉み消すことを繰り返していたと。
それなのに、どうしてあたしは、今ではあいつが不変の価値だと言い放つ金と言うものに執着したような言い方をしてしまったのだろうか。
不変の価値・・
価値なんて所詮本人が決めるものだ。
今あたしがいるこの森の方がよっぽど不変の価値がある。
自然はいつの時代も変わらない・・
自然は長い時間をかけてあたし達生命を育んでくれた。
大金持ちだろうと、貧乏人だろうと自然は平等だ。
「牧野さん、少し冷えてきましたね。寒くありませんか?」
木村はつくしに心配そうな視線を投げかけた。
「そろそろ戻りましょうか」
山の天候は変わりやすいと言うが、木村には山に暮らす人間として感じるなにかがあるのだろう。そう言えば先ほどまでは風もなく穏やかだったが、空には太陽の光りを遮る雲が出て来ていた。どこからか流れてきた雲に遮られた太陽。空気が少しだけひんやりとしたのが感じられた。
木村にしてみれば、つくしに風邪などひかれては大変だと思っているはずだ。
そんなことになれば道明寺になにか言われるのだろうか?木村の気遣いはまるでつくしの健康が何にもまして重大だと言っているようだ。
それにここは山の上の山荘だ。薬ならある程度用意してあるだろうが、病院となるとどこまで行けばいいのかと考えずにはいられなかった。
山奥で暮らすということはある程度は自給自足だろうとは思うが、病気だけはどうしようもないはずだ。だからこそ、へき地で生活するがゆえの体に対しての気遣いなのだろうか?
どちらにしても道明寺が不在の間はこの男性がつくしの監視役には違いなかった。
ほんの10年前につくしが望んだのは司と一緒にいられることだけだった。
ただそれだけだったのに・・
あたしは愚かな子供だったんだ・・
愚かで臆病な・・
こうして道明寺の傍にいれば、あのときのことがどんなにあいつを傷つけたのか分かる。
道明寺が自分の事業にしか関心のない冷酷で傲慢な男になってしまったのかが分かるような気がした。
すべてはあの日から始まっている。
「牧野さん?そろそろ戻りましょうと言ったんですが?」
「あ、はい。そうですね・・」
「寒くないですか?太陽が隠れてしまいましたから戻る間にもう少し気温が下がりそうな気がします」
そうだ。太陽は隠れてしまった。
あの雨の日、別れを告げるまであたしと道明寺は太陽の輝きを受けて笑い合っていたはずだ。幸せだったはずなのに、何者かに奪い取られた。
奪い取ったのは・・・あたしだ。
あたしが道明寺から奪い取った。
道明寺の父親が言うがままに別れを告げたのはあたしだ。
崩壊してしまった二人の世界はいったいどこに向かっているのだろう・・
なにもかも変わってしまった道明寺・・
あたしはあの日の別れに対して立ち向かうべきなのだろうか?
希望というものを持ってもいいのだろうか?
道明寺が昔のようにあたしと笑い合ってくれるということに対しての希望を。
今のあたしの世界は動きを止めてしまっていた。
あたしがこれまでに犯した罪はひとつだけ。
それは道明寺をあんな男にしてしまったことだった。
***
「専務!この記事はどういうことなんですか?」
ノックもそこそこに飛び込んで来た男の片手には一冊の雑誌が握られていた。
「さあね。なんのことだか俺にはさっぱり見当がつかないな」
「どうしてこんな記事が出るんですか!」
新聞よりも週刊誌に誹謗中傷の記事が載る方がもっとも確実で、しかも報復的満足感が感じられる。それに新聞はその日限りだが、週刊誌は少なくとも一週間は人の目に触れる。
花沢物産の記事が載ったのは低俗な週刊誌だった。
専務が仕事もせずに女に金をつぎ込んでいる。根も葉も無いような話をまことしやかに書くのは記者の腕の見せ所なのだろう。
誰の仕業なのかすぐに検討がついた。
秘書が苛立つ気持ちも分かる。今の類は大きな案件を抱えていて、記事に書かれるような事実は一切ない。もともと女性に対しての興味も希薄なのにどうしてこんな記事を書かれなければならないのか。すぐ発行元に訂正記事を書かせましょうと息巻く秘書だが類はいたって普通だった。
どうせ司のやることだ。こっちで動いてもどうにもならないだろうな。
あの男は何を牽制してるんだか・・ようは要らぬことに首を突っ込むなと言いたいんだろう。
「こんな週刊誌なんて気にしていたら仕事なんて出来ないよ」
「ほっとけば?」
「そんなことよりこっちの方が問題だよ」
広げて見せた経済新聞の記事。
類は抱えている案件について考えていることがあった。
どこの系列でもない独立系の化学メーカーの花沢物産への系列化についてだ。
牧野つくしの勤めていた会社も化学メーカーだったがあそこは道明寺に持って行かれた。
興味はあったがあの会社は経営状況がよくなかったので、もともと手を出す予定はなかった。
今思えば自分がなんとかしていれば牧野のことを助けることが出来たのかもしれないと思っていた。だが仕事を個人的な思いに利用することは出来ないしリスクが大き過ぎた。
系列化を画策しているのは独立系の化学メーカーとはいえ、何がしかどこかの企業とは繋がってはいる。そのしがらみをなんとかひも解いて花沢系列へ組み入れたい。
そんな思いからここ一年余り強力に提携工作を推し進めて来た。それはもちろん資金調達から製品の販売に至るまでのすべてにおいて、花沢物産で面倒を見ると言う話だ。
その努力ももう間もなく実を結ぶはずだった。
だがここ数日でどうも相手の考えの方向性が変わって来たような気がする。
花沢物産が一年かけて成し遂げようとしていることを邪魔する会社が現れた。
それが司の会社だ。道明寺HDが花沢物産を凌ぐような好条件を提示して来た。
何がどう気に入らないのかしらないが、司は俺の仕事の邪魔をしたいらしい。
電話が鳴ると司は受話器をはずした。
「ああ。・・・そうだ」
「わかった」
司は受話器を置き、ふき出した。
「ひどいもんだ。しかし類もたいした男だ」
秘書は自分の上司を黙って見つめていた。
仕事に対してはどんな妥協も許さない男の顔に思わぬ笑みを見たが、次の瞬間にはいつもの冷たく超然とした表情に戻っていた。司は切れ長の目を伏せると考え込むこうな顔になったが、煙草を吸い始めるとまたいつもの表情に戻っていた。
やがて指の間でくすぶり始めた灰を灰皿に落とすと言った。
「この記者、なかなかうまいこと書いてくれたよな?」
デスクの上に置かれていたのは週刊誌。
ああ見えて類は油断のならない相手だ。残忍な男ではないが、毒を含んだ優しさを持つ男だ。
意図的なのか、その言葉に独特の真実味を持たせることがある。長い付き合いでなければその言葉の裏に含まれることを理解することは難しい。
だが自分ほど仕事に対してまともな能力を持った人間はいないはずだ。
「問題はあの会社をどうするかだ」
司は、しばらく煙草をくゆらせていたが、やがて考えがまとまったのか、それを灰皿に押し付けると消した。

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それにかつて愛した人の夢も見ることはなかった。
ここのところ朝起きるたびに空気がひんやりとしてきたのが感じられ、日暮れもどんどん早くなり冬はすぐそこまできている。
ここ何日かで変わったことと言えば、散歩に連れて行ってもらえるようになったことだ。
管理人の男性がつくしを外に連れ出してくれる。もちろんそれは道明寺の許可があってのことだろう。
今までは長い一日のほとんどを山荘の中で過ごしていただけに目にする景色に心を奪われた。外に出てもこの場所がどこなのかわかるはずもなく、ただ山の上の山荘だということしかわからなかった。だがこうして毎日外に出て散歩をするだけでも気分転換にはなる。
本格的な冬が訪れればここは雪の覆われてしまうだろう。
そうすればここは陸の孤島となるはずだ。
山荘の周りは何もないが、けものみちとは明らかに違い、山に分け入るために人工的に整備された小径があった。整備されたといっても木々が開けた場所に簡単ではあるが人が歩きやすいようにと土が固められた程度だ。小径はまさに整備されたハイキングコースのようだった。
鳥の鳴き声がして見上げてみれば、つくしの頭上を黒い影が飛んで行くのが見えた。森の中の木々には葉がついておらず、枯れ落ちた葉がつくしの歩く足元でカサカサと音を立てていた。葉が落ちてしまった木々の向うには山稜が連なっているのが見え、やはりここが山岳地帯だと言うことに改めて気づかされた。
秋晴れとでも言うような、よく晴れわたった穏やかな日。おそろしいほどの晴天だ。
風もなく、穏やかな日。今のつくしの心とは正反対だ。
「牧野さん。あまりそちらへ行くと危ないですよ?」
つくしは山荘の管理人から名前で呼ばれることを望んだ。いつまでもお嬢さんと呼ばれるのは正直嫌だった。管理人の名前は木村と言い、むかし世田谷のお邸で働いていたことがあるということを知った。あまり口数の多い男ではなかったが、それでも道明寺以外誰も来ることがないこの山荘で唯一の話し相手だ。
「木村さん、ここは獣が出ると言っていましたよね?」
つくしは木村が肩から掛けている猟銃が気になっていた。落ち葉でいっぱいの小径にはところどころ窪みがあり、足を取られない様にと気をつけてはいたが、足元ばかり気にしてはいられなかった。
いったいこの場所はどこなのか。つくしは何かこの場所がわかるようなものはないかと気を配ってみたが、この荒涼たる山の景色ではその手がかりを探すことは無理かと諦めていた。だが猟銃を手にしなければならないような動物が出る場所であることだけはわかった。
それに以前木村が道明寺がまだ子供の頃、父親に連れられて狩に来たことがあると言っていたのを思い出した。
「前にもお話しましたが、カモシカも出ますがイノシシや熊もいますからね」
「そうですか・・熊も・・」
「ええ。ここには熊も生息しています。ツキノワグマですから生態は比較的おとなしいんですが、人間に出会って驚いて襲ってくることがあります。特に早朝と夕方は熊の活動が活発になる時間ですから我々もその時間は山に立ち入ることはしませんがね。熊は元来夜行性の動物ですから夜中に歩き回らなければ心配ないと思いますがね」
「それに、そろそろ冬眠に入る頃です。ですが冬眠前には餌を求めて活発に動き回りますからね。昼間とはいえ用心に越したことはありません」
木村はつくしと散歩をする時間帯を昼間だと決めた理由を暗に明かしていた。
理由を知ったところでつくしがひとりで山荘の外に出ることはないが、やはり熊は恐ろしい動物だ。
「このあたりは山に入るなら必ず銃を持ち歩かなければいけないんですよ?例えそれが山荘の近くでも。私も出来れば殺したくはないですがね。ですが身を守るためですから仕方がありません。それにこうして鈴を鳴らして歩くのは熊にこちらの居場所を知らせるためなんですよ」
木村は腰に下げた鈴をわざと大きな音を立てて振ってみせた。
「熊は音に敏感ですからね。こんな音は嫌いみたいですよ」
いつも沈黙と鈴の音だけを従えて歩いていたが、木村がすぐ後ろで鈴を鳴らしながら歩いていたのはそう言う理由があったのかとつくしは納得した。
「熊も生きるためには必死ですよ。彼らは雑食ですからなんでも食べますからね」
生きるためには必死・・・
つくしの心に父親の声が甦った。
『 生きようが死のうが今後は金に困る事はないからな 』
つくしは父親がいつかそんなことを言っていたのを思い出していた。
あれはどういう意味だったのだろうか・・
それに父親に言われたことがる。
おまえは真っ正直に生き過ぎる。
もっと楽な生き方をした方がいい。
「金」はつくしの両親にとっては魔法の言葉だった。
だがそんな両親も今はもういない。
道明寺の両親はお金が全てだという人たちだ。
そんな両親に育てられた道明寺をかわいそうだと思ったはずだった。
それなのにあたしは、お金のためにあんたとつき合ってたなんて言ってしまった。
いつかタマさんが言っていた。冷え切ったあの家で道明寺の心は何も感じなくなって、暴力だけを喜びとし地獄のような日々を送っていたと。あたしと出会う前までの道明寺の人生は一方的な暴力で相手を半殺しにしては両親が金で揉み消すことを繰り返していたと。
それなのに、どうしてあたしは、今ではあいつが不変の価値だと言い放つ金と言うものに執着したような言い方をしてしまったのだろうか。
不変の価値・・
価値なんて所詮本人が決めるものだ。
今あたしがいるこの森の方がよっぽど不変の価値がある。
自然はいつの時代も変わらない・・
自然は長い時間をかけてあたし達生命を育んでくれた。
大金持ちだろうと、貧乏人だろうと自然は平等だ。
「牧野さん、少し冷えてきましたね。寒くありませんか?」
木村はつくしに心配そうな視線を投げかけた。
「そろそろ戻りましょうか」
山の天候は変わりやすいと言うが、木村には山に暮らす人間として感じるなにかがあるのだろう。そう言えば先ほどまでは風もなく穏やかだったが、空には太陽の光りを遮る雲が出て来ていた。どこからか流れてきた雲に遮られた太陽。空気が少しだけひんやりとしたのが感じられた。
木村にしてみれば、つくしに風邪などひかれては大変だと思っているはずだ。
そんなことになれば道明寺になにか言われるのだろうか?木村の気遣いはまるでつくしの健康が何にもまして重大だと言っているようだ。
それにここは山の上の山荘だ。薬ならある程度用意してあるだろうが、病院となるとどこまで行けばいいのかと考えずにはいられなかった。
山奥で暮らすということはある程度は自給自足だろうとは思うが、病気だけはどうしようもないはずだ。だからこそ、へき地で生活するがゆえの体に対しての気遣いなのだろうか?
どちらにしても道明寺が不在の間はこの男性がつくしの監視役には違いなかった。
ほんの10年前につくしが望んだのは司と一緒にいられることだけだった。
ただそれだけだったのに・・
あたしは愚かな子供だったんだ・・
愚かで臆病な・・
こうして道明寺の傍にいれば、あのときのことがどんなにあいつを傷つけたのか分かる。
道明寺が自分の事業にしか関心のない冷酷で傲慢な男になってしまったのかが分かるような気がした。
すべてはあの日から始まっている。
「牧野さん?そろそろ戻りましょうと言ったんですが?」
「あ、はい。そうですね・・」
「寒くないですか?太陽が隠れてしまいましたから戻る間にもう少し気温が下がりそうな気がします」
そうだ。太陽は隠れてしまった。
あの雨の日、別れを告げるまであたしと道明寺は太陽の輝きを受けて笑い合っていたはずだ。幸せだったはずなのに、何者かに奪い取られた。
奪い取ったのは・・・あたしだ。
あたしが道明寺から奪い取った。
道明寺の父親が言うがままに別れを告げたのはあたしだ。
崩壊してしまった二人の世界はいったいどこに向かっているのだろう・・
なにもかも変わってしまった道明寺・・
あたしはあの日の別れに対して立ち向かうべきなのだろうか?
希望というものを持ってもいいのだろうか?
道明寺が昔のようにあたしと笑い合ってくれるということに対しての希望を。
今のあたしの世界は動きを止めてしまっていた。
あたしがこれまでに犯した罪はひとつだけ。
それは道明寺をあんな男にしてしまったことだった。
***
「専務!この記事はどういうことなんですか?」
ノックもそこそこに飛び込んで来た男の片手には一冊の雑誌が握られていた。
「さあね。なんのことだか俺にはさっぱり見当がつかないな」
「どうしてこんな記事が出るんですか!」
新聞よりも週刊誌に誹謗中傷の記事が載る方がもっとも確実で、しかも報復的満足感が感じられる。それに新聞はその日限りだが、週刊誌は少なくとも一週間は人の目に触れる。
花沢物産の記事が載ったのは低俗な週刊誌だった。
専務が仕事もせずに女に金をつぎ込んでいる。根も葉も無いような話をまことしやかに書くのは記者の腕の見せ所なのだろう。
誰の仕業なのかすぐに検討がついた。
秘書が苛立つ気持ちも分かる。今の類は大きな案件を抱えていて、記事に書かれるような事実は一切ない。もともと女性に対しての興味も希薄なのにどうしてこんな記事を書かれなければならないのか。すぐ発行元に訂正記事を書かせましょうと息巻く秘書だが類はいたって普通だった。
どうせ司のやることだ。こっちで動いてもどうにもならないだろうな。
あの男は何を牽制してるんだか・・ようは要らぬことに首を突っ込むなと言いたいんだろう。
「こんな週刊誌なんて気にしていたら仕事なんて出来ないよ」
「ほっとけば?」
「そんなことよりこっちの方が問題だよ」
広げて見せた経済新聞の記事。
類は抱えている案件について考えていることがあった。
どこの系列でもない独立系の化学メーカーの花沢物産への系列化についてだ。
牧野つくしの勤めていた会社も化学メーカーだったがあそこは道明寺に持って行かれた。
興味はあったがあの会社は経営状況がよくなかったので、もともと手を出す予定はなかった。
今思えば自分がなんとかしていれば牧野のことを助けることが出来たのかもしれないと思っていた。だが仕事を個人的な思いに利用することは出来ないしリスクが大き過ぎた。
系列化を画策しているのは独立系の化学メーカーとはいえ、何がしかどこかの企業とは繋がってはいる。そのしがらみをなんとかひも解いて花沢系列へ組み入れたい。
そんな思いからここ一年余り強力に提携工作を推し進めて来た。それはもちろん資金調達から製品の販売に至るまでのすべてにおいて、花沢物産で面倒を見ると言う話だ。
その努力ももう間もなく実を結ぶはずだった。
だがここ数日でどうも相手の考えの方向性が変わって来たような気がする。
花沢物産が一年かけて成し遂げようとしていることを邪魔する会社が現れた。
それが司の会社だ。道明寺HDが花沢物産を凌ぐような好条件を提示して来た。
何がどう気に入らないのかしらないが、司は俺の仕事の邪魔をしたいらしい。
電話が鳴ると司は受話器をはずした。
「ああ。・・・そうだ」
「わかった」
司は受話器を置き、ふき出した。
「ひどいもんだ。しかし類もたいした男だ」
秘書は自分の上司を黙って見つめていた。
仕事に対してはどんな妥協も許さない男の顔に思わぬ笑みを見たが、次の瞬間にはいつもの冷たく超然とした表情に戻っていた。司は切れ長の目を伏せると考え込むこうな顔になったが、煙草を吸い始めるとまたいつもの表情に戻っていた。
やがて指の間でくすぶり始めた灰を灰皿に落とすと言った。
「この記者、なかなかうまいこと書いてくれたよな?」
デスクの上に置かれていたのは週刊誌。
ああ見えて類は油断のならない相手だ。残忍な男ではないが、毒を含んだ優しさを持つ男だ。
意図的なのか、その言葉に独特の真実味を持たせることがある。長い付き合いでなければその言葉の裏に含まれることを理解することは難しい。
だが自分ほど仕事に対してまともな能力を持った人間はいないはずだ。
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司は、しばらく煙草をくゆらせていたが、やがて考えがまとまったのか、それを灰皿に押し付けると消した。

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ピ*ミX様
こんばんは^^
こちらこそいつもお読み頂きありがとうございます。
忘れてなんていません!大変お待たせいたしましたm(__)m
こちらのお話はゆっくりですが更新していきたいと思っています。
明るいお話の方はわりとサクサク行けるんですが、どうしてもシリアスな方は
筆が重くなりがちでして・・
応援ありがとうございます(^^ゞ頑張ります!
コメント有難うございました(^^)
こんばんは^^
こちらこそいつもお読み頂きありがとうございます。
忘れてなんていません!大変お待たせいたしましたm(__)m
こちらのお話はゆっくりですが更新していきたいと思っています。
明るいお話の方はわりとサクサク行けるんですが、どうしてもシリアスな方は
筆が重くなりがちでして・・
応援ありがとうございます(^^ゞ頑張ります!
コメント有難うございました(^^)
アカシア
2016.06.09 22:11 | 編集

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マ**チ様
こんばんは。いつも大変お待たせしてますm(__)m
はい。過去に捕らわれた二人です。山荘も間もなく冬を迎えそうです。
寂しい場所でひとり過ごすつくしの心に甦る思い。望まずして手に入れてしまったこの状況が逆につくしに考える時間を与えているようです。
そしてつくしに執着したまま、彼女に係わった類に対しての司の思いは・・
やっぱり類のことは憎いんですよね・・
ビジネスに関しては卑怯な手段なんてへっちゃらのこの司ですので、類に対しても容赦がないです。
拙宅では珍しい類との絡みです。
ゆっくり更新で申し訳ないのですが、お話は進んで行きますので次回まで少々お待ち下さいませ。
コメント有難うございました(^^)
こんばんは。いつも大変お待たせしてますm(__)m
はい。過去に捕らわれた二人です。山荘も間もなく冬を迎えそうです。
寂しい場所でひとり過ごすつくしの心に甦る思い。望まずして手に入れてしまったこの状況が逆につくしに考える時間を与えているようです。
そしてつくしに執着したまま、彼女に係わった類に対しての司の思いは・・
やっぱり類のことは憎いんですよね・・
ビジネスに関しては卑怯な手段なんてへっちゃらのこの司ですので、類に対しても容赦がないです。
拙宅では珍しい類との絡みです。
ゆっくり更新で申し訳ないのですが、お話は進んで行きますので次回まで少々お待ち下さいませ。
コメント有難うございました(^^)
アカシア
2016.06.10 23:09 | 編集

as***na様
拙宅ではあまり出番のない類ですが、こちらのお話では色々と絡んで来ます。
女には理解の出来ない男の世界とでも言うのか、心の奥底にあるのはライバル心かもしれません。
心の闇が深い司ですので、類がどうこう出来るとは思いませんが、どこかでこんな司を憂えていることでしょう。
ゆっくり更新ですので少々お待ち下さいませ。
コメント有難うございました(^^)
拙宅ではあまり出番のない類ですが、こちらのお話では色々と絡んで来ます。
女には理解の出来ない男の世界とでも言うのか、心の奥底にあるのはライバル心かもしれません。
心の闇が深い司ですので、類がどうこう出来るとは思いませんが、どこかでこんな司を憂えていることでしょう。
ゆっくり更新ですので少々お待ち下さいませ。
コメント有難うございました(^^)
アカシア
2016.06.10 23:25 | 編集
