医師の予感は外れた。
椿が及川徹と結婚してから2ヶ月が経ったが椿の脳に変化は見られなかった。
「お気の毒に……せっかく徹様と結婚されたというのに、お身体の調子が良くならないなんて…..それでも椿様は時に楽しそうな表情をされることがあるんですよ?」
そう言ったのは椿の世話をする女性。
彼女は車椅子を押して庭を散策していたが、そこに徹が現れると変わるからと言って車椅子のハンドルを握った。
結婚した徹は都内で暮らすことを望んだ。だが椿は西伊豆の別荘で暮らすことを望み、ふたりはこの場所で暮らすことになった。
そして徹は椿の夫という立場から道明寺グループの会社に転職をすると役員の待遇を与えられ比較的自由のきく立場になった。
だから平日の昼間に、こうして家に帰ってくることがある。
「椿が楽しそうな表情を?本当に?」
「ええ。間違いありません。さっきもテラスのテーブルの端にトンボが止まっている様子を微笑んで見ていらっしゃいましたもの。ねえ椿様?大きなトンボが止まっていましたよね?あのトンボは暫く動くことなくじっとしていて何かを見つめていましたよね?」
女性は背後から車椅子に座る椿に顏を寄せて訊いたが、トンボのことなどとっくに忘れた椿は無反応で遠くを見つめていた。
「そうですか…..もう忘れてしまわれたんですね。さっきはトンボを見て微笑んでいらっしゃたのに……」
少し前に起きたことだったが椿は覚えていなかった。
そして女性は少し前には微笑んでいた椿の無反応に落胆した様子で言ったが、徹も同じように落胆した様子で呟くように応えた。
「そうか…..微笑んだのか…..」
「ええ。徹様から頂いたトンボ玉と同じ緑色の目を持つ大きなトンボでした。椿様はそれを見て笑っていらっしゃったんです」
「僕が椿にプレゼントしたトンボ玉?」
徹は椿にトンボ玉と呼ばれる小さなガラス玉をプレゼントした記憶はない。
もし仮にそうだとしても、それは20年も前の話であり、そんな前のことをよく覚えているなと思った。
「ええ。椿様が大切にされているトンボ玉は徹様がプレゼントされたものですよね?
違いますか?お二人が結婚された頃、私がそれはどうされたんですかとお聞きしたら高校生の頃に徹様から頂いたものだとお答えになられました。椿様はそれをいつも上着のポケットの中に入れていらしゃいます。そして時々取り出して眺めておられるんですよ。今は手の中に握っていらっしゃいます」
女性は椿に握っているトンボ玉を徹様にも見せて欲しいと頼んだ。
だが椿の手が開かれることはなかった。
「椿様。余程トンボ玉が大切なんですね…….」
と女性は静かに言ったが、徹は車椅子を押す手を休めると、「それより僕が言ったこと。考えてくれたかな?僕が椿と結婚して2ヶ月が経つがあの医者の言ったことは嘘だ。僕が傍にいても椿の脳は活性化されない。僕が誰かすぐに忘れてしまうのは相変わらずだ。それに最近は前よりもぼんやりしている時間が長い」
と言ってからクスリと笑い女性の手を取ると自分の胸に当てた。
「それに僕は男だ。だから息抜きが必要だ。言っている意味は分かるよね?それに君は僕の好みだ。それに悪いようにはしない」
そして、ねえ。だからいいだろ?と囁いた。
「徹様。止めて下さい」
女性は徹から付き合って欲しいと言われていた。だが相手は彼女が世話をしている女性の夫だ。それに自分は椿の使用人であり徹の遊び相手ではない。
だから女性は少し怒った声で言った。
だが、それは本気ではない。
その証拠に女性は徹の胸に当てられた手を優しく動かしていた。そしてうふふ、と笑って言葉を継いだ。
「ダメですよ。こんなところで。それに椿様に訊かれるじゃないですか。それにもしかすると椿様は私たちの会話を記憶することが出来るかもしれないんですよ?今この瞬間脳が活性化されて昔のように聡明な椿様に戻るかもしれません。そうなったら困るのはあなたですよ?」
「大丈夫だよ。だって見てごらんよ。椿は今、寝ている」
徹と女性が目の当たりにしている椿の後姿は前傾姿勢であり首は横に倒れていた。
その姿を見ながら徹はうんざりした声で言った。
「それに寝ていなくても彼女はぼんやりしていることの方が多いんだ。だから僕たちの会話は耳に入ってないはずだ」

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椿が及川徹と結婚してから2ヶ月が経ったが椿の脳に変化は見られなかった。
「お気の毒に……せっかく徹様と結婚されたというのに、お身体の調子が良くならないなんて…..それでも椿様は時に楽しそうな表情をされることがあるんですよ?」
そう言ったのは椿の世話をする女性。
彼女は車椅子を押して庭を散策していたが、そこに徹が現れると変わるからと言って車椅子のハンドルを握った。
結婚した徹は都内で暮らすことを望んだ。だが椿は西伊豆の別荘で暮らすことを望み、ふたりはこの場所で暮らすことになった。
そして徹は椿の夫という立場から道明寺グループの会社に転職をすると役員の待遇を与えられ比較的自由のきく立場になった。
だから平日の昼間に、こうして家に帰ってくることがある。
「椿が楽しそうな表情を?本当に?」
「ええ。間違いありません。さっきもテラスのテーブルの端にトンボが止まっている様子を微笑んで見ていらっしゃいましたもの。ねえ椿様?大きなトンボが止まっていましたよね?あのトンボは暫く動くことなくじっとしていて何かを見つめていましたよね?」
女性は背後から車椅子に座る椿に顏を寄せて訊いたが、トンボのことなどとっくに忘れた椿は無反応で遠くを見つめていた。
「そうですか…..もう忘れてしまわれたんですね。さっきはトンボを見て微笑んでいらっしゃたのに……」
少し前に起きたことだったが椿は覚えていなかった。
そして女性は少し前には微笑んでいた椿の無反応に落胆した様子で言ったが、徹も同じように落胆した様子で呟くように応えた。
「そうか…..微笑んだのか…..」
「ええ。徹様から頂いたトンボ玉と同じ緑色の目を持つ大きなトンボでした。椿様はそれを見て笑っていらっしゃったんです」
「僕が椿にプレゼントしたトンボ玉?」
徹は椿にトンボ玉と呼ばれる小さなガラス玉をプレゼントした記憶はない。
もし仮にそうだとしても、それは20年も前の話であり、そんな前のことをよく覚えているなと思った。
「ええ。椿様が大切にされているトンボ玉は徹様がプレゼントされたものですよね?
違いますか?お二人が結婚された頃、私がそれはどうされたんですかとお聞きしたら高校生の頃に徹様から頂いたものだとお答えになられました。椿様はそれをいつも上着のポケットの中に入れていらしゃいます。そして時々取り出して眺めておられるんですよ。今は手の中に握っていらっしゃいます」
女性は椿に握っているトンボ玉を徹様にも見せて欲しいと頼んだ。
だが椿の手が開かれることはなかった。
「椿様。余程トンボ玉が大切なんですね…….」
と女性は静かに言ったが、徹は車椅子を押す手を休めると、「それより僕が言ったこと。考えてくれたかな?僕が椿と結婚して2ヶ月が経つがあの医者の言ったことは嘘だ。僕が傍にいても椿の脳は活性化されない。僕が誰かすぐに忘れてしまうのは相変わらずだ。それに最近は前よりもぼんやりしている時間が長い」
と言ってからクスリと笑い女性の手を取ると自分の胸に当てた。
「それに僕は男だ。だから息抜きが必要だ。言っている意味は分かるよね?それに君は僕の好みだ。それに悪いようにはしない」
そして、ねえ。だからいいだろ?と囁いた。
「徹様。止めて下さい」
女性は徹から付き合って欲しいと言われていた。だが相手は彼女が世話をしている女性の夫だ。それに自分は椿の使用人であり徹の遊び相手ではない。
だから女性は少し怒った声で言った。
だが、それは本気ではない。
その証拠に女性は徹の胸に当てられた手を優しく動かしていた。そしてうふふ、と笑って言葉を継いだ。
「ダメですよ。こんなところで。それに椿様に訊かれるじゃないですか。それにもしかすると椿様は私たちの会話を記憶することが出来るかもしれないんですよ?今この瞬間脳が活性化されて昔のように聡明な椿様に戻るかもしれません。そうなったら困るのはあなたですよ?」
「大丈夫だよ。だって見てごらんよ。椿は今、寝ている」
徹と女性が目の当たりにしている椿の後姿は前傾姿勢であり首は横に倒れていた。
その姿を見ながら徹はうんざりした声で言った。
「それに寝ていなくても彼女はぼんやりしていることの方が多いんだ。だから僕たちの会話は耳に入ってないはずだ」

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- Saudade <後編>
- Saudade <中編>
- Saudade <前編>
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ふ**ん様
徹。椿は後ろにも目がついている!(≧▽≦)
そして椿の使用人のうふふ...誰?
その答えは後編で!(笑)
コメント有難うございました^^
徹。椿は後ろにも目がついている!(≧▽≦)
そして椿の使用人のうふふ...誰?
その答えは後編で!(笑)
コメント有難うございました^^
アカシア
2020.09.22 21:58 | 編集

司*****E様
おはようございます^^
はい、全ては後編で分かると思います。
え?アカシアのお返事がお仕事のヒントになったんですか?
大変光栄です(*'▽')どんな本でも本に興味をもってくれる人が増えるといいですね♪
コメント有難うございました^^
おはようございます^^
はい、全ては後編で分かると思います。
え?アカシアのお返事がお仕事のヒントになったんですか?
大変光栄です(*'▽')どんな本でも本に興味をもってくれる人が増えるといいですね♪
コメント有難うございました^^
アカシア
2020.09.22 22:10 | 編集

ふ*******マ様
おはようございます^^
この連休行楽地はどこも人出が多かったようですが、2週間後に結果が出ます。
アカシアは大人しくしていました。
そしてこちらのお話の椿さんですが色々は後編にてご確認下さいませm(__)m
コメント有難うございました^^
おはようございます^^
この連休行楽地はどこも人出が多かったようですが、2週間後に結果が出ます。
アカシアは大人しくしていました。
そしてこちらのお話の椿さんですが色々は後編にてご確認下さいませm(__)m
コメント有難うございました^^
アカシア
2020.09.22 22:19 | 編集
