看護師から「ご家族の方は病室。もしくはこちらでお待ち下さい」と言われた司と駿は手術患者家族のための待合室にいたが、部屋が静かなのは他に誰もいなかったから。
そして窓の外には、北海道の冬独特の低い位置にかかった太陽が見えた。
「父さん。母さんは大丈夫だよ。それにここの病院の先生は優秀だから」
司は隣に座った駿にそう言われたが気が気ではなかった。
人工心肺を使う手術を受ける彼女を自家用ジェットで東京の道明寺系列の病院に転院させ、心臓外科の権威と呼ばれる医者の手術を受けさせたかった。
だが彼女は司の申し出に首を横に振った。
そして、大丈夫よ。ここの病院の先生は神様の手を持っているから、と言った。
「それから父さん。僕は母さんから社会に迷惑を掛けるなって育てられたこともだけど、もしものことがあった時のことは訊かされてきた。つまりそれは、今みたいな状況のことだけど、僕は来年二十歳になる。つまり大人だ。だから母さんは手術を受けることが決まった時に僕に言った。あなたの人生は自分の、あなたのもの。だから誰かに何かを言われても気にすることはないって」
姉の椿に息子を頼むと言った彼女。
そしてもし司の記憶が戻ったなら息子の存在を伝えて欲しいと言った。
しかし、息子の話から彼女は息子が司のような人生を歩むことを望んでいないことが分かる。
司は駿の父親になったが、息子の人生に口出しをするつもりはない。
自分がそうであったように、人に指図されて生きる人生は自分の人生とは言えない。
人の目を気にして生きる人生は自分の人生ではなく他人の人生。
それに親と子が同じ価値観を持つ必要はない事を自分自身の経験から知っている。
「それに母さんは言った。別れは誰もがいつか通る道だからって」
駿の口から聞かされたその言葉に司の胸は痛んだ。
最期は誰もがその道を行くことは分かっている。
だが、その道を歩むのが早いか遅いかは神だけが知ることであり、人は与えられた命の期限を知ることが出来ない。あと幾つ朝を迎えることができるのか、誰にも分かりはしない。
だからこそ、夜明けを迎えたとき、目覚めたことを当然と思うことなく感謝すべきだ。
最愛の人を抱きしめ、おはようと言葉を交わせることは、奇跡に近いことを理解しなければならない。
そして司の最愛の人は心臓の手術に臨んでいるが、その心臓は、これまで何十億、何千兆という鼓動を打ったはずだ。
司はこの先、その心音を傍で訊くことを望んでいるが、自分は彼女のことを忘れてからこれまで、いったいいくつの夜を超えてきたのか。
司は二十年前の記憶の中に飛び込んだ。
あの時。一晩同じベッドで抱き合い朝を迎えた。
交わされた何十回のキスと何十回の愛の囁きは、若いふたりにとって初めての経験。
そして今でも鮮明に覚えていることがある。
それは彼女の唇が濡れていて、司の身体は汗で濡れていたということ。
やがて長い時のあと、ようやく肺に空気を取り込んだふたりは見つめ合った。あの時の彼女の鼓動は早かったが、司の鼓動も同じだった。
「___?___さん?父さん?」
「あ、ああ…..」
思いを巡らせていた司は息子の呼びかけに隣を見た。
視線を合わせた。
「でもね。母さんは言った。別れは誰もがいつか通る道でも、それは永遠の別れじゃないって。その人に捧げられた思いは、その人だけのもので、捧げられた人は絶対に忘れないから。その思があれば別れの道をいくのも寂しくはないって」
「駿…….」
司は自分の思いはあの頃と変わらないと言ったが、彼女は自分を忘れたことを怒ってもいなければ、怨んでもないとだけ言った。
だが我が子の口から発せられた言葉に彼女の司に対する思いを感じた。
それは司の記憶が戻ることなく、彼女が別れの道を歩くことになっても過去の思い出が自分を助けてくれるから寂しくはない、と………
「父さん、ここは乾燥しているから、のど乾いただろ?何か買ってくるよ。それに母さんの手術は時間がかかる。僕はコーヒーにするけど父さんもコーヒーでいい?」
司はその言葉に黙って頷いた。
すると駿は立ち上り待合室を出て行ったが、自分が我が子と同じ年だった頃、親の死について考えたことなどなかった。だが母親とふたりだけで生きてきた息子は考えていた。それに母親が息子に見せていないと思っていた気持を見ていた。
そして父親である司の気持も。
司の目から涙がひと筋こぼれた。

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そして窓の外には、北海道の冬独特の低い位置にかかった太陽が見えた。
「父さん。母さんは大丈夫だよ。それにここの病院の先生は優秀だから」
司は隣に座った駿にそう言われたが気が気ではなかった。
人工心肺を使う手術を受ける彼女を自家用ジェットで東京の道明寺系列の病院に転院させ、心臓外科の権威と呼ばれる医者の手術を受けさせたかった。
だが彼女は司の申し出に首を横に振った。
そして、大丈夫よ。ここの病院の先生は神様の手を持っているから、と言った。
「それから父さん。僕は母さんから社会に迷惑を掛けるなって育てられたこともだけど、もしものことがあった時のことは訊かされてきた。つまりそれは、今みたいな状況のことだけど、僕は来年二十歳になる。つまり大人だ。だから母さんは手術を受けることが決まった時に僕に言った。あなたの人生は自分の、あなたのもの。だから誰かに何かを言われても気にすることはないって」
姉の椿に息子を頼むと言った彼女。
そしてもし司の記憶が戻ったなら息子の存在を伝えて欲しいと言った。
しかし、息子の話から彼女は息子が司のような人生を歩むことを望んでいないことが分かる。
司は駿の父親になったが、息子の人生に口出しをするつもりはない。
自分がそうであったように、人に指図されて生きる人生は自分の人生とは言えない。
人の目を気にして生きる人生は自分の人生ではなく他人の人生。
それに親と子が同じ価値観を持つ必要はない事を自分自身の経験から知っている。
「それに母さんは言った。別れは誰もがいつか通る道だからって」
駿の口から聞かされたその言葉に司の胸は痛んだ。
最期は誰もがその道を行くことは分かっている。
だが、その道を歩むのが早いか遅いかは神だけが知ることであり、人は与えられた命の期限を知ることが出来ない。あと幾つ朝を迎えることができるのか、誰にも分かりはしない。
だからこそ、夜明けを迎えたとき、目覚めたことを当然と思うことなく感謝すべきだ。
最愛の人を抱きしめ、おはようと言葉を交わせることは、奇跡に近いことを理解しなければならない。
そして司の最愛の人は心臓の手術に臨んでいるが、その心臓は、これまで何十億、何千兆という鼓動を打ったはずだ。
司はこの先、その心音を傍で訊くことを望んでいるが、自分は彼女のことを忘れてからこれまで、いったいいくつの夜を超えてきたのか。
司は二十年前の記憶の中に飛び込んだ。
あの時。一晩同じベッドで抱き合い朝を迎えた。
交わされた何十回のキスと何十回の愛の囁きは、若いふたりにとって初めての経験。
そして今でも鮮明に覚えていることがある。
それは彼女の唇が濡れていて、司の身体は汗で濡れていたということ。
やがて長い時のあと、ようやく肺に空気を取り込んだふたりは見つめ合った。あの時の彼女の鼓動は早かったが、司の鼓動も同じだった。
「___?___さん?父さん?」
「あ、ああ…..」
思いを巡らせていた司は息子の呼びかけに隣を見た。
視線を合わせた。
「でもね。母さんは言った。別れは誰もがいつか通る道でも、それは永遠の別れじゃないって。その人に捧げられた思いは、その人だけのもので、捧げられた人は絶対に忘れないから。その思があれば別れの道をいくのも寂しくはないって」
「駿…….」
司は自分の思いはあの頃と変わらないと言ったが、彼女は自分を忘れたことを怒ってもいなければ、怨んでもないとだけ言った。
だが我が子の口から発せられた言葉に彼女の司に対する思いを感じた。
それは司の記憶が戻ることなく、彼女が別れの道を歩くことになっても過去の思い出が自分を助けてくれるから寂しくはない、と………
「父さん、ここは乾燥しているから、のど乾いただろ?何か買ってくるよ。それに母さんの手術は時間がかかる。僕はコーヒーにするけど父さんもコーヒーでいい?」
司はその言葉に黙って頷いた。
すると駿は立ち上り待合室を出て行ったが、自分が我が子と同じ年だった頃、親の死について考えたことなどなかった。だが母親とふたりだけで生きてきた息子は考えていた。それに母親が息子に見せていないと思っていた気持を見ていた。
そして父親である司の気持も。
司の目から涙がひと筋こぼれた。

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コメント
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ふ**ん様
え?他人の人生を送ってしまった?
でも大丈夫です。まだ間に合うはずです。
しかしながらアカシアも随分と他人の人生を送ってしまった感があります。
自分らしく、という言葉がありますが、なかなか難しいものです(;^ω^)
コメント有難うございました^^
え?他人の人生を送ってしまった?
でも大丈夫です。まだ間に合うはずです。
しかしながらアカシアも随分と他人の人生を送ってしまった感があります。
自分らしく、という言葉がありますが、なかなか難しいものです(;^ω^)
コメント有難うございました^^
アカシア
2022.01.13 22:48 | 編集

ク*ゲ様
はじめまして^^
当ブログは大人になったふたりの話が多いと思いますが、楽しんでいただけて嬉しいです。
そして別のお部屋へもご訪問いただき、ありがとうございます。
あちらが滞っていますよねえ(;^ω^)
お待たせして申し訳ございません。
こちらのお話を終わらせたのち、あちらをと思っていますので少々お待ち下さいませ(>_<)
コメント有難うございました^^
はじめまして^^
当ブログは大人になったふたりの話が多いと思いますが、楽しんでいただけて嬉しいです。
そして別のお部屋へもご訪問いただき、ありがとうございます。
あちらが滞っていますよねえ(;^ω^)
お待たせして申し訳ございません。
こちらのお話を終わらせたのち、あちらをと思っていますので少々お待ち下さいませ(>_<)
コメント有難うございました^^
アカシア
2022.01.13 23:20 | 編集
