私は電車から降り改札口を出ると、葬儀会場に向かうためにバスに乗った。
乗客は少なく黒い服を着た人間は私ひとりだけで、穏やかな日差しが降り注ぐ午後は、五月晴れの爽やかな空が広がっていた。
私は彼女の葬儀に向かいながら、彼女と出会ってからのことを思い出していたが、今頭の中にあるのは彼女が愛した男性の気持だ。
道明寺ホールディングスの代表取締役社長兼CEOの道明寺司。
今はどんなに重い現実でも跳ね除ける力を持つ男性は彼女が亡くなったことを知っているのだろうか。最愛の人の死は大企業のトップの男性の耳に届いているだろうか。
男性は忙しい男だ。もしかすると今頃は海外にいて、どこかの国の大統領との会談に臨んでいるかもしれない。だから彼女の死の知らせは届いていないかもしれない。
いや、そんなことはない。きっと届いているはずだ。それに知っているはずだ。
あんなに愛おしそうに彼女を抱いていた男性が最愛の人のことを心に留め置かないはずはない。だから出張で海外にいたとしても、彼女と会えるのは今日が最後になるのだから取って返してここに向かっているはずだ。
そんな男性は彼女が亡くなったと訊いたとき、どんな感情を抱いたのか。
彼女を失い、どんな思いでいるのか。そして男性は私が考えているように彼女の葬儀に現れるのだろうか。何故か私は、そんな風に彼女の夫よりも道明寺司の気持ちばかりを考えていた。
バスを降りた私は暫く真っ直ぐに歩き角を曲がった。
すると目的の建物が見えてきたが、前方には私と同じように喪服姿の女性の姿が見えた。
そして何台もの黒い車が建物の敷地に入って行くのが見えた。
私がたどり着いた建物は大きな葬儀会館だ。
敷地の入口には「故 進藤つくし 儀 葬儀式場」の看板が立っていて、喪服を着た数人の男女が葬儀会場への案内をしていた。だが会場へ入る前に香典を渡さなければならない。
だから大勢の弔問客が列をなしている香典受付の列に並んだが、前にいる若い男性たちが夫である人物のことを話しているのを耳にした。
「進藤先生も奥様を亡くされてショックだよな?」
「だろうな。それも出張中のボストンで聞かされたんだから、たまったもんじゃないよな?」
「ああ。ボストンの学会で新しい術式を発表した直後だったそうだ。知らせた人間が言うには、その時の先生は心臓発作を起こしそうな顏をしてたらしいぞ?」
「おい。止めろよ。外科医が心臓発作を起こしたなんて冗談キツイぜ。それにしても劇症肝炎か。あれはある日突然肝臓が機能しなくなるが、入院してから暫く落ち着いていたし、大丈夫だろうってことで先生もボストンに飛んだけど、まさかこんなに早く亡くなるとは思わなかったはずだ」
私はそこで初めて彼女が入院して二週間で亡くなったことを知った。と、同時に夫の詳しい職業を知った。
彼女は自分の夫は大学教授で研究職だと言っていたが、何を専門に研究しているのかは教えてくれなかった。
だが沢山の献花には有名私立大学の医学部の名前があり、10歳年上の彼女の夫が医学部付属病院で外科を専門とする医師だと知ったが、夫が教授を務める私立大学の医学部は、国内でもトップクラスだと言われていて、それはそこで勤務している医師の待遇にも同じことが言えた。
つまり彼女の暮らしは豊かで、お金に困ることはなかったことを知ったが、果たして医師の夫は妻が別の男性を愛していることに気付かなかったのだろうかという思いを抱きながら、葬儀がおこなわれる部屋へ入った。
私は一番後ろの席に座るつもりでいた。
だがそこにはすでに埋まっていた。だから中程の空いている席に腰をおろしたが、そのとき同じタイミングで後ろの席にふたりの女性が座った。
どうやら彼女たちは夫が勤務する大学病院の看護師のようで病院のことを話していたが、その会話の中で進藤つくしが金銭には不自由しなかったとしても、幸せとはいえない状況にいたことを知った。
「それからここだけの話だけどね。進藤先生。奥様から離婚して欲しいって言われてたらしいけど、首を縦に振らなかったらしいわよ?」
「え?先生が離婚?嘘でしょ?それ本当なの?」
「ええ。本当の話よ。なんでも奥様に好きな人が出来たらしいわ」
「やだ。先生可哀想。だって先生は奥様にひとめ惚れをして、何度も結婚して欲しいってプロポーズして、やっと結婚してもらえたって訊いてるわ。それに先生。いつも奥様のこと出来た妻だって自慢してたじゃない?看護師の間でも先生は愛妻家だって有名な話でしょ?それなのに離婚して欲しいだなんて…」
「ねえ。もしかしてあなた知らなかったの?先生は大恋愛の末に結婚したみたいになってるけど、奥様が先生になびかなかったからムキになったって方が正しいみたいよ?
それに病院では愛妻家で通ってるかもしれないけど、先生には銀座のクラブママの愛人がいるわ。それもひとりじゃないのよ?確か他にふたりいたわね?それから札幌と大阪のクラブのママの愛人もいるわ。それに今でこそないけど過去には看護師にも手を出して同時に何人もの看護師が先生と関係があったのよ?だから看護師同士で先生の取り合いみたいになって派閥が出来たりしたこともあったわ。それに中には先生との関係に悩んで病院を辞めた看護師もいいたわ。とにかく先生は看護師の間では昔から女好きで有名なのよ?」
「やだ。止めてよそんな話。あたし先生のこと尊敬してたのに!」
「あのね。いくら尊敬に値する手術の腕を持っていても先生はただの男。頭と下半身は別なのよ?あなた本当に知らなかったの?」
「知らなかったわよ。あたし今年の春に耳鼻科から移動してきたんだもの。そんな話初耳よ。でもそんなに愛人がいるなら奥様の望み通り別れてもよかったんじゃない?それに看護師とそんなに派手な関係があったなら奥様だって、その事ご存知だったんじゃないの?」
「そうね。多分ご存知だったと思うわ。それに傷ついたと思うわ」
「それなら家庭生活は無きに等しかった訳だし、なおさらのこと別れて差し上げればよかったのに」
「無理ね。だって別れたら愛人が結婚してくれって言ってくるでしょ?でも妻という立場の女性がいればそれはないわ。それにあなたも言った通り先生は世間では愛妻家で通っている日本でトップクラスの腕を持つ外科医よ?そんな先生が妻から好きな人が出来たからって理由で離婚を求められている。そんなこと世間体が悪くて言えないわよ。まあどの医者もそうだけど、医者はプライドが高いわ。特に進藤先生はそうよ。だから自分が下に見られるのが嫌なの。奥様が好きになった男性が誰であれ、自分よりもその男性の方が好きってことが許せないのよ。だから離婚して欲しいって言われても同意しなかったのよ」
私は看護師たちの話に、彼女が夫とのことをただの同居人のような関係だと言ったことを思い出した。だが初めはそうではなかったはずだ。夫婦がそういった関係になったのは、夫には複数の愛人がいて、ひとりの女性を愛し続けることが出来ない人間だと彼女が知ったからだ。
そして今思えば、彼女が自分と道明寺司とのことを私に話したとき、「私たちとは全く関係ない人に私たちがどんな風に出会って愛を重ねるようになったかを知って欲しかったからなの。そうすれば救われる気がするから」の、救われる、の意味が分かったような気がした。
それは夫とのことを踏まえた上で、たとえ法律上結ばれなくても、心の中にいるたったひとりの人間を愛することが出来る人間がここにいる。そう言いたかったのだろう。
それにしても、突然亡くなった彼女は今何を思っているのだろうか。
魂はここにいて、上から私たちを見下ろしているはずだ。
そして彼女の持つ透明感は、いつか来る日の儚さの表れだったのか。
けれど彼女は道明寺司と再会したとき、別れゆく日がこんなにも早く訪れるとは思いもしなかったはずだ。

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私は彼女の葬儀に向かいながら、彼女と出会ってからのことを思い出していたが、今頭の中にあるのは彼女が愛した男性の気持だ。
道明寺ホールディングスの代表取締役社長兼CEOの道明寺司。
今はどんなに重い現実でも跳ね除ける力を持つ男性は彼女が亡くなったことを知っているのだろうか。最愛の人の死は大企業のトップの男性の耳に届いているだろうか。
男性は忙しい男だ。もしかすると今頃は海外にいて、どこかの国の大統領との会談に臨んでいるかもしれない。だから彼女の死の知らせは届いていないかもしれない。
いや、そんなことはない。きっと届いているはずだ。それに知っているはずだ。
あんなに愛おしそうに彼女を抱いていた男性が最愛の人のことを心に留め置かないはずはない。だから出張で海外にいたとしても、彼女と会えるのは今日が最後になるのだから取って返してここに向かっているはずだ。
そんな男性は彼女が亡くなったと訊いたとき、どんな感情を抱いたのか。
彼女を失い、どんな思いでいるのか。そして男性は私が考えているように彼女の葬儀に現れるのだろうか。何故か私は、そんな風に彼女の夫よりも道明寺司の気持ちばかりを考えていた。
バスを降りた私は暫く真っ直ぐに歩き角を曲がった。
すると目的の建物が見えてきたが、前方には私と同じように喪服姿の女性の姿が見えた。
そして何台もの黒い車が建物の敷地に入って行くのが見えた。
私がたどり着いた建物は大きな葬儀会館だ。
敷地の入口には「故 進藤つくし 儀 葬儀式場」の看板が立っていて、喪服を着た数人の男女が葬儀会場への案内をしていた。だが会場へ入る前に香典を渡さなければならない。
だから大勢の弔問客が列をなしている香典受付の列に並んだが、前にいる若い男性たちが夫である人物のことを話しているのを耳にした。
「進藤先生も奥様を亡くされてショックだよな?」
「だろうな。それも出張中のボストンで聞かされたんだから、たまったもんじゃないよな?」
「ああ。ボストンの学会で新しい術式を発表した直後だったそうだ。知らせた人間が言うには、その時の先生は心臓発作を起こしそうな顏をしてたらしいぞ?」
「おい。止めろよ。外科医が心臓発作を起こしたなんて冗談キツイぜ。それにしても劇症肝炎か。あれはある日突然肝臓が機能しなくなるが、入院してから暫く落ち着いていたし、大丈夫だろうってことで先生もボストンに飛んだけど、まさかこんなに早く亡くなるとは思わなかったはずだ」
私はそこで初めて彼女が入院して二週間で亡くなったことを知った。と、同時に夫の詳しい職業を知った。
彼女は自分の夫は大学教授で研究職だと言っていたが、何を専門に研究しているのかは教えてくれなかった。
だが沢山の献花には有名私立大学の医学部の名前があり、10歳年上の彼女の夫が医学部付属病院で外科を専門とする医師だと知ったが、夫が教授を務める私立大学の医学部は、国内でもトップクラスだと言われていて、それはそこで勤務している医師の待遇にも同じことが言えた。
つまり彼女の暮らしは豊かで、お金に困ることはなかったことを知ったが、果たして医師の夫は妻が別の男性を愛していることに気付かなかったのだろうかという思いを抱きながら、葬儀がおこなわれる部屋へ入った。
私は一番後ろの席に座るつもりでいた。
だがそこにはすでに埋まっていた。だから中程の空いている席に腰をおろしたが、そのとき同じタイミングで後ろの席にふたりの女性が座った。
どうやら彼女たちは夫が勤務する大学病院の看護師のようで病院のことを話していたが、その会話の中で進藤つくしが金銭には不自由しなかったとしても、幸せとはいえない状況にいたことを知った。
「それからここだけの話だけどね。進藤先生。奥様から離婚して欲しいって言われてたらしいけど、首を縦に振らなかったらしいわよ?」
「え?先生が離婚?嘘でしょ?それ本当なの?」
「ええ。本当の話よ。なんでも奥様に好きな人が出来たらしいわ」
「やだ。先生可哀想。だって先生は奥様にひとめ惚れをして、何度も結婚して欲しいってプロポーズして、やっと結婚してもらえたって訊いてるわ。それに先生。いつも奥様のこと出来た妻だって自慢してたじゃない?看護師の間でも先生は愛妻家だって有名な話でしょ?それなのに離婚して欲しいだなんて…」
「ねえ。もしかしてあなた知らなかったの?先生は大恋愛の末に結婚したみたいになってるけど、奥様が先生になびかなかったからムキになったって方が正しいみたいよ?
それに病院では愛妻家で通ってるかもしれないけど、先生には銀座のクラブママの愛人がいるわ。それもひとりじゃないのよ?確か他にふたりいたわね?それから札幌と大阪のクラブのママの愛人もいるわ。それに今でこそないけど過去には看護師にも手を出して同時に何人もの看護師が先生と関係があったのよ?だから看護師同士で先生の取り合いみたいになって派閥が出来たりしたこともあったわ。それに中には先生との関係に悩んで病院を辞めた看護師もいいたわ。とにかく先生は看護師の間では昔から女好きで有名なのよ?」
「やだ。止めてよそんな話。あたし先生のこと尊敬してたのに!」
「あのね。いくら尊敬に値する手術の腕を持っていても先生はただの男。頭と下半身は別なのよ?あなた本当に知らなかったの?」
「知らなかったわよ。あたし今年の春に耳鼻科から移動してきたんだもの。そんな話初耳よ。でもそんなに愛人がいるなら奥様の望み通り別れてもよかったんじゃない?それに看護師とそんなに派手な関係があったなら奥様だって、その事ご存知だったんじゃないの?」
「そうね。多分ご存知だったと思うわ。それに傷ついたと思うわ」
「それなら家庭生活は無きに等しかった訳だし、なおさらのこと別れて差し上げればよかったのに」
「無理ね。だって別れたら愛人が結婚してくれって言ってくるでしょ?でも妻という立場の女性がいればそれはないわ。それにあなたも言った通り先生は世間では愛妻家で通っている日本でトップクラスの腕を持つ外科医よ?そんな先生が妻から好きな人が出来たからって理由で離婚を求められている。そんなこと世間体が悪くて言えないわよ。まあどの医者もそうだけど、医者はプライドが高いわ。特に進藤先生はそうよ。だから自分が下に見られるのが嫌なの。奥様が好きになった男性が誰であれ、自分よりもその男性の方が好きってことが許せないのよ。だから離婚して欲しいって言われても同意しなかったのよ」
私は看護師たちの話に、彼女が夫とのことをただの同居人のような関係だと言ったことを思い出した。だが初めはそうではなかったはずだ。夫婦がそういった関係になったのは、夫には複数の愛人がいて、ひとりの女性を愛し続けることが出来ない人間だと彼女が知ったからだ。
そして今思えば、彼女が自分と道明寺司とのことを私に話したとき、「私たちとは全く関係ない人に私たちがどんな風に出会って愛を重ねるようになったかを知って欲しかったからなの。そうすれば救われる気がするから」の、救われる、の意味が分かったような気がした。
それは夫とのことを踏まえた上で、たとえ法律上結ばれなくても、心の中にいるたったひとりの人間を愛することが出来る人間がここにいる。そう言いたかったのだろう。
それにしても、突然亡くなった彼女は今何を思っているのだろうか。
魂はここにいて、上から私たちを見下ろしているはずだ。
そして彼女の持つ透明感は、いつか来る日の儚さの表れだったのか。
けれど彼女は道明寺司と再会したとき、別れゆく日がこんなにも早く訪れるとは思いもしなかったはずだ。

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コメント
このコメントは管理人のみ閲覧できます

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ま*こ様
おはようございます^^
亡くなった女性とその人が愛した男に思いを馳せる若い理香。
そんなお話も間もなく終わりを迎えますが、最後まで楽しんでいただければ幸いです。
コメント有難うございました^^
おはようございます^^
亡くなった女性とその人が愛した男に思いを馳せる若い理香。
そんなお話も間もなく終わりを迎えますが、最後まで楽しんでいただければ幸いです。
コメント有難うございました^^
アカシア
2020.05.09 23:06 | 編集

司*****E様
こんにちは^^
え~。色々と疑問もあると思いますが、こちらのお話は間もなく終わりを迎えます。
最後まで楽しんでいただければ、と思っています。
家に帰ってきたら足がパンパン!
分かります。動かないと色々な筋肉があっと言う間に衰えます(笑)
アカシアは足が痛い時は足の裏とふくらはぎに湿布を貼って寝ます(^^ゞ
コメント有難うございました^^
こんにちは^^
え~。色々と疑問もあると思いますが、こちらのお話は間もなく終わりを迎えます。
最後まで楽しんでいただければ、と思っています。
家に帰ってきたら足がパンパン!
分かります。動かないと色々な筋肉があっと言う間に衰えます(笑)
アカシアは足が痛い時は足の裏とふくらはぎに湿布を貼って寝ます(^^ゞ
コメント有難うございました^^
アカシア
2020.05.09 23:18 | 編集
