つくしは「夫」が現れるのではないかと警戒しながら出勤したが何事もなく研究所に着いていた。
さすがにあの男も出張から帰って仕事が溜まっているに違いない。
前日の仕事を持ち越さないことが大切だって言っていたくらいなんだもの。
それにあの男の仕事は会社の全体像をつかむことだ。
だからあたしのことなんかより仕事を片付けているに違いない。
不意に抑えがたい怒りに駆られた。
なによ!弁解するつもりもないわけ?
あんな男最低よ!
と思えば今度は悲しみが襲ってきた。
こんなに感情の起伏が激しくなるなんて自分でもどうかしているとしか思えなかった。
つくしの机の電話は鳴ることが無かった。
そしていつものように時間は静かに流れて行くかのように思えた。
もしかして、と起こる事態を予測しながら過ごすのは無駄な緊張感を生む。
昼休みになり研究室をあとにしてカフェテリアに向かいながら思い出していた。
あの男がこの場所に現れた時のことを。
あの時は自分のことを牧田月子だなんて名乗っていた頃だ。
エレベーターを待ちながらそんなことを思い出していた。
つくしは階数表示が点滅しながら自分のフロアに近づいてきているのを確認していた。
ここには現れないかもしれない・・
つくしはそう思うと少しばかり緊張をゆるめた。
「牧野君?」
と声をかけてきたのは理事の男性。
回れ右をして思わず研究室に戻ろうかと思ったが無理だった。
つくしは沢山いる理事のなか、この男性が苦手だった。
決して悪い人ではない。つくしに言わせればいい人だ。
ただ会うたびにお見合い相手を紹介したがる単なる世話好きな老紳士だった。
逃げきれないとわかったつくしはお辞儀をしていた。
「牧野君、その後どうだね?」
「は?どう・・とは?」
「お見合いだよ、お見合い。一度くらいしてみてはどうだね?」
「いえ、あの・・何度もお断りしていると思うのですが・・」
「なにを言ってるんだね、一度くらいは・・」
「あの、本当に・・結構ですから」
困った・・
今までもそんな暇がないとか、結婚するならもう少し先でとか、研究に集中したいから結婚は考えていませんとか色々な理由を並べ立てて断ってきたのにこの男性はどうしてあたしをそんなに結婚させたいのか・・
つくしは考え込んだ。
いっそのこと実は結婚していて赤ちゃんがお腹にいるなんて答えたらこの人はどうするだろうか・・
でもそれはダメよ。
いつか事実が知れ渡るとしても、結婚生活が充実したものでなければとても公言することなど出来ない。
そうでなければ惨めなだけだ。
それならばシングルマザーでいた方がいい。
「あの・・」
ちょうどその時、目の前のエレベーターが開いて中から出て来たのは初老の男性で彼はこの研究所の理事長だった。
「やあ牧野君久しぶりだね。研究の方は順調ですか?」
「は、はい。こんに・・」
なんてことなの!
なんであの男がここにいるのよ!
つくしがお辞儀を返している男性の後ろから現れたのは彼女の「夫」だった。
チャコールグレーのスーツが完璧にフィットしている男性なんてこの研究所には見当たらない。塵ひとつ落ちていないような廊下に踏み出された靴はいつもながら見事な艶を放っていた。
多分、数秒間見つめ合ったはず。
それからそっと視線をはずしてみようとしたところ
「牧野君、以前ご紹介しました道明寺さん。覚えていますよね?」
と理事の男性は訊いてきた。
司はつくしにしっかりと視線を定めた。
「どうも。その節は色々とお世話になりました」
「いいえ。とんでもございません」
当人たちはまったく気づいてはいないだろうけど、司の目は細められ、つくしの言葉には棘が感じられた。
年配の理事二人は彼らのどこか険悪な雰囲気に気づくわけもなく、のん気に立ち話を始めていた。
「あの、理事・・」
つくしは二人の老紳士に声をかけた。
「わたしは急ぎますので失礼いたします」
「ああ牧野君。道明寺さんはあなたに会いたいとお越しになられたのですよ?」
と司と一緒にエレベーターから降りてきた男性が言った。
男性は咳払いをするとさらに言葉を継いでいた。
「牧野君もこれからお昼休みですよね?少し時間がかかってもいいですから道明寺さんとお昼でも食べに・・」
「いえ。それは牧野先生がお嫌でしょうから」
司はつくしが苛立っているのを感じとっていた。
せっかくここまで会いに来たのだからなんとかして話をしたいと思いながらも、背中の毛を逆立てたような小動物を相手にするための餌として昼食では不十分だと思われた。
「わたしに何かご用ですか?道明寺さん」つくしは顎をあげ、挑むように言った。
「ええ。お話したいと思っていることがありまして。きっとご興味があると思いますよ? 牧野先生?」司は意味ありげに言った。
そんな男女のやり取りに二人の年配の理事は好奇心にあふれた視線を向けて来た。
この男は平気で人の気持ちを踏みにじるような男よ!
そんな思いを無理矢理押さえ、つくしはなんとかにこやかな表情を作った。
「どのようなお話でしょうか?」
「まあ牧野君、こんなところで立ち話もなんでしょうから・・」
「そうですよ、牧野君。廊下で立ち話なんて道明寺さんに失礼ですよ?」
「そうですか・・では下のカフェテリアにでも・・」
「いいや。静かな場所でゆっくりとお話が聞きたいんです。研究のことで」
4人の間でやりとりされる視線は複雑に交錯していた。
「牧野君、道明寺さんに君の研究室をご案内して差し上げてはどうですか?」
「でも理事長それは・・」
「大丈夫ですよ、道明寺さんは研究を盗みにきたわけではありませんから」
「そうですよ。それに色々とご配慮をいただいておりますし」
二人の男性は口々に自分の考えをつくしに伝えてきた。
「わかりました・・ではわたしの研究室へどうぞ・・」
つくしにしてみれば理事たちが問題ないと言うのなら、拒否する理由がなかった。
つくしは二人の理事に挨拶をすると自分の研究室へと続く廊下を戻ることにした。
自分の後ろをついてくる「夫」の視線を痛いほど背中に感じながら。

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さすがにあの男も出張から帰って仕事が溜まっているに違いない。
前日の仕事を持ち越さないことが大切だって言っていたくらいなんだもの。
それにあの男の仕事は会社の全体像をつかむことだ。
だからあたしのことなんかより仕事を片付けているに違いない。
不意に抑えがたい怒りに駆られた。
なによ!弁解するつもりもないわけ?
あんな男最低よ!
と思えば今度は悲しみが襲ってきた。
こんなに感情の起伏が激しくなるなんて自分でもどうかしているとしか思えなかった。
つくしの机の電話は鳴ることが無かった。
そしていつものように時間は静かに流れて行くかのように思えた。
もしかして、と起こる事態を予測しながら過ごすのは無駄な緊張感を生む。
昼休みになり研究室をあとにしてカフェテリアに向かいながら思い出していた。
あの男がこの場所に現れた時のことを。
あの時は自分のことを牧田月子だなんて名乗っていた頃だ。
エレベーターを待ちながらそんなことを思い出していた。
つくしは階数表示が点滅しながら自分のフロアに近づいてきているのを確認していた。
ここには現れないかもしれない・・
つくしはそう思うと少しばかり緊張をゆるめた。
「牧野君?」
と声をかけてきたのは理事の男性。
回れ右をして思わず研究室に戻ろうかと思ったが無理だった。
つくしは沢山いる理事のなか、この男性が苦手だった。
決して悪い人ではない。つくしに言わせればいい人だ。
ただ会うたびにお見合い相手を紹介したがる単なる世話好きな老紳士だった。
逃げきれないとわかったつくしはお辞儀をしていた。
「牧野君、その後どうだね?」
「は?どう・・とは?」
「お見合いだよ、お見合い。一度くらいしてみてはどうだね?」
「いえ、あの・・何度もお断りしていると思うのですが・・」
「なにを言ってるんだね、一度くらいは・・」
「あの、本当に・・結構ですから」
困った・・
今までもそんな暇がないとか、結婚するならもう少し先でとか、研究に集中したいから結婚は考えていませんとか色々な理由を並べ立てて断ってきたのにこの男性はどうしてあたしをそんなに結婚させたいのか・・
つくしは考え込んだ。
いっそのこと実は結婚していて赤ちゃんがお腹にいるなんて答えたらこの人はどうするだろうか・・
でもそれはダメよ。
いつか事実が知れ渡るとしても、結婚生活が充実したものでなければとても公言することなど出来ない。
そうでなければ惨めなだけだ。
それならばシングルマザーでいた方がいい。
「あの・・」
ちょうどその時、目の前のエレベーターが開いて中から出て来たのは初老の男性で彼はこの研究所の理事長だった。
「やあ牧野君久しぶりだね。研究の方は順調ですか?」
「は、はい。こんに・・」
なんてことなの!
なんであの男がここにいるのよ!
つくしがお辞儀を返している男性の後ろから現れたのは彼女の「夫」だった。
チャコールグレーのスーツが完璧にフィットしている男性なんてこの研究所には見当たらない。塵ひとつ落ちていないような廊下に踏み出された靴はいつもながら見事な艶を放っていた。
多分、数秒間見つめ合ったはず。
それからそっと視線をはずしてみようとしたところ
「牧野君、以前ご紹介しました道明寺さん。覚えていますよね?」
と理事の男性は訊いてきた。
司はつくしにしっかりと視線を定めた。
「どうも。その節は色々とお世話になりました」
「いいえ。とんでもございません」
当人たちはまったく気づいてはいないだろうけど、司の目は細められ、つくしの言葉には棘が感じられた。
年配の理事二人は彼らのどこか険悪な雰囲気に気づくわけもなく、のん気に立ち話を始めていた。
「あの、理事・・」
つくしは二人の老紳士に声をかけた。
「わたしは急ぎますので失礼いたします」
「ああ牧野君。道明寺さんはあなたに会いたいとお越しになられたのですよ?」
と司と一緒にエレベーターから降りてきた男性が言った。
男性は咳払いをするとさらに言葉を継いでいた。
「牧野君もこれからお昼休みですよね?少し時間がかかってもいいですから道明寺さんとお昼でも食べに・・」
「いえ。それは牧野先生がお嫌でしょうから」
司はつくしが苛立っているのを感じとっていた。
せっかくここまで会いに来たのだからなんとかして話をしたいと思いながらも、背中の毛を逆立てたような小動物を相手にするための餌として昼食では不十分だと思われた。
「わたしに何かご用ですか?道明寺さん」つくしは顎をあげ、挑むように言った。
「ええ。お話したいと思っていることがありまして。きっとご興味があると思いますよ? 牧野先生?」司は意味ありげに言った。
そんな男女のやり取りに二人の年配の理事は好奇心にあふれた視線を向けて来た。
この男は平気で人の気持ちを踏みにじるような男よ!
そんな思いを無理矢理押さえ、つくしはなんとかにこやかな表情を作った。
「どのようなお話でしょうか?」
「まあ牧野君、こんなところで立ち話もなんでしょうから・・」
「そうですよ、牧野君。廊下で立ち話なんて道明寺さんに失礼ですよ?」
「そうですか・・では下のカフェテリアにでも・・」
「いいや。静かな場所でゆっくりとお話が聞きたいんです。研究のことで」
4人の間でやりとりされる視線は複雑に交錯していた。
「牧野君、道明寺さんに君の研究室をご案内して差し上げてはどうですか?」
「でも理事長それは・・」
「大丈夫ですよ、道明寺さんは研究を盗みにきたわけではありませんから」
「そうですよ。それに色々とご配慮をいただいておりますし」
二人の男性は口々に自分の考えをつくしに伝えてきた。
「わかりました・・ではわたしの研究室へどうぞ・・」
つくしにしてみれば理事たちが問題ないと言うのなら、拒否する理由がなかった。
つくしは二人の理事に挨拶をすると自分の研究室へと続く廊下を戻ることにした。
自分の後ろをついてくる「夫」の視線を痛いほど背中に感じながら。

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コメント
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た*き様
そのドラマ見てました。が、残念ながら原作は読んだことがありません。
偶然ですが、なんと我が家で購読している週刊文*にその話題が出ていまして
あのお話の25年後が某誌に掲載されたと言う記事を目にしました。
主人公だった二人の子供達が恋に落ち、親が再会するお話らしいです。
テーマは「50歳からの恋愛」だそうです。
ここではその某誌の名前は伏せさせて頂きますが
多分検索されればヒットするのではないかと思います。
コメント有難うございました(^^)
あの主題歌を耳にすると当時を思い出します(笑)
そのドラマ見てました。が、残念ながら原作は読んだことがありません。
偶然ですが、なんと我が家で購読している週刊文*にその話題が出ていまして
あのお話の25年後が某誌に掲載されたと言う記事を目にしました。
主人公だった二人の子供達が恋に落ち、親が再会するお話らしいです。
テーマは「50歳からの恋愛」だそうです。
ここではその某誌の名前は伏せさせて頂きますが
多分検索されればヒットするのではないかと思います。
コメント有難うございました(^^)
あの主題歌を耳にすると当時を思い出します(笑)
アカシア
2016.02.15 22:54 | 編集

as***na様
まだこの状況が続きそうな予感がします。
コメディなりの緊迫感です(笑)
それなりの年齢の二人。
それぞれに自分の人生を過ごして来た二人です。
話せばわかる!と思いますがいかがでしょうね?
本日は沢山のコメントを有難うございました(^^)
まだこの状況が続きそうな予感がします。
コメディなりの緊迫感です(笑)
それなりの年齢の二人。
それぞれに自分の人生を過ごして来た二人です。
話せばわかる!と思いますがいかがでしょうね?
本日は沢山のコメントを有難うございました(^^)
アカシア
2016.02.15 23:28 | 編集
