「椿様。冷えて来たのでそろそろ中に入りましょうか」
そう言われたが椿は真っ直ぐ前を向いたまま答えなかった。
だがそれは意図して答えなかったのではない。
これはいつもの反応であり声をかけた女性も気に留めなかった。
だが女性は椿に再び話かけた。
「それにしても日暮れが早くなりましたね?」
そして車椅子のハンドルをギュッと握ると向きを変え建物の中へ入って行ったが、ふたりの背後には海に沈もうとしている太陽があった。
椿は西伊豆の切り立った崖の上に立つ道明寺家の別荘で暮らしているが、彼女は立つことが出来ない。だから車椅子での生活を送っていた。
だがなぜ椿が車椅子での生活を送ることになったのか。それは1年前に起きた事故のせいだ。
椿は大学を卒業すると親の決めた相手と結婚してアメリカで暮らしていたが4年前に夫を亡くした。
そして子供のいない彼女は2年前に日本に帰国してひとりの男性と偶然の再会をした。
その男性は及川徹と言い高校生の頃に付き合った初恋の人。背が高く男ぶりのいい及川は結婚していたが今は離婚してひとりだと言った。そんなふたりの20年ぶりの再会は懐かしさだけが感じられた。だが及川からまた会おうと言われ何度か会うようになった。
それはレストランで食事をしたり、映画館で映画を見たり、美術館に出掛けたりといったものだ。だが暫くすると及川は椿に交際を申し込んだ。
「椿さん。正式に僕と付き合ってくれませんか?」
かつて母親の楓に反対され実ることがなかったふたりの恋。
だが大人になった椿の行動に誰かが口を挟むことはない。
だから椿は初恋の人と付き合うことにした。だがその矢先に交通事故に遭った。
それは及川の運転する車の助手席に乗っていた時に起きた事故。
交差点で信号無視をした車が椿の座る助手席側に突っ込み椿は大怪我をした。そして歩くことが困難になり車椅子が欠かせない生活を送るようになった。
だが椿は足が不自由になっただけではない。頭に衝撃を受けた後遺症なのか。
原因ははっきりと分からなかったが、記憶力が落ち少し前の出来事さえ忘れるようになった。そして時間の観念を失った。
それでも医師は原因が分からないからこそ治る見込みがあると言った。
何しろ人間の脳は複雑で思いもよらない刺激で活性化することがあるからだ。だから椿の世話をする人間は、彼女がまた昔の頃のように聡明な女性に戻ると信じ刺激を与え続けていた。
「椿様。明日は及川様がいらっしゃいますよ?及川様です。分かりますか?」
及川は都内に会社に勤める会社員で、週末しかこの場所に来ることが出来ないが、毎週末欠かすことなく椿の元を訪ねて来ていた。
それにあの事故は及川が悪いわけではないが、自分の運転していた車に乗っていて怪我をさせたことに対しての責任からなのか。彼女がこうなってしまったのは自分のせいだと自分を責めていた。そして責任を取らせて欲しい。彼女の面倒を一生見させて欲しいと言った。
「彼女がこうなってしまったのは私のせいです。それに私は彼女にプロポーズするつもりでした。彼女が好きです。私が一生彼女の面倒を見ます。いえ、私に彼女の面倒を見させて下さい」
身体が不自由になった椿に及川は結婚を申し込んだ。たが今の椿には記憶をとどめておく力がない。
それに椿は道明寺家の長女で、彼女の世話をする人間などいくらでもいて不自由することはない。だが椿の担当医は、「及川さんが傍にいることで刺激が与えられ脳が活性化し、機能の回復に繋がるかもしれません。何しろ人間の脳は医学では解明できないことが沢山ありますから」と言った。
そしてその時の椿は、しっかりとした眼差しを持ち、はっきりと自分の意思を伝え及川からのプロポーズを受け入れた。
だが周りの人間は椿が少し前のことさえすぐに忘れてしまうのに自分が結婚したことを理解するだろうか。これから先、及川徹を自分の夫として認識できるだろうかという懸念を抱いていた。しかし医師の言葉に椿が良くなるならと期待してふたりの結婚を認めた。

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そう言われたが椿は真っ直ぐ前を向いたまま答えなかった。
だがそれは意図して答えなかったのではない。
これはいつもの反応であり声をかけた女性も気に留めなかった。
だが女性は椿に再び話かけた。
「それにしても日暮れが早くなりましたね?」
そして車椅子のハンドルをギュッと握ると向きを変え建物の中へ入って行ったが、ふたりの背後には海に沈もうとしている太陽があった。
椿は西伊豆の切り立った崖の上に立つ道明寺家の別荘で暮らしているが、彼女は立つことが出来ない。だから車椅子での生活を送っていた。
だがなぜ椿が車椅子での生活を送ることになったのか。それは1年前に起きた事故のせいだ。
椿は大学を卒業すると親の決めた相手と結婚してアメリカで暮らしていたが4年前に夫を亡くした。
そして子供のいない彼女は2年前に日本に帰国してひとりの男性と偶然の再会をした。
その男性は及川徹と言い高校生の頃に付き合った初恋の人。背が高く男ぶりのいい及川は結婚していたが今は離婚してひとりだと言った。そんなふたりの20年ぶりの再会は懐かしさだけが感じられた。だが及川からまた会おうと言われ何度か会うようになった。
それはレストランで食事をしたり、映画館で映画を見たり、美術館に出掛けたりといったものだ。だが暫くすると及川は椿に交際を申し込んだ。
「椿さん。正式に僕と付き合ってくれませんか?」
かつて母親の楓に反対され実ることがなかったふたりの恋。
だが大人になった椿の行動に誰かが口を挟むことはない。
だから椿は初恋の人と付き合うことにした。だがその矢先に交通事故に遭った。
それは及川の運転する車の助手席に乗っていた時に起きた事故。
交差点で信号無視をした車が椿の座る助手席側に突っ込み椿は大怪我をした。そして歩くことが困難になり車椅子が欠かせない生活を送るようになった。
だが椿は足が不自由になっただけではない。頭に衝撃を受けた後遺症なのか。
原因ははっきりと分からなかったが、記憶力が落ち少し前の出来事さえ忘れるようになった。そして時間の観念を失った。
それでも医師は原因が分からないからこそ治る見込みがあると言った。
何しろ人間の脳は複雑で思いもよらない刺激で活性化することがあるからだ。だから椿の世話をする人間は、彼女がまた昔の頃のように聡明な女性に戻ると信じ刺激を与え続けていた。
「椿様。明日は及川様がいらっしゃいますよ?及川様です。分かりますか?」
及川は都内に会社に勤める会社員で、週末しかこの場所に来ることが出来ないが、毎週末欠かすことなく椿の元を訪ねて来ていた。
それにあの事故は及川が悪いわけではないが、自分の運転していた車に乗っていて怪我をさせたことに対しての責任からなのか。彼女がこうなってしまったのは自分のせいだと自分を責めていた。そして責任を取らせて欲しい。彼女の面倒を一生見させて欲しいと言った。
「彼女がこうなってしまったのは私のせいです。それに私は彼女にプロポーズするつもりでした。彼女が好きです。私が一生彼女の面倒を見ます。いえ、私に彼女の面倒を見させて下さい」
身体が不自由になった椿に及川は結婚を申し込んだ。たが今の椿には記憶をとどめておく力がない。
それに椿は道明寺家の長女で、彼女の世話をする人間などいくらでもいて不自由することはない。だが椿の担当医は、「及川さんが傍にいることで刺激が与えられ脳が活性化し、機能の回復に繋がるかもしれません。何しろ人間の脳は医学では解明できないことが沢山ありますから」と言った。
そしてその時の椿は、しっかりとした眼差しを持ち、はっきりと自分の意思を伝え及川からのプロポーズを受け入れた。
だが周りの人間は椿が少し前のことさえすぐに忘れてしまうのに自分が結婚したことを理解するだろうか。これから先、及川徹を自分の夫として認識できるだろうかという懸念を抱いていた。しかし医師の言葉に椿が良くなるならと期待してふたりの結婚を認めた。

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コメント
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司*****E様
おはようございます^^
こちらは椿さんが主役のお話です。
そして色々とご質問もあると思いますが、こちらは短編ですのでいつものようにあまりお答えすることが出来ないのです(笑)
タイトルの意味についても後ほど分かるかと思います。
ご紹介いただいた本ですが申し訳ございません。存じ上げないのですm(__)m
ドラマも見たことがないんです(>_<)
そんなアカシアが記憶が短い時間しか持たないお話で思い浮べるのは、小川洋子さんの「博士の愛した数式」です(^^)
おはようございます^^
こちらは椿さんが主役のお話です。
そして色々とご質問もあると思いますが、こちらは短編ですのでいつものようにあまりお答えすることが出来ないのです(笑)
タイトルの意味についても後ほど分かるかと思います。
ご紹介いただいた本ですが申し訳ございません。存じ上げないのですm(__)m
ドラマも見たことがないんです(>_<)
そんなアカシアが記憶が短い時間しか持たないお話で思い浮べるのは、小川洋子さんの「博士の愛した数式」です(^^)
アカシア
2020.09.21 21:51 | 編集

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と****マ様
こんばんは^^
はい、こちら椿さんが主役のお話です。
パワフルで美しい人。弟思いのつかつく応援団。
そんなイメージのある彼女が主役ですがどんなお話になるかと言えば.....
短編ですのですぐに終わりますが、短い時間で楽しんでいただければ幸いです^^
こんばんは^^
はい、こちら椿さんが主役のお話です。
パワフルで美しい人。弟思いのつかつく応援団。
そんなイメージのある彼女が主役ですがどんなお話になるかと言えば.....
短編ですのですぐに終わりますが、短い時間で楽しんでいただければ幸いです^^
アカシア
2020.09.21 22:38 | 編集
