司の名刺に書かれている電話番号に電話がかかってきたのは翌朝の8時前だ。
朝早くからすみませんと謝った上で女は話し始めた。
「昨日はありがとうございました。それから自転車の件ですが、お気持ちは大変嬉しいのですがいただく理由がありません」
司は牧野つくしの壊れた自転車を処分するように言うと、翌日新しい自転車を届けさせた。
女は自分の自転車は会社を辞めて故郷へ帰る友達から譲り受けたものだが、修理すればまだ乗れるはずだと言った。
だがチェーンが切れていることもだが、見るからに古い自転車は修理したところでまたいつ壊れてもおかしくない代物だ。だから新しい自転車を用意させたが、そうしたのには理由がある。
それは、壊れそうな自転車を買い替えることなく使うような女なら、その自転車を失っても新しいものを買わないような気がしたからだ。
そして牧野つくしが原稿を書いて貰うために通っている大学教授の家の近くにはバス停がある。だから遠回りになるとしても、バスに乗れば通うことが出来る。しかしそうなってしまえば女は邸の傍を通らなくなってしまう。それでは困るのだ。
「牧野さん。私はあなたの自転車を勝手に処分してしまった。だからその自転車は弁償だと思って下さい。それにあなたは自転車がないと困るのではありませんか?」
「ええ。まあ…..」
と女は答えたが、電話をしてきたのは届けられた自転車のことだけではなかった。
「あの、道明寺さん。お願いがあります。お手数ですがソファの下を見ていただくことは出来ないでしょうか?昨日原稿が散らばったとき集めきれなかったものがあるかもしれません」
大学教授が書いているのは小学生向けの物理読み物風の本。
女は帰ろうとしてリュックを掴んだ。だがそのリュックの口は開いていて、中に入っていた原稿用紙が床に散らばった。
「もしかして原稿が足りない?」
「はい。そうなんです。1枚無いんです。多分あのときソファと床の隙間に滑り込んだんだと思います。だからソファの下を見ていただければ助かります」
電話の声は困っていて司がそうしてくれるのを強く望んでいた。
だが司は女の希望を叶えることは出来なかった。
「申し訳ない。見て差し上げたいのは山々ですが今、私は会社にいます。ですから見ることが出来ません」
「そうですか。もう会社に出ていらっしゃるんですね……」
「ええ。今日はいつもより早い時間に出社しています」
「そうですか……」
司が泣かせてみたいと思う女の口から繰り返される『そうですか』
その言葉に込められているのは落胆だが、司にはその言葉が甘い囁きのように聞こえた。
牧野つくしの声は特徴のある声ではない。それにこれまで司はどんな女の声にも魅力を感じたことはない。だが牧野つくしの声は司の欲望を刺激する。
だから泣かせてみたいこともだが、喋る内容などどうでもいいからその声を訊き続けて独り占めしたい。
「牧野さん。私は会社にいますが邸の者にソファの下を見るように言いましょう」
「本当ですか。お手数をかけますがよろしくお願いします」
「心配しなくても大丈夫です。あなたが探している原稿はソファの下にあるはずです」
司は話し終えると携帯電話を執務机の上に置いた。
そして右手の爪で机を叩くと、両肘を机に乗せ指を組んだ。
それから目の前に置かれている紙を見てふっ、と笑った。
『アルバート・アインシュタイン博士は、学校の成績が良くなかった。単純な計算ミスも多く、簡単な数字や記号を覚えるのが苦手だった。そして調べればわかることは覚える必要はないと言って自宅の電話番号も覚えてはいなかった』
司は女との電話を切って1時間後に「牧野さん。邸から連絡がありました。原稿はあなたがおっしゃたようにソファの下にあったそうです」と連絡をした。すると女は「本当ですか!良かった!ありがとうございます。お手数をおかけしてすみませんでした」と言った。そして今夜、教授の家に行った後で邸に寄らせてもらえないかと言った。だから司は食事をしないかと誘った。
「あの。でも……」
司に食事に誘われて断る女はいない。
いや。それどころか厚かましくも司と食事をしたいと誘ってくる女は大勢いる。
だが牧野つくしは躊躇っていた。
「牧野さん。私は食事をしたいだけです。何もあなたを取って食おうとしているのではありません」
女は数秒間の沈黙の後、「わかりました。では今夜おじゃまします」と答えた。
だから司は「ではお待ちしています」とだけ答えた。

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朝早くからすみませんと謝った上で女は話し始めた。
「昨日はありがとうございました。それから自転車の件ですが、お気持ちは大変嬉しいのですがいただく理由がありません」
司は牧野つくしの壊れた自転車を処分するように言うと、翌日新しい自転車を届けさせた。
女は自分の自転車は会社を辞めて故郷へ帰る友達から譲り受けたものだが、修理すればまだ乗れるはずだと言った。
だがチェーンが切れていることもだが、見るからに古い自転車は修理したところでまたいつ壊れてもおかしくない代物だ。だから新しい自転車を用意させたが、そうしたのには理由がある。
それは、壊れそうな自転車を買い替えることなく使うような女なら、その自転車を失っても新しいものを買わないような気がしたからだ。
そして牧野つくしが原稿を書いて貰うために通っている大学教授の家の近くにはバス停がある。だから遠回りになるとしても、バスに乗れば通うことが出来る。しかしそうなってしまえば女は邸の傍を通らなくなってしまう。それでは困るのだ。
「牧野さん。私はあなたの自転車を勝手に処分してしまった。だからその自転車は弁償だと思って下さい。それにあなたは自転車がないと困るのではありませんか?」
「ええ。まあ…..」
と女は答えたが、電話をしてきたのは届けられた自転車のことだけではなかった。
「あの、道明寺さん。お願いがあります。お手数ですがソファの下を見ていただくことは出来ないでしょうか?昨日原稿が散らばったとき集めきれなかったものがあるかもしれません」
大学教授が書いているのは小学生向けの物理読み物風の本。
女は帰ろうとしてリュックを掴んだ。だがそのリュックの口は開いていて、中に入っていた原稿用紙が床に散らばった。
「もしかして原稿が足りない?」
「はい。そうなんです。1枚無いんです。多分あのときソファと床の隙間に滑り込んだんだと思います。だからソファの下を見ていただければ助かります」
電話の声は困っていて司がそうしてくれるのを強く望んでいた。
だが司は女の希望を叶えることは出来なかった。
「申し訳ない。見て差し上げたいのは山々ですが今、私は会社にいます。ですから見ることが出来ません」
「そうですか。もう会社に出ていらっしゃるんですね……」
「ええ。今日はいつもより早い時間に出社しています」
「そうですか……」
司が泣かせてみたいと思う女の口から繰り返される『そうですか』
その言葉に込められているのは落胆だが、司にはその言葉が甘い囁きのように聞こえた。
牧野つくしの声は特徴のある声ではない。それにこれまで司はどんな女の声にも魅力を感じたことはない。だが牧野つくしの声は司の欲望を刺激する。
だから泣かせてみたいこともだが、喋る内容などどうでもいいからその声を訊き続けて独り占めしたい。
「牧野さん。私は会社にいますが邸の者にソファの下を見るように言いましょう」
「本当ですか。お手数をかけますがよろしくお願いします」
「心配しなくても大丈夫です。あなたが探している原稿はソファの下にあるはずです」
司は話し終えると携帯電話を執務机の上に置いた。
そして右手の爪で机を叩くと、両肘を机に乗せ指を組んだ。
それから目の前に置かれている紙を見てふっ、と笑った。
『アルバート・アインシュタイン博士は、学校の成績が良くなかった。単純な計算ミスも多く、簡単な数字や記号を覚えるのが苦手だった。そして調べればわかることは覚える必要はないと言って自宅の電話番号も覚えてはいなかった』
司は女との電話を切って1時間後に「牧野さん。邸から連絡がありました。原稿はあなたがおっしゃたようにソファの下にあったそうです」と連絡をした。すると女は「本当ですか!良かった!ありがとうございます。お手数をおかけしてすみませんでした」と言った。そして今夜、教授の家に行った後で邸に寄らせてもらえないかと言った。だから司は食事をしないかと誘った。
「あの。でも……」
司に食事に誘われて断る女はいない。
いや。それどころか厚かましくも司と食事をしたいと誘ってくる女は大勢いる。
だが牧野つくしは躊躇っていた。
「牧野さん。私は食事をしたいだけです。何もあなたを取って食おうとしているのではありません」
女は数秒間の沈黙の後、「わかりました。では今夜おじゃまします」と答えた。
だから司は「ではお待ちしています」とだけ答えた。

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Comment:1
コメント
バ****ス様
はじめまして。こんにちは^^
一番拍手ありがとうございます!m(__)m
早朝にもかかわらず、お読みいただきありがとうございます。
こちらのお話は今のところキュンが無い展開ですが、楽しんでいただければ幸いです。
コメント有難うございました^^
はじめまして。こんにちは^^
一番拍手ありがとうございます!m(__)m
早朝にもかかわらず、お読みいただきありがとうございます。
こちらのお話は今のところキュンが無い展開ですが、楽しんでいただければ幸いです。
コメント有難うございました^^
アカシア
2021.01.14 21:29 | 編集
