『よし。ここからは俺の話をしよう』
それは意識することなく出た言葉だが、相手が司のことを知らないことから出たといってもいい。
だが司は、これまで他人に自ら自分のことを話したことはない。
いや、それ以前に司に対して何かを問う人間はいない。
だからこうした言葉が出たこと自体が不思議だったが、どういう訳か牧野つくしに話したくなった。それはもしかすると自分も誰かに愚痴を言いたい気分なのかもしれない。
だがそれにしても、その場所が山の中のラブホテルで相手は備え付けの浴衣に着替えた化粧気のない女。それもブランデー入りのコーヒーを飲んで透き通るような頬をピンクに染めた牧野つくしは自分のことをT子だと言うと、司に対しどう呼べばいいかと名前を求めた。だから司は名前のイニシャルからT男と名乗ったが、彫像のように冷ややかで完璧な美貌を持つと言われる男が自らをT男と名乗ったことを秘書が知れば、司の正気を疑うだろう。
「俺の家は俺が生まれたときから手広く事業をやっていた。つまり金には困らない家に生まれた。そんな家に育った俺は我儘な子供だった。いや。我儘な子供じゃない。我儘なうえに生意気で手の付けられない子供だった。周りにいた大人達はそんな子供が起こした悪さの後始末に追われていた。
だが子供の悪さは知れている。とはいえ、かなりのことをやった。やがて思春期を迎えた俺は荒れた青春時代を送った。その中には仕組まれた縁談もあった。それに反発してさらに荒れた。何しろ高校3年で婚約しろだの、どう考えても異常だが、俺の親は自分の息子の結婚で事業の生産性が上がることを望んでいた。だがあの頃の俺は女嫌いだった。だから家のための結婚などクソくらえだった」
自然に口をついて出るのは、自分でも一番厄介だったと思う年頃のこと。
道明寺という家のために生きることを求められていた少年は、事業拡大のために結婚することを求められ自分の存在価値が何であるかを自問していた。
「それにあの頃の俺は、いつ死んでも構わない。この世といつおさらばしても構わないと思っていた。何しろ俺の人生には18での婚約だけじゃない。初めからいくつもの枷がかけられていた。それを外すことが出来るなら何でもしてやるつもりでいた。それに何でも金で買えると思っていた。実際何でも買えた。だが買えないものがあるのを知ったのは姉に子供が生まれてからだ。子供が出来た姉を見てそれは金では買えないことに気付いた」
「それは何だったんですか?」
それまで黙って聞いていた女は、そこで初めて口を開いた。
「幸福だ」
「幸福?」
「ああ。幸福だ。心が満ち足りている状況のことだ。姉の結婚も親が用意した縁談だ。幸い相手の男は姉のことが好きになった。だが姉には別に好きな男がいた。それでも親の決めた縁談を受け容れたのは、好きな男の幸せを願ったからだ。姉はその男のことを思い自分を犠牲にして結婚した」
司は家のために結婚する姉に対し何故という思いを抱いた。
しかし姉は愛情にも色々な形があると言って嫁いだ。だが、その時の司は姉が言った愛情の形がなんであるかを理解することは出来なかった。
「夫になった男は姉を愛していた。だが姉は夫となった男を愛してはいなかった。ふたりの関係は夫から与えられる愛情を姉が受け入れていたに過ぎなかった。
だがその姉も今は夫と幸せな暮らしをしている。それは姉の愛情の形が変わったからだが、どう変わったか。それは当人同士の間でしか分からないことだが、明らかに変わったのは子供が生まれてからだ。恐らく姉はそのとき気付いたはずだ。愛されるのではなく愛することが自分の幸福だということを。だから母親になった姉は子供を愛し夫を愛することで幸福を感じている。つまり心から愛する人がいる人間は幸福だってことだ。それはいくら金を出しても買えない。何しろ自分の心の問題だ」
姉の結婚生活を通じて司が知ったのは目には見えない心の充実。
そんな姉の生活を羨まないわけではない。
「だが今の俺は姉と違い幸福からは遠い場所にいる。毛嫌いしていたはずの事業を継いで仕事を始めれば、ビジネスの面白さを知った。だから俺はこのままビジネスの世界で一生を終える人間だ。それにそれが俺の運命ならそれを受け容れるしかないと思っている。だが姉はそんな俺にもいつかはベストな人間が現れるはずだと言うが__」
と、司がそこまで話したところで、目の前にいる女は眼を閉じ、うとうととし始めていた。
やれやれ、と司は内心呆れて女の仮の名前を呼んだ。
「おい。T子」
すると呼ばれた女は、はっとして司を見た。
「す、すみません」
「眠いのか?」
「ちょっと、眠くて…..」
頬をピンクに染めている女は、はにかんだ様子で言ったが、その様子から、ちょっとどころではないことは見て取れる。
それに時計の針は午前3時半を指しているのだから普通の人間なら眠くて当然だ。
「そうか」司はそう言うと「もういいから寝ろ。ベッドで寝ろ。朝になったら起こしてやる」と言ったが、何故か不意に自分もこの女の隣で眠りにつきたくなった。
だから「T子。隣で寝てもいいか?」と訊いた。
すると何も言わずに立ち上がろうとした女は、足がふらついて畳に座り込んでしまったが、テヘヘっと笑うと、「いいわよ。でも私に何かしたら大声を上げるから!」と言ったが、その笑い方と、足が立たない様子からどうやら女は酔っているようだが、まさかブランデー入りのコーヒー二杯で酔うとは思いもしなかった。
それにしても、女はここがラブホテルでいくら大声を上げたところで誰も止めに入る者もいなければ、扉を叩く人間もいないことを理解していないのか。いや。理解していないのではない。ただ酔った頭では理解が出来てないだけの話だ。
そしてついにその場で目を閉じた女は、身体を横に倒すと寝てしまった。

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それは意識することなく出た言葉だが、相手が司のことを知らないことから出たといってもいい。
だが司は、これまで他人に自ら自分のことを話したことはない。
いや、それ以前に司に対して何かを問う人間はいない。
だからこうした言葉が出たこと自体が不思議だったが、どういう訳か牧野つくしに話したくなった。それはもしかすると自分も誰かに愚痴を言いたい気分なのかもしれない。
だがそれにしても、その場所が山の中のラブホテルで相手は備え付けの浴衣に着替えた化粧気のない女。それもブランデー入りのコーヒーを飲んで透き通るような頬をピンクに染めた牧野つくしは自分のことをT子だと言うと、司に対しどう呼べばいいかと名前を求めた。だから司は名前のイニシャルからT男と名乗ったが、彫像のように冷ややかで完璧な美貌を持つと言われる男が自らをT男と名乗ったことを秘書が知れば、司の正気を疑うだろう。
「俺の家は俺が生まれたときから手広く事業をやっていた。つまり金には困らない家に生まれた。そんな家に育った俺は我儘な子供だった。いや。我儘な子供じゃない。我儘なうえに生意気で手の付けられない子供だった。周りにいた大人達はそんな子供が起こした悪さの後始末に追われていた。
だが子供の悪さは知れている。とはいえ、かなりのことをやった。やがて思春期を迎えた俺は荒れた青春時代を送った。その中には仕組まれた縁談もあった。それに反発してさらに荒れた。何しろ高校3年で婚約しろだの、どう考えても異常だが、俺の親は自分の息子の結婚で事業の生産性が上がることを望んでいた。だがあの頃の俺は女嫌いだった。だから家のための結婚などクソくらえだった」
自然に口をついて出るのは、自分でも一番厄介だったと思う年頃のこと。
道明寺という家のために生きることを求められていた少年は、事業拡大のために結婚することを求められ自分の存在価値が何であるかを自問していた。
「それにあの頃の俺は、いつ死んでも構わない。この世といつおさらばしても構わないと思っていた。何しろ俺の人生には18での婚約だけじゃない。初めからいくつもの枷がかけられていた。それを外すことが出来るなら何でもしてやるつもりでいた。それに何でも金で買えると思っていた。実際何でも買えた。だが買えないものがあるのを知ったのは姉に子供が生まれてからだ。子供が出来た姉を見てそれは金では買えないことに気付いた」
「それは何だったんですか?」
それまで黙って聞いていた女は、そこで初めて口を開いた。
「幸福だ」
「幸福?」
「ああ。幸福だ。心が満ち足りている状況のことだ。姉の結婚も親が用意した縁談だ。幸い相手の男は姉のことが好きになった。だが姉には別に好きな男がいた。それでも親の決めた縁談を受け容れたのは、好きな男の幸せを願ったからだ。姉はその男のことを思い自分を犠牲にして結婚した」
司は家のために結婚する姉に対し何故という思いを抱いた。
しかし姉は愛情にも色々な形があると言って嫁いだ。だが、その時の司は姉が言った愛情の形がなんであるかを理解することは出来なかった。
「夫になった男は姉を愛していた。だが姉は夫となった男を愛してはいなかった。ふたりの関係は夫から与えられる愛情を姉が受け入れていたに過ぎなかった。
だがその姉も今は夫と幸せな暮らしをしている。それは姉の愛情の形が変わったからだが、どう変わったか。それは当人同士の間でしか分からないことだが、明らかに変わったのは子供が生まれてからだ。恐らく姉はそのとき気付いたはずだ。愛されるのではなく愛することが自分の幸福だということを。だから母親になった姉は子供を愛し夫を愛することで幸福を感じている。つまり心から愛する人がいる人間は幸福だってことだ。それはいくら金を出しても買えない。何しろ自分の心の問題だ」
姉の結婚生活を通じて司が知ったのは目には見えない心の充実。
そんな姉の生活を羨まないわけではない。
「だが今の俺は姉と違い幸福からは遠い場所にいる。毛嫌いしていたはずの事業を継いで仕事を始めれば、ビジネスの面白さを知った。だから俺はこのままビジネスの世界で一生を終える人間だ。それにそれが俺の運命ならそれを受け容れるしかないと思っている。だが姉はそんな俺にもいつかはベストな人間が現れるはずだと言うが__」
と、司がそこまで話したところで、目の前にいる女は眼を閉じ、うとうととし始めていた。
やれやれ、と司は内心呆れて女の仮の名前を呼んだ。
「おい。T子」
すると呼ばれた女は、はっとして司を見た。
「す、すみません」
「眠いのか?」
「ちょっと、眠くて…..」
頬をピンクに染めている女は、はにかんだ様子で言ったが、その様子から、ちょっとどころではないことは見て取れる。
それに時計の針は午前3時半を指しているのだから普通の人間なら眠くて当然だ。
「そうか」司はそう言うと「もういいから寝ろ。ベッドで寝ろ。朝になったら起こしてやる」と言ったが、何故か不意に自分もこの女の隣で眠りにつきたくなった。
だから「T子。隣で寝てもいいか?」と訊いた。
すると何も言わずに立ち上がろうとした女は、足がふらついて畳に座り込んでしまったが、テヘヘっと笑うと、「いいわよ。でも私に何かしたら大声を上げるから!」と言ったが、その笑い方と、足が立たない様子からどうやら女は酔っているようだが、まさかブランデー入りのコーヒー二杯で酔うとは思いもしなかった。
それにしても、女はここがラブホテルでいくら大声を上げたところで誰も止めに入る者もいなければ、扉を叩く人間もいないことを理解していないのか。いや。理解していないのではない。ただ酔った頭では理解が出来てないだけの話だ。
そしてついにその場で目を閉じた女は、身体を横に倒すと寝てしまった。

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司*****E様
アカシアの周りにも洋酒入りのケーキやウィスキーボンボンに影響を受ける人がいます。
アルコールがダメな人はとことんダメなようですね。
さてつくしは司の話をちゃんと聞けたのでしょうか。
偶然の出会いがふたりにどのような関係をもたらすのか。
もう少しだけお付き合いを下さいませ^^
コメント有難うございました^^
アカシアの周りにも洋酒入りのケーキやウィスキーボンボンに影響を受ける人がいます。
アルコールがダメな人はとことんダメなようですね。
さてつくしは司の話をちゃんと聞けたのでしょうか。
偶然の出会いがふたりにどのような関係をもたらすのか。
もう少しだけお付き合いを下さいませ^^
コメント有難うございました^^
アカシア
2020.06.10 23:07 | 編集
