「楓さん。我が家にも鳥がいるんだが、放し飼いが過ぎてほとんど戻ってこない。だがその鳥が三日前に戻って来た。外国から羽根を休めに戻ってきたようだが、楓さん。会っていただけないだろうか?」
放し飼いをしている鳥に会う?
楓は道明寺亘が言っている意味が分からなかった。
すると男性は楓の胸の内を読み取ったかのように言った。
「いや。分かりにくいたとえで申し訳ない。我が家の放し飼いになっている鳥とは孫です。
その孫は男の子でして、いや。あなたより7歳上だから男の子という年齢ではないな」
男性は深い皺が刻まれた目尻を綻ばせた。
楓はそこで察した。
これは祖父と道明寺亘が仕組んだ見合いの場なのだと。
だとすれば祖父と祖母の敦子と道明寺亘との話は本当なのかと疑いたくなるが、果たして__?
すると道明寺亘は再び楓の胸の内を読んで言った。
「楓さん。私とお祖父さんと敦子さんの話は本当です。このブローチは紛れもなく私が敦子さんに贈ったものだ。それから私たちは話し合ったことがある。将来自分達の孫が結婚することをね」
二十歳になった楓は、これまでも両親から見合いを勧められたことがある。
それは華族の家柄であり資産家の家に生まれた娘に用意される人生の道筋。
けれどまだ大学生の楓は結婚話に乗り気になれない。だから見合いの話を受けることはなかった。それに相手のことが全て分かった上での結婚は、安全ではあるが退屈なはずだ。
だがそう思う楓の人生は恋というものとは無縁だ。
それは用意された人生を歩むなら、恋愛の真似事すらできないまま、勧められた相手と結婚しなければならないと分かっているからだ。けれど、友人の中には親の決めた結婚には従わない。自由に恋をして好きな人と結婚するという者もいる。そして恋は行き着く果てが分からないから面白いと言う。だが楓は好きだ、とか、愛してる、といった感情が分からなかった。
それは祖父や道明寺亘のように恋におちたことがないからだが、それにしても二人の老人は本当に孫同士の結婚を望んでいるのか。
「楓さん。会うだけ会っていただけないだろうか」

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放し飼いをしている鳥に会う?
楓は道明寺亘が言っている意味が分からなかった。
すると男性は楓の胸の内を読み取ったかのように言った。
「いや。分かりにくいたとえで申し訳ない。我が家の放し飼いになっている鳥とは孫です。
その孫は男の子でして、いや。あなたより7歳上だから男の子という年齢ではないな」
男性は深い皺が刻まれた目尻を綻ばせた。
楓はそこで察した。
これは祖父と道明寺亘が仕組んだ見合いの場なのだと。
だとすれば祖父と祖母の敦子と道明寺亘との話は本当なのかと疑いたくなるが、果たして__?
すると道明寺亘は再び楓の胸の内を読んで言った。
「楓さん。私とお祖父さんと敦子さんの話は本当です。このブローチは紛れもなく私が敦子さんに贈ったものだ。それから私たちは話し合ったことがある。将来自分達の孫が結婚することをね」
二十歳になった楓は、これまでも両親から見合いを勧められたことがある。
それは華族の家柄であり資産家の家に生まれた娘に用意される人生の道筋。
けれどまだ大学生の楓は結婚話に乗り気になれない。だから見合いの話を受けることはなかった。それに相手のことが全て分かった上での結婚は、安全ではあるが退屈なはずだ。
だがそう思う楓の人生は恋というものとは無縁だ。
それは用意された人生を歩むなら、恋愛の真似事すらできないまま、勧められた相手と結婚しなければならないと分かっているからだ。けれど、友人の中には親の決めた結婚には従わない。自由に恋をして好きな人と結婚するという者もいる。そして恋は行き着く果てが分からないから面白いと言う。だが楓は好きだ、とか、愛してる、といった感情が分からなかった。
それは祖父や道明寺亘のように恋におちたことがないからだが、それにしても二人の老人は本当に孫同士の結婚を望んでいるのか。
「楓さん。会うだけ会っていただけないだろうか」

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「楓さん」
「はい」
「あなたは勘違いをされている。私の話を聞いて物事を悪い方へと考えているのでは?」
「え、ええ……」
道明寺亘の言う通りで楓の脳裏に浮かぶのは、祖母が目の前の男性を裏切り楓の祖父に走る姿。だから裏切られた道明寺亘は祖母を恨んでいたのではないかということ。
「楓さん、それは違う。私とあなたのお祖父さんは仲が悪いということはありません。それに私は敦子さんを恨んではいません」
そう言った男性の目元には皺が寄っていた。
「私たちの時代は親が結婚するに相応しい相手を見つけてくる。それは家同士の繋がりを意味する結婚だからです。だから相手が好きか嫌いか分からないまま結婚をする。いや。好きも嫌いもない。決められた相手と結婚して子供を作り育てることが普通だった。
だが私には好きな人がいた。私は敦子さんではなく別の女性と結婚することを望んだ。
それに敦子さんも父親に命じられて私と結婚することを決めたに過ぎない。
それが分かっていたから私は敦子さんをあなたのお祖父さんに紹介した。それはもしかするとお祖父さんが敦子さんを好きになるのではないかと思ったからだ。すると思った通り、お祖父さんは敦子さんに好意を抱いた。それに敦子さんも私と話しをするより、あなたのお祖父さんと話しをする方が楽しそうだった」
遠い昔を思い出しながら話す男性の声は穏やかで言っていることに嘘はないように思えた。
「楓さん。あなたは恋におちたことがありますか?もしそうなら分かるはずです。恋におちるのはあっと言う間です。あなたのお祖父さんは敦子さんと恋におちた。だから敦子さんは私とではなく、あなたのお祖父さんと結婚した。それは私にとって非常に喜ばしいことだった。何故なら二人が結婚したおかげで私は好きな人と結婚出来たのですから」
男性はそう言って、手のひらに乗せていた小さな鳥のブローチを箱に戻した。
だが楓には疑問があった。訊きたいことがあった。だからその思いを口にした。
「それなら何故祖父はこのブローチをあなたに返すのでしょう。あなたと祖父と祖母の関係が良好だったのなら、祖父は祖母の形見となったブローチをあなたに返すようなことはしないと思います」
楓は箱の中に戻された小鳥に視線を落とした後、再び男性を見た。
「その通りだ。それに私はふたりが結婚する時、このブローチは敦子さんに差し上げたもので返す必要はないと言った。それでもお祖父さんがあなたにこのブローチを持たせたのは、お祖父さんにとっての可愛い小鳥、つまりそれはあなたのことですが、お祖父さんはそんなあなたを私に合わせたかったからだと私は思っています」

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「はい」
「あなたは勘違いをされている。私の話を聞いて物事を悪い方へと考えているのでは?」
「え、ええ……」
道明寺亘の言う通りで楓の脳裏に浮かぶのは、祖母が目の前の男性を裏切り楓の祖父に走る姿。だから裏切られた道明寺亘は祖母を恨んでいたのではないかということ。
「楓さん、それは違う。私とあなたのお祖父さんは仲が悪いということはありません。それに私は敦子さんを恨んではいません」
そう言った男性の目元には皺が寄っていた。
「私たちの時代は親が結婚するに相応しい相手を見つけてくる。それは家同士の繋がりを意味する結婚だからです。だから相手が好きか嫌いか分からないまま結婚をする。いや。好きも嫌いもない。決められた相手と結婚して子供を作り育てることが普通だった。
だが私には好きな人がいた。私は敦子さんではなく別の女性と結婚することを望んだ。
それに敦子さんも父親に命じられて私と結婚することを決めたに過ぎない。
それが分かっていたから私は敦子さんをあなたのお祖父さんに紹介した。それはもしかするとお祖父さんが敦子さんを好きになるのではないかと思ったからだ。すると思った通り、お祖父さんは敦子さんに好意を抱いた。それに敦子さんも私と話しをするより、あなたのお祖父さんと話しをする方が楽しそうだった」
遠い昔を思い出しながら話す男性の声は穏やかで言っていることに嘘はないように思えた。
「楓さん。あなたは恋におちたことがありますか?もしそうなら分かるはずです。恋におちるのはあっと言う間です。あなたのお祖父さんは敦子さんと恋におちた。だから敦子さんは私とではなく、あなたのお祖父さんと結婚した。それは私にとって非常に喜ばしいことだった。何故なら二人が結婚したおかげで私は好きな人と結婚出来たのですから」
男性はそう言って、手のひらに乗せていた小さな鳥のブローチを箱に戻した。
だが楓には疑問があった。訊きたいことがあった。だからその思いを口にした。
「それなら何故祖父はこのブローチをあなたに返すのでしょう。あなたと祖父と祖母の関係が良好だったのなら、祖父は祖母の形見となったブローチをあなたに返すようなことはしないと思います」
楓は箱の中に戻された小鳥に視線を落とした後、再び男性を見た。
「その通りだ。それに私はふたりが結婚する時、このブローチは敦子さんに差し上げたもので返す必要はないと言った。それでもお祖父さんがあなたにこのブローチを持たせたのは、お祖父さんにとっての可愛い小鳥、つまりそれはあなたのことですが、お祖父さんはそんなあなたを私に合わせたかったからだと私は思っています」

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「これは…..」
男性はその箱に見覚えがあるようだ。
手に取ると懐かしそうに眺めてから楓に視線を向けた。
「楓さん。あなたはおじい様から、この箱を元の持ち主届けるように言われたそうですが、理由は教えられましたか?それから中を見ましたか?」
「いいえ。祖父は何も言いませんでした。それに祖父から直接言われたのではなく、執事から言われたのです。それに中は見ていません」
箱の中が何であるか興味はあった。
好奇心から開けて中を見たいという気になった。
だが、預かった以上、勝手に中を見ることはしなかった。
「そうですか。中を見ていない。それにおじい様はこの箱について何もおっしゃらなかった….」
「はい。執事から届け先の住所が書かれた紙を渡されただけで祖父からは何も。
ですからこちらにお伺いするまで誰に届けるのか私は知らなかったのです。
でも突然訪ねてきた私を、あなたがこうして快く迎え入れてくれたのは、祖父が私のことを話しているからだと思いました。つまりあなたと祖父の関係は友人かなにかではないかと思いました。でも思ったのです。友人なら祖父は私に託るのではなく直接あなたに箱を届けているはずだと」
楓は、そこまで言うと言葉を切った。
「楓さん。失礼ですがあなたは今お幾つですか?」
「二十歳になりました。女子大に通っています」
「そうですか。二十歳ですか」
道明寺亘は微かな笑みを浮べると、「二十歳と言えば大人だ。それにこうして話をしていて分かりましたが、あなたは聡明なお嬢さんだ。だからあなたに私の小さな思い出を話しましょう」と言った。
そして、「楓さん。あなたがお持ちになられた箱の中身は、私が敦子さんのためにパリの宝石商に作らせたものが入っています」と言って箱を開けた。
すると中からブローチが出てきたが、男性の手のひらに乗せられた小さな鳥は、ブルーやイエローのサファイアを身にまとっていた。
男性の小さな思い出というのは、楓の祖母敦子が今の楓と同じ二十歳の頃の話。
道明寺亘と楓の祖母敦子は許嫁関係にあった。
結婚が決まっていた。
そして道明寺亘は楓の祖父とは友人関係にあった。
だから道明寺亘は友人である祖父に許嫁である敦子を紹介した。
三人で会うことも度々あったと言う。
すると、ふたりは____祖父と敦子は恋におちた。
静かな声で淀みなく語られる祖父母と道明寺亘の関係。
楓は初めて訊く話に驚いた眼で男性を見た。
楓の知る祖母敦子は穏やかで優しい女性だった。そんな祖母の敦子が祖父と結婚したということは、祖母は婚約者だった道明寺亘を裏切ったということになるが、祖母はそういったことをする人間には思えなかった。だが、男性の話が本当にそうなら祖母には意外な過去があったということになる。と、なると祖父と道明寺亘の友人関係は終わりを迎えたのではないか。交友を絶ったのではないか。それに両家の間に不和が生じたのではないか。
だが楓の家と道明寺家の関係が悪いといった話は、これまで聞えてこなかった。
しかしそれは楓が知らないだけなのかもしれない。
何しろビジネスの世界は魑魅魍魎がうごめく世界だ。そんな世界の住人たちは世間に見せる顏とは別の顏を持つと言われている。だから楓が知らない世界があっても不思議ではない。
それにしても何故祖父は亡くなった妻の持ち物の中から、かつての婚約者から贈られたブローチを元の持ち主である道明寺亘に返すことにしたのか。
長い年月を経た今、亡き妻の持ち物をわざわざ返す必要があるとは思えないが、ふたりの男の間には楓が知らない何かがあるのかもしれなかった。

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男性はその箱に見覚えがあるようだ。
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「楓さん。あなたはおじい様から、この箱を元の持ち主届けるように言われたそうですが、理由は教えられましたか?それから中を見ましたか?」
「いいえ。祖父は何も言いませんでした。それに祖父から直接言われたのではなく、執事から言われたのです。それに中は見ていません」
箱の中が何であるか興味はあった。
好奇心から開けて中を見たいという気になった。
だが、預かった以上、勝手に中を見ることはしなかった。
「そうですか。中を見ていない。それにおじい様はこの箱について何もおっしゃらなかった….」
「はい。執事から届け先の住所が書かれた紙を渡されただけで祖父からは何も。
ですからこちらにお伺いするまで誰に届けるのか私は知らなかったのです。
でも突然訪ねてきた私を、あなたがこうして快く迎え入れてくれたのは、祖父が私のことを話しているからだと思いました。つまりあなたと祖父の関係は友人かなにかではないかと思いました。でも思ったのです。友人なら祖父は私に託るのではなく直接あなたに箱を届けているはずだと」
楓は、そこまで言うと言葉を切った。
「楓さん。失礼ですがあなたは今お幾つですか?」
「二十歳になりました。女子大に通っています」
「そうですか。二十歳ですか」
道明寺亘は微かな笑みを浮べると、「二十歳と言えば大人だ。それにこうして話をしていて分かりましたが、あなたは聡明なお嬢さんだ。だからあなたに私の小さな思い出を話しましょう」と言った。
そして、「楓さん。あなたがお持ちになられた箱の中身は、私が敦子さんのためにパリの宝石商に作らせたものが入っています」と言って箱を開けた。
すると中からブローチが出てきたが、男性の手のひらに乗せられた小さな鳥は、ブルーやイエローのサファイアを身にまとっていた。
男性の小さな思い出というのは、楓の祖母敦子が今の楓と同じ二十歳の頃の話。
道明寺亘と楓の祖母敦子は許嫁関係にあった。
結婚が決まっていた。
そして道明寺亘は楓の祖父とは友人関係にあった。
だから道明寺亘は友人である祖父に許嫁である敦子を紹介した。
三人で会うことも度々あったと言う。
すると、ふたりは____祖父と敦子は恋におちた。
静かな声で淀みなく語られる祖父母と道明寺亘の関係。
楓は初めて訊く話に驚いた眼で男性を見た。
楓の知る祖母敦子は穏やかで優しい女性だった。そんな祖母の敦子が祖父と結婚したということは、祖母は婚約者だった道明寺亘を裏切ったということになるが、祖母はそういったことをする人間には思えなかった。だが、男性の話が本当にそうなら祖母には意外な過去があったということになる。と、なると祖父と道明寺亘の友人関係は終わりを迎えたのではないか。交友を絶ったのではないか。それに両家の間に不和が生じたのではないか。
だが楓の家と道明寺家の関係が悪いといった話は、これまで聞えてこなかった。
しかしそれは楓が知らないだけなのかもしれない。
何しろビジネスの世界は魑魅魍魎がうごめく世界だ。そんな世界の住人たちは世間に見せる顏とは別の顏を持つと言われている。だから楓が知らない世界があっても不思議ではない。
それにしても何故祖父は亡くなった妻の持ち物の中から、かつての婚約者から贈られたブローチを元の持ち主である道明寺亘に返すことにしたのか。
長い年月を経た今、亡き妻の持ち物をわざわざ返す必要があるとは思えないが、ふたりの男の間には楓が知らない何かがあるのかもしれなかった。

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車が向かった先は日本の三大財閥のひとつである道明寺財閥当主の一族が暮らす邸。
道明寺家は江戸時代の豪商だが元は武士。その武士を廃業して始めたのが両替商。
そして今は商社、金融、不動産、鉱業、エネルギーなど多岐にわたる事業を展開する経済界の名門。そんな家を約束もなくいきなり訪ねて行ったが、楓が名前を名乗ると閉じられていた大きな鉄の門は音もなく開いた。
車は広大な敷地の中をゆっくりと進んだ。
暫く走ると洋風建築の大きな建物の前に止まった。
楓はそこで白髪の男性の出迎えを受けた。
そして男性は道明寺亘(わたる)と名乗り、自分が道明寺財閥の当主だと言った。
「あなたが敦子さんのお孫さんですか。葬儀には参列させていただいたのですが、おばあ様のこと。お悔やみ申し上げます」
敦子とは三ヶ月前に亡くなった楓の祖母の名前。
つい先日四十九日を終えた。
「それにしても、あなたはあの頃の敦子さんにそっくりだ。どうやら彼女の飾らない喋り方と美貌はあなたに受け継がれたようだ」
道明寺亘はあの頃の敦子さんと言った。
飾らない喋り方と美貌と言った。
つまり男性は楓の祖母の若い頃を知っているようだが、祖母と男性はどういった関係なのか。
楓は祖母の交友関係を知らない。
それに祖父の口から道明寺亘という名前を訊いたことがない。
だが祖父も道明寺亘も財界人だったことから、互いの存在は知っているはずだ。
一緒に何らかのビジネスをしたことがあってもおかしくはない。
しかし、感じられるのはビジネスではなく個人的な何か。
だが祖父が道明寺亘と個人的な付き合いがあるなら、「元の持ち主に返して欲しい」と言って箱を楓に預けることなく自分で返すはずだ。
「それで楓さん。今日はどのようなご用件でこちらに?」
道明寺亘は楓を歓待したが、何故楓が来たのかは分からないようだ。
だから楓は、「私が今日こちらにお邪魔したのは、祖父からこちらを元の持ち主に返して欲しいと言われたからです」と言って鞄から小さな箱を取り出した。

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道明寺家は江戸時代の豪商だが元は武士。その武士を廃業して始めたのが両替商。
そして今は商社、金融、不動産、鉱業、エネルギーなど多岐にわたる事業を展開する経済界の名門。そんな家を約束もなくいきなり訪ねて行ったが、楓が名前を名乗ると閉じられていた大きな鉄の門は音もなく開いた。
車は広大な敷地の中をゆっくりと進んだ。
暫く走ると洋風建築の大きな建物の前に止まった。
楓はそこで白髪の男性の出迎えを受けた。
そして男性は道明寺亘(わたる)と名乗り、自分が道明寺財閥の当主だと言った。
「あなたが敦子さんのお孫さんですか。葬儀には参列させていただいたのですが、おばあ様のこと。お悔やみ申し上げます」
敦子とは三ヶ月前に亡くなった楓の祖母の名前。
つい先日四十九日を終えた。
「それにしても、あなたはあの頃の敦子さんにそっくりだ。どうやら彼女の飾らない喋り方と美貌はあなたに受け継がれたようだ」
道明寺亘はあの頃の敦子さんと言った。
飾らない喋り方と美貌と言った。
つまり男性は楓の祖母の若い頃を知っているようだが、祖母と男性はどういった関係なのか。
楓は祖母の交友関係を知らない。
それに祖父の口から道明寺亘という名前を訊いたことがない。
だが祖父も道明寺亘も財界人だったことから、互いの存在は知っているはずだ。
一緒に何らかのビジネスをしたことがあってもおかしくはない。
しかし、感じられるのはビジネスではなく個人的な何か。
だが祖父が道明寺亘と個人的な付き合いがあるなら、「元の持ち主に返して欲しい」と言って箱を楓に預けることなく自分で返すはずだ。
「それで楓さん。今日はどのようなご用件でこちらに?」
道明寺亘は楓を歓待したが、何故楓が来たのかは分からないようだ。
だから楓は、「私が今日こちらにお邪魔したのは、祖父からこちらを元の持ち主に返して欲しいと言われたからです」と言って鞄から小さな箱を取り出した。

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テーブルの上には手のひらに収まる小さな箱が置かれていた。
「宮本。どうしてわたくしがこの箱を届けなければならないの?」
「楓様。わたくしはおじい様から、楓様にそちらの箱を先方に届けるように伝えろと申し付けられましたので、そのことをお伝えしたまでです」
「おじい様が?」
「はい」
「でも何故わたくしが?」
「わたくしは、ただの執事でございますので理由は存じません。ただ、おじい様はこちらの箱を楓様の手で元の持ち主に返して欲しいとおっしいました」
楓の家は旧華族の家柄であり、都内の一等地に広い邸を構えている。
戦後没落する華族も多いなか、楓の家が今でもこうして広い邸を構えているのは、祖父が商才に長けていたから。先見の明があったからだ。
楓の祖父は、かつての武家屋敷や江戸藩邸があった土地を手に入れると開発を進め不動産業に進出した。そして都内中心部に数多くのビルを所有すると、宅地造成やリゾート開発、マンション分譲といった分野にも手を広げ、ディベロッパーとして地位を確立した。
そんな祖父は一族の中興の祖だと言われていた。
だが今は後継者である楓の父に全てを譲りビジネスの第一線から退いていた。
そして宮本は楓が物心ついた頃からいる家令、執事だ。
その執事は楓の祖父の信頼が厚く、この家で起こること全てを知っている。
それに祖父の言うことは絶対という執事は楓の反論を許さない。だから「お届け先はこちらでございます」とだけ言うと一礼して部屋から出て行った。
楓は箱の横に置かれた紙を手に取った。
届け先だと言ったが書かれているのは住所だけ。
だが楓はその場所を知らない。
けれど知らなくてもいい。
運転手にこの住所を伝えればいいだけの話だ。
だが何故、住所だけで名前が書かれていないのか。
それに相手は祖父とはどういった関係にあるのか。
友人なのか。
それともビジネスの相手なのか。
だが「元の持ち主に返して欲しい」とう言葉から友人のような気がするが、それでも楓は相手が誰で、どんな関係にある人物なのかを知っておきたかった。
こちらのお話は短編です。

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「宮本。どうしてわたくしがこの箱を届けなければならないの?」
「楓様。わたくしはおじい様から、楓様にそちらの箱を先方に届けるように伝えろと申し付けられましたので、そのことをお伝えしたまでです」
「おじい様が?」
「はい」
「でも何故わたくしが?」
「わたくしは、ただの執事でございますので理由は存じません。ただ、おじい様はこちらの箱を楓様の手で元の持ち主に返して欲しいとおっしいました」
楓の家は旧華族の家柄であり、都内の一等地に広い邸を構えている。
戦後没落する華族も多いなか、楓の家が今でもこうして広い邸を構えているのは、祖父が商才に長けていたから。先見の明があったからだ。
楓の祖父は、かつての武家屋敷や江戸藩邸があった土地を手に入れると開発を進め不動産業に進出した。そして都内中心部に数多くのビルを所有すると、宅地造成やリゾート開発、マンション分譲といった分野にも手を広げ、ディベロッパーとして地位を確立した。
そんな祖父は一族の中興の祖だと言われていた。
だが今は後継者である楓の父に全てを譲りビジネスの第一線から退いていた。
そして宮本は楓が物心ついた頃からいる家令、執事だ。
その執事は楓の祖父の信頼が厚く、この家で起こること全てを知っている。
それに祖父の言うことは絶対という執事は楓の反論を許さない。だから「お届け先はこちらでございます」とだけ言うと一礼して部屋から出て行った。
楓は箱の横に置かれた紙を手に取った。
届け先だと言ったが書かれているのは住所だけ。
だが楓はその場所を知らない。
けれど知らなくてもいい。
運転手にこの住所を伝えればいいだけの話だ。
だが何故、住所だけで名前が書かれていないのか。
それに相手は祖父とはどういった関係にあるのか。
友人なのか。
それともビジネスの相手なのか。
だが「元の持ち主に返して欲しい」とう言葉から友人のような気がするが、それでも楓は相手が誰で、どんな関係にある人物なのかを知っておきたかった。
こちらのお話は短編です。

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俺の母ちゃんには恋人がいる。
相手は昔付き合っていた男。
顏は目鼻立ちがハッキリとしていて、髪の毛はクルクルしている。
そして背が高い。
だから男は、いつもはるか上から俺を見下ろす。
そんな男は、まさか母ちゃんの傍に俺という存在がいるとは思わなかったのだろう。
初めて俺を見たとき俺にどう接すればいいのか分からないといった態度を取った。
ちなみに母ちゃんは、その男と高校生の頃に付き合っていて、なんらかの理由があって別れたらしい。そしてそれは母ちゃんにとって失恋だったらしい。
だが母ちゃんは失恋くらいで、へこたれるような女じゃない。
だからその時は酷く落ち込んだとしても、その後、猛勉強して一流と呼ばれる大学に入学した。そして一流と呼ばれる会社に就職した。
そんな母ちゃんがその男と再会したのは、母ちゃんが働いている会社が、その男が経営する会社に買収されたから。そして男は自分が買収した会社を訪れ、そこで昔の恋人の母ちゃんと再会した。そして別れたことを後悔している、愛していると言って母ちゃんに交際を申し込んだ。
でも母ちゃんは簡単には「うん」とは言わなかった。そりゃあそうだと思う。
だって母ちゃんはその男と付き合っていて失恋した。つまり男は母ちゃんを捨てたってことだ。だから母ちゃんは過去に自分を捨てた男の言葉を素直に信じなかった。
そうだ。簡単に「愛してる」って言葉を口にするような男は信用ならない。
だって愛って言葉は世界を救うんだろ?それほど愛って言葉は重いってことだろ?
だから愛してるって言葉は軽々しく口にするものじゃない。
それに母ちゃんが男の言葉を簡単に信じないのは、また捨てられるかもしれないって不安があったからじゃないかと俺は思った。
でも男は、そんな母ちゃんに頭を下げ、お前を忘れたことは人生最大の汚点。つまり一生の不覚だって謝った。
そして男は仕事を口実に母ちゃんの会社に出向き、母ちゃんと話しをするようになったというが、そんな男は俺から言わせればストーカーだ。
だって母ちゃんが会社に行く時間になると道で待ち伏せしていて、会社まで送ると言う。
帰りも同じで母ちゃんが会社を出る頃になると何故か現れると言う。
やがて母ちゃんは男の執拗さに負けたのか。
それとも遠い昔を思い出したのか。
母ちゃんと男との間にどんな会話が交わされたのかは知らないが、男に家の敷居をまたがせることにしたようだ。
そしてそのとき男は、母ちゃんには俺という大切な息子がいることを知った。
男は母ちゃんに会いに来る時は、いつも沢山のプレゼント持ってくる。
そして俺に気を遣っているのか。それとも母ちゃんが喜ぶ顏が見たいのか。
とにかく俺に対してもプレゼントを持ってくる。そして俺のことを可愛いと言う。
けど男は俺の好みじゃないものばかり持ってくる。
それに俺は母ちゃんと俺の間に割って入るように現れた男が好きじゃない。
だって俺と母ちゃんは二人で幸せに暮らしていた。それにあの男が現れるまで母ちゃんの愛情は俺だけに向けられていた。
それなのに、あの男が現れてから母ちゃんは物思いにふけることが多くなった。
考え事をすることが多くなった。
それは俺が知る母ちゃんの姿とは違う別の姿で背中が悲しそうに見えた。
俺はそんな母ちゃんの姿に心が痛んだ。
だから俺は男が家に来ても無視して口をきかない。
だが母ちゃんは、ちゃんと挨拶しなさいと言うがしない。
だから男は母ちゃんが後ろを向いている隙に俺を睨む。けど俺は、どんなに睨まれても男とは口をきかなかった。
そしてある日、母ちゃんは男が帰ったあと俺に訊いた。
「ねえ、あの人のことどう思う?」
どう思うって言われても息子である俺は母ちゃんの幸せが一番だ。
だから俺は母ちゃんの人生に文句を言うことはない。
だけど昔、自分を捨てた男とよりを戻すのは、よく考えた方がいいと思う。
そんな俺の思いが伝わったのか。
男が訪ねて来る回数が減った。
そしてある日、寝ていた俺の耳に母ちゃんの小さな声が聞えた。
懐かしい痛みだわ。
ずっと前に忘れていた。
でもあなたを見たとき、時間だけ後戻りした。
時間が後戻りすることなどあるはずがないのに、母ちゃんはメロディに乗せたその言葉を口ずさみながら泣いていた。
後で知ったのだが、それは「スウィート・メモリーズ」という名の曲だった。
それから母ちゃんと男がどうなったのか。
少しの間、男が家に来ることはなかった。
だが時間が経つと、また家に来るようになった。
そして母ちゃんといえば、そんな男のために料理を作って男が訪ねて来るのを待つようになった。つまり母ちゃんは男の気持を受け入れたということだが、高校生だった当時のふたりには恋人と呼び会える時間は短かったらしく、男が母ちゃんの手料理を食べたのは一度だけだと言った。
いいか、男。
俺の母ちゃんの作る料理は世界で一番美味い。
だから喰うなら心して喰え。
間違っても残すなよ。
もし残したら俺が許さねぇからな。
「翔!ご飯よ!」
母ちゃんに呼ばれた俺はベッドから起き上がった。
そして母ちゃんが俺専用の食器に入れてくれた料理をひと口食べると、いつものように「母ちゃん!母ちゃんの料理は世界一美味いよ!」と言った。
そしてその時、視線を感じた俺は男の顏を見た。
すると男は何故かニヤッと笑った。
だから何だよ、という意味を込めて男を睨んだ。
「良かった。初めて翔がアンタの持ってきてくれた餌を食べてくれたわ」
俺は母ちゃんの言葉に口に入れていたメシを戻しそうになった。
俺はこれまで男が持ってきた食べ物を口にしたことがない。
それはジャーキーであれ、ガムであれ同じ。
だがどうやら男は俺の味覚を研究したようで、不覚にも今日のメシは俺の口に合った。
それにしても犬が苦手な男は、母ちゃんのために俺の存在を受け入れることを決めたようだ。だから俺がここで暮らすのも今月末まで。俺は来月から母ちゃんと男の家で暮らすことになるが、男の家は広い庭があって自由に走り回ってもいいらしい。
それにどんなに大声で吼えても問題ないと言った。
母ちゃんはスーパーの前に置かれた箱の中から仔犬だった俺を救い出してくれた。
そして「翔。アンタの名前は今日から翔よ。あたしがアンタのお母さんになってあげるからね」と言った。それ以来母ちゃんは俺を大切に育ててくれた。自分の子供だと言って育ててくれた。母犬恋しさに夜泣きする俺を自分の布団の中に入れて一緒に寝てくれた。食べてはいけない物を口に入れ、苦しんでる俺を抱え病院まで走ってくれた。
つまり俺は母ちゃんに対し、ここまで育ててもらった恩がある。
だから俺は母ちゃんの幸せのため、母ちゃんがこの男のことが好きなら、一緒に暮らすことを受け入れなければならない。
それに認めたくはないが俺と男には似ているところがひとつだけある。
それは、俺の毛が男の髪の毛と同じでクルクルしていること。
だが言っておくが俺たちは父子じゃない。
でも、たったひとつの共通点に免じて男が母ちゃんと結婚することを許してやろうと思う。
だが男を父ちゃんと呼ぶかどうかはまた別の問題だ。
「翔。残さずちゃんと食べるのよ?」
俺はそう言われると男をひと睨みした。
そしていつものように大きな声で返事をした。
「ワン!」
< 完 > *母ちゃんの恋人*

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相手は昔付き合っていた男。
顏は目鼻立ちがハッキリとしていて、髪の毛はクルクルしている。
そして背が高い。
だから男は、いつもはるか上から俺を見下ろす。
そんな男は、まさか母ちゃんの傍に俺という存在がいるとは思わなかったのだろう。
初めて俺を見たとき俺にどう接すればいいのか分からないといった態度を取った。
ちなみに母ちゃんは、その男と高校生の頃に付き合っていて、なんらかの理由があって別れたらしい。そしてそれは母ちゃんにとって失恋だったらしい。
だが母ちゃんは失恋くらいで、へこたれるような女じゃない。
だからその時は酷く落ち込んだとしても、その後、猛勉強して一流と呼ばれる大学に入学した。そして一流と呼ばれる会社に就職した。
そんな母ちゃんがその男と再会したのは、母ちゃんが働いている会社が、その男が経営する会社に買収されたから。そして男は自分が買収した会社を訪れ、そこで昔の恋人の母ちゃんと再会した。そして別れたことを後悔している、愛していると言って母ちゃんに交際を申し込んだ。
でも母ちゃんは簡単には「うん」とは言わなかった。そりゃあそうだと思う。
だって母ちゃんはその男と付き合っていて失恋した。つまり男は母ちゃんを捨てたってことだ。だから母ちゃんは過去に自分を捨てた男の言葉を素直に信じなかった。
そうだ。簡単に「愛してる」って言葉を口にするような男は信用ならない。
だって愛って言葉は世界を救うんだろ?それほど愛って言葉は重いってことだろ?
だから愛してるって言葉は軽々しく口にするものじゃない。
それに母ちゃんが男の言葉を簡単に信じないのは、また捨てられるかもしれないって不安があったからじゃないかと俺は思った。
でも男は、そんな母ちゃんに頭を下げ、お前を忘れたことは人生最大の汚点。つまり一生の不覚だって謝った。
そして男は仕事を口実に母ちゃんの会社に出向き、母ちゃんと話しをするようになったというが、そんな男は俺から言わせればストーカーだ。
だって母ちゃんが会社に行く時間になると道で待ち伏せしていて、会社まで送ると言う。
帰りも同じで母ちゃんが会社を出る頃になると何故か現れると言う。
やがて母ちゃんは男の執拗さに負けたのか。
それとも遠い昔を思い出したのか。
母ちゃんと男との間にどんな会話が交わされたのかは知らないが、男に家の敷居をまたがせることにしたようだ。
そしてそのとき男は、母ちゃんには俺という大切な息子がいることを知った。
男は母ちゃんに会いに来る時は、いつも沢山のプレゼント持ってくる。
そして俺に気を遣っているのか。それとも母ちゃんが喜ぶ顏が見たいのか。
とにかく俺に対してもプレゼントを持ってくる。そして俺のことを可愛いと言う。
けど男は俺の好みじゃないものばかり持ってくる。
それに俺は母ちゃんと俺の間に割って入るように現れた男が好きじゃない。
だって俺と母ちゃんは二人で幸せに暮らしていた。それにあの男が現れるまで母ちゃんの愛情は俺だけに向けられていた。
それなのに、あの男が現れてから母ちゃんは物思いにふけることが多くなった。
考え事をすることが多くなった。
それは俺が知る母ちゃんの姿とは違う別の姿で背中が悲しそうに見えた。
俺はそんな母ちゃんの姿に心が痛んだ。
だから俺は男が家に来ても無視して口をきかない。
だが母ちゃんは、ちゃんと挨拶しなさいと言うがしない。
だから男は母ちゃんが後ろを向いている隙に俺を睨む。けど俺は、どんなに睨まれても男とは口をきかなかった。
そしてある日、母ちゃんは男が帰ったあと俺に訊いた。
「ねえ、あの人のことどう思う?」
どう思うって言われても息子である俺は母ちゃんの幸せが一番だ。
だから俺は母ちゃんの人生に文句を言うことはない。
だけど昔、自分を捨てた男とよりを戻すのは、よく考えた方がいいと思う。
そんな俺の思いが伝わったのか。
男が訪ねて来る回数が減った。
そしてある日、寝ていた俺の耳に母ちゃんの小さな声が聞えた。
懐かしい痛みだわ。
ずっと前に忘れていた。
でもあなたを見たとき、時間だけ後戻りした。
時間が後戻りすることなどあるはずがないのに、母ちゃんはメロディに乗せたその言葉を口ずさみながら泣いていた。
後で知ったのだが、それは「スウィート・メモリーズ」という名の曲だった。
それから母ちゃんと男がどうなったのか。
少しの間、男が家に来ることはなかった。
だが時間が経つと、また家に来るようになった。
そして母ちゃんといえば、そんな男のために料理を作って男が訪ねて来るのを待つようになった。つまり母ちゃんは男の気持を受け入れたということだが、高校生だった当時のふたりには恋人と呼び会える時間は短かったらしく、男が母ちゃんの手料理を食べたのは一度だけだと言った。
いいか、男。
俺の母ちゃんの作る料理は世界で一番美味い。
だから喰うなら心して喰え。
間違っても残すなよ。
もし残したら俺が許さねぇからな。
「翔!ご飯よ!」
母ちゃんに呼ばれた俺はベッドから起き上がった。
そして母ちゃんが俺専用の食器に入れてくれた料理をひと口食べると、いつものように「母ちゃん!母ちゃんの料理は世界一美味いよ!」と言った。
そしてその時、視線を感じた俺は男の顏を見た。
すると男は何故かニヤッと笑った。
だから何だよ、という意味を込めて男を睨んだ。
「良かった。初めて翔がアンタの持ってきてくれた餌を食べてくれたわ」
俺は母ちゃんの言葉に口に入れていたメシを戻しそうになった。
俺はこれまで男が持ってきた食べ物を口にしたことがない。
それはジャーキーであれ、ガムであれ同じ。
だがどうやら男は俺の味覚を研究したようで、不覚にも今日のメシは俺の口に合った。
それにしても犬が苦手な男は、母ちゃんのために俺の存在を受け入れることを決めたようだ。だから俺がここで暮らすのも今月末まで。俺は来月から母ちゃんと男の家で暮らすことになるが、男の家は広い庭があって自由に走り回ってもいいらしい。
それにどんなに大声で吼えても問題ないと言った。
母ちゃんはスーパーの前に置かれた箱の中から仔犬だった俺を救い出してくれた。
そして「翔。アンタの名前は今日から翔よ。あたしがアンタのお母さんになってあげるからね」と言った。それ以来母ちゃんは俺を大切に育ててくれた。自分の子供だと言って育ててくれた。母犬恋しさに夜泣きする俺を自分の布団の中に入れて一緒に寝てくれた。食べてはいけない物を口に入れ、苦しんでる俺を抱え病院まで走ってくれた。
つまり俺は母ちゃんに対し、ここまで育ててもらった恩がある。
だから俺は母ちゃんの幸せのため、母ちゃんがこの男のことが好きなら、一緒に暮らすことを受け入れなければならない。
それに認めたくはないが俺と男には似ているところがひとつだけある。
それは、俺の毛が男の髪の毛と同じでクルクルしていること。
だが言っておくが俺たちは父子じゃない。
でも、たったひとつの共通点に免じて男が母ちゃんと結婚することを許してやろうと思う。
だが男を父ちゃんと呼ぶかどうかはまた別の問題だ。
「翔。残さずちゃんと食べるのよ?」
俺はそう言われると男をひと睨みした。
そしていつものように大きな声で返事をした。
「ワン!」
< 完 > *母ちゃんの恋人*

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目覚めた司は病室にいた。
そして担当医である牧野つくしが来るのを待っていた。
だが現れたのは男の医者。
だから司は訊いた。
「牧野つくしはどうした?」
「牧野先生はフリーランスのドクター、つまりアルバイトで当医院の正式な医者ではありません」
「だからそれがどうした?」
司は鋭い目と口調で医者に言った。
すると訊かれた医者は言葉に詰まりながら答えた。
「は、はい。で、ですからアルバイトの牧野先生は昨日付けで病院を辞めました」
「病院を辞めた?」
「は、はい。契約期間はまだありましたが、急に辞めると言って……」
司はベッドから起き上がろうとした。
だが腹部の痛みに呻いた。
「道明寺支社長。手術したばかりのお身体です。暫くはご安静にお過ごし下さい」
「あほう。胆石は手術後二日目に退院できるんだろうが。それに翌々日には仕事に復帰出来るはずだ」
「いえ。実は…その…」
「実は?実はって何だ?はっきり言え!それにうだうだ言ってんじゃねえよ!」
司は病院を辞めたという彼女を一分一秒でも早く探しに行きたかった。
だから言い淀んでいる医師に話の先をせかした。
「はい。牧野先生は胆石だと言いましたが実は道明寺支社長のご病気は胆石ではなく肝臓に腫瘍がありました」
「肝臓に腫瘍?」
「はい。支社長に事実を話さなかったのは、秘書の方から秘密にして欲しいと言われたからです」
「秘書が?」
「はい。それに牧野先生も言わなくていいと言ったからです。
その代わり手術は絶対に成功させるからと言って……しかし我々としてはバイト風情に道明寺支社長の手術をさせる訳にはいかないと言ったのですが、支社長が承知されたので牧野先生に執刀してもらったのです」
***
司は退院すると彼女がいるという北陸の海の見える街を訪ねた。
牧野つくしはそこにある小さな病院で働いていた。
「牧野せんせー!お客さんですよー!」
待合室を掃除していた女性は窓の外に広がる畑に佇んでいる後姿の女を呼んだ。
そこにいる女は白衣ではなくジャージ姿で鍬を持ち立っていた。
「すみませんねぇ。先生の趣味は農作業で昼休みには作物の世話をしてるんですよ。それにもうすぐ小松菜を収穫するので牧野先生も生育状況を気にしているんですよ。先生!牧野せんせー!」
彼女は女性の呼び声に振り返えると、「なに?」と叫んだ。
「だからお客さんですってば!」と女性が言うと、「客って誰?」と叫んだ。
すると女性は、「誰って….ええっと…お客さん、お名前は?」と司に訊いた。
太陽の光りが降り注ぐ場所にいる女から、暗い建物の中にいる司の姿は見えない。
だから司は牧野つくしに向かって叫んだ。
「お前に腹を切られた男だ!」
すると畑にいる女は手にしていた鍬を投げ出し走り出した。
だから司は大急ぎで建物を出ると彼女の後を追った。
「あの女、相変らず逃げ足、早ぇな…..」
司は彼女を逃がす訳にはいかなかった。
何が何でも絶対に掴まえなければならなかった。
だから畑の中を走った。
途中ぬかるみに足を取られ転びそうになった。
危なく肥溜めにダイブするところだった。
だが、司は転ぶことなく体勢を立て直すと彼女を追った。
そして畑を抜け道に出たところで追いつくとジャージ姿の女の腕を掴んだ。
それは女神のドレスの裾を掴むのとは訳が違ったが、司にとって牧野つくしは女神。
そして女神というのは気まぐれなところがある。
だから己の手からすり抜けてしまわないように力を込めた。
「ちょっと!痛いじゃない!離してよ!」
「バカか。お前は。俺が離せと言われて、はい、分かりましたって素直に離す男だと思うか?」
司の言葉に彼女は答えなかった。
「牧野。俺は__」
「アンタ文句言いに来たのね」
「は?」
「だから文句言いに来たんでしょ?」
「一体俺が何に文句を言うって?」
司は彼女が言った文句の意味が分からなかった。
「何って…..」
「だから何だよ?」
「そ、それは…..」
「牧野。俺はお前に命を助けられたことを嬉しいと思う。本当の病名を隠していたことを責めるつもりはない。それに__」
司はスーツの上着を脱ぐと放った。
そしてワイシャツのボタンを外すと肌を晒した。
「俺はこの傷あとが永遠に残ることを望んでいる」
司の腹には傷が三つある。
ひとつ目は高校生の時に刺された傷あと。
その傷あとは肌になじむように薄くなっていた。
二つ目は牧野つくしが手術をした傷。今はまだ生々しいが、いずれひとつ目の傷と同じように薄くなるだろう。
そして三つ目の傷は手術した傷の近くに刻まれた小さな傷。
司はその傷が永遠に残ればいいと思っていた。
「牧野。お前の気持は分かった。俺は喜んでお前の気持を受け取る」
司の腹に刻まれている三つ目の傷とはローマ字で刻まれた彼女の名前。
「この字は消えない。消えないように刻んだはずだ。俺はそれが嬉しい。
それにこの文字を刻んだのは俺を他の女に渡さないってお前の意思表示だろ?
俺にお前を一生忘れさせないためだろ?だが安心しろ。俺はお前以外の女を抱くつもりはない。お前は俺の全てで俺にとって女は死ぬまでお前だけだ。だからここにお前の名前が刻まれていても全く問題はない」
司は自分が彼女を忘れても、彼女が司のことを思っていてくれたことが嬉しかった。
だから己の身体に彼女の名前が刻まれても何の問題もない。
「道明寺……」
「牧野…..」
司はつくしの顎を掴み顏を近づけた。
「俺はもう二度とお前を忘れない」
「支社長お止め下さい」
「…..あ?」
ソファに寝ている司を上から覗き込んでいるのは秘書の西田。
真面目な秘書の顏は時に能面のように見えることがあるが、今はまさにそれで司はそんな秘書の顏に手を当てていた。
だから慌てて手を離すとソファから飛び起きた。
「西田。なんでお前がここにいる?」
司は秘書を睨んだ。
「支社長お忘れですか?今夜12時に牧野様のお部屋に迎えに来てくれとおっしゃったのを」
そうだった。
本当なら司は今夜仕事を終えた後、ニューヨークに向かわなければならなかった。
だが今夜はどうしても彼女と一緒にいたかった。
何故なら今日の日はふたりの記念日だから。
__約束。ちゃんと守って。
__絶対に守ってね。
__守るよ。絶対に。
求められたのは鍋をする約束の履行。
その会話が交わされたのはニューヨークの空港。
退学届を出した司を追ってニューヨークに来た彼女。
だが感動の再会はなく、冷たく彼女を追い返す男に約束を果たして欲しいと言った。
そしてあの約束は大人になった今でも守られていて、ふたりはあの約束と同じ日に鍋をしていたが、今日がその日だった。
だから司は、ニューヨーク行きは日付が変わってからだと西田に言った。
「支社長。そろそろ飛行機のお時間ですので」
後ろ髪を引かれるとは正にこのこと。
何しろ鍋の後、不覚にも寝てしまった司は彼女との大切な時間を台無にしてしまったのだから。
だが彼女はそんな司に文句は言わなかった。
「道明寺。気をつけて行ってきてね。あたし、待ってるから」
あの時。ニューヨークの空港で彼女は言った。
__あたし、待ってるから。
待っている人がいる。
その人は最愛の人。
その人から待っていると言われれば無事に帰ってこなければならない。
だが、あの時のふたりに明日という言葉はなく別々の道を歩むことが決まっていた。
つまり、あの時の鍋はふたりにとって最初で最後の鍋になるはずだった。
しかし運命の歯車は別の道を用意していた。
一度は切れかけたふたりの絆。
だが見えない絆は切れることなく今も続いていた。
そしてこの絆はいずれ永遠の絆に変わる。
だからその日まで、いやその後も、Make my day、彼女は司を幸せな気持にしてくれるだろう。
「じゃあな。行ってくる。俺が戻るまでいい子にしてろよ」
司は彼女から渡された上着を着た。
そして最愛の人の唇にキスを落とすと部屋を出た。

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そして担当医である牧野つくしが来るのを待っていた。
だが現れたのは男の医者。
だから司は訊いた。
「牧野つくしはどうした?」
「牧野先生はフリーランスのドクター、つまりアルバイトで当医院の正式な医者ではありません」
「だからそれがどうした?」
司は鋭い目と口調で医者に言った。
すると訊かれた医者は言葉に詰まりながら答えた。
「は、はい。で、ですからアルバイトの牧野先生は昨日付けで病院を辞めました」
「病院を辞めた?」
「は、はい。契約期間はまだありましたが、急に辞めると言って……」
司はベッドから起き上がろうとした。
だが腹部の痛みに呻いた。
「道明寺支社長。手術したばかりのお身体です。暫くはご安静にお過ごし下さい」
「あほう。胆石は手術後二日目に退院できるんだろうが。それに翌々日には仕事に復帰出来るはずだ」
「いえ。実は…その…」
「実は?実はって何だ?はっきり言え!それにうだうだ言ってんじゃねえよ!」
司は病院を辞めたという彼女を一分一秒でも早く探しに行きたかった。
だから言い淀んでいる医師に話の先をせかした。
「はい。牧野先生は胆石だと言いましたが実は道明寺支社長のご病気は胆石ではなく肝臓に腫瘍がありました」
「肝臓に腫瘍?」
「はい。支社長に事実を話さなかったのは、秘書の方から秘密にして欲しいと言われたからです」
「秘書が?」
「はい。それに牧野先生も言わなくていいと言ったからです。
その代わり手術は絶対に成功させるからと言って……しかし我々としてはバイト風情に道明寺支社長の手術をさせる訳にはいかないと言ったのですが、支社長が承知されたので牧野先生に執刀してもらったのです」
***
司は退院すると彼女がいるという北陸の海の見える街を訪ねた。
牧野つくしはそこにある小さな病院で働いていた。
「牧野せんせー!お客さんですよー!」
待合室を掃除していた女性は窓の外に広がる畑に佇んでいる後姿の女を呼んだ。
そこにいる女は白衣ではなくジャージ姿で鍬を持ち立っていた。
「すみませんねぇ。先生の趣味は農作業で昼休みには作物の世話をしてるんですよ。それにもうすぐ小松菜を収穫するので牧野先生も生育状況を気にしているんですよ。先生!牧野せんせー!」
彼女は女性の呼び声に振り返えると、「なに?」と叫んだ。
「だからお客さんですってば!」と女性が言うと、「客って誰?」と叫んだ。
すると女性は、「誰って….ええっと…お客さん、お名前は?」と司に訊いた。
太陽の光りが降り注ぐ場所にいる女から、暗い建物の中にいる司の姿は見えない。
だから司は牧野つくしに向かって叫んだ。
「お前に腹を切られた男だ!」
すると畑にいる女は手にしていた鍬を投げ出し走り出した。
だから司は大急ぎで建物を出ると彼女の後を追った。
「あの女、相変らず逃げ足、早ぇな…..」
司は彼女を逃がす訳にはいかなかった。
何が何でも絶対に掴まえなければならなかった。
だから畑の中を走った。
途中ぬかるみに足を取られ転びそうになった。
危なく肥溜めにダイブするところだった。
だが、司は転ぶことなく体勢を立て直すと彼女を追った。
そして畑を抜け道に出たところで追いつくとジャージ姿の女の腕を掴んだ。
それは女神のドレスの裾を掴むのとは訳が違ったが、司にとって牧野つくしは女神。
そして女神というのは気まぐれなところがある。
だから己の手からすり抜けてしまわないように力を込めた。
「ちょっと!痛いじゃない!離してよ!」
「バカか。お前は。俺が離せと言われて、はい、分かりましたって素直に離す男だと思うか?」
司の言葉に彼女は答えなかった。
「牧野。俺は__」
「アンタ文句言いに来たのね」
「は?」
「だから文句言いに来たんでしょ?」
「一体俺が何に文句を言うって?」
司は彼女が言った文句の意味が分からなかった。
「何って…..」
「だから何だよ?」
「そ、それは…..」
「牧野。俺はお前に命を助けられたことを嬉しいと思う。本当の病名を隠していたことを責めるつもりはない。それに__」
司はスーツの上着を脱ぐと放った。
そしてワイシャツのボタンを外すと肌を晒した。
「俺はこの傷あとが永遠に残ることを望んでいる」
司の腹には傷が三つある。
ひとつ目は高校生の時に刺された傷あと。
その傷あとは肌になじむように薄くなっていた。
二つ目は牧野つくしが手術をした傷。今はまだ生々しいが、いずれひとつ目の傷と同じように薄くなるだろう。
そして三つ目の傷は手術した傷の近くに刻まれた小さな傷。
司はその傷が永遠に残ればいいと思っていた。
「牧野。お前の気持は分かった。俺は喜んでお前の気持を受け取る」
司の腹に刻まれている三つ目の傷とはローマ字で刻まれた彼女の名前。
「この字は消えない。消えないように刻んだはずだ。俺はそれが嬉しい。
それにこの文字を刻んだのは俺を他の女に渡さないってお前の意思表示だろ?
俺にお前を一生忘れさせないためだろ?だが安心しろ。俺はお前以外の女を抱くつもりはない。お前は俺の全てで俺にとって女は死ぬまでお前だけだ。だからここにお前の名前が刻まれていても全く問題はない」
司は自分が彼女を忘れても、彼女が司のことを思っていてくれたことが嬉しかった。
だから己の身体に彼女の名前が刻まれても何の問題もない。
「道明寺……」
「牧野…..」
司はつくしの顎を掴み顏を近づけた。
「俺はもう二度とお前を忘れない」
「支社長お止め下さい」
「…..あ?」
ソファに寝ている司を上から覗き込んでいるのは秘書の西田。
真面目な秘書の顏は時に能面のように見えることがあるが、今はまさにそれで司はそんな秘書の顏に手を当てていた。
だから慌てて手を離すとソファから飛び起きた。
「西田。なんでお前がここにいる?」
司は秘書を睨んだ。
「支社長お忘れですか?今夜12時に牧野様のお部屋に迎えに来てくれとおっしゃったのを」
そうだった。
本当なら司は今夜仕事を終えた後、ニューヨークに向かわなければならなかった。
だが今夜はどうしても彼女と一緒にいたかった。
何故なら今日の日はふたりの記念日だから。
__約束。ちゃんと守って。
__絶対に守ってね。
__守るよ。絶対に。
求められたのは鍋をする約束の履行。
その会話が交わされたのはニューヨークの空港。
退学届を出した司を追ってニューヨークに来た彼女。
だが感動の再会はなく、冷たく彼女を追い返す男に約束を果たして欲しいと言った。
そしてあの約束は大人になった今でも守られていて、ふたりはあの約束と同じ日に鍋をしていたが、今日がその日だった。
だから司は、ニューヨーク行きは日付が変わってからだと西田に言った。
「支社長。そろそろ飛行機のお時間ですので」
後ろ髪を引かれるとは正にこのこと。
何しろ鍋の後、不覚にも寝てしまった司は彼女との大切な時間を台無にしてしまったのだから。
だが彼女はそんな司に文句は言わなかった。
「道明寺。気をつけて行ってきてね。あたし、待ってるから」
あの時。ニューヨークの空港で彼女は言った。
__あたし、待ってるから。
待っている人がいる。
その人は最愛の人。
その人から待っていると言われれば無事に帰ってこなければならない。
だが、あの時のふたりに明日という言葉はなく別々の道を歩むことが決まっていた。
つまり、あの時の鍋はふたりにとって最初で最後の鍋になるはずだった。
しかし運命の歯車は別の道を用意していた。
一度は切れかけたふたりの絆。
だが見えない絆は切れることなく今も続いていた。
そしてこの絆はいずれ永遠の絆に変わる。
だからその日まで、いやその後も、Make my day、彼女は司を幸せな気持にしてくれるだろう。
「じゃあな。行ってくる。俺が戻るまでいい子にしてろよ」
司は彼女から渡された上着を着た。
そして最愛の人の唇にキスを落とすと部屋を出た。

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そうだ。
失敗しないと言いながら故意に失敗して司を亡き者にしようとしているのではないか。
だがもしそうなら、それほど司に忘れられたことが許せなかったということになるが、「私、失敗しないので」、という腕を持つ医者なら腹から石を取り出す手術を失敗させる方が難しいのではないか。つまり唇の端を上げたように見えたのは、司の見間違いであり笑みではなかったのかもしれない。
だが司は長い間彼女のことを忘れ他の女と結婚していた。
それに男としての生活を存分に楽しんできた。
だから彼女の手で手術され殺されるなら、それは受け入れなければならないことなのかもしれない。
しかし司は彼女に償いをしていない。
もし殺されるとしても、それが心残りだ。
だからこの先彼女が生活に困らないように、いや、医者の彼女が生活に困るかどうか分からないが、それでも老後を不自由なく過ごせるようにしたいと思った。
だから生命保険の受取人を彼女の名前に書き換えた。
それに父親が亡くなったとき受け取った莫大な遺産がある。その遺産をすべて彼女に贈るという遺言書を作ったが、それが愛のしるし。そうすると司は手術台に横たわる覚悟が出来た。
そして不思議なことだが、彼女の手で手術されることに心が浮き立つのを感じた。
「牧野」
司は手術台に横たわると名前を呼んだ。
「なに?」
手術着姿で目だけを覗かせている女は凛々しかった。
そしてその姿は、かつて司に立ち向かってきた女の姿に似ていた。
「もし俺に何かあったとしても俺はお前を恨みはしない」
「アンタ。なに言ってんの。なんで私が胆石の手術で失敗しなきゃならないのよ」
「いいんだ。牧野。お前の気持は理解してる。お前はお前のことを忘れた俺のことが許せないんだろ?だから俺を____」
麻酔をかけられた司はそこで意識が途絶えた。
つくしは病院に運び込まれた男を見て息を飲んだ。
道明寺系列の病院で働けば男に会う可能性があると理解していたが、まさか急患で運ばれて来るとは思わなかった。
そして男と再会することになったが、記憶を取り戻しているとは思いもしなかった。
それに男には胆石だと言って石が写ったレントゲン写真を見せたが、男の肝臓には腫瘍が見つかった。
沈黙の臓器と呼ばれる肝臓。
人体の右上腹部にあり、あばら骨の内側で守られていることから、痛みを感じるまで気づくことがないと言われる肝臓の病。
だから男も自分の身体の異常に気付かなかった。
そして痛みを感じた時には遅いと言われるが、やはり男の病も進行していたことから、手術しても助かるかどうか分からなかった。
だから他の医者は抗がん剤と放射線治療を勧めた。
だがつくしは手術することを主張した。
それは腫瘍を取り除くことができる自信があったから。
それに男を愛していたから。
だから本当の病名を隠し、石が写った他の人間の写真を男の物だと偽り、沈鬱な面持ちを隠し男と対峙すると、つくしが手術をすることを承諾させた。

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失敗しないと言いながら故意に失敗して司を亡き者にしようとしているのではないか。
だがもしそうなら、それほど司に忘れられたことが許せなかったということになるが、「私、失敗しないので」、という腕を持つ医者なら腹から石を取り出す手術を失敗させる方が難しいのではないか。つまり唇の端を上げたように見えたのは、司の見間違いであり笑みではなかったのかもしれない。
だが司は長い間彼女のことを忘れ他の女と結婚していた。
それに男としての生活を存分に楽しんできた。
だから彼女の手で手術され殺されるなら、それは受け入れなければならないことなのかもしれない。
しかし司は彼女に償いをしていない。
もし殺されるとしても、それが心残りだ。
だからこの先彼女が生活に困らないように、いや、医者の彼女が生活に困るかどうか分からないが、それでも老後を不自由なく過ごせるようにしたいと思った。
だから生命保険の受取人を彼女の名前に書き換えた。
それに父親が亡くなったとき受け取った莫大な遺産がある。その遺産をすべて彼女に贈るという遺言書を作ったが、それが愛のしるし。そうすると司は手術台に横たわる覚悟が出来た。
そして不思議なことだが、彼女の手で手術されることに心が浮き立つのを感じた。
「牧野」
司は手術台に横たわると名前を呼んだ。
「なに?」
手術着姿で目だけを覗かせている女は凛々しかった。
そしてその姿は、かつて司に立ち向かってきた女の姿に似ていた。
「もし俺に何かあったとしても俺はお前を恨みはしない」
「アンタ。なに言ってんの。なんで私が胆石の手術で失敗しなきゃならないのよ」
「いいんだ。牧野。お前の気持は理解してる。お前はお前のことを忘れた俺のことが許せないんだろ?だから俺を____」
麻酔をかけられた司はそこで意識が途絶えた。
つくしは病院に運び込まれた男を見て息を飲んだ。
道明寺系列の病院で働けば男に会う可能性があると理解していたが、まさか急患で運ばれて来るとは思わなかった。
そして男と再会することになったが、記憶を取り戻しているとは思いもしなかった。
それに男には胆石だと言って石が写ったレントゲン写真を見せたが、男の肝臓には腫瘍が見つかった。
沈黙の臓器と呼ばれる肝臓。
人体の右上腹部にあり、あばら骨の内側で守られていることから、痛みを感じるまで気づくことがないと言われる肝臓の病。
だから男も自分の身体の異常に気付かなかった。
そして痛みを感じた時には遅いと言われるが、やはり男の病も進行していたことから、手術しても助かるかどうか分からなかった。
だから他の医者は抗がん剤と放射線治療を勧めた。
だがつくしは手術することを主張した。
それは腫瘍を取り除くことができる自信があったから。
それに男を愛していたから。
だから本当の病名を隠し、石が写った他の人間の写真を男の物だと偽り、沈鬱な面持ちを隠し男と対峙すると、つくしが手術をすることを承諾させた。

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