夏も近づく八十八夜。野にも山にも若葉が茂る。
そんな歌が聞こえて来たが、それは茶摘みの光景を歌った歌で、新緑が美しいこの季節を歌っていた。
司の親友に茶道の家元の家に生まれた男がいる。
だからその男は毎年5月に弟子たちとセレモニーとしての茶摘みを行うが、司はその儀式に招かれたことがある。だが司は茶の葉を元にした飲み物より、豆を焙煎して挽いた粉末から、湯で成分を抽出した飲み物の方が好きだ。つまり毎朝飲むのも仕事の合間に飲むのもコーヒーだ。
だが葉っぱも美味いと思うようになった。
そしてそれはこの店から始まった。
「いらっしゃいませ!」
扉を開けた瞬間、元気な声が聞えた。
司は「やあ」と挨拶を返すといつもの窓際の席に腰を下ろした。
すると女性は、「いつものですか?」と訊いた。
だから司は、「ああ」と答えた。
日曜日の司は紅茶を淹れてくれる店にいた。
そこは1年前。春と夏の変わり目にあたるこの季節に足を踏み入れた喫茶店。
茶摘みセレモニー帰り、司の乗った車に故障が見つかり急遽修理が必要となった。
だから代わりの車が来るまで待つ場所として近くにあった小さなこの店に入った。
そして勧められたのは紅茶。
「うちはコーヒーより紅茶が専門なんです。丁度入ったばかりのダージリンのファーストフラッシュがあります。良かったらお飲みになりませんか?」
ダージリンには春夏秋と年3回の旬がある。ファーストフラッシュとはその年の一番初め、つまり春に摘まれたダージリンの新茶のことだが、茶摘みのセレモニーの帰り、車の故障でたまたま入った店で勧められたのが紅茶の新茶だということに、おかしな縁を感じた。
そして、普段コーヒーしか飲まない男が勧められるまま紅茶を口にしたが美味いと感じた。
この界隈は名の知れた高級住宅地。
だから客は、いかにも金持ちといった品のいい老夫婦や高級ブランドの洋服を着たカップル。
そしてオーナーは先祖代々この土地で暮らしてきたという老夫人。
だが今この店を切り盛りしているのは、独り暮らしが難しくなり施設に入ってしまった老夫人の姪と週に何度か来るというアルバイトの女子大生だ。
そして司がこの店に通うようになって1年が経つ。
だから店主の女性とは顔なじみであり、司はいわゆる常連だ。
だが司は常連ではあっても女性の名前が牧野つくしで35歳の司のひとつ年下だという以外は知らない。
そして名前も年齢も偶然耳にしたことであり司が訊いたのではない。
それでも初めて色々話したとき、彼女はキャラメルパフェが好きで、音楽はショパンが好きなことを知った。だからこの店で流れる音楽はクラシックだ。
だが本当はもっと彼女のことを知りたい。
キャラメルパフェ以外に好きな食べ物は?
音楽はクラシック以外訊かないのか?
恋人はいるのか?
だが何故そんなに彼女のことが知りたいのか。それは司が彼女に好意を抱いているから。
だが司が彼女の個人的なことを訊けば、自分のことも話さなくてはならなくなる。
だから訊かなかった。
司の名字は道明寺。
特徴的と言えるその名前を聞けば誰もが興味を持つ。そして態度を変える。何しろ道明寺と言えば、日本を代表する企業で知らぬ者はいなのだいから。そして司はそこの後継者だ。
だから司は名前を名乗ることで彼女の態度が変わるのを見たくなかった。
だがだからと言って偽名を名乗ることは自分を否定しているようで嫌だった。
だが若い頃はこの姓から逃れようとしたことがある。
そして、彼女が他の人間と同じような態度を取るという確信はないが、それでも自分におもねるようになるのではないかと思った。だから司は自分の個人的なことを話すことはなかった。
「お待たせしました」
彼女がいつもの紅茶を運んで来た。
「ありがとう」
「暫くお見えになられませんでしたね?」
「ええ。出張で海外に出ていたんです」
「そうでしたか。お仕事お忙しいんですね」
「貧乏暇なしです」
司は多くは語らず、余計なことは言わない。そして彼女も訊かない。
だから司は、このままでもいいと思っていた。
ここで彼女が淹れる紅茶を飲みながら、静かな時間を過ごすことが出来ればそれでいいと思っていた。
だがそうは行かなくなった。

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そんな歌が聞こえて来たが、それは茶摘みの光景を歌った歌で、新緑が美しいこの季節を歌っていた。
司の親友に茶道の家元の家に生まれた男がいる。
だからその男は毎年5月に弟子たちとセレモニーとしての茶摘みを行うが、司はその儀式に招かれたことがある。だが司は茶の葉を元にした飲み物より、豆を焙煎して挽いた粉末から、湯で成分を抽出した飲み物の方が好きだ。つまり毎朝飲むのも仕事の合間に飲むのもコーヒーだ。
だが葉っぱも美味いと思うようになった。
そしてそれはこの店から始まった。
「いらっしゃいませ!」
扉を開けた瞬間、元気な声が聞えた。
司は「やあ」と挨拶を返すといつもの窓際の席に腰を下ろした。
すると女性は、「いつものですか?」と訊いた。
だから司は、「ああ」と答えた。
日曜日の司は紅茶を淹れてくれる店にいた。
そこは1年前。春と夏の変わり目にあたるこの季節に足を踏み入れた喫茶店。
茶摘みセレモニー帰り、司の乗った車に故障が見つかり急遽修理が必要となった。
だから代わりの車が来るまで待つ場所として近くにあった小さなこの店に入った。
そして勧められたのは紅茶。
「うちはコーヒーより紅茶が専門なんです。丁度入ったばかりのダージリンのファーストフラッシュがあります。良かったらお飲みになりませんか?」
ダージリンには春夏秋と年3回の旬がある。ファーストフラッシュとはその年の一番初め、つまり春に摘まれたダージリンの新茶のことだが、茶摘みのセレモニーの帰り、車の故障でたまたま入った店で勧められたのが紅茶の新茶だということに、おかしな縁を感じた。
そして、普段コーヒーしか飲まない男が勧められるまま紅茶を口にしたが美味いと感じた。
この界隈は名の知れた高級住宅地。
だから客は、いかにも金持ちといった品のいい老夫婦や高級ブランドの洋服を着たカップル。
そしてオーナーは先祖代々この土地で暮らしてきたという老夫人。
だが今この店を切り盛りしているのは、独り暮らしが難しくなり施設に入ってしまった老夫人の姪と週に何度か来るというアルバイトの女子大生だ。
そして司がこの店に通うようになって1年が経つ。
だから店主の女性とは顔なじみであり、司はいわゆる常連だ。
だが司は常連ではあっても女性の名前が牧野つくしで35歳の司のひとつ年下だという以外は知らない。
そして名前も年齢も偶然耳にしたことであり司が訊いたのではない。
それでも初めて色々話したとき、彼女はキャラメルパフェが好きで、音楽はショパンが好きなことを知った。だからこの店で流れる音楽はクラシックだ。
だが本当はもっと彼女のことを知りたい。
キャラメルパフェ以外に好きな食べ物は?
音楽はクラシック以外訊かないのか?
恋人はいるのか?
だが何故そんなに彼女のことが知りたいのか。それは司が彼女に好意を抱いているから。
だが司が彼女の個人的なことを訊けば、自分のことも話さなくてはならなくなる。
だから訊かなかった。
司の名字は道明寺。
特徴的と言えるその名前を聞けば誰もが興味を持つ。そして態度を変える。何しろ道明寺と言えば、日本を代表する企業で知らぬ者はいなのだいから。そして司はそこの後継者だ。
だから司は名前を名乗ることで彼女の態度が変わるのを見たくなかった。
だがだからと言って偽名を名乗ることは自分を否定しているようで嫌だった。
だが若い頃はこの姓から逃れようとしたことがある。
そして、彼女が他の人間と同じような態度を取るという確信はないが、それでも自分におもねるようになるのではないかと思った。だから司は自分の個人的なことを話すことはなかった。
「お待たせしました」
彼女がいつもの紅茶を運んで来た。
「ありがとう」
「暫くお見えになられませんでしたね?」
「ええ。出張で海外に出ていたんです」
「そうでしたか。お仕事お忙しいんですね」
「貧乏暇なしです」
司は多くは語らず、余計なことは言わない。そして彼女も訊かない。
だから司は、このままでもいいと思っていた。
ここで彼女が淹れる紅茶を飲みながら、静かな時間を過ごすことが出来ればそれでいいと思っていた。
だがそうは行かなくなった。

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司*****E様
今年の八十八夜は5月1日だったようです。
つくしはコーヒー派なのか。それとも紅茶派なのか。
アカシアにも分かりませんので勝手に設定をしていますが、原作に設定はあったのでしょうかねえ。
そうでしたよね。司*****E様は紅茶の資格をお持ちでしたよね?
以前教えていただいたこと。覚えていますよ(^^)/
アカシアはどちらも飲みますが、最近は緑茶が多いかもしれません。
そして今しか飲めない新茶!旨味と香りを楽しみたいと思ってます。
コメント有難うございました^^
今年の八十八夜は5月1日だったようです。
つくしはコーヒー派なのか。それとも紅茶派なのか。
アカシアにも分かりませんので勝手に設定をしていますが、原作に設定はあったのでしょうかねえ。
そうでしたよね。司*****E様は紅茶の資格をお持ちでしたよね?
以前教えていただいたこと。覚えていますよ(^^)/
アカシアはどちらも飲みますが、最近は緑茶が多いかもしれません。
そして今しか飲めない新茶!旨味と香りを楽しみたいと思ってます。
コメント有難うございました^^
アカシア
2021.05.05 21:07 | 編集
