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2020
02.27

また、恋が始まる 6

通訳の仕事で一番大切なのは誤訳をしないということ。
だから全神経を相手の言葉に集中させることだけをする。
そして通訳を頼まれる時には、どういった状況で誰の通訳を務めることになるのかを知らされるはずだが今回それは無かった。

道明寺のアルマトイ駐在事務所の高橋がつくしに通訳の仕事をお願いしたいと言って来たのは3日前。
その時言われたのは、「急で申し訳ないんですが日本から重役が来ることになったので彼のために通訳を頼みたいんです」ただ、それだけだった。

道明寺の重役クラス。それはエリートを意味するが、つくしを通訳として必要とするということは、ロシア語を話すことが出来ないということになる。
だからカザフ語が話せないのも当然だといえば当然だと言えた。

この国は120以上の民族が暮らしていると言われるが、ソビエトから独立して以来、国民の7割近くを占めるカザフ人が話すカザフ語を大切にしている。
そしてカザフ語を話すことを推奨している。
だからカザフ語を話す外国人は非常に歓迎されることから、つくしのようにロシア語とカザフ語が話せる人間は重宝される。つまり通訳の仕事の需要はそれなりにあった。
だがまさか通訳として同行する相手があの男だとは思いもしなかった。

道明寺司。
つくしを忘れて16年。
ニューヨークを拠点に仕事をしてきた男の噂は耳にしていた。
高校生の頃、潔癖と言われ女を寄せ付けなかった男は、華々しいニューヨーク社交界で数多くの女性を虜にしていて、三白眼の鋭いセクシーな瞳を持つ黒豹と呼ばれていた。
そしてその黒豹は簡単に女の手に堕ちることはないと言われているが、もしその法外な容姿を持つ男が誰かの手に堕ちるとすれば、それはどこかの国の王女クラスではないかと言われていた。

そんな男が昨日突然現れ、つくしのことを思い出したと言ったことからピンと来た。
それは高橋に頼まれた仕事は仕事という名を借りているだけで通訳としての体を成さないのではないかということ。
つまり、ただ単にあの男がつくしに会うための口実を作ったに過ぎないのではないかということ。

だが「牧野様。お久しぶりでございます。お元気そうで何よりです。それでは参りましょう」と言ったのは秘書の西田。
そしてリムジンの後部座席に乗り込んだ道明寺司と秘書の西田と駐在員の高橋とつくしが向かった先はアルマトイ市役所。
高橋はそこで市長との面会があると言った。

「実は道明寺副社長がアルマトイを訪問されることをお話したところ、是非会いたいとおっしゃいましてね。何しろ世界的企業の道明寺ホールディングスの副社長がこの国を訪れるんです。市長としてもこの街に投資をお願いしたいと考えているのではないでしょうか?」

その言葉につくしはホッとしていた。
公の場で通訳の仕事があるということは、この男から昨日のように愛してるだの、30を過ぎた女が中途半端な関係でいることで幸せになれるとは思えないと言った訳の分からない持論が展開されることはないからだ。

だがホッとするのは早かったかもしれない。
いつからこの男は耳が遠くなったのか。

「牧野さん。申し訳ない。どうも耳の調子が良くないようだ。もう少し近くで通訳してくれませんか?」

昨日とは打って変わったようにビジネスライクな態度を取る男は、つくしの顏をもっと耳元に近づけて欲しいと言った。
だからつくしは慌てて男の耳元に顏を近づけ市長が喋ったカザフ語を日本語に訳したが、それはどこにでもある型通りの挨拶であり訳すのは簡単だ。
そして次に男の口から発せられる言葉を待ったが、きっと市長と同じように、お会いできるのを楽しみにしておりました。といった型通りの挨拶が返されるはずだ。
だからつくしはその言葉を頭の中に用意して男が口を開くのを待った。

「牧野。昨日も言ったが俺はお前のことを愛してる。お前のことを忘れたのは本意じゃない。何も忘れたくて忘れた訳じゃない。それだけは分かってくれてるよな? 」

は?今、この男はなんと言った?
通訳であるつくしが普段隣に座っている人間の顏を見ることはない。
それは耳に全ての神経を集中させ、気になる言葉を素早くメモして頭の中で文章を組み立てることに懸命だからだ。
だがこの瞬間つくしは隣に座っている男の顏をまじまじと見つめたが、男はつくしを見ることなく、テーブルの向こう側に座っている市長に向けられていた。

そして市長は男が何を言ったのかをつくしの口から訊かされるのを待っているが、つくしは男の思いもしない態度に、いや言葉に動揺していた。
そしてその場に流れる静かな沈黙。
それは、ここにいる全員がつくしの口から語られる男の言葉をただひたすら待っているということ。

「あの….ええっと….『わ、わたくしもお会いできるのを大変楽しみにしておりました』」

つくしは頭の中で用意していた型通りの挨拶を口にしたが、それは通訳にあるまじき誤訳行為。だがこれは誤訳ではなく捏造と言った方が正しい。
だが市長をはじめ、テーブルの向こう側に座っている人間は、誰もがその言葉に満足そうに微笑みを浮べ喜んだ。
そしてつくしの隣に座っている駐在員の高橋と、男の隣に座っている秘書は、男の言葉に表情を変えることはなかった。

そしてそこから先、男は日本語を全く理解出来ないカザフスタンの人々を前に、この国にもこの街にも、ビジネスにも全く関係ないつくしへの思いを延々と語り続けた。
だからつくしも延々と捏造を続けるしかなかった。


「牧野。俺はお前とやり直したい。俺がお前を忘れたことは全面的に俺が悪い。お前が作った弁当を他の女が作ったと理解した俺の脳みそはどうかしていた」

『初めてこの国を訪れましたが、この街はとても美しいですね?』

「牧野。俺はお前のことを思い出してから自分がこれまで過ごしてきた時間を無駄にしてきたと後悔した」

『食べ物もとても美味しいですし、私はこの街が気に入りました。アルマトイの皆さんはとても親切です』

「牧野。俺は何度でも言う。お前のことを愛している。つまりこの気持ちは16年前、お前のことを忘れる前と同じだってことだ」

『あなた方はこの国でビジネスをする我々に対してとても協力的です。そのことについて大変感謝しております』

男の耳元でカザフ語を日本語に訳して伝え、男の日本語をカザフ語に訳す。
それも、男が喋った会話の長さ相当の長さで言葉を返すということに気を配り、市長をはじめとするテーブルの向こうに並ぶ人間が喜ぶであろう言葉を捏造し続ける。
つくしはもういい加減にして欲しいという思いが湧き上がったが、まさか市長の前で世界的な企業である道明寺の副社長に怒りをぶつける訳にはいかなかった。
だからただひたすらに、言葉を捏造し続けていた。




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コメント
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dot 2020.02.27 06:01 | 編集
司*****E様
おはようございます^^
日本語が分からない相手の前でここぞとばかりつくしに愛の言葉をささやく男。
そんな男の言葉を誤訳...いえ、捏造する女の怒りが爆発しそうですか?(笑)

それにしても、ライブが当日キャンセルというのも辛いですねえ。
毎日状況は変化していますが、今日もまた色々とありましたねえ。
早く終息して欲しいですが敵は目に見えません。
自分達で出来る予防をするしかありませんよねえ。
それにしても、このままでは社会情勢がどんどんマズイ方へ向かっていくような気がします。

コメント有難うございました^^
アカシアdot 2020.02.28 22:55 | 編集
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