「あの。この傘、電車の中にお忘れではありませんか?」
その声に振り返えると、そこにいたのは20代後半と思われる女性。
その女性が青い傘を差し出してきた。
それは僕の傘だ。だから僕は「すみません。ありがとうございます」と言って傘を受け取った。すると女性は「どういたしまして」と言うと背中を向け改札を出て行った。
それが彼女との最初の出会いだ。
ラッシュアワーの満員電車。朝のダイヤは過密で、何もその電車に乗らなくてもいいのだが、何分かの違いで一日の生活リズムが変わることもある。だから誰もが皆、習慣的にいつもと同じ電車の、いつもと同じ車両に乗り、いつもと同じ場所に立つ。
そして僕も毎朝同じ時間に同じ電車に乗り、同じ顏の人々と乗り合わせているのだが、その中のひとりが彼女だ。だが、僕はこれまで彼女に気付かなかった。しかしあの日以来、僕は彼女のことを気にするようになった。だから姿を見かけない日があると、病気なのかと心配した。だが週明け、地方の観光地の名が書かれた紙袋を下げているのを見ると安心した。
そしてその感情から、僕は彼女に恋をしていることに気付いた。
僕と彼女のいつもの車両。
それは前から4両目の車両。
乗る扉は一番後ろ。
彼女はたいていドアの側に立ち窓の外を見ている。僕はと言えば、ふたつ前の駅からその車両に乗っている。そして同じ線路の上を通った僕と彼女は同じ駅で降りる。
改札を出た彼女は右へ。僕は左へ行く。
だから彼女がどこへ向かうのか知らない。
彼女の印象は真面目。
小柄だが背筋がスッと伸びて姿勢がいい。染めてはいない髪は肩の長さで切り揃えられていて、服装はいつもスーツ。スカートの時もあればパンツの時もあるが、色は紺やグレーといった控えめな色。そして手にしているのは黒いビジネス鞄であり、そこから想像出来る仕事は、お堅い仕事。つまり金融機関や公的機関の職員といったもの。だが彼女の職場は駅から数分の所にある商社なのかもしれない。だから僕は彼女のスーツの襟に商社の社章が付いているのではないかと思った。けれどそれらしいものを見つけることは出来なかった。
そして僕は一度だけ、彼女の後をつけたいという気持になった。けれど後をつけることはしなかった。
僕は大学を卒業したのち不動産会社に就職して開発事業部にいる。
今手掛けている仕事は、郊外に計画されているニュータウンの開発。
予備調査を終えたそこは間もなく造成工事に入る。街の形が整えば、分譲が始まり家が建ち、どこにでもあるような郊外の住宅街が出来上がるが、僕はその仕事を夢がある仕事だと思っている。何故ならそこは誰かが家庭を築く場所であり、誰かの人生が始まる場所だからだ。
結婚した男女は子供が生まれ家族が増えると広い家へと住み替える。
そして子供たちはそこを地元と呼び成長していく。やがて成長した子供たちはそこを故郷と呼ぶようになるが、彼らが生まれる前に公園に植えられた桜の木は、彼らの成長と共に大きくなり春には花を咲かせる。季節が静かに移り変り桜の花が散ると、今度は街路樹として植えられたハナミズキが花を咲かせる。やがて誰かの家の庭では紫陽花が咲き、マリーゴールドが鮮やかなオレンジ色の花を咲かる。夏になれば学校から持ち帰ったアサガオの花が咲き、ひまわりも大輪の花を咲かせる。春夏秋冬。ニュータウンのあちこちでは常に花が咲いるはずだ。
もし彼女と結婚したら、どんな場所で暮らし、どんな人生を送るのだろうか。
僕は人並みに恋をしてきたつもりだ。
だが、それは自分が思っているだけなのかもしれない。
そうだ。考えてみれば恋を始めても、いつも自分から遠ざかっていた。いや。遠ざかっていたのではなく自分から終わらせてきたのだ。だから僕は自分が恋愛に不向きなのだと思った。
しかし違う。彼女とは違う。
彼女の後ろ姿を見つめながら、そう考えることもあった。
***
1週間が終る金曜日の朝。
いつもの電車に乗った。そしていつもと同じ車両に乗ってきた彼女の後ろ姿を見ていた。
そんな僕は急な人事異動で福岡に転勤が決まった。
つまりそれは彼女と会えなくなるということ。
だから勇気をもって好きだという自分の気持を伝えることにした。それはたとえダメだとしても、思いを告げなかったことを後悔したくないからだ。
僕は彼女の後ろについて電車を降りた。
だがそこで人波に揉まれ彼女を見失った。
だから焦った。だが改札を出たところにいる彼女を見つけ、追いつくと意を決して声をかけた。
「あの…..」
その時だった。
僕は旧約聖書の中でモーゼが行ったという海割りを見た。
それは駅を出る人波に逆らうように歩いてくる背の高い男の周りで起きていた。
だが男はモーゼのように杖を振りかざしてもいなければ、手を上げたわけでもない。
ただ何故か人々が彼を避け、人波という海が左右に割れ、男が通る道を作っていた。
そしてその道を通ってきた男は、立ち止まった彼女の前まで来ると言った。
「迎えにきた」
彼女は何も言わなかった。
ただ男をじっと見つめていた。
すると男は再び言った。
「牧野。お前を迎えにきた」
僕はそのとき彼女の名前がマキノであることを知った。
そしてふたりは何も言わずただ、お互いを見つめていた。
僕はそんなふたりの様子から人間関係をあらまし想像した。
彼女を見つめる男の長い睫毛の奥の漆黒の瞳は、暗く翳り真剣みをおびている。
それは深い愛情の現れ。そして彼女が男を見つめる瞳にも、男に特別な思いを持っていることが現れている。
つまり今、僕の前で繰り広げられているのは、長い間会えなかった、もしくは離れ離れにならざるを得なかった男と女の……いや恋人たちの再会の場面。
何らかの理由で会えなかったふたりは、互いの瞳を見つめ思いを確かめあっていた。
そんなふたりを見ている僕の胸に宿るのはほろ苦さ。
僕はそっとため息をついた。
それは僕の恋が始まる前に終わったから。
そしてそれを認めた瞬間、僕は同じ電車で通勤していたただの人になった。
僕は男の顏を見ながら、その顏をどこかで見たことがあると思った。
それに男を囲むように立つのは数人の体格のいいスーツ姿の男たち。
思い出した。
男は道明寺ホールディングスの副社長だ。
確か名前は道明寺司。この4月に副社長に就任したばかりで、就任会見が新聞やテレビで話題になった。
男が副社長に就任する前、道明寺ホールディングスの株価は急落した。
それは道明寺ホールディングスが経営難でアメリカの会社に買収されるのではないか。
社長が表に出ないのは健康面に不安があるからではないか。
そんな憶測が流れ、道明寺ホールディングスの経営の先行きが危ぶまれた。
しかし副社長に就任した男はそれらの憶測を全て否定した。
「我社がアメリカの会社に買収されることはありません。むしろその反対です。我々は敵対的買収を仕掛けてきたアメリカの会社を買収いたしました。それから社長の道明寺楓の健康に問題はありません」
アメリカの会社を買収したという話は本当だが、社長の健康に問題がないという言葉は本当なのか。テレビの画面を見ている人間には、副社長の隣に座っている女性の健康状態に問題がないかどうかは分からなかった。
恋はある日突然訪れることがある。
そして終わりもまた然り。
けれど、何かを乗り越えた恋は強い。
それはまともな恋をしたことがない僕でもわかること。
だからふたりの恋はこれからも続いていくはずだ。
僕は人生で一番感動的な場面にいるふたりの横を通り過ぎ駅の外へ出た。
5月の空は青く晴れ渡って、穏やかな風が吹いている。
きっとこれから僕が暮らすことになる街の空も同じはずだ。
いや。向うはこの街より季節が早い。恐らく雨の季節はすぐそこまで来ているはずだ。
だから僕は、ふう、と息をつき、「あっちへ行ったら新しい傘でも買うか」と呟いて歩きだした。
< 完 > *始まりの前に*

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その声に振り返えると、そこにいたのは20代後半と思われる女性。
その女性が青い傘を差し出してきた。
それは僕の傘だ。だから僕は「すみません。ありがとうございます」と言って傘を受け取った。すると女性は「どういたしまして」と言うと背中を向け改札を出て行った。
それが彼女との最初の出会いだ。
ラッシュアワーの満員電車。朝のダイヤは過密で、何もその電車に乗らなくてもいいのだが、何分かの違いで一日の生活リズムが変わることもある。だから誰もが皆、習慣的にいつもと同じ電車の、いつもと同じ車両に乗り、いつもと同じ場所に立つ。
そして僕も毎朝同じ時間に同じ電車に乗り、同じ顏の人々と乗り合わせているのだが、その中のひとりが彼女だ。だが、僕はこれまで彼女に気付かなかった。しかしあの日以来、僕は彼女のことを気にするようになった。だから姿を見かけない日があると、病気なのかと心配した。だが週明け、地方の観光地の名が書かれた紙袋を下げているのを見ると安心した。
そしてその感情から、僕は彼女に恋をしていることに気付いた。
僕と彼女のいつもの車両。
それは前から4両目の車両。
乗る扉は一番後ろ。
彼女はたいていドアの側に立ち窓の外を見ている。僕はと言えば、ふたつ前の駅からその車両に乗っている。そして同じ線路の上を通った僕と彼女は同じ駅で降りる。
改札を出た彼女は右へ。僕は左へ行く。
だから彼女がどこへ向かうのか知らない。
彼女の印象は真面目。
小柄だが背筋がスッと伸びて姿勢がいい。染めてはいない髪は肩の長さで切り揃えられていて、服装はいつもスーツ。スカートの時もあればパンツの時もあるが、色は紺やグレーといった控えめな色。そして手にしているのは黒いビジネス鞄であり、そこから想像出来る仕事は、お堅い仕事。つまり金融機関や公的機関の職員といったもの。だが彼女の職場は駅から数分の所にある商社なのかもしれない。だから僕は彼女のスーツの襟に商社の社章が付いているのではないかと思った。けれどそれらしいものを見つけることは出来なかった。
そして僕は一度だけ、彼女の後をつけたいという気持になった。けれど後をつけることはしなかった。
僕は大学を卒業したのち不動産会社に就職して開発事業部にいる。
今手掛けている仕事は、郊外に計画されているニュータウンの開発。
予備調査を終えたそこは間もなく造成工事に入る。街の形が整えば、分譲が始まり家が建ち、どこにでもあるような郊外の住宅街が出来上がるが、僕はその仕事を夢がある仕事だと思っている。何故ならそこは誰かが家庭を築く場所であり、誰かの人生が始まる場所だからだ。
結婚した男女は子供が生まれ家族が増えると広い家へと住み替える。
そして子供たちはそこを地元と呼び成長していく。やがて成長した子供たちはそこを故郷と呼ぶようになるが、彼らが生まれる前に公園に植えられた桜の木は、彼らの成長と共に大きくなり春には花を咲かせる。季節が静かに移り変り桜の花が散ると、今度は街路樹として植えられたハナミズキが花を咲かせる。やがて誰かの家の庭では紫陽花が咲き、マリーゴールドが鮮やかなオレンジ色の花を咲かる。夏になれば学校から持ち帰ったアサガオの花が咲き、ひまわりも大輪の花を咲かせる。春夏秋冬。ニュータウンのあちこちでは常に花が咲いるはずだ。
もし彼女と結婚したら、どんな場所で暮らし、どんな人生を送るのだろうか。
僕は人並みに恋をしてきたつもりだ。
だが、それは自分が思っているだけなのかもしれない。
そうだ。考えてみれば恋を始めても、いつも自分から遠ざかっていた。いや。遠ざかっていたのではなく自分から終わらせてきたのだ。だから僕は自分が恋愛に不向きなのだと思った。
しかし違う。彼女とは違う。
彼女の後ろ姿を見つめながら、そう考えることもあった。
***
1週間が終る金曜日の朝。
いつもの電車に乗った。そしていつもと同じ車両に乗ってきた彼女の後ろ姿を見ていた。
そんな僕は急な人事異動で福岡に転勤が決まった。
つまりそれは彼女と会えなくなるということ。
だから勇気をもって好きだという自分の気持を伝えることにした。それはたとえダメだとしても、思いを告げなかったことを後悔したくないからだ。
僕は彼女の後ろについて電車を降りた。
だがそこで人波に揉まれ彼女を見失った。
だから焦った。だが改札を出たところにいる彼女を見つけ、追いつくと意を決して声をかけた。
「あの…..」
その時だった。
僕は旧約聖書の中でモーゼが行ったという海割りを見た。
それは駅を出る人波に逆らうように歩いてくる背の高い男の周りで起きていた。
だが男はモーゼのように杖を振りかざしてもいなければ、手を上げたわけでもない。
ただ何故か人々が彼を避け、人波という海が左右に割れ、男が通る道を作っていた。
そしてその道を通ってきた男は、立ち止まった彼女の前まで来ると言った。
「迎えにきた」
彼女は何も言わなかった。
ただ男をじっと見つめていた。
すると男は再び言った。
「牧野。お前を迎えにきた」
僕はそのとき彼女の名前がマキノであることを知った。
そしてふたりは何も言わずただ、お互いを見つめていた。
僕はそんなふたりの様子から人間関係をあらまし想像した。
彼女を見つめる男の長い睫毛の奥の漆黒の瞳は、暗く翳り真剣みをおびている。
それは深い愛情の現れ。そして彼女が男を見つめる瞳にも、男に特別な思いを持っていることが現れている。
つまり今、僕の前で繰り広げられているのは、長い間会えなかった、もしくは離れ離れにならざるを得なかった男と女の……いや恋人たちの再会の場面。
何らかの理由で会えなかったふたりは、互いの瞳を見つめ思いを確かめあっていた。
そんなふたりを見ている僕の胸に宿るのはほろ苦さ。
僕はそっとため息をついた。
それは僕の恋が始まる前に終わったから。
そしてそれを認めた瞬間、僕は同じ電車で通勤していたただの人になった。
僕は男の顏を見ながら、その顏をどこかで見たことがあると思った。
それに男を囲むように立つのは数人の体格のいいスーツ姿の男たち。
思い出した。
男は道明寺ホールディングスの副社長だ。
確か名前は道明寺司。この4月に副社長に就任したばかりで、就任会見が新聞やテレビで話題になった。
男が副社長に就任する前、道明寺ホールディングスの株価は急落した。
それは道明寺ホールディングスが経営難でアメリカの会社に買収されるのではないか。
社長が表に出ないのは健康面に不安があるからではないか。
そんな憶測が流れ、道明寺ホールディングスの経営の先行きが危ぶまれた。
しかし副社長に就任した男はそれらの憶測を全て否定した。
「我社がアメリカの会社に買収されることはありません。むしろその反対です。我々は敵対的買収を仕掛けてきたアメリカの会社を買収いたしました。それから社長の道明寺楓の健康に問題はありません」
アメリカの会社を買収したという話は本当だが、社長の健康に問題がないという言葉は本当なのか。テレビの画面を見ている人間には、副社長の隣に座っている女性の健康状態に問題がないかどうかは分からなかった。
恋はある日突然訪れることがある。
そして終わりもまた然り。
けれど、何かを乗り越えた恋は強い。
それはまともな恋をしたことがない僕でもわかること。
だからふたりの恋はこれからも続いていくはずだ。
僕は人生で一番感動的な場面にいるふたりの横を通り過ぎ駅の外へ出た。
5月の空は青く晴れ渡って、穏やかな風が吹いている。
きっとこれから僕が暮らすことになる街の空も同じはずだ。
いや。向うはこの街より季節が早い。恐らく雨の季節はすぐそこまで来ているはずだ。
だから僕は、ふう、と息をつき、「あっちへ行ったら新しい傘でも買うか」と呟いて歩きだした。
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