つくしは台所で調理中に家の外で車が止まった音を訊いた。
やがて玄関のチャイムが鳴り、扉がノックされる音を訊いたが、チャイムを鳴らしながらノックをするという、せっかちな人間は余程急いでつくしに会いたいということか。
「もう。誰よ?今忙しいんだから。ちょっと待ってよね?」
海外に暮らしていても、ひとり言を呟く癖は治らなかった。
訪問者は誰なのか。古い民家をリフォームした家に訪問者を確認できるカメラはなく、コンロの火を消して扉の前まで行くと「どなたですか?」とロシア語で訊いた。
すると扉の向こう側にいる人物は日本語で言った。
「牧野さん。高橋です。道明寺の高橋です」
「え?高橋さん?すみません。少しだけ待ってもらえますか?」
少し待ってもらうことにしたのは小麦粉まみれになっている手を洗うためだったが、明日通訳の仕事で訪れることになっている道明寺の駐在員である高橋が自宅を訪ねてきたことに、予定の変更があるのかと思った。
だがそれなら電話連絡で済むはずだと思いながら、もしかすると日本人会のことかと思った。それは定期的に開かれる食事会だが、用事がない限り出来るだけ参加するようにしていて、つくしがこの国に来たのと同じ頃に赴任してきたという男性とは、仕事とは別に日本人会で顏を合わせていた。
正確な年齢は知らないが40代後半と思われる男性は、話しやすく親しみのもてる男性だ。
その高橋から通訳として仕事を頼まれるようになったのは、大学での教師の仕事の任期が終了してから。それはロシア語とカザフ語のどちらも理解している日本人は貴重だという理由だったが、勤務先が道明寺だと言った男性に、自分を忘れた男のことが頭を過った。
日本を離れたのは5年前。
28歳で勤務していた会社を辞め、国際文化交流事業を行う団体の事業に応募してこの国に来た。そして任期が終わってからもこの国に残ることにした。
この国に来た理由。それは何かを変えたかったからだが、その何は何ですかと問われれば、『何か』としか言いようがない。
だが誰でも人生の中で一度はそういったことを思うはずだ。
つまり変わらなければと思う自分がいるということになるが、その根元が何であるかは分かっている。それは、まさかこの国に来てまで道明寺という名前に係わるとは思わなかったが、あの男のことだ。
5年前、あの男がつくしを忘れて11年が経った。
『十年一昔』という言葉がある。それは歳月の流れの10年をひと区切りとするなら、10年前に起こったことは昔のことであり古い話ということになる。
だから古い話にケリをつけるため、あの男のことを完全に忘れるために環境を変えようと思った。だから本当なら10年目に会社を辞めたかったが、任されていたプロジェクトを終えてという思いから1年伸びた。
そして会社を辞めた。
10年をひと区切りにする古い話。
つくしは、道明寺司という男と付き合い始めたばかりの時、その男に忘れられた。
だがそれは男が悪いのではない。
暴漢に襲われ瀕死の重傷を負った男が命を取り留めることが出来たのは、あの男の体力と医学のおかげだが、まさか記憶障害を起こしているとは思いもしなかったが、そうなったことで男を責めることは出来なかった。
それに、いつかきっとぶっきらぼうな笑顔で自分の前に現れる男がいる。そう思っていた。
けれど、そんな男が現れることはなかった。
つまり男の記憶は10年間浮上しなかった。
だがつくしの気持ちが同じように浮上しなかったのではない。
仕事は入社してからすぐに大きなプロジェクトに参加したが、楽しかったしやりがいを感じた。ただ私生活に於いて、つまり男性と付き合うとか付き合わないとかということだが、その方面に対して興味がわかなかった。
そしてあの頃のことを知る人間に気を使われるのが嫌だった。
あの話はもう終わりにしたいと思った。
だからだろう。選んだ外国で日本語を教える仕事。
カザフスタンならあの男との接点はないはずだと思ったが少し考えれば分かることだ。
幅広い事業を展開する道明寺グループはこの国に駐在事務所を置いていて、係わることがないと思っていた名前に係わっていた。
つくしは手を洗い終えるとエプロンを外した。
そして玄関扉の前に立つと鍵を外して扉を開けた。
「おまたせしてすみません。今ちょうど料理をしていて__」
つくしが扉を開けた先にいたのは、やたらと目力の強い男。
その男がつくしの真正面に立って彼女を睨みつけていた。
「………」
人は本当に驚くと声が出ないというが、まさに今の彼女の状態はそれだ。
だからつくしはギョっとした顏に大きな目を見開いた状態で、穴が開くと言ってもいいほど目の前の男を見ていた。
「牧野様?牧野様?」
繰り返しつくしの名前を呼んだのは駐在員の高橋。
「は?…い?……え?」
つくしが言葉に詰まっているのは、どう反応していいのか分からないから。
そして口から発せられたそれは、ただ息が漏れただけと言ってもいいほどで自分でも何を言っているのかわからない。
だから突然目の前に現れた男に沈黙するしかなかった。
だがその沈黙はつくしが言葉を失った思考回路を取り戻そうとしている時間だ。
それはまるで初めてロシア語の通訳をした時、相手の言葉を要約しながら自分が喋る言葉を慎重に選んでいたのと同じで__
「牧野。お前言葉を忘れたか?….ったく日本語の教師をしている女が言葉を忘れてどうする?」
司はからかうように言って一歩足を踏み出したがその途端、目の前で勢いよく扉が閉められた。

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やがて玄関のチャイムが鳴り、扉がノックされる音を訊いたが、チャイムを鳴らしながらノックをするという、せっかちな人間は余程急いでつくしに会いたいということか。
「もう。誰よ?今忙しいんだから。ちょっと待ってよね?」
海外に暮らしていても、ひとり言を呟く癖は治らなかった。
訪問者は誰なのか。古い民家をリフォームした家に訪問者を確認できるカメラはなく、コンロの火を消して扉の前まで行くと「どなたですか?」とロシア語で訊いた。
すると扉の向こう側にいる人物は日本語で言った。
「牧野さん。高橋です。道明寺の高橋です」
「え?高橋さん?すみません。少しだけ待ってもらえますか?」
少し待ってもらうことにしたのは小麦粉まみれになっている手を洗うためだったが、明日通訳の仕事で訪れることになっている道明寺の駐在員である高橋が自宅を訪ねてきたことに、予定の変更があるのかと思った。
だがそれなら電話連絡で済むはずだと思いながら、もしかすると日本人会のことかと思った。それは定期的に開かれる食事会だが、用事がない限り出来るだけ参加するようにしていて、つくしがこの国に来たのと同じ頃に赴任してきたという男性とは、仕事とは別に日本人会で顏を合わせていた。
正確な年齢は知らないが40代後半と思われる男性は、話しやすく親しみのもてる男性だ。
その高橋から通訳として仕事を頼まれるようになったのは、大学での教師の仕事の任期が終了してから。それはロシア語とカザフ語のどちらも理解している日本人は貴重だという理由だったが、勤務先が道明寺だと言った男性に、自分を忘れた男のことが頭を過った。
日本を離れたのは5年前。
28歳で勤務していた会社を辞め、国際文化交流事業を行う団体の事業に応募してこの国に来た。そして任期が終わってからもこの国に残ることにした。
この国に来た理由。それは何かを変えたかったからだが、その何は何ですかと問われれば、『何か』としか言いようがない。
だが誰でも人生の中で一度はそういったことを思うはずだ。
つまり変わらなければと思う自分がいるということになるが、その根元が何であるかは分かっている。それは、まさかこの国に来てまで道明寺という名前に係わるとは思わなかったが、あの男のことだ。
5年前、あの男がつくしを忘れて11年が経った。
『十年一昔』という言葉がある。それは歳月の流れの10年をひと区切りとするなら、10年前に起こったことは昔のことであり古い話ということになる。
だから古い話にケリをつけるため、あの男のことを完全に忘れるために環境を変えようと思った。だから本当なら10年目に会社を辞めたかったが、任されていたプロジェクトを終えてという思いから1年伸びた。
そして会社を辞めた。
10年をひと区切りにする古い話。
つくしは、道明寺司という男と付き合い始めたばかりの時、その男に忘れられた。
だがそれは男が悪いのではない。
暴漢に襲われ瀕死の重傷を負った男が命を取り留めることが出来たのは、あの男の体力と医学のおかげだが、まさか記憶障害を起こしているとは思いもしなかったが、そうなったことで男を責めることは出来なかった。
それに、いつかきっとぶっきらぼうな笑顔で自分の前に現れる男がいる。そう思っていた。
けれど、そんな男が現れることはなかった。
つまり男の記憶は10年間浮上しなかった。
だがつくしの気持ちが同じように浮上しなかったのではない。
仕事は入社してからすぐに大きなプロジェクトに参加したが、楽しかったしやりがいを感じた。ただ私生活に於いて、つまり男性と付き合うとか付き合わないとかということだが、その方面に対して興味がわかなかった。
そしてあの頃のことを知る人間に気を使われるのが嫌だった。
あの話はもう終わりにしたいと思った。
だからだろう。選んだ外国で日本語を教える仕事。
カザフスタンならあの男との接点はないはずだと思ったが少し考えれば分かることだ。
幅広い事業を展開する道明寺グループはこの国に駐在事務所を置いていて、係わることがないと思っていた名前に係わっていた。
つくしは手を洗い終えるとエプロンを外した。
そして玄関扉の前に立つと鍵を外して扉を開けた。
「おまたせしてすみません。今ちょうど料理をしていて__」
つくしが扉を開けた先にいたのは、やたらと目力の強い男。
その男がつくしの真正面に立って彼女を睨みつけていた。
「………」
人は本当に驚くと声が出ないというが、まさに今の彼女の状態はそれだ。
だからつくしはギョっとした顏に大きな目を見開いた状態で、穴が開くと言ってもいいほど目の前の男を見ていた。
「牧野様?牧野様?」
繰り返しつくしの名前を呼んだのは駐在員の高橋。
「は?…い?……え?」
つくしが言葉に詰まっているのは、どう反応していいのか分からないから。
そして口から発せられたそれは、ただ息が漏れただけと言ってもいいほどで自分でも何を言っているのかわからない。
だから突然目の前に現れた男に沈黙するしかなかった。
だがその沈黙はつくしが言葉を失った思考回路を取り戻そうとしている時間だ。
それはまるで初めてロシア語の通訳をした時、相手の言葉を要約しながら自分が喋る言葉を慎重に選んでいたのと同じで__
「牧野。お前言葉を忘れたか?….ったく日本語の教師をしている女が言葉を忘れてどうする?」
司はからかうように言って一歩足を踏み出したがその途端、目の前で勢いよく扉が閉められた。

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司*****E様
おはようございます^^
行事が無事終了して楽しまれたとのことですが、良かったですねえ。
そこには感動があったということですね?
でもあと少しだけ開催が遅ければ中止になっていたかもしれませんよね?
パワーがもらえた!(≧▽≦)いいですねえ。
アカシアも年に一度お気に入りのアーティストのライブに行くことがありますが、同じくパワーがもらえたと感じます。
まだ先なのですが無事開催されることを祈りたいです。
コメント有難うございました^^
おはようございます^^
行事が無事終了して楽しまれたとのことですが、良かったですねえ。
そこには感動があったということですね?
でもあと少しだけ開催が遅ければ中止になっていたかもしれませんよね?
パワーがもらえた!(≧▽≦)いいですねえ。
アカシアも年に一度お気に入りのアーティストのライブに行くことがありますが、同じくパワーがもらえたと感じます。
まだ先なのですが無事開催されることを祈りたいです。
コメント有難うございました^^
アカシア
2020.02.26 21:46 | 編集
