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2020
06.15

夜の終わりに 13

顧客に提出するデータの処理と資料の作成は思いのほか順調に進んでいて、次に行われる先方との会議には十分間に合うはずだ。

東邦電気。エンタープライズ事業部。
つくしの部署は大企業や中堅企業。公的機関など比較的規模の大きな法人向けのソフトウェアの開発をしている。
だが、そこにはセクハラ上司がいて、必要もないのにつくしの後ろに立ちパソコンを覗き込む。勤務時間が終った後だからなのか。個人的なことを訊きたがる。食事に行かないかと誘う。うっかりと言えば許されるとでも思っているのか。肩に触れる。いや撫でる。
だがつくしは何を言われても、されてもパソコンの画面から目を離さなかった。無視をした。けれど上司が後ろに立つと仕事の能率が下がる。このことを10日前に出会った男性に話したとき、そのうち尻を撫でられると言われた。そしてもし今度触ってきたら殴れと言われた。

その男性と出会ったのは、電車を乗り過ごしたために辿り着いた終点の駅前。
車掌に起こされ、折り返しの電車はないと言われ駅前のビジネスホテルに泊まろうとしたが門限に阻まれて泊まることは出来なかった。
そのとき駅前にタクシーが止まっていたのを思い出し、その車に乗るべく走った。
ところが既にその車には男性客が乗っていた。だがここでこの車を逃すことは出来ないと相乗りさせて欲しいと頼んだ。けれど乗せてやるとは言われなかった。だから食い下がったが、それはタクシーではなく男性の車だった。

つまり大きな勘違いをしていた。そのことに気付くと放心した。そして気付けば山の中のラブホテルの一室に男性と一緒にいたが、これは倒れた女を放置せずに乗せたところで、道が通行止めになったための緊急避難だと言われた。
つまり男性にすれば、仕方なくつくしの面倒を見るはめになったということだが、会話を続けるうちに最初に口を開いた時の冷やかさは徐々になくなっていった。

そんな男性がつくしの話の後に語ったのは自分のこと。
事業を営む家に生まれた男性は少年の頃は荒れていた。自分のアイデンティティを模索していた。姉の政略結婚に自分はそうはならないと反発をした。だがそんな結婚をした姉も子供が生まれ今は幸せに暮らしていて羨ましいと思っている。だが自分はビジネスの世界で一生を終える人間で姉のような幸せを掴むことはないと思っている。
その話の内容から、男性が当初思っていた既婚者ではないことを知ったが、見ず知らずの女に自分の心の裡を話すというのは、つくしが話したセクハラを行う男性に迷惑をしているのとは重みが違う。

だが何故男性はそんな話をつくしに話したのか。多分それはあの日、誰彼無しに言いたかった。ただそれだけの話であり、人は時に心の奥に溜まった思いを吐き出したいことがある。
それを口にしただけの話だ。
だからつくしもあの日、会社で上司にセクハラを受けていることを話したが、根本的な解決を目指すなら会社に言えと言われた。だからそうするつもりでいる。

それにしても今思えばあの夜、自分の取った行動は軽率だった。
30歳を過ぎれば何が起きても全てに於いて自己責任という思いでいるが、いくら真夜中に全く知らない場所にいるからといって見知らぬ男性に同乗させて欲しいと頼んだこと自体がどうかしていた。冷静になって考えれば駅に戻り駅員に事情を話すなり警察に電話をするなりして困っている状況を説明すればよかったはずだ。だがあの夜はそこまで頭が回らなかった。

そして男性と一夜を明かし、冷静さを取り戻し外に出た時そこにあったヤマザクラに心を奪われた。
と、同時に自分が隣に立つ男性を意識し始めていることに気付いた。
だがそれ以上に気付いていたのは、男性が立派な肩書を持つ人物だろうということ。
それは男性が運転手付きの車に乗っていたことから、ある程度の地位や立場にいる人間だと思ってはいたが、自分のことを語り始めたとき、ああ、この人は華々しい世界に住んでいる人だと知った。
そして朝の陽射しの中で背広の袖口から覗く腕時計に目を落とした姿は、いかにもそれらしき立場の人間の風貌で、本来ならつくしが出会う人ではない。それに生まれも育ちもレベルが違う。生きて来た世界が違うことを感じた。

だがその男性は満たされない心を抱えている。しかしそういった感情は誰にでもあるもので、人はそういったことに対して何らかの形で解決する方法を見つけていくものだ。
だから男性もいずれその解決方法を見つけるだろう。
きっと見ず知らずの女に話したのもそのひとつだ。だがもしかすると、一夜が明けて何故この女に話したのかと思っていたかもしれない。
それに男性から自宅近くまで送ると言われたが、その言葉に深い意味はないはずだ。
だから駅で降ろして欲しい。中央線の駅ならどこでもいいと言うと車に乗り込み窓の外に目を向けたが、男性が何か言いかけた丁度そのとき男性の電話が鳴った。
電話に出た男性の口から出たのは英語で会話は早口で交わされていて理解は出来なかったが、ビジネスに関することではないかと思った。それは男性が苛立った様子で言葉を返していることから察した。

やがて電話を切った男性は、「すまないが電話をかけさせてもらう」と言って電話をかけると再び英語で話し始めた。
だから今度は目を閉じたが、気付いた時には車は高速のインター出口を出て一般道を走っていたが、男性はまだ電話で話をしていた。

そして道路は空いていたことから思いのほか早く駅に着いたが、そこはつくしが利用している駅よりも都心にかなり近い駅。
運転手に「邸までの時間は?」と訊いていたことから、ここが男性の暮らす場所に一番近い中央線の駅ということになるのだろう。
だから車から降りると、まだ電話の途中の男性が電話口を押えた姿に丁寧に礼を言って大勢の人の中に同化するように改札を通過したが、今あの男性は何をしているだろう。あのとき男性は何を言いたかったのか。
だが今となっては確かめる術はない。何しろあの男性のことで知っているのはT男という名前だけなのだから、きっともう二度と会うことはないだろう。




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コメント
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dot 2020.06.15 07:46 | 編集
司*****E様
おはようございます^^
最後に御礼は言えましたが、話をすることは出来ませんでした。
きっと二度と会うことはないと思っていますが、それでもどうやったら会えるのか....そんな思いを抱いていることは間違いないようです。
そしてふたりが再び会うのはいつ?
そろそろどうなんでしょうねえ(笑)
アカシアdot 2020.06.18 21:49 | 編集
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