あの出会いから道明寺司の恋人と呼べる関係になって1年がたつ。
恋人同士なら連れだってどこかへ行くこともあるだろうが、2人の間にそんなことはあり得なかった。世間には恋人ではなく体の関係だけだと思われていた。
つくしは司の大勢いる女友達のひとりだと思われているのも知っていた。
ただ、道明寺には他に女はいないはずだ。あたしとつき合うなら他の女とはつき合わないでと条件を出していたから。その条件を呑んだ道明寺にはあたししかいないはずだ。
自分が道明寺にとっての都合のいい女扱いをされていることはわかっていた。
2人が会うのはいつも道明寺のマンションで他にどこかへ出かけるということはしなかった。恐らくそれを道明寺に求めたところであの男にそんな気がないことくらいわかっていた。
つくしにはつくしの生活があった。なにも道明寺だけのために日々を過ごしていたわけじゃない。日本を離れるにあたってニューヨークでの仕事先は確保して来ていた。友人の一人が紹介してくれた仕事はニューヨークにある日系の旅行代理店での仕事だった。この仕事なら日本語も話せるし日本人とも会えるから寂しくはないでしょ?と言われ紹介された仕事だった。
道明寺との関係はこの街で出会ったときと変わることがなく会えば抱き合うだけの関係だった。
そんなニューヨークでの1年はあっという間に過ぎていった。
その1年が過ぎた頃から囁かれ始めたのは道明寺の女はいつ捨てられるのか?だった。
道明寺の女・・
それはあたしだ。
たとえ世間がなんと言おうと関係がなかった。好きな男性の傍にいられるならそれでよかったから。はじめから永続的な関係は求めないと決めているのだからいつ終わりが来てもおかしくはないとわかっていた。
恋におちた女は愚かだと言われるが誰に笑われようとつくしにはどうでもよかった。
それに誰に何を言われようとつくしは立ち直りの早さが自慢だった。
立ち直りの早さは・・彼女が敢えてそうしていたからだ。
だがそれは偽りの人格・・
仮面を被っていたと言ったほうがいいのかもしれない。
人は幾重にも仮面を被って生活をしている。
その仮面は社会に出たときから増えるものだ。学生時代は己を覆い隠すということを知らない子供たちも社会に出れば本音と建て前を上手く使い分けるようになってくるものだ。
知らないうちに重ねられている仮面。
つくしの作り上げた偽り人格にひびが入ったのはまことしやかに囁かれる噂話からだった。
『 道明寺ホールディングス 道明寺司氏 近く結婚と友人がもらす 』
その言葉が裏付けられたのは本人の口から語られた言葉だった。
「俺は結婚する」
「・・結婚?」
そんな言葉が交わされたのは2人がまだ司のベッドの中にいるときだった。
「最初から言ったよな?俺は女とつき合っても結婚するつもりはないってな」
はっきりと言われた言葉に嘘はないだろう。
自分達の関係は特別なものではない。体の関係を持つようになってから言われていた。決して恋愛関係になることも結婚することもないと。そんな関係でもいいと望んだのは他ならぬつくし自身だった。それでもつくしの中にはどこかに希望があったのかもしれない。
「聞いてもいい?」
「でも、結婚するって誰と・・」
女とは結婚しないと言うがつくしは聞かずにはいられなかった。
道明寺が結婚する相手が誰なのかを。
「おまえには関係がないはずだ。俺とおまえは寝るだけの関係だ」
司の口元が歪んだ。
「俺たちはこうなる前に言ったよな?永続的な関係は求めないってな」
「まあ、気になるよな?俺とは1年も続いたわけだし。教えてやるよ」
つくしは聞きたくはなかったがそれでも聞かなければいられなかった。
「昔っからの知り合いの家の娘」
「ビジネスの上での取り決めだ」
そんな話しは昔、聞いたことがあった。
今はつくしの親友の一人が司と婚約をしたことがあったが、そんな状況と似ていた。
「時期が来たから結婚する」
「決まってたことだ」
「だからおまえとはもう終わりだ」
男はこの話しはこれで終わりだ。
これ以上はしたくない。
そう言っているようだった。
***
つくしはバスルームのトイレの前で体を折り曲げていた。
言えない。
もう2度と会えない。
白いスティックに示された青い線はつくしが司の子供を身ごもっていることを示していた。
まさか別れを告げられた日に妊娠していることが分かるなんて・・
まるで逃げるように道明寺のマンションから帰ってきた。つくしはトイレの蓋を閉めると
頬を寄せて横を向いた。生理が遅れてはいたがもともと不順だったし、体がだるくても風邪ぎみか疲れているのだと思っていた。
それに道明寺は避妊に関しては十分過ぎるほど注意していた。
俺は子供なんか欲しくない。
そんな言葉を一度だけ耳にしたことがあった。あれはいつだっただろうか?
だが、これから結婚をする相手とは子供を作らなければならない。
それは財閥の跡取りとしての大きな役割だった。
つくしは別れを告げられたとき、こぼれ落ちそうになる涙は決して男に見せまいと決めていた。
いつかはこんな日が来る。それは覚悟をしていたことだった。
だから渡されていた鍵だけをテーブルに置き、出て来た。
これから日本に帰って新しい人生を踏み出そう。
そうだ、もうあたしはひとりじゃないんだ。
道明寺の人生の一部にはなれなかったけど、道明寺の一部をもらったのだから。
でも言うチャンスさえなかった。あんたの子供がお腹にいると。
いや、言うべきことじゃない。この子の存在は道明寺にとって迷惑なだけだろう。
これからは自分が思い描くような人生を歩めばいい。
つくしは司に伝えられなかった思いを自分の胸だけにしまいこんだ。
その思いは自分に力を与えてくれるような気がした。
あたしは道明寺を失ってしまったが、手に入れたものもある。
だからこれからはひとりで生きていくことが出来るはずだ。
思わぬ贈り物をもらったと思えばいい。
そうよ、これは神様があたしに与えてくれた贈り物だ。
・・だから
・・何も悲しむことなんてないんだ。
***
あの女がマンションを出て行ったのは知っていた。
別れを告げたあと、敢えて顔を合わさないようにとシャワーを浴びにベッドを離れた間に出て行く気配を感じた。ベッドの側にあるテーブルの上には渡していた鍵が残されていた。
1年か・・。よくこんなに長い間ひとりの女だけとつき合うなんてことが出来たものだ。
これから先の自分の人生は2度と思い通りにはいかない人生だろう。
ビジネス上の結婚とはいえ守るべきルールはあるはずだ。
世間では冷たい男だと言われていてもあの女と約束したことは守った。
自分でも不思議な思いだ。何故かあの女と寝ている間は他の女とはつき合わないという約束だけは破ることがなかった。他の女が必要なかったということか?
あの女のどこが良かったのか・・司にもわからなかった。
2ヶ月という歳月はあっと言う間に過ぎて行くものだ。
司はあの女と別れてからも彼女を忘れられないことに気づいていた。
何故こんなにも忘れられないのか。体の相性がよかったからか?
それとも俺の元からあっさりと離れて行ったからか?司は女のその後は調べなかった。
調べたところでどうなると言うものではない。
司の乗った車はマンハッタン中心部からウォール街へと向けて走っていた。
そろそろ日没の時間帯で太陽が沈みかけているのが分かる。
司はふと思いついたように運転手に声をかけた。
「バッテリーパークまで行ってくれ」
バッテリーパーク・・・・
ウォール街よりも少し南へ下った場所、マンハッタン島の最南端にある公園で川の向うに自由の女神を眺められる場所として有名だ。この公園からは女神像のあるリバティ島に渡るフェリーも出ていて観光客にも人気の場所だ。ここから見る夕暮れの風景は美しい。
司は車を降りると公園の最南端まで歩いた。
ちょうど陽が沈む時間帯で川岸にはリバティ島からの最終便と思われる観光船が戻ってきたところだった。
今の俺にとって牧野という女は自分に憑りついて離れない何かの幻のように感じられた。
幻・・・幻影・・だがなぜあの女のことが頭から離れないのだろう。
クソッ!
なんであの女のことが頭から離れないんだ!
正直不思議な気持ちだった。
別れを告げたとき、何も言わずに黙って静かに受け入れた女。
それは司が望んだとおりの別れだった。
はじめから永続的な関係は求めないという約束で関係した女だ。泣き叫ばれて別れを拒まれても迷惑だとわかってはいたが、それでもどこかで俺と離れることが嫌だと別れを拒んで欲しかったという気持ちもあった。
今まで俺と1年も続いた女はいなかった。
なにがそんなに良かったのか。1年間は完全に俺のものだった女。
そんな女との別れに金でも渡すかと考えた。1年間の礼としてそれ相応の金を渡す。
いくら対等の関係でと言っても金をもらって喜ばない女はいないはずだ。
だがだまって鍵だけを置いて出て行った。
司はそのあとにある提案をするつもりだった。俺が結婚した後もこの関係を続けないかと。
そうだあの女は俺のものだ。これからも俺だけのものでいればいい・・
金に困ることはない、住まいも用意しよう。だがその考えは女がこの街から消えたことで終わった。女を自分のものだと考える・・そこまで考えるとはいつもの自分らしくない。
ただ手の中にある携帯電話にはまだ女の電話番号が残されていた。
繋がらない電話番号・・・
観光船が岸壁へと接岸すると大勢の観光客が船から降りて来ていた。
大勢の人波と船。どこかで見たことがある光景。
司はその様子をぼんやりと眺めていたが、物思いに沈んだように目を閉じた。
太陽は今まさに沈もうとしていた。
日没・・
今まで暖かく感じられていた空気が急にひんやりとしてきた。
司の背後にそびえる高層ビルにはやがて明かりが灯り始めるだろう。
彼が先程まで目に映している風景もやがて暗闇へと色を変えていく。
俺は暗闇の中を彷徨っていたことがある・・
それは自分の命が失われようとしていたときだ。
痛みに襲われたのは突然だった。
ガクッと体の力が抜け思わず膝を折った。
体に震えがきて、肌に冷たい汗が浮かんで流れた。
頭の中が破裂したかのような痛みが司の感覚を失わせたのか
手の中にあった携帯電話がカツンと音を立てて舗道に落ちた。
突然襲われた頭の痛みに自分の命が尽きるかと感じた。
言葉を失うとはこのことか?
ぱっと見開かれた目に映るのはただひとつの光景だった。
失われていた時が突然戻ってきた。
それは司が港で船から降りて暴漢に刺されてから失ってしまったひとつの記憶。
司は低い声をもらした。
頭の中に甦った記憶。
それは・・船を降りた俺とあの女・・
牧野だ・・
牧野つくし・・
司は正確に思い出すことが出来た。
あの瞬間、掴めなかった想いを。
胸が締めつけられる。
だが俺には今まで締めつける心がなかった。
人を愛するという心がなかった・・
牧野が俺と1年過ごしてきた意味はなんだったんだ?
今俺の胸を締めつけているのはあいつの愛なのか?
彼は舗道に落ちた携帯電話を取り上げると秘書に手配を頼んだ。
婚約者だと言う女への花、それは別れの花。
そして心に甦った女への花、それは挨拶代わりの花。
牧野に贈る花は、バラの花以外にないと思った。それは初めてあいつに贈った花だったから。
だが、その花の贈り先がわからないことに気がついた。
牧野がこの街を去ったあと、俺はあいつの行方を探そうとはしていなかった。
あの時はただ1年間寝た女と別れたとしか思っていなかったのだから・・
司は携帯電話を切ると向きを変え、灯りが点り始めた街並を見た。
なぜ1年も傍にいて気がつかなかったのか?
この街で1年一緒に過ごした・・・たとえ夜だけの関係だとしても・・
それなのに気づかなかったそんな自分に腹が立った。
俺は・・
牧野がどんな思いで俺とこの1年を過ごしたのか考えてやることもせず、ただの女として切り捨てた。
そっけない別れだった。
牧野は俺が初めてだった・・
まさか、俺のために今まで・・
司が今腹を立てるのは自分自身に対してだった。
牧野に会いに行く。
すぐにでもそうしなければならない。
あいつは俺の運命だ。
運命には逆らえない。
司が決心したのは大きな事業案件が一段落したからだ。
ビジネス上での取り決めの結婚はもうどうでもいい。
長いフライトの間、自分の想いをどう伝えればいいのかばかりを考えていた。
話したいことは山ほどある。もちろん聞きたいことも・・
向こうに着くまでに質問を整理して、あいつに聞かなければならない。だがあいつは、牧野は俺を受け入れてくれるだろうか?
あいつをどうでもいい女のように切り捨てた俺を・・
いや。どんなことをしても俺を受け入れてもらわなければ・・そのためなら俺はどんなことでもするつもりだ。
牧野・・早くおまえに会いたい。
司の心はすでに東京の空の下へと戻っていた。
17歳の自分が目にした青空の下へと。
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ただ、道明寺には他に女はいないはずだ。あたしとつき合うなら他の女とはつき合わないでと条件を出していたから。その条件を呑んだ道明寺にはあたししかいないはずだ。
自分が道明寺にとっての都合のいい女扱いをされていることはわかっていた。
2人が会うのはいつも道明寺のマンションで他にどこかへ出かけるということはしなかった。恐らくそれを道明寺に求めたところであの男にそんな気がないことくらいわかっていた。
つくしにはつくしの生活があった。なにも道明寺だけのために日々を過ごしていたわけじゃない。日本を離れるにあたってニューヨークでの仕事先は確保して来ていた。友人の一人が紹介してくれた仕事はニューヨークにある日系の旅行代理店での仕事だった。この仕事なら日本語も話せるし日本人とも会えるから寂しくはないでしょ?と言われ紹介された仕事だった。
道明寺との関係はこの街で出会ったときと変わることがなく会えば抱き合うだけの関係だった。
そんなニューヨークでの1年はあっという間に過ぎていった。
その1年が過ぎた頃から囁かれ始めたのは道明寺の女はいつ捨てられるのか?だった。
道明寺の女・・
それはあたしだ。
たとえ世間がなんと言おうと関係がなかった。好きな男性の傍にいられるならそれでよかったから。はじめから永続的な関係は求めないと決めているのだからいつ終わりが来てもおかしくはないとわかっていた。
恋におちた女は愚かだと言われるが誰に笑われようとつくしにはどうでもよかった。
それに誰に何を言われようとつくしは立ち直りの早さが自慢だった。
立ち直りの早さは・・彼女が敢えてそうしていたからだ。
だがそれは偽りの人格・・
仮面を被っていたと言ったほうがいいのかもしれない。
人は幾重にも仮面を被って生活をしている。
その仮面は社会に出たときから増えるものだ。学生時代は己を覆い隠すということを知らない子供たちも社会に出れば本音と建て前を上手く使い分けるようになってくるものだ。
知らないうちに重ねられている仮面。
つくしの作り上げた偽り人格にひびが入ったのはまことしやかに囁かれる噂話からだった。
『 道明寺ホールディングス 道明寺司氏 近く結婚と友人がもらす 』
その言葉が裏付けられたのは本人の口から語られた言葉だった。
「俺は結婚する」
「・・結婚?」
そんな言葉が交わされたのは2人がまだ司のベッドの中にいるときだった。
「最初から言ったよな?俺は女とつき合っても結婚するつもりはないってな」
はっきりと言われた言葉に嘘はないだろう。
自分達の関係は特別なものではない。体の関係を持つようになってから言われていた。決して恋愛関係になることも結婚することもないと。そんな関係でもいいと望んだのは他ならぬつくし自身だった。それでもつくしの中にはどこかに希望があったのかもしれない。
「聞いてもいい?」
「でも、結婚するって誰と・・」
女とは結婚しないと言うがつくしは聞かずにはいられなかった。
道明寺が結婚する相手が誰なのかを。
「おまえには関係がないはずだ。俺とおまえは寝るだけの関係だ」
司の口元が歪んだ。
「俺たちはこうなる前に言ったよな?永続的な関係は求めないってな」
「まあ、気になるよな?俺とは1年も続いたわけだし。教えてやるよ」
つくしは聞きたくはなかったがそれでも聞かなければいられなかった。
「昔っからの知り合いの家の娘」
「ビジネスの上での取り決めだ」
そんな話しは昔、聞いたことがあった。
今はつくしの親友の一人が司と婚約をしたことがあったが、そんな状況と似ていた。
「時期が来たから結婚する」
「決まってたことだ」
「だからおまえとはもう終わりだ」
男はこの話しはこれで終わりだ。
これ以上はしたくない。
そう言っているようだった。
***
つくしはバスルームのトイレの前で体を折り曲げていた。
言えない。
もう2度と会えない。
白いスティックに示された青い線はつくしが司の子供を身ごもっていることを示していた。
まさか別れを告げられた日に妊娠していることが分かるなんて・・
まるで逃げるように道明寺のマンションから帰ってきた。つくしはトイレの蓋を閉めると
頬を寄せて横を向いた。生理が遅れてはいたがもともと不順だったし、体がだるくても風邪ぎみか疲れているのだと思っていた。
それに道明寺は避妊に関しては十分過ぎるほど注意していた。
俺は子供なんか欲しくない。
そんな言葉を一度だけ耳にしたことがあった。あれはいつだっただろうか?
だが、これから結婚をする相手とは子供を作らなければならない。
それは財閥の跡取りとしての大きな役割だった。
つくしは別れを告げられたとき、こぼれ落ちそうになる涙は決して男に見せまいと決めていた。
いつかはこんな日が来る。それは覚悟をしていたことだった。
だから渡されていた鍵だけをテーブルに置き、出て来た。
これから日本に帰って新しい人生を踏み出そう。
そうだ、もうあたしはひとりじゃないんだ。
道明寺の人生の一部にはなれなかったけど、道明寺の一部をもらったのだから。
でも言うチャンスさえなかった。あんたの子供がお腹にいると。
いや、言うべきことじゃない。この子の存在は道明寺にとって迷惑なだけだろう。
これからは自分が思い描くような人生を歩めばいい。
つくしは司に伝えられなかった思いを自分の胸だけにしまいこんだ。
その思いは自分に力を与えてくれるような気がした。
あたしは道明寺を失ってしまったが、手に入れたものもある。
だからこれからはひとりで生きていくことが出来るはずだ。
思わぬ贈り物をもらったと思えばいい。
そうよ、これは神様があたしに与えてくれた贈り物だ。
・・だから
・・何も悲しむことなんてないんだ。
***
あの女がマンションを出て行ったのは知っていた。
別れを告げたあと、敢えて顔を合わさないようにとシャワーを浴びにベッドを離れた間に出て行く気配を感じた。ベッドの側にあるテーブルの上には渡していた鍵が残されていた。
1年か・・。よくこんなに長い間ひとりの女だけとつき合うなんてことが出来たものだ。
これから先の自分の人生は2度と思い通りにはいかない人生だろう。
ビジネス上の結婚とはいえ守るべきルールはあるはずだ。
世間では冷たい男だと言われていてもあの女と約束したことは守った。
自分でも不思議な思いだ。何故かあの女と寝ている間は他の女とはつき合わないという約束だけは破ることがなかった。他の女が必要なかったということか?
あの女のどこが良かったのか・・司にもわからなかった。
2ヶ月という歳月はあっと言う間に過ぎて行くものだ。
司はあの女と別れてからも彼女を忘れられないことに気づいていた。
何故こんなにも忘れられないのか。体の相性がよかったからか?
それとも俺の元からあっさりと離れて行ったからか?司は女のその後は調べなかった。
調べたところでどうなると言うものではない。
司の乗った車はマンハッタン中心部からウォール街へと向けて走っていた。
そろそろ日没の時間帯で太陽が沈みかけているのが分かる。
司はふと思いついたように運転手に声をかけた。
「バッテリーパークまで行ってくれ」
バッテリーパーク・・・・
ウォール街よりも少し南へ下った場所、マンハッタン島の最南端にある公園で川の向うに自由の女神を眺められる場所として有名だ。この公園からは女神像のあるリバティ島に渡るフェリーも出ていて観光客にも人気の場所だ。ここから見る夕暮れの風景は美しい。
司は車を降りると公園の最南端まで歩いた。
ちょうど陽が沈む時間帯で川岸にはリバティ島からの最終便と思われる観光船が戻ってきたところだった。
今の俺にとって牧野という女は自分に憑りついて離れない何かの幻のように感じられた。
幻・・・幻影・・だがなぜあの女のことが頭から離れないのだろう。
クソッ!
なんであの女のことが頭から離れないんだ!
正直不思議な気持ちだった。
別れを告げたとき、何も言わずに黙って静かに受け入れた女。
それは司が望んだとおりの別れだった。
はじめから永続的な関係は求めないという約束で関係した女だ。泣き叫ばれて別れを拒まれても迷惑だとわかってはいたが、それでもどこかで俺と離れることが嫌だと別れを拒んで欲しかったという気持ちもあった。
今まで俺と1年も続いた女はいなかった。
なにがそんなに良かったのか。1年間は完全に俺のものだった女。
そんな女との別れに金でも渡すかと考えた。1年間の礼としてそれ相応の金を渡す。
いくら対等の関係でと言っても金をもらって喜ばない女はいないはずだ。
だがだまって鍵だけを置いて出て行った。
司はそのあとにある提案をするつもりだった。俺が結婚した後もこの関係を続けないかと。
そうだあの女は俺のものだ。これからも俺だけのものでいればいい・・
金に困ることはない、住まいも用意しよう。だがその考えは女がこの街から消えたことで終わった。女を自分のものだと考える・・そこまで考えるとはいつもの自分らしくない。
ただ手の中にある携帯電話にはまだ女の電話番号が残されていた。
繋がらない電話番号・・・
観光船が岸壁へと接岸すると大勢の観光客が船から降りて来ていた。
大勢の人波と船。どこかで見たことがある光景。
司はその様子をぼんやりと眺めていたが、物思いに沈んだように目を閉じた。
太陽は今まさに沈もうとしていた。
日没・・
今まで暖かく感じられていた空気が急にひんやりとしてきた。
司の背後にそびえる高層ビルにはやがて明かりが灯り始めるだろう。
彼が先程まで目に映している風景もやがて暗闇へと色を変えていく。
俺は暗闇の中を彷徨っていたことがある・・
それは自分の命が失われようとしていたときだ。
痛みに襲われたのは突然だった。
ガクッと体の力が抜け思わず膝を折った。
体に震えがきて、肌に冷たい汗が浮かんで流れた。
頭の中が破裂したかのような痛みが司の感覚を失わせたのか
手の中にあった携帯電話がカツンと音を立てて舗道に落ちた。
突然襲われた頭の痛みに自分の命が尽きるかと感じた。
言葉を失うとはこのことか?
ぱっと見開かれた目に映るのはただひとつの光景だった。
失われていた時が突然戻ってきた。
それは司が港で船から降りて暴漢に刺されてから失ってしまったひとつの記憶。
司は低い声をもらした。
頭の中に甦った記憶。
それは・・船を降りた俺とあの女・・
牧野だ・・
牧野つくし・・
司は正確に思い出すことが出来た。
あの瞬間、掴めなかった想いを。
胸が締めつけられる。
だが俺には今まで締めつける心がなかった。
人を愛するという心がなかった・・
牧野が俺と1年過ごしてきた意味はなんだったんだ?
今俺の胸を締めつけているのはあいつの愛なのか?
彼は舗道に落ちた携帯電話を取り上げると秘書に手配を頼んだ。
婚約者だと言う女への花、それは別れの花。
そして心に甦った女への花、それは挨拶代わりの花。
牧野に贈る花は、バラの花以外にないと思った。それは初めてあいつに贈った花だったから。
だが、その花の贈り先がわからないことに気がついた。
牧野がこの街を去ったあと、俺はあいつの行方を探そうとはしていなかった。
あの時はただ1年間寝た女と別れたとしか思っていなかったのだから・・
司は携帯電話を切ると向きを変え、灯りが点り始めた街並を見た。
なぜ1年も傍にいて気がつかなかったのか?
この街で1年一緒に過ごした・・・たとえ夜だけの関係だとしても・・
それなのに気づかなかったそんな自分に腹が立った。
俺は・・
牧野がどんな思いで俺とこの1年を過ごしたのか考えてやることもせず、ただの女として切り捨てた。
そっけない別れだった。
牧野は俺が初めてだった・・
まさか、俺のために今まで・・
司が今腹を立てるのは自分自身に対してだった。
牧野に会いに行く。
すぐにでもそうしなければならない。
あいつは俺の運命だ。
運命には逆らえない。
司が決心したのは大きな事業案件が一段落したからだ。
ビジネス上での取り決めの結婚はもうどうでもいい。
長いフライトの間、自分の想いをどう伝えればいいのかばかりを考えていた。
話したいことは山ほどある。もちろん聞きたいことも・・
向こうに着くまでに質問を整理して、あいつに聞かなければならない。だがあいつは、牧野は俺を受け入れてくれるだろうか?
あいつをどうでもいい女のように切り捨てた俺を・・
いや。どんなことをしても俺を受け入れてもらわなければ・・そのためなら俺はどんなことでもするつもりだ。
牧野・・早くおまえに会いたい。
司の心はすでに東京の空の下へと戻っていた。
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チビ**ママ様
おはようございます。
切なかったですか?
色んな司がいる拙宅ですが楽しんで頂けてなによりです。
どうしてこんなにキャラが違うんでしょうね(笑)
金持ちの御曹司はエロエロで何処か間抜け・・(笑)
いつも公開するときこんな司だとイメージがと思い、注釈をつけていますが本当に大丈夫ですか?
気付けば16話もありました!
エロい御曹司、まだまだ続きます。また楽しんで頂けるといいのですが・・
コメント有難うございました(^^)
おはようございます。
切なかったですか?
色んな司がいる拙宅ですが楽しんで頂けてなによりです。
どうしてこんなにキャラが違うんでしょうね(笑)
金持ちの御曹司はエロエロで何処か間抜け・・(笑)
いつも公開するときこんな司だとイメージがと思い、注釈をつけていますが本当に大丈夫ですか?
気付けば16話もありました!
エロい御曹司、まだまだ続きます。また楽しんで頂けるといいのですが・・
コメント有難うございました(^^)
アカシア
2016.06.03 21:26 | 編集

LUCA(坊ちゃん溺愛)様
狩に行かせました。
無事に獲物は確保しましたのでご安心下さいませm(__)m
拍手コメント有難うございました(^^)
狩に行かせました。
無事に獲物は確保しましたのでご安心下さいませm(__)m
拍手コメント有難うございました(^^)
アカシア
2016.06.03 21:31 | 編集

いつも楽しく読ませて貰っています!
金持ちの御曹司妄想好きの司が大好きです!
これからも素敵な話を楽しみにしています。
金持ちの御曹司妄想好きの司が大好きです!
これからも素敵な話を楽しみにしています。
マイルLOVE
2016.06.06 08:38 | 編集

マイルLOVE様
こちらこそいつもお読み頂きありがとうございますm(__)m
金持ちの御曹司の妄想司、エロいことばかり考えてますが気に入って頂き嬉しいです。
最近妄想し過ぎで暴走してます(笑)
今後もこの司は妄想ばかりするかと思いますがよろしくおねがいします(^^)
コメント有難うございました(^^)
こちらこそいつもお読み頂きありがとうございますm(__)m
金持ちの御曹司の妄想司、エロいことばかり考えてますが気に入って頂き嬉しいです。
最近妄想し過ぎで暴走してます(笑)
今後もこの司は妄想ばかりするかと思いますがよろしくおねがいします(^^)
コメント有難うございました(^^)
アカシア
2016.06.06 22:25 | 編集
