扉をノックする音がして、どうぞと言うと男が入ってきたが、彼女の顏を見ると少し間を置いてから言った。
「朝食は姉貴と済ませたそうだな」
「え?……うん…..」
「そうか。ちゃんと食べたのか?」
「うん…」
「美味かったか?」
「……え、ええ….」
司の問いかけに、どこか曖昧に答えた女は彼から目を逸らした。
司は彼女と朝食を共にしようと思っていた。
だがニューヨークからかかってきた電話が至急を要する案件と言われ、その対応に追われ共にすることは出来なかった。
そしてその間にロスから来た姉が彼女と朝食を共にしたことを使用人から訊いた。
「そうか。美味かったか….。昨日はよく眠れたか?」
「うん…..」
「何か足りないものはないか?」
「え?」
「だから足りないものだ」
「ないわ….ありがとう」
「そうか。何か必要なものがあったら言ってくれ」
どんなに自信家で強い男でも頭が上がらない人間はいる。
司の場合それは姉の椿。椿は弟が恋をした相手の女性を気に入った。
妹と呼んで可愛がった。そして彼女との恋が実るように手を尽くしてくれた。
だがその恋は司が彼女を忘れてしまったことで実ることはなかった。けれど、姉はふたりの恋に区切りをつけることをしなかった。
『このネックレスに見覚えはない?何か感じない?』と言った姉に司は、見覚えもなければ何も感じないと冷たく答えたが、姉は『これはアンタにとって大切なものだから大事にしなさいよ』と言った。
やがてその意味が分かったとき、出来ることなら自分で自分の頭を蹴りたい気持ちになった。
姉は朝食を済ませると司に会いに来て言った。
『司。頑張りなさい。私にはつくしちゃんがアンタのことを昔の男だからって切り捨てたとは思えないの。だからちゃんと話をしなさい。いい?ちゃんとよ?』
姉が言った「ちゃんと話をする」いい年をした男はその言葉の意味を理解している。
それは、誠心誠意彼女に伝えなければならない自分の気持ちだ。
だがふたりの間には張りつめた空気があった。
けれど、今の彼女はこれまでのように強く何かを主張しようとはしない。むしろ、司が何か言うのを待っているように思えた。
だが司も、これまでのように勝手な思いだけを伝えるつもりはない。
それに姉の言葉通りなら、彼女の心の奥にあるものを訊く事の方が重要だと思えた。
だが、会話よりも頻繁に流れる沈黙に、司には彼女が会話の入口を探しているように思えた。
そして彼女が手にしているのは司が置いていたネックレスの箱。
16年前に牧野つくしにプレゼントしたネックレスは二度彼に返された。
一度目は雨の夜を経た後。漁村で暮らし始めた彼女を迎えに行きはしたが、ギクシャクしたふたりの仲は元の関係に戻ることは無理だと返されたが、返されるくらいなら必要ないと川に投げ捨てた。
二度目は司が彼女を忘れ、別の女を傍に置いたことで別れを決め返しに来たが、本来なら彼女の元にあったはずのネックレス。それを手にしている彼女は何を思うのか。
そして司も彼女と同じで会話の入口を探していた。
いや、探しているのは会話の入口ではなく、心の入口といった方が正しい。
だから「牧野。話がしたいんだがいいか?」と言って彼女の答えを待った。
ふたりの間に流れた16年の歳月。
再会は中央アジアのカザフスタン。そこから隣国のキルギスへ移動したが、ふたりは春を迎えたビシュケクでチューリップが咲き揃った庭にいた。
広壮な邸宅はソビエト崩壊後に作られた建物で、持ち主は司の友人のひとりであるロシア人実業家。友人はこの建物をエルミタージュ美術館に似せて作ったと言ったが、エルミタージュはベルサイユ宮殿を真似て作られていることから、この建物はフランスの建築物の匂いがした。
そしてこの場所を貸して欲しいと言った司に二つ返事で応じたが、「ビジネスか?」と訊きた友人に「いや」と答えると「なら、女絡みか?」と付け加え、「上手くやれよ」と言った。
どんな形にせよ、ふたりだけでの時間を持つことを望んだ男が選んだこの場所には、色とりどりのチューリップが咲いているが、チューリップと言えばオランダが有名だがオランダは生産地であり、原産地はトルコからイラン、そして中央アジア一帯。だからキルギスでは品種改良される前の野生のチューリップを数多く目にすることが出来た。
そこを歩こうと誘ったのは司だが、彼女の表情が硬いのは16年ぶりに会った男の行動がそうさせたと分かっているが、真摯な態度で彼女に臨むことを決めた男の顏も硬かった。
「牧野。座らないか?」
司は庭に置かれているベンチの前で言った。
「え?」
その言葉から感じられるのは明らかな戸惑いと緊張だが、座って話すということは腰を据えて話をするということ。つまり話が長くなるということ。
だが、彼女は「いいわ」と言って木製のベンチに座ったが、それは司が彼女に話したいことがあるように彼女も司に話したいことがあるということ。
そして横並びに座るということは、目を合わせることがない。だから彼女が座ることに同意をしたように思えた。
司は再会してから強気な態度を取り続けていたが、16年たって現れた男に今更だと言った彼女に簡単に受け入れられるとは思ってはいない。
だが司が彼女のことを忘れたのは、彼が望んだからではない。
けれど、見舞いに来た彼女が傍にいることを拒否したのは司だ。
そして座ってはみたが、ふたりの間に3分くらいの沈黙が流れた。
「道明寺….」
彼女の方が先に口を開いた。
「あのね、あたしたちは16年会わなかった。お互いその間に色んなことがあった。
アンタがあたしを忘れて海ちゃんを傍に置いて、それから別れてアメリカに行って大学へ通いながら道明寺の仕事を始めたけど、あたしはまだアンタがいつかあたしのことを思い出すとどこかで期待していたの。でもあたしも大学を卒業して就職して分かったの。それはアンタのお母さんがあたしたちの付き合いに反対した理由をね。
あたしには義務も責任もない。あたしの人生はあたしのもので、あたしが死んでも誰かに迷惑をかけることもなければ誰かが困ることもない。だけどアンタは違う。アンタが死んだら困る人間は大勢いて道明寺司の代わりになる人間は他にはいないってことをね。
だから道明寺司が必要としているのは、あたしのようにどこにでもいる人間じゃない。
アンタに相応しいのは誰もが振り返って見るような人。アンタの隣にいても自らが輝いている人。それでもあたしは簡単にアンタのことを忘れることは出来なかった。
でも10年経って自分の世界を変えようと思った。だから会社を辞めて海外で日本語を教える仕事に就く事にしたの。アンタはもうあたしのことを思い出すこともなければ、あたしはアンタに追いつくことは出来ないって分かったから……」
彼女の口から語られたのは、時が経てば経つほど際立つ人生の違い。
道明寺の副社長の地位にいる男と、ただの会社員では立場が違い過ぎる。
平凡な容姿の女が華やかな外見を持つ男の隣に並べば滑稽さが感じられるということ。
「カザフスタンに渡る日が正式に決まったとき、荷物の整理をしながら考えた。
あたしは、これまで日本でしか暮らしたことがなかったけど、これからは海外でたくましく生きていこうって。これまでのことをリセットして新しい人生を歩んで行こうって。
ちょうど春で桜の花が咲いている頃だったから、次ぎに東京で桜を見ることが出来るのはいつになるのかって考えたからお花見に出かけた。そこで桜の花を見上げて思った。
悲しんでも寂しがっても仕方がない。人生は一度だけ。立ち止まってる時間があるなら前に進もうってね。それに人って寂しさに慣れちゃうと、それが当たり前になっちゃうのよ。
だからお姉さんはあたしのことを思い出したアンタの気持ちを汲んで欲しいって言ったけど、アンタとのことは過去のことで今更やり直すことは出来ない。だからやっぱりこれは返すわ」
そう言った彼女は隣に座る司との間にコートのポケットから取り出したネックレスが入った箱を置いた。
「『昨日より遠いものはない。明日より近いものはない』この言葉は1000年以上前からカザフスタンで言われている言葉よ。あたしはこの言葉を訊いたとき、今日をどう生きるかで人生が幸せかどうかを決めることが出来ると思ったの。過ぎた過去は遠くにあって考えたところで変えようもない。でも明日はすぐそこにあって、これから迎える明日は自分の手でどうにでも変えることが出来る。だから前を向いて行こうと決めたの」
司は黙って隣に座っている彼女の話を訊いていたが、それは強がりの中にある哀しい別れの記憶で16年の歳月が身にしみているように思えた。
それに司に忘れられた彼女の顏に浮かんだのは寂しそうな笑顔だったはずだ。
だが寂しさに慣れるとそれが当たり前になるという言葉に彼女の本当の気持ちが込められていると感じた。
司に忘れられたことが運命だと思うなら忘れる努力をしなくてもいつの間にか司のことは忘れたはずだ。
だが彼女は運命ではないと感じたから忘れる努力をして、諦めきれない気持ちを無理矢理抑え込んでいるように思えた。
だから司はやり直せると感じていた。
互いに前を向いたままの会話は一方通行で互いの顏は見えなかったが、だからこそ、本音を語ってくれるような気がした。
「牧野。俺は座して待つ男じゃないことはお前も知ってるはずだ。俺がお前を思う気持ちはお前に言わせれば今更で我儘な男の思いかもしれねえ。
それに俺の周り大勢の女がいたことは否定しない。けどそれは過去の話で俺の心の場所はお前の心の傍であって他の誰でもない。俺はお前のことを思い出してからは何の迷いもない。
それにしても俺に相応しいのは誰もが振り返る女だの、自らが輝いているだの言ったがお前の考え方はあの頃と同じだな。いいか?俺の傍にいていいのは、俺が心から愛している女で俺が認めた女じゃなけりゃ傍にいることは許されない。今、俺が傍にいて欲しいのはお前だ」
司にとって牧野つくしという女は、その存在に不思議さというものがある。
それは、何をしなくてもいい。
傍にいてくれるだけでいいということ。
「だがな牧野。お前が俺の傍にいたくないって言うなら、俺をお前の傍にいさせてくれ。
ま、お前が嫌だと言って逃げたとしても、世界中のどこにいてもそこへ会いに行く。離れるつもりはない。ああ?仕事の心配は必要ない。今の世の中、どこを拠点にしても仕事は出来る。それに出来ないなら出来るようにすればいいだけだ。これから先もカザフスタンにいるなら、俺が引っ越してくればいいだけの話だ。
牧野。お前の声だけが俺の心を軽くさせた。お前の微笑みが俺を人として生かした。人として生きていくためにはお前が必要だ。
それにお前、さっき言ったよな?アンタが死んだら困る人間は大勢いて道明寺司の代わりになる人間は他にはいないってな。それは俺の命は世界経済に影響を与えるってことだろ?俺はお前がいないと生きている意味がないって昔言ったよな?だから大勢の人間に迷惑をかけないためには、俺にはお前の存在が必要で、いなきゃ世間に迷惑がかかるってこと。つまりお前が俺を見捨てるってことは世界経済に混乱を及ぼすことになるってことだ。
ああ、そうだな。ウォールストリートジャーナルにこんな記事が載るぞ?
『道明寺財閥の後継者はひとりの女のために世界経済を崩壊させた』ってな。
それからタブロイド紙にはこんな記事も載るだろうよ。『道明寺財閥の後継者の心を手玉に取る悪女』いや、こんな記事も出るか?『御曹司の純愛を踏みにじった女、牧野つくし』当然だがそこにはお前の顏写真も掲載される」
司は彼女が立ち上って自分の前に立つと、じっと自分を見つめる瞳を見返した。
「どうした?牧野。ただ考えてるだけじゃどうにもならねぇことがあることは分かってるはずだ。まだ俺に言いたいことがあるなら言えよ。吐き出せ。お前のことだ。色んなことを心の中に閉じ込めてんだろ?」
司は彼女の感情を煽った。
そうでもしなければ彼女が心の奥底に隠している言葉を口に出すことはないと思ったから。
「誰が後継者の心を手玉に取る悪女よ…勝手なこと言わないでよ!」
怒りに燃えたような強い視線は司のことを井の中の蛙だと言った時と同じだ。
それは司が惚れた牧野つくしの強い意思が感じられる視線。
誰もが司に媚びへつらう学園の中にいて、ただひとり司に歯向かった女の言葉は彼の心に響いて染み込んだ。
「勝手なのは生まれつきだ」
「そんなの分かってるわよ!それになによ….心を手玉に取られたのはあたしの方よ!
勝手に好きになっといて、勝手に忘れて、勝手にニューヨークに行って….思い出したからって突然現れて……今更なによ….だいたいアンタは我儘なのよ…..」
司に怒りをぶつけている女の声は震えていた。
だが表情は無人島で、もう離れるのは嫌だと言った時と同じで大きな黒い瞳は水気をはらんで膨らんでいた。
そしてそこにあるのは簡単には好きだと言わなかった唇だ。
だから今も簡単に許すという言葉が貰えないことは分かっている。
それに『勝手に忘れて_』その言葉が胸に突き刺さった。
だが、彼女のその顔に見え隠れする思いは理解することが出来た。
司は目の前に立つ女が一歩後ろに引いて立ち去ろうとしたころで、立ち上がると指を彼女のうなじに巻きつけ引き寄せ抱きしめた。
「我儘で悪かったな。我儘だからお前以外の女は考えられない。お前がいないと生きていけねえ。生きてる意味がない。だから俺のこと許してくれ」
「ダメ!許さないから!」
抱き寄せた腕の中からくぐもって聞こえる声はまだ怒っていた。
だが司には分かる。
彼女のその怒りは司が彼女を忘れたことに対してではないことを。
だから問い返した口調は心持ち笑いを含んでいた。
「お前なあ……何が許せねえんだよ?」
勿論、司は許してもらえるならどんなことでもするつもりでいた。
土下座しろというならするつもりでいた。
「あたしより睫毛が長いことよ! 」
「はあ?」
「それにその睫毛がびっしり生えてることもよ!」
「お前….俺を許せない基準が睫毛か?」
意味不明の言葉を返す女は、司が腕を緩めると顔を上げたが瞳からは涙が溢れていた。
「それにあたしは美人じゃない….」
「またその話か?美しいかどうかの基準はお前じゃなく俺にある」
「それにあたしはどこにでもいる女で特別な女じゃないわ」
「特別かどうかは俺が決める」
「そ、それにあたしの寝顔は酷いわ」
「お前の寝顔はあんまり見たことがねえけど、寝顔が酷いのは俺も同じだろ?」
高校生だったふたりは、添い寝をしたことはあっても男女の関係には程遠かった。
「でもどう考えてもアンタにあたしは似合わないわよ。だって….」
結局彼女が言いたいのは、自分は司に似合いの女ではないということ。
だから司は彼女が自身を卑下しようとする言葉を遮った。
「牧野、何度も言わせるな。俺に似合うかどうかは俺が決める。
いいか?棘のないバラは意味がない。バラは棘があるからバラで簡単に人の手に取られることを嫌うから棘がある。俺にとってお前はバラだ。刺々しいから誰の手にも触れられなかったバラだ。そんなお前はどんな時もお前らしくいればいい。お前にはお前の良さがある。それが俺にしか理解出来ないものだとしてもいい。むしろ俺はお前の良さが分かるのは俺だけでいいと思ってるくらいだがな」
その声は、もうこれ以上泣かなくていいと言っていた。
それに司はもうこれ以上彼女を泣かせたくはなかった。
だから「それよりも牧野。お前高橋にアップルパイを食べさせたことがあるそうだが、俺にもお前が焼いたアップルパイを食べさせてくれ」と言って返事を待った。
すると彼女は小さく頷いたが、そこに涙で膨らんだ瞳はなかった。
だから司は何か言いたげな唇に唇を重ねたが、そこは涙の味が残っていた。

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「朝食は姉貴と済ませたそうだな」
「え?……うん…..」
「そうか。ちゃんと食べたのか?」
「うん…」
「美味かったか?」
「……え、ええ….」
司の問いかけに、どこか曖昧に答えた女は彼から目を逸らした。
司は彼女と朝食を共にしようと思っていた。
だがニューヨークからかかってきた電話が至急を要する案件と言われ、その対応に追われ共にすることは出来なかった。
そしてその間にロスから来た姉が彼女と朝食を共にしたことを使用人から訊いた。
「そうか。美味かったか….。昨日はよく眠れたか?」
「うん…..」
「何か足りないものはないか?」
「え?」
「だから足りないものだ」
「ないわ….ありがとう」
「そうか。何か必要なものがあったら言ってくれ」
どんなに自信家で強い男でも頭が上がらない人間はいる。
司の場合それは姉の椿。椿は弟が恋をした相手の女性を気に入った。
妹と呼んで可愛がった。そして彼女との恋が実るように手を尽くしてくれた。
だがその恋は司が彼女を忘れてしまったことで実ることはなかった。けれど、姉はふたりの恋に区切りをつけることをしなかった。
『このネックレスに見覚えはない?何か感じない?』と言った姉に司は、見覚えもなければ何も感じないと冷たく答えたが、姉は『これはアンタにとって大切なものだから大事にしなさいよ』と言った。
やがてその意味が分かったとき、出来ることなら自分で自分の頭を蹴りたい気持ちになった。
姉は朝食を済ませると司に会いに来て言った。
『司。頑張りなさい。私にはつくしちゃんがアンタのことを昔の男だからって切り捨てたとは思えないの。だからちゃんと話をしなさい。いい?ちゃんとよ?』
姉が言った「ちゃんと話をする」いい年をした男はその言葉の意味を理解している。
それは、誠心誠意彼女に伝えなければならない自分の気持ちだ。
だがふたりの間には張りつめた空気があった。
けれど、今の彼女はこれまでのように強く何かを主張しようとはしない。むしろ、司が何か言うのを待っているように思えた。
だが司も、これまでのように勝手な思いだけを伝えるつもりはない。
それに姉の言葉通りなら、彼女の心の奥にあるものを訊く事の方が重要だと思えた。
だが、会話よりも頻繁に流れる沈黙に、司には彼女が会話の入口を探しているように思えた。
そして彼女が手にしているのは司が置いていたネックレスの箱。
16年前に牧野つくしにプレゼントしたネックレスは二度彼に返された。
一度目は雨の夜を経た後。漁村で暮らし始めた彼女を迎えに行きはしたが、ギクシャクしたふたりの仲は元の関係に戻ることは無理だと返されたが、返されるくらいなら必要ないと川に投げ捨てた。
二度目は司が彼女を忘れ、別の女を傍に置いたことで別れを決め返しに来たが、本来なら彼女の元にあったはずのネックレス。それを手にしている彼女は何を思うのか。
そして司も彼女と同じで会話の入口を探していた。
いや、探しているのは会話の入口ではなく、心の入口といった方が正しい。
だから「牧野。話がしたいんだがいいか?」と言って彼女の答えを待った。
ふたりの間に流れた16年の歳月。
再会は中央アジアのカザフスタン。そこから隣国のキルギスへ移動したが、ふたりは春を迎えたビシュケクでチューリップが咲き揃った庭にいた。
広壮な邸宅はソビエト崩壊後に作られた建物で、持ち主は司の友人のひとりであるロシア人実業家。友人はこの建物をエルミタージュ美術館に似せて作ったと言ったが、エルミタージュはベルサイユ宮殿を真似て作られていることから、この建物はフランスの建築物の匂いがした。
そしてこの場所を貸して欲しいと言った司に二つ返事で応じたが、「ビジネスか?」と訊きた友人に「いや」と答えると「なら、女絡みか?」と付け加え、「上手くやれよ」と言った。
どんな形にせよ、ふたりだけでの時間を持つことを望んだ男が選んだこの場所には、色とりどりのチューリップが咲いているが、チューリップと言えばオランダが有名だがオランダは生産地であり、原産地はトルコからイラン、そして中央アジア一帯。だからキルギスでは品種改良される前の野生のチューリップを数多く目にすることが出来た。
そこを歩こうと誘ったのは司だが、彼女の表情が硬いのは16年ぶりに会った男の行動がそうさせたと分かっているが、真摯な態度で彼女に臨むことを決めた男の顏も硬かった。
「牧野。座らないか?」
司は庭に置かれているベンチの前で言った。
「え?」
その言葉から感じられるのは明らかな戸惑いと緊張だが、座って話すということは腰を据えて話をするということ。つまり話が長くなるということ。
だが、彼女は「いいわ」と言って木製のベンチに座ったが、それは司が彼女に話したいことがあるように彼女も司に話したいことがあるということ。
そして横並びに座るということは、目を合わせることがない。だから彼女が座ることに同意をしたように思えた。
司は再会してから強気な態度を取り続けていたが、16年たって現れた男に今更だと言った彼女に簡単に受け入れられるとは思ってはいない。
だが司が彼女のことを忘れたのは、彼が望んだからではない。
けれど、見舞いに来た彼女が傍にいることを拒否したのは司だ。
そして座ってはみたが、ふたりの間に3分くらいの沈黙が流れた。
「道明寺….」
彼女の方が先に口を開いた。
「あのね、あたしたちは16年会わなかった。お互いその間に色んなことがあった。
アンタがあたしを忘れて海ちゃんを傍に置いて、それから別れてアメリカに行って大学へ通いながら道明寺の仕事を始めたけど、あたしはまだアンタがいつかあたしのことを思い出すとどこかで期待していたの。でもあたしも大学を卒業して就職して分かったの。それはアンタのお母さんがあたしたちの付き合いに反対した理由をね。
あたしには義務も責任もない。あたしの人生はあたしのもので、あたしが死んでも誰かに迷惑をかけることもなければ誰かが困ることもない。だけどアンタは違う。アンタが死んだら困る人間は大勢いて道明寺司の代わりになる人間は他にはいないってことをね。
だから道明寺司が必要としているのは、あたしのようにどこにでもいる人間じゃない。
アンタに相応しいのは誰もが振り返って見るような人。アンタの隣にいても自らが輝いている人。それでもあたしは簡単にアンタのことを忘れることは出来なかった。
でも10年経って自分の世界を変えようと思った。だから会社を辞めて海外で日本語を教える仕事に就く事にしたの。アンタはもうあたしのことを思い出すこともなければ、あたしはアンタに追いつくことは出来ないって分かったから……」
彼女の口から語られたのは、時が経てば経つほど際立つ人生の違い。
道明寺の副社長の地位にいる男と、ただの会社員では立場が違い過ぎる。
平凡な容姿の女が華やかな外見を持つ男の隣に並べば滑稽さが感じられるということ。
「カザフスタンに渡る日が正式に決まったとき、荷物の整理をしながら考えた。
あたしは、これまで日本でしか暮らしたことがなかったけど、これからは海外でたくましく生きていこうって。これまでのことをリセットして新しい人生を歩んで行こうって。
ちょうど春で桜の花が咲いている頃だったから、次ぎに東京で桜を見ることが出来るのはいつになるのかって考えたからお花見に出かけた。そこで桜の花を見上げて思った。
悲しんでも寂しがっても仕方がない。人生は一度だけ。立ち止まってる時間があるなら前に進もうってね。それに人って寂しさに慣れちゃうと、それが当たり前になっちゃうのよ。
だからお姉さんはあたしのことを思い出したアンタの気持ちを汲んで欲しいって言ったけど、アンタとのことは過去のことで今更やり直すことは出来ない。だからやっぱりこれは返すわ」
そう言った彼女は隣に座る司との間にコートのポケットから取り出したネックレスが入った箱を置いた。
「『昨日より遠いものはない。明日より近いものはない』この言葉は1000年以上前からカザフスタンで言われている言葉よ。あたしはこの言葉を訊いたとき、今日をどう生きるかで人生が幸せかどうかを決めることが出来ると思ったの。過ぎた過去は遠くにあって考えたところで変えようもない。でも明日はすぐそこにあって、これから迎える明日は自分の手でどうにでも変えることが出来る。だから前を向いて行こうと決めたの」
司は黙って隣に座っている彼女の話を訊いていたが、それは強がりの中にある哀しい別れの記憶で16年の歳月が身にしみているように思えた。
それに司に忘れられた彼女の顏に浮かんだのは寂しそうな笑顔だったはずだ。
だが寂しさに慣れるとそれが当たり前になるという言葉に彼女の本当の気持ちが込められていると感じた。
司に忘れられたことが運命だと思うなら忘れる努力をしなくてもいつの間にか司のことは忘れたはずだ。
だが彼女は運命ではないと感じたから忘れる努力をして、諦めきれない気持ちを無理矢理抑え込んでいるように思えた。
だから司はやり直せると感じていた。
互いに前を向いたままの会話は一方通行で互いの顏は見えなかったが、だからこそ、本音を語ってくれるような気がした。
「牧野。俺は座して待つ男じゃないことはお前も知ってるはずだ。俺がお前を思う気持ちはお前に言わせれば今更で我儘な男の思いかもしれねえ。
それに俺の周り大勢の女がいたことは否定しない。けどそれは過去の話で俺の心の場所はお前の心の傍であって他の誰でもない。俺はお前のことを思い出してからは何の迷いもない。
それにしても俺に相応しいのは誰もが振り返る女だの、自らが輝いているだの言ったがお前の考え方はあの頃と同じだな。いいか?俺の傍にいていいのは、俺が心から愛している女で俺が認めた女じゃなけりゃ傍にいることは許されない。今、俺が傍にいて欲しいのはお前だ」
司にとって牧野つくしという女は、その存在に不思議さというものがある。
それは、何をしなくてもいい。
傍にいてくれるだけでいいということ。
「だがな牧野。お前が俺の傍にいたくないって言うなら、俺をお前の傍にいさせてくれ。
ま、お前が嫌だと言って逃げたとしても、世界中のどこにいてもそこへ会いに行く。離れるつもりはない。ああ?仕事の心配は必要ない。今の世の中、どこを拠点にしても仕事は出来る。それに出来ないなら出来るようにすればいいだけだ。これから先もカザフスタンにいるなら、俺が引っ越してくればいいだけの話だ。
牧野。お前の声だけが俺の心を軽くさせた。お前の微笑みが俺を人として生かした。人として生きていくためにはお前が必要だ。
それにお前、さっき言ったよな?アンタが死んだら困る人間は大勢いて道明寺司の代わりになる人間は他にはいないってな。それは俺の命は世界経済に影響を与えるってことだろ?俺はお前がいないと生きている意味がないって昔言ったよな?だから大勢の人間に迷惑をかけないためには、俺にはお前の存在が必要で、いなきゃ世間に迷惑がかかるってこと。つまりお前が俺を見捨てるってことは世界経済に混乱を及ぼすことになるってことだ。
ああ、そうだな。ウォールストリートジャーナルにこんな記事が載るぞ?
『道明寺財閥の後継者はひとりの女のために世界経済を崩壊させた』ってな。
それからタブロイド紙にはこんな記事も載るだろうよ。『道明寺財閥の後継者の心を手玉に取る悪女』いや、こんな記事も出るか?『御曹司の純愛を踏みにじった女、牧野つくし』当然だがそこにはお前の顏写真も掲載される」
司は彼女が立ち上って自分の前に立つと、じっと自分を見つめる瞳を見返した。
「どうした?牧野。ただ考えてるだけじゃどうにもならねぇことがあることは分かってるはずだ。まだ俺に言いたいことがあるなら言えよ。吐き出せ。お前のことだ。色んなことを心の中に閉じ込めてんだろ?」
司は彼女の感情を煽った。
そうでもしなければ彼女が心の奥底に隠している言葉を口に出すことはないと思ったから。
「誰が後継者の心を手玉に取る悪女よ…勝手なこと言わないでよ!」
怒りに燃えたような強い視線は司のことを井の中の蛙だと言った時と同じだ。
それは司が惚れた牧野つくしの強い意思が感じられる視線。
誰もが司に媚びへつらう学園の中にいて、ただひとり司に歯向かった女の言葉は彼の心に響いて染み込んだ。
「勝手なのは生まれつきだ」
「そんなの分かってるわよ!それになによ….心を手玉に取られたのはあたしの方よ!
勝手に好きになっといて、勝手に忘れて、勝手にニューヨークに行って….思い出したからって突然現れて……今更なによ….だいたいアンタは我儘なのよ…..」
司に怒りをぶつけている女の声は震えていた。
だが表情は無人島で、もう離れるのは嫌だと言った時と同じで大きな黒い瞳は水気をはらんで膨らんでいた。
そしてそこにあるのは簡単には好きだと言わなかった唇だ。
だから今も簡単に許すという言葉が貰えないことは分かっている。
それに『勝手に忘れて_』その言葉が胸に突き刺さった。
だが、彼女のその顔に見え隠れする思いは理解することが出来た。
司は目の前に立つ女が一歩後ろに引いて立ち去ろうとしたころで、立ち上がると指を彼女のうなじに巻きつけ引き寄せ抱きしめた。
「我儘で悪かったな。我儘だからお前以外の女は考えられない。お前がいないと生きていけねえ。生きてる意味がない。だから俺のこと許してくれ」
「ダメ!許さないから!」
抱き寄せた腕の中からくぐもって聞こえる声はまだ怒っていた。
だが司には分かる。
彼女のその怒りは司が彼女を忘れたことに対してではないことを。
だから問い返した口調は心持ち笑いを含んでいた。
「お前なあ……何が許せねえんだよ?」
勿論、司は許してもらえるならどんなことでもするつもりでいた。
土下座しろというならするつもりでいた。
「あたしより睫毛が長いことよ! 」
「はあ?」
「それにその睫毛がびっしり生えてることもよ!」
「お前….俺を許せない基準が睫毛か?」
意味不明の言葉を返す女は、司が腕を緩めると顔を上げたが瞳からは涙が溢れていた。
「それにあたしは美人じゃない….」
「またその話か?美しいかどうかの基準はお前じゃなく俺にある」
「それにあたしはどこにでもいる女で特別な女じゃないわ」
「特別かどうかは俺が決める」
「そ、それにあたしの寝顔は酷いわ」
「お前の寝顔はあんまり見たことがねえけど、寝顔が酷いのは俺も同じだろ?」
高校生だったふたりは、添い寝をしたことはあっても男女の関係には程遠かった。
「でもどう考えてもアンタにあたしは似合わないわよ。だって….」
結局彼女が言いたいのは、自分は司に似合いの女ではないということ。
だから司は彼女が自身を卑下しようとする言葉を遮った。
「牧野、何度も言わせるな。俺に似合うかどうかは俺が決める。
いいか?棘のないバラは意味がない。バラは棘があるからバラで簡単に人の手に取られることを嫌うから棘がある。俺にとってお前はバラだ。刺々しいから誰の手にも触れられなかったバラだ。そんなお前はどんな時もお前らしくいればいい。お前にはお前の良さがある。それが俺にしか理解出来ないものだとしてもいい。むしろ俺はお前の良さが分かるのは俺だけでいいと思ってるくらいだがな」
その声は、もうこれ以上泣かなくていいと言っていた。
それに司はもうこれ以上彼女を泣かせたくはなかった。
だから「それよりも牧野。お前高橋にアップルパイを食べさせたことがあるそうだが、俺にもお前が焼いたアップルパイを食べさせてくれ」と言って返事を待った。
すると彼女は小さく頷いたが、そこに涙で膨らんだ瞳はなかった。
だから司は何か言いたげな唇に唇を重ねたが、そこは涙の味が残っていた。

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司*****E様
こんにちは^^
沈黙を挟みながらも司はつくしの色々を見逃しませんでした(笑)
そうです。彼は絶対につくしを逃さない。そんな気持ちでいますからねえ。
それにしても自分よりも長い睫毛が許せない。
そんなことはこじつけに過ぎないのですが色々と悔しいんでしょうね。
なんだかんだと言いながら、つくしの心の中にはずっと司がいたんですから。
三寒四温を経て春になるとは言え、冬のコートをクリーニングに出すことはまだ先になりそうです。
司*****E様もお身体ご自愛下さいませ。
コメント有難うございました^^
こんにちは^^
沈黙を挟みながらも司はつくしの色々を見逃しませんでした(笑)
そうです。彼は絶対につくしを逃さない。そんな気持ちでいますからねえ。
それにしても自分よりも長い睫毛が許せない。
そんなことはこじつけに過ぎないのですが色々と悔しいんでしょうね。
なんだかんだと言いながら、つくしの心の中にはずっと司がいたんですから。
三寒四温を経て春になるとは言え、冬のコートをクリーニングに出すことはまだ先になりそうです。
司*****E様もお身体ご自愛下さいませ。
コメント有難うございました^^
アカシア
2020.03.15 22:13 | 編集
