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2022
01.04

花束に添えて 5

司は名札が掛けられている病室の前に立つと、名前を確かめてドアをノックした。
すると中から「どうぞ」と声がした。
だからドアを開けた。

「道明寺……」

それは懐かしい声。
懐かしい呼び名。
愛しい人の口から出た呼び名は、あの頃と同じ苗字の呼び捨て。

「牧野…….」

司が彼女を呼ぶのも苗字の呼び捨て。
ふたりともあの頃と同じ呼び方をするのは、他の呼び方をしたことがないから。

司は、じっと彼女を見つめたが、小さめの頭を縁取る髪は黒く短い。
それに色白で大きな黒い瞳はあの頃と同じで17歳の少女の面影があった。
そして心臓の手術を受けるという女は痩せていたが、見苦しいほどではない。だから司の目に写る姿は重病人には見えなかった。
そんな彼女の顏に浮かぶのは驚き。

「どうして……ここに?」

「牧野。お前が驚くのは無理もない。俺がここにいる理由はただひとつ。お前のことを思い出した。記憶が戻ったからだ」

彼女が手術を受けるにあたり、姉にそのことを知らせたのは、自分にもしものことがあったとき駿のことを頼むという意味だが、その驚き方からして司の記憶が戻ったことは知らなかったようだ。

「そう……記憶が戻ったの……」

「ああ。それに姉ちゃんからお前が心臓の手術を受けることを知らされたからだ」

「ええ……」

と彼女は言ったが、その声から感じられるは動揺で、言葉にそれ以上の意味は無かった。

「それから…….俺たちの間に息子がいると訊かされたが、いい青年だな。駿は」

「…….会ったの?駿に?」

「ああ。さっき会った」

「そう……..」

司は駿にお母さんに会いたいと言った。
すると駿は「会ってくれば?僕は反対しない。それに母さんも会いたいはずだよ。
だって椿伯母さんが教えてくれたんだ。父さんが母さんのことを忘れても、母さんは父さんのことがずっと好きだったって」と言った。
だから司はここに来たが、自分が彼女の思いに甘えられる立場にないことは分かっている。

司は彼女にひとりで子供を産ませたことを謝りたかった。と同時に子供を産んでくれたことへの感謝の気持を込め強く抱きしめたかった。だが3日後に手術を受ける身体には医療器械が取り付けられていて、抱きしめることは出来そうにない。
そして彼女は心臓にある腫瘍は胸を開いてみないことには、良し悪しの区別がつかないことから、死に至る病を患ったと考えていることは間違いない。
だが司は彼女を死なせるわけにはいかなかった。
どんなことをしても彼女の命は助けなければならない。
なにしろ彼女のことを思い出した司は、これから先彼女と生きていくと決めているのだから。

やがてベッドの上にいる彼女から漂い流れていた驚きの感情は戸惑いに変わった。
そして数分間が過ぎた。人は時に言葉を失うことがあるが、今の状況がまさにそれ。
だが、彼女は司に言いたいことが沢山あるはずだ。何しろ彼女に不滅の愛を誓ったはずの男は彼女を忘れたのだから。
そして長い年月が過ぎたが、かつて彼女の人生の一部になりたいと強くそう望んだ男は、やっとその望みを叶えることが出来ると思った。ただし、それは彼女が自分を忘れた司を許せばの話。
だから司は駿の言葉を鵜呑みにせず、彼女が怒っていることを前提に言った。

「牧野。怒っているのは分かる。だが黙ってないで何か言ってくれないか」

司は彼女からの言葉を待った。
だが彼女は何も言わない。しかしそれはもっともとも言える。
20年が経とうとする頃、突然現れた男に何を言えばいいのか。誰がどう考えてもすぐに言葉が出ないのは当然だ。だから司は穏やかな声で言った。

「牧野。今の俺に出来るのはお前を忘れたことを謝ることだけだ。それから今の俺の思いはあの頃と変わらない。だが過去に戻って全てをやり直すことが出来ないことは分かっている。
それでも俺はお前の傍にいたい。それから自分勝手な願いだと分かっているが牧野つくしに傍にいて欲しい。その思いを伝えにきた。それにお前の心臓に何が巣食っていようと俺が絶対にお前を助ける」

すると彼女は目を伏せた。
そして暫く目を閉じていたが、やがてゆっくりと瞼を開いた。
彼女は運命受動型の人間ではない。
自分の道は自分で切り開くというタイプの人間。
だから開かれた瞳に宿るのは、出会った頃と同じ意志の強さを感じさせる輝き。

「道明寺。あたしはアンタが言った通り心臓の手術を受ける。だから、あたしに万が一のことがあれば、お姉さんに駿のことを頼もうと思って連絡をした」

親は自分の健康に不安を覚えたとき、まず子供に何ができるか考える。
何を残してやることができるかを考える。
だから母親である彼女は心臓の手術を受けることが決まると、駿の伯母である椿に連絡をした。
それは姉の椿なら、たとえ司の記憶が戻らなくても駿の力になってくれることが分かっていたから。

「これまでのあたしは、あの子に与えられない父親の存在を告げることはしなかった。
だけど物心ついたあの子に自分の父親が誰なのか知りたいという欲求があることは知っていた。そしてあの子が自分の父親について初めてあたしに訊いてきた頃、道明寺財閥の跡取りであるアンタには結婚の話があった。そんなアンタに未成年の頃の交際相手との間に子供がいるなんて許されることじゃない。だから駿には父親が誰であるか告げなかった。
すると駿もあたしの態度に何かを察したのか。二度と自分の父親について訊くことはなかった」

司は独身だが、これまで何度も結婚話が持ち込まれた。
それは母親が財閥の将来を考え後継者を望んだから。
しかし司は、跡継ぎを作るために結婚しようと思ったことはなかった。
そして時は流れ、道明寺の社長になった司は、親の力や組織の力を必要としない男になった。
それは守りたい人がいれば自分の力だけで守ることができるということ。

「だけどこうして心臓の手術することが決まって、もしもあたしに何かあったとき、駿に本当の事を告げないまま別れることは出来ないと思った。だからアンタには迷惑をかけることになるかもしれないけど、せめて最後は駿が探し求めていた父親のことを告げるべきだと思った。父親は道明寺司だってね。でもそれはアンタがあたしのことを思い出せばの話。
だから椿お姉さんに頼ることにしたの。お姉さんならアンタがあたしのことを思い出したかどうか分かるでしょ?」

そう言った彼女がふっと口を噤んだ。
そして司を見つめながら「それから訊いて。あたしはアンタが私のことを忘れたことを怒ってなんかない。それに怨んでもない。だってアンタがあたしのことを忘れたのはアンタのせいじゃないんだもの。だから……もしあたしに何かあったらあの子を、駿をおねがいね」と言った。



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