壺の中にいる私の耳に届いた彼女の言葉は心に突き刺さるもので、真冬の湖の水底に沈んだナイフだった。
私はすぐにでも壺から出て彼女を抱きしめたかった。
外見は違うが私は記憶を取り戻した道明寺司だと名乗りたかった。
しかし私は自分の意思で壺から出ることは出来ない。
それに生きていた頃の私は人には言えないようなことを平気でやってのける人間であり、暗闇の中で人生を終えるに相応しい行いをしてきた。だからそんな人間である私は彼女の前に出ることが躊躇われた。
だが何故私は壺の中にいるのか。
そのことをいくら考えたところで、理由などわかるはずもないのだから、彼女を忘れたことで空費してしまった時間を悔いることしか出来なかった。
それに酔っぱらった彼女は、自分を忘れた男を許したと言ったが、思い出が去ってしまうまでどれほどの時間がかかったのか。
だがそう思う私は、この状況が彼女のことを忘れてしまった自分への畏(かしこ)き神が与えた贈り物だと思っている。何しろ彼女が骨とう品店で私が住まうことになった壺を手に取ったことで、こうして彼女の傍にいることができるのだから、壺の中が私にとって小さな現実の世界だとしても、この状況は彼女のことを忘れなければ人生を暗闇の中で終えることなく、共に泣いたり笑ったりの日々を過ごすことができた、つまり真人間で生きていられたはずの私への神からの贈り物なのだ。
それに私は彼女の心の片隅に自分がいることを知り嬉しかった。
だから味わったその気分を、頭の中で反芻してみた。すると不思議なことだが彼女の声だけではなく匂いも感じることができた。
彼女の匂い。それは香水の香りではなく、シャンプーや石鹸の匂いでもない。
それなら彼女の匂いは何なのか。
それは透き通る青い風の中に香る若葉の匂い。
陽射しを浴びたみずみずしい植物の匂い。
さわやかな風に吹かれているような清々しさが感じられる匂いであり、その匂いは私だけのもの。
そう思う私が瞼を上げれば、見えたのは白い天井。淡いグリーンの壁。クリーム色の床。寝ている私の体が沈みこんでいるのは、幾分固めのベッド。そして私に掛けられている寝具は薄い空の色。窓の外に見えるビルは……..
この場所には見覚えがあった。
それは遠い記憶の底に留められた景色。
もしや、時間が巻き戻され、あの時に戻ったのでは?
高校生の頃に戻ったのではないか?
いや。物語や映画でもない限り時間が巻き戻ることはない。
「ここは__?」
口から出たのは掠れた声。
その声に気付いた人物が駆け寄って来た。
そして私の顏を見つめて言った。
「良かった….」
そう言った人物の瞳は潤んでいて、頬にまだらになった涙の痕が見えた。
季節は冬の一番寒い頃。
私が会長室で倒れたのは11月だったのだから、2ヶ月近く眠っていたことになる。
そして夢を見ていた。
それは大切な人のことを思い出すことなくこの世を去った私が別人の姿で壺の住人となり、その人の傍で暮らしているという夢だが、目を覚ました私に「良かった」と言った人物は大切なその人で、その人は私の妻だ。
社長を退いた私が会長の職に就いたのは一年前。
それまでの忙しい生活から解放された私は、後任の社長である息子に会社のことを任せると、妻と船旅へ出ようとしていた。
それは私たちにとって二度目の新婚旅行。持て余すほどの時間とは言えないが、夫婦だけの時間は充分ある。だからクリスマスも妻の誕生日も船の上で祝うことを計画していた。
だが私が2ヶ月近く眠っていたことで、そのどちらも夢の中で思ったのと同じで空約束となった。
しかしそれ以前に、もしあの時、彼女のことを思い出さなければ正に夢と同じで彼女以外の人と結婚し、暗闇の中で人生を終えていたはずだ。
だから、たとえここが病院のベッドの上だとしても、彼女が傍にいて私の手を握っていてくれることが嬉しかった。
「眠くなった」
目を覚ました私に処置を終えた医者と看護師が去ると、私は眠りに誘われた。
「2ヶ月近くも眠ったのにまだ眠いの?」
彼女は笑いながら言った。
「ああ。いい男でいる為には睡眠は欠かせない」
「キザなセリフね」
「キザで悪かったな」
そう答えた私は瞳を閉じた。
「ゆっくり眠って。だけど眠り続けるのは止めてね」
と彼女は言って、細い指先で私の顏を拭った。
私は好きな女のためにしか涙は流さない。
だからこぼれ落ちた涙を恥ずかしいとは思わない。
だがポタポタと頬に落ちてくる雫は自分のものではない。
そして落ちてくる雫とともに涙声の呟きが聞えた。
「帰ってきてくれてよかった」
人生には思い出も必要だ。
だが私に一番必要なのは思い出ではなく彼女。
惚れて、惚れて、惚れ抜いて一緒になった。
だからまだ彼女の思い出にはなりたくない。
それに一生死ぬまで大切にすると誓った相手を置いて先に逝くわけにはいかない。
そう思う私は、今、自分が世界で一番幸福な人間に思えた。
< 完 > *リメンバランス*

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私はすぐにでも壺から出て彼女を抱きしめたかった。
外見は違うが私は記憶を取り戻した道明寺司だと名乗りたかった。
しかし私は自分の意思で壺から出ることは出来ない。
それに生きていた頃の私は人には言えないようなことを平気でやってのける人間であり、暗闇の中で人生を終えるに相応しい行いをしてきた。だからそんな人間である私は彼女の前に出ることが躊躇われた。
だが何故私は壺の中にいるのか。
そのことをいくら考えたところで、理由などわかるはずもないのだから、彼女を忘れたことで空費してしまった時間を悔いることしか出来なかった。
それに酔っぱらった彼女は、自分を忘れた男を許したと言ったが、思い出が去ってしまうまでどれほどの時間がかかったのか。
だがそう思う私は、この状況が彼女のことを忘れてしまった自分への畏(かしこ)き神が与えた贈り物だと思っている。何しろ彼女が骨とう品店で私が住まうことになった壺を手に取ったことで、こうして彼女の傍にいることができるのだから、壺の中が私にとって小さな現実の世界だとしても、この状況は彼女のことを忘れなければ人生を暗闇の中で終えることなく、共に泣いたり笑ったりの日々を過ごすことができた、つまり真人間で生きていられたはずの私への神からの贈り物なのだ。
それに私は彼女の心の片隅に自分がいることを知り嬉しかった。
だから味わったその気分を、頭の中で反芻してみた。すると不思議なことだが彼女の声だけではなく匂いも感じることができた。
彼女の匂い。それは香水の香りではなく、シャンプーや石鹸の匂いでもない。
それなら彼女の匂いは何なのか。
それは透き通る青い風の中に香る若葉の匂い。
陽射しを浴びたみずみずしい植物の匂い。
さわやかな風に吹かれているような清々しさが感じられる匂いであり、その匂いは私だけのもの。
そう思う私が瞼を上げれば、見えたのは白い天井。淡いグリーンの壁。クリーム色の床。寝ている私の体が沈みこんでいるのは、幾分固めのベッド。そして私に掛けられている寝具は薄い空の色。窓の外に見えるビルは……..
この場所には見覚えがあった。
それは遠い記憶の底に留められた景色。
もしや、時間が巻き戻され、あの時に戻ったのでは?
高校生の頃に戻ったのではないか?
いや。物語や映画でもない限り時間が巻き戻ることはない。
「ここは__?」
口から出たのは掠れた声。
その声に気付いた人物が駆け寄って来た。
そして私の顏を見つめて言った。
「良かった….」
そう言った人物の瞳は潤んでいて、頬にまだらになった涙の痕が見えた。
季節は冬の一番寒い頃。
私が会長室で倒れたのは11月だったのだから、2ヶ月近く眠っていたことになる。
そして夢を見ていた。
それは大切な人のことを思い出すことなくこの世を去った私が別人の姿で壺の住人となり、その人の傍で暮らしているという夢だが、目を覚ました私に「良かった」と言った人物は大切なその人で、その人は私の妻だ。
社長を退いた私が会長の職に就いたのは一年前。
それまでの忙しい生活から解放された私は、後任の社長である息子に会社のことを任せると、妻と船旅へ出ようとしていた。
それは私たちにとって二度目の新婚旅行。持て余すほどの時間とは言えないが、夫婦だけの時間は充分ある。だからクリスマスも妻の誕生日も船の上で祝うことを計画していた。
だが私が2ヶ月近く眠っていたことで、そのどちらも夢の中で思ったのと同じで空約束となった。
しかしそれ以前に、もしあの時、彼女のことを思い出さなければ正に夢と同じで彼女以外の人と結婚し、暗闇の中で人生を終えていたはずだ。
だから、たとえここが病院のベッドの上だとしても、彼女が傍にいて私の手を握っていてくれることが嬉しかった。
「眠くなった」
目を覚ました私に処置を終えた医者と看護師が去ると、私は眠りに誘われた。
「2ヶ月近くも眠ったのにまだ眠いの?」
彼女は笑いながら言った。
「ああ。いい男でいる為には睡眠は欠かせない」
「キザなセリフね」
「キザで悪かったな」
そう答えた私は瞳を閉じた。
「ゆっくり眠って。だけど眠り続けるのは止めてね」
と彼女は言って、細い指先で私の顏を拭った。
私は好きな女のためにしか涙は流さない。
だからこぼれ落ちた涙を恥ずかしいとは思わない。
だがポタポタと頬に落ちてくる雫は自分のものではない。
そして落ちてくる雫とともに涙声の呟きが聞えた。
「帰ってきてくれてよかった」
人生には思い出も必要だ。
だが私に一番必要なのは思い出ではなく彼女。
惚れて、惚れて、惚れ抜いて一緒になった。
だからまだ彼女の思い出にはなりたくない。
それに一生死ぬまで大切にすると誓った相手を置いて先に逝くわけにはいかない。
そう思う私は、今、自分が世界で一番幸福な人間に思えた。
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