司が渡したブランデー入りのコーヒーは女の口を滑らかにした。
饒舌とまでは言わないが、眉間に不機嫌そうに縦皺を立て、まるでこれまでの鬱憤を吐き出すように話し始めたのは会社での出来事。
もちろん、具体的な社名や仕事の内容については言わないが、司は女の名前だけではなく勤務先も知っている。それに女の勤務先である東邦電気は道明寺のグループの会社だ。だから女の話の内容に何を言わんとしているか当てはめることは容易だった。
そして、話の途中でひと息ついた時に女が口にしたのは、「あの、名前。あなたのお名前を…いえ。本当の名前じゃなくていいんです。あなたを呼ぶときあなたと呼ぶには他人行儀な気がして。いえ。もちろん私たちは他人です。だから仮の名でいいんです。お互いに名前を付けませんか?ええっと、私はT子です。私のことはT子と呼んで下さい」
それにしても面白いことを言う女だ。
司は女が牧野つくしという名前だと知っている。
だから頭文字からT子と言うなら、司はT男ということになる。
そしてふたりは偶然とはいえ同じイニシャルを持つ者同士で、さらにその偶然がもうひとつ重なり女が働いているのは道明寺のグループ会社だ。
女は司が親会社の副社長だと知ったら、どうするだろうか。
司は「分かった。お前がT子なら俺はT男だ」と言うと面白そうに笑い「T子。話せよ。お前の愚痴は俺が訊いてやる」と言った。
それにしても、見知らぬ男と入ったラブホテルで真夜中にコーヒーを飲みながら仕事の話をする女はどう考えても普通ではない。だがそれは自分も同じ。ここに入ろうと思ったことも、冷えた女の身体を風呂に入れようと思ったことも、これまでの自分なら決して思わなかったことだが、今はこの現実離れした状況を楽しんでいた。
「T男さん。どう思いますか?うちの課長のこと」
「後ろを通るたびに仕事が捗っているか訊くことか?」
「違います。課長は後ろを通るたびに私の肩に触れるんです。いえ。あれは触れているんじゃなくて撫でていると言った方が正しいんです。今日だって残業していたらわざとらしく何度も後ろを通るんです。だから集中できなくて間違えてばかりで余計に時間がかかるし….」
ひと息入れて、T子こと牧野つくしは言葉を継いだ。
「課長の行動はまるで私を監視しているようで課長が動き回るたびに落ち着かなくて。つまり気が散るんです」
どうやら牧野つくしの上司は、彼女の後ろを通るたびにパソコンの画面を覗き込み仕事の進捗を確認する。そしていかにも偶然のように肩に触れる。いや。言い直した言葉の方が正しく触れるのではなく撫でる。そのことに牧野つくしは嫌悪感を持っている。
つまりそれはセクハラであり、女はセクハラを受け嫌な思いをしていた。
「そうか。バカなセクハラ上司が仕事の邪魔をしてるってことか」
「そうなんです」
「それなら上の人間に報告すればいいはずだが?」
「勿論そうすればいいことは分かってます。でも報告すれば色々と面倒なことになりそうで、それで言えずじまいなんです。それから今日も残業を終えて帰ろうとしたところで一緒に食事をしないかと誘われたんです。でも明日予定があるので早く帰りたいと断りました。本当は予定なんてありませんけど。でもそうでも言わなければ帰してもらえない気がしたんです。あの課長しつこいんです。それからひとりでイタリアンレストランで食事を済ませて…..あ、そのときにワインを頼んだら美味しくて二杯目を飲んだら寝てしまって気付けば終点まで来てしまったんです」
司は女がどんな酒を飲んで電車を乗り過ごしたのかと思っていたが、それは楽しい酒ではなく嫌な気分を晴らすために飲んだ酒だったことを知った。
そして牧野つくしの所属する課の上司は40代のバツイチ。今年になって異動してきた直属の課長。
聞けば自分は仕事が出来る男だという強い自負心がある。そして大きな目に濃い睫毛を持つ男の容姿は男臭さが鼻につく男のようだ。
そんな男が部下である牧野の身体に触れる。残業を命じ彼女の仕事が終わるまで待ち食事に行かないかと誘うのは、その男が牧野つくしに好意を抱いているからだ。
そんな男を迷惑に思いながらも上に言えないのは何故なのか。
「上に報告して色々と面倒とは?」
「はい。セクハラを訴えれば職場の雰囲気が悪くなりそうで…..。うちの会社で今までそんなことをした女子社員はいないんです。それに私は今の仕事が好きです。でもそういったことを訴えれば異動させられそうな気がするんです」
コンプライアンスという言葉が当たり前になった昨今、世の中はセクハラに対しても厳しい目を持つ。だから牧野つくしがこのことを会社に訴えれば上司は何らかの処分を受けるだろう。
だが、本人が言ったように今後もそこで働くとしてもリラックスした雰囲気で働けるかと言えばそうではない。つまり嫌な思いをするのは殆どが女性の方だということ。
それにきっと牧野つくしは職場の人間関係がギクシャクすることを望まない。出来れば穏便に済ませたいと思っている。だから言葉を嚙み潰し訴えることはしないだろう。だがそれでは上司をつけあがらせることになる。
「それなら今度触ったら殴れ」
「え?」
「今度そいつがお前に触ったらそいつを殴れ。嫌なことをされていつまでも黙っている必要はない。右手をグッと握って思いっきりその男を殴れ。でないとそういった男はそのうち肩を撫でるだけではなく、尻を撫でてくるようになる」
相手を殴ることを勧める。
何のことはない。それはかつての司なら、当たり前のように使っていた腕力。
だが今の司がそういったことをすることはないが、何故か牧野つくしには腕力を使えと言っていた。
だが言われた女は、「殴ればいい?」と言って笑って、「出来ればそうしたいところですけど現実には無理です。クビになります」と言って黙ったがいきなり相手を殴る。それは性別に関係なく、どんな理由があっても許されることではない。それに男にすれば女に殴られるほど恥ずかしいことはないだろう。
それも男臭さが鼻につくような男となればプライドが高いことは明らかだ。
だが司に言わせれば会社で女の尻を撫でるような男は、すでに出世コースから外れていると言っていい。
やがて牧野つくしは、気を取り直して明るく言った。
「でもありがとうございます。訊いていただけただけでもスッキリしました。それに実際に殴れなくても心の中で殴ります。それにもしまた何かされたら、その時は…会社に言います」
「そうか。スッキリしたか。良かったな。それからいいな?嫌な思いをさせられたなら遠慮することはない。はっきり会社に言え」
司はそう言うと少し黙った。そして「よし。ここからは俺の話をしよう」と言って自分のことを話し始めた。

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饒舌とまでは言わないが、眉間に不機嫌そうに縦皺を立て、まるでこれまでの鬱憤を吐き出すように話し始めたのは会社での出来事。
もちろん、具体的な社名や仕事の内容については言わないが、司は女の名前だけではなく勤務先も知っている。それに女の勤務先である東邦電気は道明寺のグループの会社だ。だから女の話の内容に何を言わんとしているか当てはめることは容易だった。
そして、話の途中でひと息ついた時に女が口にしたのは、「あの、名前。あなたのお名前を…いえ。本当の名前じゃなくていいんです。あなたを呼ぶときあなたと呼ぶには他人行儀な気がして。いえ。もちろん私たちは他人です。だから仮の名でいいんです。お互いに名前を付けませんか?ええっと、私はT子です。私のことはT子と呼んで下さい」
それにしても面白いことを言う女だ。
司は女が牧野つくしという名前だと知っている。
だから頭文字からT子と言うなら、司はT男ということになる。
そしてふたりは偶然とはいえ同じイニシャルを持つ者同士で、さらにその偶然がもうひとつ重なり女が働いているのは道明寺のグループ会社だ。
女は司が親会社の副社長だと知ったら、どうするだろうか。
司は「分かった。お前がT子なら俺はT男だ」と言うと面白そうに笑い「T子。話せよ。お前の愚痴は俺が訊いてやる」と言った。
それにしても、見知らぬ男と入ったラブホテルで真夜中にコーヒーを飲みながら仕事の話をする女はどう考えても普通ではない。だがそれは自分も同じ。ここに入ろうと思ったことも、冷えた女の身体を風呂に入れようと思ったことも、これまでの自分なら決して思わなかったことだが、今はこの現実離れした状況を楽しんでいた。
「T男さん。どう思いますか?うちの課長のこと」
「後ろを通るたびに仕事が捗っているか訊くことか?」
「違います。課長は後ろを通るたびに私の肩に触れるんです。いえ。あれは触れているんじゃなくて撫でていると言った方が正しいんです。今日だって残業していたらわざとらしく何度も後ろを通るんです。だから集中できなくて間違えてばかりで余計に時間がかかるし….」
ひと息入れて、T子こと牧野つくしは言葉を継いだ。
「課長の行動はまるで私を監視しているようで課長が動き回るたびに落ち着かなくて。つまり気が散るんです」
どうやら牧野つくしの上司は、彼女の後ろを通るたびにパソコンの画面を覗き込み仕事の進捗を確認する。そしていかにも偶然のように肩に触れる。いや。言い直した言葉の方が正しく触れるのではなく撫でる。そのことに牧野つくしは嫌悪感を持っている。
つまりそれはセクハラであり、女はセクハラを受け嫌な思いをしていた。
「そうか。バカなセクハラ上司が仕事の邪魔をしてるってことか」
「そうなんです」
「それなら上の人間に報告すればいいはずだが?」
「勿論そうすればいいことは分かってます。でも報告すれば色々と面倒なことになりそうで、それで言えずじまいなんです。それから今日も残業を終えて帰ろうとしたところで一緒に食事をしないかと誘われたんです。でも明日予定があるので早く帰りたいと断りました。本当は予定なんてありませんけど。でもそうでも言わなければ帰してもらえない気がしたんです。あの課長しつこいんです。それからひとりでイタリアンレストランで食事を済ませて…..あ、そのときにワインを頼んだら美味しくて二杯目を飲んだら寝てしまって気付けば終点まで来てしまったんです」
司は女がどんな酒を飲んで電車を乗り過ごしたのかと思っていたが、それは楽しい酒ではなく嫌な気分を晴らすために飲んだ酒だったことを知った。
そして牧野つくしの所属する課の上司は40代のバツイチ。今年になって異動してきた直属の課長。
聞けば自分は仕事が出来る男だという強い自負心がある。そして大きな目に濃い睫毛を持つ男の容姿は男臭さが鼻につく男のようだ。
そんな男が部下である牧野の身体に触れる。残業を命じ彼女の仕事が終わるまで待ち食事に行かないかと誘うのは、その男が牧野つくしに好意を抱いているからだ。
そんな男を迷惑に思いながらも上に言えないのは何故なのか。
「上に報告して色々と面倒とは?」
「はい。セクハラを訴えれば職場の雰囲気が悪くなりそうで…..。うちの会社で今までそんなことをした女子社員はいないんです。それに私は今の仕事が好きです。でもそういったことを訴えれば異動させられそうな気がするんです」
コンプライアンスという言葉が当たり前になった昨今、世の中はセクハラに対しても厳しい目を持つ。だから牧野つくしがこのことを会社に訴えれば上司は何らかの処分を受けるだろう。
だが、本人が言ったように今後もそこで働くとしてもリラックスした雰囲気で働けるかと言えばそうではない。つまり嫌な思いをするのは殆どが女性の方だということ。
それにきっと牧野つくしは職場の人間関係がギクシャクすることを望まない。出来れば穏便に済ませたいと思っている。だから言葉を嚙み潰し訴えることはしないだろう。だがそれでは上司をつけあがらせることになる。
「それなら今度触ったら殴れ」
「え?」
「今度そいつがお前に触ったらそいつを殴れ。嫌なことをされていつまでも黙っている必要はない。右手をグッと握って思いっきりその男を殴れ。でないとそういった男はそのうち肩を撫でるだけではなく、尻を撫でてくるようになる」
相手を殴ることを勧める。
何のことはない。それはかつての司なら、当たり前のように使っていた腕力。
だが今の司がそういったことをすることはないが、何故か牧野つくしには腕力を使えと言っていた。
だが言われた女は、「殴ればいい?」と言って笑って、「出来ればそうしたいところですけど現実には無理です。クビになります」と言って黙ったがいきなり相手を殴る。それは性別に関係なく、どんな理由があっても許されることではない。それに男にすれば女に殴られるほど恥ずかしいことはないだろう。
それも男臭さが鼻につくような男となればプライドが高いことは明らかだ。
だが司に言わせれば会社で女の尻を撫でるような男は、すでに出世コースから外れていると言っていい。
やがて牧野つくしは、気を取り直して明るく言った。
「でもありがとうございます。訊いていただけただけでもスッキリしました。それに実際に殴れなくても心の中で殴ります。それにもしまた何かされたら、その時は…会社に言います」
「そうか。スッキリしたか。良かったな。それからいいな?嫌な思いをさせられたなら遠慮することはない。はっきり会社に言え」
司はそう言うと少し黙った。そして「よし。ここからは俺の話をしよう」と言って自分のことを話し始めた。

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コメント
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司*****E様
おはようございます^^
司は7話でつくしがお風呂に入っている間に荷物を調べています。
だから名前も勤務先も知っています。
つまり彼女がT子と名乗ったのは、名前のアルファベットだと理解しています。
そして司もT男と名乗りましたが、何を話すのでしょう。
コメント有難うございました^^
おはようございます^^
司は7話でつくしがお風呂に入っている間に荷物を調べています。
だから名前も勤務先も知っています。
つまり彼女がT子と名乗ったのは、名前のアルファベットだと理解しています。
そして司もT男と名乗りましたが、何を話すのでしょう。
コメント有難うございました^^
アカシア
2020.06.08 22:19 | 編集
