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2021
01.31

幸せの香り

あなたの幸せの香りはどんな香りですか?
咲き誇る花の香りですか?
甘い果物の匂いですか?
誰かがつけている香水の香りですか?
お風呂に入れる入浴剤の匂いですか?
コーヒーの香りですか?
パンの焼ける匂いですか?
どんな香りだとしても、誰もが好きな香りを持っていて、その香りを嗅ぐと幸せな気分になるはずです。

司にとっての幸せの香りは最愛の人の手のひらの匂い。
だが手のひらは何かを握ればその匂いが手に付いてしまう。
だから匂いと言われても、その人の匂いなど分かりはしないと言われる。
だが人には必ずその人の匂いというものがある。
現に犬や猫といった動物は、沢山の匂いの中から飼い主の匂いを嗅ぎ分けることが出来る。
だからたとえその手が何かを握ったとしても、その人本来の匂いが失われることはない。

それは最愛の人の手には魔法がかけられているから。
だがいい年をした男が魔法などという言葉を使えば、どうかしていると思われるだろう。
けれど彼女の手から渡されるものには必ず彼女の匂いが付いている。だからそれを魔法と言わずして何と言うのか。
そして司はそんな手から幸せな気持ちを貰っていた。

それは飴やビスケットやチョコレートといった菓子だったり、牛乳やヨーグルトやドロドロとした緑色の液体だったりした。
だがそれらは司がひとりでいたなら自ら口にすることはなかった。
けれど彼女は、疲れた時には甘い物を食べると元気になる。だから食べ過ぎなかったら大丈夫。と言って菓子を手渡してきたが、それが甘いだけの安物の菓子のだとしても、彼女の手を経て口に入った菓子は心を溶かす優しい甘さに変わった。

そして、冷蔵庫の中にぎっしりと詰められた食材を取り出し「健康にいいから」と言ってミキサーにかけ、グラスに注いで司の前に置くと「特製スムージーよ。緑黄色野菜もちゃんと摂らなきゃね?」と言ってキッチンで笑った。

かつて冷たい大人の世界に生きて来た少年がいた。
生まれ育った家に彼の居場所はあっても、そこに人の心はなかった。
人を傷つけ物を壊しても咎める者はいなかった。
そして人は傲慢だと孤独になるというが、あの頃の司はまさにその通りだった。
だがそんな男が彼女と知り合ってから内部に変化が起こった。彼女と生きてゆくために、それまでの過去を切り離し、自分自身を変えようとした。
だから高校を卒業して渡米していた4年間は互いの存在を近くで感じることは出来なかった。だが歳月を経たふたりは結婚した。

司は今彼女の手を握っていた。
いや。実際に握ってはいない。だが心の中でその手をしっかりと握っていた。
何故なら妻は今、命を懸けて新しい生命を生み出そうとしているからだ。
妻が産気づいたと知らされたのは空の上。
東京から1万キロ離れた場所から戻る途中だった。だから司は彼女の手を握ることが出来ずに分娩室の外にいた。

結婚して4年。
妊娠しにくい体質と言われた妻が妊娠した。
妻は陽気な女だ。だが必要以上に考えることもある。
だから結婚して子供が出来ないことに、自分は不妊症ではないかと悩んでいた妻の姿を知る男は、嬉しそうに妊娠を告げた彼女を抱き上げ一緒に喜んだ。そして安定期を迎えるまで家の中に閉じ込めていたいと言った。
すると妻は、「妊娠は病気じゃないから」と言って笑った。
だが出産は命がけだ。だから司も万全の体勢で出産の日を迎えたかった。
けれど、子供は予定より早く母親のお腹から外の世界に出ることを決めたようだ。
そして医師から「少し時間がかかりそうです」と言われ心臓が静かに波打った。

司は海外に向かう前、暗闇に包まれた寝室で隣に寝ている妻から言われた。

「あのね。この子が無事生まれてきたら、この子に弟か妹を作ってあげたい…….」

そう言った妻に「ああ。そうだな。子供は何人いてもいい」と答えた。
そして妻が寝息を立て始めると彼女の手を取って包み込んだ。

妻の手は無限の温もりを感じられる手だ。
結婚した時この手を守るためならどんなことでもすると誓った。
だからこの瞬間妻の手を握ることが出来ない自分が腹立たしかった。
そんな司は冷静になれ。心配するな。子供は無事に生まれてくる。親子揃って退院の日を迎えることが出来る。と自分に言い聞かせた。
そのとき、目の前の扉が開いて医者が出て来た。

「おめでとうございます。元気な男の子です」











「おい見ろ!俺を見て笑ったぞ!」

「そうね。パパを見て笑ってるわね?」

そう答えた妻の顏は面白そうに笑っていた。

「そうだろ。何しろ俺は世界で一番この子を愛しているんだ。この子もそれが分かっているから俺の顏を見て笑ってるんだ」

病院の人間は誰もが司のことを知っている。
看護師たちは子供の顏を見ようと集まってきて、「まあ可愛い!」「パパそっくり!」「髪の毛が巻き毛よ!」「将来きっとハンサムになるわ!」と言ったが、司はそうだろうとばかり頷いていた。




司は妻と一緒に子供の世話をするようになった。
手にしたのはベビーローション。
大きな手で沐浴をした小さな身体にローションを塗るとキャッキャッと笑った。
そこにあるのは満ち足りた家庭の匂い。
だから今の司が思う幸せの香りは、妻の手のひらの匂いと息子に使うベビーローションの香りだ。


かつて高価なコロンの香りだけがした男から香るふんわりとした優しい匂い。
それを感じることが出来るのは毎朝車で迎えに来る秘書だけ。
その秘書は挨拶を済ませ助手席に乗り込むと運転手に車を出すように言った。
そして口もとをほころばせた。





< 完 > *幸せの香り*
今日は司坊っちゃんの誕生日です。道明寺司様。お誕生日おめでとうございます!
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2021
01.29

『Love and Tenderness』更新のお知らせ

『Deception 83』話をUPしました。


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2021
01.25

金持ちの御曹司~平熱大陸~<後編>

「お前か。彼女の夫というのは」

司は恋人の夫に会うためにローマに飛んだ。
そしてホテルの一室に男を呼び出した。

「ああ。そうだ。俺がツクシの夫だがアンタが道明寺司か。なるほど。ツクシもいい金づるを見つけてくれたものだ。アンタがツクシの傍についている以上、俺は金には困らん。何しろアンタは彼女の名誉を守るためなら幾らでも金を払うだろうからな」

司の恋人の別れようとしない夫はピアニストだと言った。
だがその風貌はピアニストというよりも、ただの酔っ払いだ。それに司が誰であるかを知っている上でのその態度は挑戦的だ。
だが司はその態度を無視して夫である男に言った。

「彼女と別れるならそれなりの金を払おう」

「へえ。それなりの金ねえ......」

「ああ」

「ふうん。それで?世界に名だたる財閥の後継者が払ってくれる金ってのは一体幾らだ?」

司は恋人をこの男から守るためなら幾らでも金を払うつもりでいた。
だが、こういった手合いは金を貰ったからといって大人しく引き下がりはしない。
だが敢えて訊いた。

「いくら欲しい?」

「そうだな。最低でも彼女が持っているヴァイオリンの値段以上の金が欲しい。知ってるだろ?彼女が大切にしてるヴァイオリンだ。あのヴァイオリンはストラディバリウスだ」

恋人が自分の命だというストラディバリウスはイタリアの楽器職人ストラディバリ父子が制作したヴァイオリン。
値段は高いものでは数十億円するものもあるが、恋人のヴァイオリンも数億円の価値がある。彼女はそれを財団や大学からの貸与ではなく個人で所有していた。

「アンタ。彼女があのヴァイオリンをどうやって手に入れたか知ってるか?」

司は男の質問に答えなかった。

「そうか。知らないか。それなら教えてやろう。あのヴァイオリンは俺の姉が持っていたものだ。アンタは俺のことを調べたはずだ。俺の家は今でこそ落ちぶれてはいるが貴族の家柄だ。そんな家に育った姉は小さな頃からヴァイオリンを習っていて父親はそんな姉のためにヴァイオリンを買った。それが今彼女が持っているヴァイオリンだ。だがどうして彼女が姉のヴァイオリンを持っているか?それは彼女が姉を殺して手に入れたからだ。彼女が俺のことをどう話したか知らないが、彼女は真面目そうに見えて悪女だ。俺に近づいて来たのも姉がストラディバリウスを持っていることを知ったからだ。ああ、だが彼女に姉がストラディバリウスを持っているのを話したのは俺だ。だから俺が悪い。いいか?彼女が俺と結婚したのはあのヴァイオリンを手に入れるためだ。彼女は俺と結婚すると姉を殺した。姉に毒入りのカルヴァドスを飲ませて殺したんだ!」

男はそこで言葉を切ると乾いた笑い声を上げた。

「どうだ?驚いたか?彼女は恐ろしい女だ。まるでボルジア家の人間のように野心家だ!道明寺さん。あんたも気を付けた方がいい。もし二人切りになって彼女からフランスのりんご酒を出されたら気を付けるんだな!」









「ありがとう。あなたのおかげであの人と別れることが出来たわ」

恋人はそう言って司の前にグラスを置いた。

「これは?」

「これ?これはカルヴァドス。フランスのりんご酒よ。どうぞ召し上がって」

司は恋人からそう言われたがグラスを手に取らなかった。
だが彼女は「乾杯」と言って自分のグラスを掲げると、琥珀色の液体を飲み干した。

「どうしたの?飲まないの?美味しわよ?」

そう言われた司はグラスを手に取ると恋人と同じように飲み干した。
すると恋人は司の目を真っ直ぐに見て言った。

「ねえ。大丈夫?なんだか顔色が悪いみたい」











聞こえますか。
聞こえますか。
私は今あなたの心に直接語り掛けています。
そして大切なことなので3回言いました。

「支社長。起きて下さい!今夜は牧野様とコンサートに行かれるのではありませんか?」

司は驚いたように目を剥いた。
そして西田を見た。そうだ。今日は恋人とコンサートに行く約束をしていたが、とんでもない夢を見た。

「支社長。お顔の色がいつもと違うようですが、ご体調が優れないのではありませんか?もしかして熱があるのではございませんか?」

「いや。大丈夫だ。熱はない。平熱だ」

「そうですか。それならよろしいのですが今夜のコンサートは牧野様が大変楽しみにされているコンサートです。何しろヴァイオリニストの早瀬太郎と言えば、ドキュメンタリー番組のテーマ曲が有名です。あの曲はわたくしも好きな曲です」

西田はそう言って「さあ。遅れます。お急ぎ下さい」と司を執務室から送り出した。








「今日のコンサート良かった!やっぱり凄いわねえ。早瀬太郎」

司のマンションに戻った恋人はコンサートのパンフレットを見て言ったが、司には気になることがあった。
それはヴァイオリンと言えば類の得意な楽器だからだ。
そして思うのは、もしかして恋人はまだ類のことが好きなのではないかということ。

「なあ」

「ん?何?」

「お前まだ類のこと好きなのか?」

「はあ?」

「いや、ヴァイオリンと言えば類だ。お前は高校生の頃、類のヴァイオリンが好きだと言った。だからあのヴァイオリニストのコンサートに行ったのは、まだ類のことが好きだから_」

「あのねえ、あの頃から何年経ってると思ってるのよ。いい?よく訊いて。私はあの番組が好きなの。それにあの曲が好きだから一度生で訊きたいと思ってたの!それに早瀬太郎は類には全然似てないし、髪の毛だけ言うならクルクル頭であんたに似てるし....もう…..本当にあんたって人はどこまでやきもち焼きなのよ…..」

司は恋人から早瀬太郎がテーマ曲を演奏している番組が好きだ。だから生で訊きたかったと言われた。
それなら自分もその番組とやらに出てやろうじゃないか。なんなら道明寺がその番組のスポンサーになってもいい。
人間密着ドキュメンタリー、『平熱大陸』いや、『情熱大陸』だったか?
司はいつかその番組に絶対に出てやると固く心に誓ったが、今情熱を注ぐ先は目の前で眉間に皺を寄せている女。

「牧野」

「何よ?え…..何?……あっ…..」

そして、その女は男に抱きかかえられると、大人しく寝室へ運ばれて行った。




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2021
01.24

金持ちの御曹司~平熱大陸~<前編>

鳥の世界ではよく訊くオスの方がメスよりも派手だという話。
その理由をひとことで言えばメスを惹き付けるため。
だからオスは派手な羽根を広げ、その美しさを必死にアピールする。それに派手さだけではなく立派な巣を作ってメスを引き寄せるオスもいる。だが鳥も種類が違えば美しさにも真新しい立派な巣にも興味がないメスもいる。
そして司が好きになった女はそういった女。煌びやかで華やかで裕福な男に興味がない。
だから出会った頃、司の求愛を無視して逃げた。だが、そんな女に壁ドンではなく床ドンしたのは高校生の頃だ。

そんな司は夢を見た。
それは今年初めて見た夢で、いわゆる初夢というものだが、どんなものかと言えば、それは_____




司が黒いシャツを着れば男前が2割増しになると言われるが、夢の中の司は黒いシャツを着てサングラスをかけている。
その姿は近寄り難く、目が合えば何をされるか分からない男に見えた。
そんな男がコンビニの入口にある新聞スタンドの前に立つと、挿してある全てのスポーツ新聞を抜き取りレジに持ち込んだ。

「150円が8部…..130円が10部……140円が15部……」

それにしても何故男はスポーツ新聞を買い漁っているのか。
それは自分の恋愛記事が写真付きで載っているからだ。

『道明寺財閥の御曹司。世界的なヴァイオリニストと熱愛中』

司は店員がレジを通している間、どうしてふたりのことがマスコミに漏れたのかを考えていた。
何しろふたりの交際を知るのはごく僅かの友人達で彼らは口が堅くマスコミに話すことは絶対にない。それにふたりが会うのは、厳重なセキュリティが施された道明寺が所有する建物の中であり、出入りは地下の駐車場からで外部の人間がその様子を見ることは出来ない。
だからこそ外部の人間が簡単に入ることが出来ない場所で撮られたこの写真はいったい誰が撮影したのか?

……………まさか彼女がみずからマスコミに話してふたりの姿を撮らせた?

いや。まさかそんなことはない。
彼女は有名なヴァイオリニストだがマスコミを嫌っている。
そして音楽以外のことはさして興味がないという女性だ。そんな彼女は司と出会ったとき彼が何者かを知らなかった。

司が彼女と出会ったのは使う予定だったジェットを母親に横取りされ、仕方なく民間機に乗ったとき。ファーストクラスの席の隣にいたのが彼女だ。
司は彼女の向こう側の席にヴァイオリンが置いてあるのを見た。それから彼女を見た。
すると彼女は、「このヴァイオリンは私の命と同じです。だから席が必要なの」と言って自分はヴァイオリニストだと言った。
だから司は彼女と別れたあと、彼女が出しているCDを探し購入し、ジャケットの彼女の顏を見つめながらヴァイオリンとオーケストラの演奏に耳を傾けた。



「9600円です」

「……….」

「あの?お客さま?お支払金額は9600円になります。袋はご入用ですか?」

と、店員に言われた司は黒いカードを渡し、「ああ」と言った。

司が交際している女の名前は吉村つくしと言う。
恵まれない育ち方をした彼女は絶対音感を持っていた。
その才能を小学校の音楽の教師によって見出されると、教師の恩師である有名な大学教授の元に預けられ養子となりヴァイオリンを習うことになった。そして国内のコンクールの賞を総なめにするとイタリアに留学し、世界的なヴァイオリニストとして活躍するようになった。

司は才能あふれる彼女のことが自慢だ。
それに世間にバレてもいいと思っている。
だが彼女は秘密にして欲しいと言った。だからこれまで秘密にしてきた。
だからこそ、彼女がみずからマスコミに話すとは思えなかった。

「どうしよう。何故あなたとの交際が分かったのかしら….」

司の恋人はそう言って慌てていた。
だが司はこうなったからには、ふたりの交際を堂々と世間に公表しようと言った。
けれど恋人は首を横に振った。

「だめよ。実はあなたには話してなかったけど私にはイタリア人の夫がいるの。ええ。そうよ、イタリアに留学していたとき知り合ったの。彼はピアニストなの」

司は恋人の口から語られる夫の話に耳を傾けた。
イタリア留学時代に知り合ったふたりは、同じ音楽家同士気が合った。
だから結婚したが破局は早かった。一年も持たなかった。

「一緒に暮らし始めてふたりが合わないことはすぐに分かった。だから別れて欲しいと言ったわ。でも彼は別れてくれなかった。それどころか私がヴァイオリニストとして世界中に名前が知られるようになると、結婚していることは秘密にしてやる。その代わりにお金を寄越せと言ってきたの。だからこうしてあなたのことが新聞に載った以上、きっと彼は他人の妻に手を出したと言ってあなたにお金を要求するわ。ごめんなさい。あなたに迷惑をかけることになって…..」

だが司は迷惑とは思わなかった。
むしろ、これをいい機会だと捉え、彼女と別れようとしない男に引導を渡してやるつもりでいた。




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2021
01.22

『Love and Tenderness』更新のお知らせ

大変お待たせいたしました。
『Deception 82』話をUPしました。


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2021
01.18

扉のない部屋 最終話

司は牧野つくしと会う度に「好きだ」と言った。
女もそんな風に求められる日々が続けば、司に惹かれるようになりふたりは付き合い始めた。
そして月日が過ぎたある日。
大学教授から最後の原稿を受け取った女は、それを校正し終えると司に電話をかけてきた。

「やっと終わったの。これで毎日通わなくてよくなったわ」

だから司は「大変だったな。お疲れ様」と言った。そして「見せたいものがあるから今日来ないか?」と言った。すると「なに?」と言った。だから「来てみれば分かる」と言って女が来るのを待った。

仕事を終え司の邸に来た女は、「ごめんなさい。遅れてしまって」と言って約束の時間に遅れたことを詫びた。

「いや。構わない」

「本当?それで見せたいものがあるって何?」

女は関心をもって司を見ていた。
だから司は、それはこれから向かう場所にあると言って女と共に庭に出た。

「足元に気を付けろ」

暗闇が広がる庭は足元を照らす黄色い球体が灯されているだけで他に灯りはない。
そんな場所を背後に女を従えた司は邸の一角にある古い洋館に向かっていた。
そこは空に丸い大きな月が浮かんでいたとしても、建物は背の高い木々が作り出す影の中に飲み込まれている。だから輪郭もなく突然目の前に現れた洋館に女は驚いた顏をした。

「この建物の中には祖父がアトリエとして使っていた部屋がある」

司はポケットから鍵を取り出し玄関の扉を開けた。

「アトリエ?」

「会ったことがない祖父だが絵を描くのが趣味だったそうだ」

司は建物の中に足を踏み入れた。だがそこは、しんと静かな暗闇が広がっていた。
そんな場所に司は女の手を取り引き入れた。それから灯りを点けた。

「祖父が描いた絵はとても興味深い絵だ。だからその絵を見て欲しい」

力強い手は女の手をしっかりと握って洋館の中を歩いた。
そして「ここだ」と言って扉の前で立ち止まった。

「この部屋?」

女は閉ざされた扉を見ていた。

「ああ。ここが祖父のアトリエだった部屋だ。だがこの部屋の鍵は失われていたと思われていた。だから長い間誰も足を踏み入れることがなかった。けど失われたと思われていた鍵は簡単に見つかった。その鍵でこの扉を開けたとき何が出て来るのかとゾクゾクした」

と言って司は扉を開けた。すると女は息を呑んだ。
それは目の前の光景に驚いたからだ。

「どう思う?」

「え?ええ…..」

女が見ているのは、部屋の壁に沿って置かれている絵だが、そこに描かれているのは恐怖に歪んだ女の顏や上半身が血まみれの裸の女。切りつけられた白い背中やカッと見開かれた目が赤い涙を流している、おぞましく暴力的な光景だ。

「どう思う?」

司は女に繰り返し訊いた。
だが女は「え?」と言って口ごもった。
そして何か言わなければと思っているが、言葉にならないのか何も言わなかった。
だから司は、「他にも沢山の絵があるから中に入ってゆっくり見て欲しい。それに気に入った絵があれば教えて欲しい」と言って「ここにある絵は全て祖父が描いたものだが、祖父には絵の才能があったと思わないか?それに想像で描いたのなら凄いと思わないか?」と言葉を継ぎ女の背中に手を回し中に入るように促した。

だが女の足は部屋の奥へ入ることを拒んでいる。
それでも女は、「ええ。そうね」と言って戸惑いながらも、「ちょっとショックを受けるような絵ばかりだけど、おじい様は絵の才能があったのね」と言った。

「そうだ。祖父には絵の才能があった。それから他にも見て欲しいものがある」

女はその言葉にホッとした様子を見せた。
それは目の前にある暴力的な絵から解放されると思ったからだ。

司は机に近づき引き出しを開けた。するとそこに整然と並べて保管されているのは様々な種類の包丁。刃は光るほど研かれ、大きいものから順番にまっすぐ並べられていた。

「ここにあるのはすべて祖父の包丁だ。祖父は絵を描くために包丁を用意した」

司はひとつを手に取って刃先に触れたが、ずっしりと重く長い年月を経ても劣化はない。
女はアトリエと呼ばれるこの場所に絵筆ではなく沢山の包丁が規則正しく並べられているのを見て身を固くしていた。そして司の言葉の意味を考えている。

「この邸には地下室がある。そこの鍵もこの部屋の鍵と一緒に保管されていた」

そう言った司の声は、面白そうな響きが溶けていた。
そして司は女が考えていることがすぐに分かった。

「どこへ行くつもりだ?」

女は一歩あとずさった。逃げようとしていた。
だから司は女の手首を掴んだ。そして頬を緩めた。












祖父はここで絵だけを描いていたのではない。
この部屋には地下へ降りるための階段があった。地下室があった。
自分が愛した人と結ばれることがなかった祖父の心は歪み、そこに女を連れ込んで身体を切り刻んでいた。
だから、引き出しの中に整然と並べて保管されていたのは筆ではなく様々な種類の刃物。
祖父は女を傷付けながら絵を描いていたのだ。

それは祖父にとってのセレモニー、儀式だったはずだ。
そして祖父が法律的な制裁を受けることがなかった。
何しろ祖父は日本の経済界に君臨する道明寺の総帥だ。それに道明寺の家に生まれた男には法律を凌駕する力がある。

司がこれから牧野つくしにおこなうことも犯罪ではなくセレモニーだ。
司は祖父とは違う意味で女を泣かせたかった。だが誰でもいいというのではない。
気の強さと生意気さと、いさぎよさを持つ牧野つくしという女が泣くところが見たいのだ。
そして司にとって甘い囁きのその声が助けてと言い、自分にすがる姿が見たい。

「何故こんなことをするのか知りたいか?私はお前の泣く姿が見たい。泣き声が訊きたい。助けて欲しいと私にすがる姿が見たい。どうしてそう思うか?それは私の車に向かってスピードの出し過ぎだと啖呵を切った姿が勇敢だったからだ。何しろこれまで私に向かってあんな態度を取った女はいなかった。私はその態度に惚れた。ああ大丈夫だ。心配はいらない。殺しはしない。お前はずっとここにいる。それに痛みもいずれ別の感覚に変わる。そのうち慣れるはずだ」

司は抑揚のない声で言って扉を閉めた。
そして頑丈な鍵をかけた。
するとそこは扉のない部屋になった。





< 完 > *扉のない部屋*
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2021
01.15

扉のない部屋 7

司が原稿用紙の入った封筒を渡すと牧野つくしはホッとした表情を浮かべた。
そして、「ありがとうございます。お手数をおかけいたしました」と言って大事そうに抱えた。

食事は人の距離を近づける。
そして司は牧野つくしがフランス料理ならブイヤベースとカリフラワーのマリネが好きなことを知った。

「それならシェフに作らせましょう。いかがですか?来週のこの時間?今夜のように教授の原稿を受け取った後、私と食事をしませんか?」

「でも…..」

「私と食事をする理由が必要ですか?」

「はい」

「そうですか。それなら言いましょう。私はあなたのことが好きです。勿論本気です」

誰もが知る企業の副社長であり、都内に広大な敷地の邸を持ち、財力も美貌も持つ男からそう言われれば、どんな女も悪い気はしない。
だが牧野つくしは料理を飲み込むのではなく、空気を呑み込んで驚いた顏をしていた。

「そんなに驚くことですか?人は何かの加減で知り合う。そして男と女は何かの加減で相手に惹かれるようになる。その何かとは人によって違う。
私は立場上大勢の人間に会ってきました。ですがあなたのような瞳を持つ女性に会ったことがない。私はあなたの真っ直ぐな瞳に魅せられた。あなたの瞳は意志の強さが感じられる。あなたはその真っ直ぐな瞳と同じで真っ直ぐな人間だ。
それに私はこれまで自分に正直に生きてきた。だからあなたのことが好きだというのは嘘ではありません。それからあなたの声も好きです」

司は言葉に余韻を残して言うと、黙っている女を前に言葉を継いだ。

「ああ。それから私の立場は気にしないで下さい。あなたの前にいるときの私はただの男ですから」

以来、司は週に一度牧野つくしと食事をするようになった。
そして好きだと言われた女は、そんな司の思いに初めは逃げ腰だった。
だが、戸惑いながらも真剣に焦がれられれば、強固なネジで留められている心の扉を少しずつ開き始めた。




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2021
01.13

扉のない部屋 6

司の名刺に書かれている電話番号に電話がかかってきたのは翌朝の8時前だ。
朝早くからすみませんと謝った上で女は話し始めた。

「昨日はありがとうございました。それから自転車の件ですが、お気持ちは大変嬉しいのですがいただく理由がありません」

司は牧野つくしの壊れた自転車を処分するように言うと、翌日新しい自転車を届けさせた。
女は自分の自転車は会社を辞めて故郷へ帰る友達から譲り受けたものだが、修理すればまだ乗れるはずだと言った。
だがチェーンが切れていることもだが、見るからに古い自転車は修理したところでまたいつ壊れてもおかしくない代物だ。だから新しい自転車を用意させたが、そうしたのには理由がある。
それは、壊れそうな自転車を買い替えることなく使うような女なら、その自転車を失っても新しいものを買わないような気がしたからだ。
そして牧野つくしが原稿を書いて貰うために通っている大学教授の家の近くにはバス停がある。だから遠回りになるとしても、バスに乗れば通うことが出来る。しかしそうなってしまえば女は邸の傍を通らなくなってしまう。それでは困るのだ。

「牧野さん。私はあなたの自転車を勝手に処分してしまった。だからその自転車は弁償だと思って下さい。それにあなたは自転車がないと困るのではありませんか?」

「ええ。まあ…..」

と女は答えたが、電話をしてきたのは届けられた自転車のことだけではなかった。

「あの、道明寺さん。お願いがあります。お手数ですがソファの下を見ていただくことは出来ないでしょうか?昨日原稿が散らばったとき集めきれなかったものがあるかもしれません」

大学教授が書いているのは小学生向けの物理読み物風の本。
女は帰ろうとしてリュックを掴んだ。だがそのリュックの口は開いていて、中に入っていた原稿用紙が床に散らばった。

「もしかして原稿が足りない?」

「はい。そうなんです。1枚無いんです。多分あのときソファと床の隙間に滑り込んだんだと思います。だからソファの下を見ていただければ助かります」

電話の声は困っていて司がそうしてくれるのを強く望んでいた。
だが司は女の希望を叶えることは出来なかった。

「申し訳ない。見て差し上げたいのは山々ですが今、私は会社にいます。ですから見ることが出来ません」

「そうですか。もう会社に出ていらっしゃるんですね……」

「ええ。今日はいつもより早い時間に出社しています」

「そうですか……」

司が泣かせてみたいと思う女の口から繰り返される『そうですか』
その言葉に込められているのは落胆だが、司にはその言葉が甘い囁きのように聞こえた。
牧野つくしの声は特徴のある声ではない。それにこれまで司はどんな女の声にも魅力を感じたことはない。だが牧野つくしの声は司の欲望を刺激する。
だから泣かせてみたいこともだが、喋る内容などどうでもいいからその声を訊き続けて独り占めしたい。

「牧野さん。私は会社にいますが邸の者にソファの下を見るように言いましょう」

「本当ですか。お手数をかけますがよろしくお願いします」

「心配しなくても大丈夫です。あなたが探している原稿はソファの下にあるはずです」

司は話し終えると携帯電話を執務机の上に置いた。
そして右手の爪で机を叩くと、両肘を机に乗せ指を組んだ。
それから目の前に置かれている紙を見てふっ、と笑った。

『アルバート・アインシュタイン博士は、学校の成績が良くなかった。単純な計算ミスも多く、簡単な数字や記号を覚えるのが苦手だった。そして調べればわかることは覚える必要はないと言って自宅の電話番号も覚えてはいなかった』







司は女との電話を切って1時間後に「牧野さん。邸から連絡がありました。原稿はあなたがおっしゃたようにソファの下にあったそうです」と連絡をした。すると女は「本当ですか!良かった!ありがとうございます。お手数をおかけしてすみませんでした」と言った。そして今夜、教授の家に行った後で邸に寄らせてもらえないかと言った。だから司は食事をしないかと誘った。

「あの。でも……」

司に食事に誘われて断る女はいない。
いや。それどころか厚かましくも司と食事をしたいと誘ってくる女は大勢いる。
だが牧野つくしは躊躇っていた。

「牧野さん。私は食事をしたいだけです。何もあなたを取って食おうとしているのではありません」

女は数秒間の沈黙の後、「わかりました。では今夜おじゃまします」と答えた。
だから司は「ではお待ちしています」とだけ答えた。




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2021
01.11

扉のない部屋 5

「どうかされましたか?」

司は牧野つくしが携帯電話をかける前に声をかけた。
背後の暗がりから声をかけられた女は驚いて振り返った。

「おや?チェーンが切れたようですね?」

女は強張った表情で携帯電話を握りしめ自転車のチェーンが切れたことを指摘した男を警戒した様子で見ていた。

「どうぞご安心下さい。私は怪しい者ではありません。私はこの家の住人です。この界隈は治安がいいと言われていますが夜道に女性がひとりでいては危険です。お困りのようでしたらお手伝いしましょう」

司は高い塀の奥が自分の家であることを示し、散歩をしている途中だと言った。
けれど女は人影のない夜道に突然現れた司の言葉を半信半疑で訊いているのは明らかだ。
だから司は、これまで誰にも見せたことがない笑みを浮かべ言葉を継いだ。

「私はあなたに何かするつもりはありません。もし私のことを変質者か何かだと疑うなら今すぐ私の身分を証明しましょう。私は道明寺ホールディングスの副社長の道明寺司と言います」

そう言って名刺を差し出した司の後ろには、足を開き手を後ろで組んだ男が二人いた。
司は振り返ると彼らに向かって目配せをした。すると二人の男は自転車に近づいた。

「自転車をここに置いておくと処分されてしまいます。それに今すぐに修理をするのは無理でしょう。ですから私のところで預かりましょう。彼らが邸に運びます。それからどなたかに連絡をされるなら私の家でその方が来るまでお待ちになればいい。夜道に女性がひとりでいるのは危険です」





***




司は女を邸に案内した。
世の中には司の邸に招かれることを望む女が大勢いる。
だが司はこれまで女を招いたことはない。けれど今は積極的にひとりの女を招いていた。

玄関ホールの天井は高く、シャンデリアが輝いている。
だがそこに人の気配はなく司の足音と緊張した女の小さな足音が響いていた。

「さあ。どうぞ中へ」

司はまっすぐな廊下を進み、奥まった部屋へ女を連れて行った。
そしてコーヒーか紅茶でもどうかと勧め、女がコーヒーをと言うとメイドにコーヒーを運ばせた。

「そうでしたか。お仕事でこの近くへ」

「はい。私は小さな出版社で働いています。今、大学で物理学を教えている先生に子供のための本を書いていただいています。今日も……いえ実は毎日先生が書いた原稿を受け取りに来ています。何しろ先生はお忙しい方なのでそうでもしなければ原稿を書いてもらえないからです」

ソファに腰掛けた女は足元に置いたリュックを見て言った。

「なるほど。毎日とは大変ですね」

「ええ。大変といえば大変ですが仕事ですから」

女はそう言って笑うとカップをソーサーに戻し、まだ半分残っているコーヒーに目を落としてから遠慮がちに「すみません。お手洗いをお借りしたいのですが」と言った。
だから司はメイドを呼ぶと案内するように言った。

女の口から語られた話は調べた通りだった。
司は牧野つくしが部屋を出て行くとソファの足元に残されているリュックを手に取った。
そして中に入っていた封筒から原稿を引き出し書かれている文字にじっと見入り、再び原稿を封筒の中に収めるとリュックを元の場所に置き女が戻って来るのを待った。
暫くして戻ってきた女は、「道明寺さん。そろそろ失礼します。コーヒーをごちそうさまでした。それからあの、お手数ですがタクシーを呼んでいただければ助かります」と言った。
だが司はタクシーを呼ぶ必要はありません。送りましょうと言った。
すると女は少し躊躇ったが「ありがとうございます」と礼を言ってリュックを掴んだ。

「あ!」

女が声を上げたのはリュックの口が開いて、そこから原稿用紙が床に散らばったから。
だから女は慌ててしゃがみ込むと原稿用紙をかき集めていた。司もしゃがんで集めるのを手伝った。
そして女に原稿用紙を渡したが、司の顏は女の息がかかりそうなほど近くにあった。




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2021
01.09

扉のない部屋 4

監視カメラが映し出した女の服装はパンツスーツ。そして背中にリュックを背負っている。
それは車の窓越しに見た時と同じだった。
司は牧野つくしの行動を調べた。

女は大学の理数系教科書や参考書を出している小さな出版社で編集の仕事をしている。
今、担当しているのはドイツの物理学者が書いた宇宙線に関する著書を日本の物理学者が日本語に翻訳して本にすること。
そしてもうひとつは、大学教授に小学生向けの物理読み物風の本を書いてもらうこと。
その大学教授の家は司の邸の近くにあり、女は原稿を受け取るため毎晩同じ時刻に司の家の傍を通っていた。
だが何故毎日教授の家に通うのか。それは教授と呼ばれる男がテレビ出演や講演会で忙しく執筆作業が捗らないためだ。だから少しでもいいから原稿を書いてもらうために毎日自転車で教授の家に足を運んでいた。

司は牧野つくしの生活パターンを知ると、洋館の近くに設置された邸の周りを監視するカメラを高性能の物に変えた。
すると、程なく女が乗っている自転車がカラカラと音を立て始めた。
それはどこかに異常があるということ。いや。明らかに壊れている。いや。壊れる前なのかもしれない。しかし忙しい女は修理することもなければ買い替えることもせず1ヶ月が過ぎた。
そして司はこの1ヶ月、祖父が残した道具の手入れをしていた。
絵を描くことを趣味としていた祖父。だがそれはおぞましく暴力的な光景が描かれた絵。
それらの絵を描くために祖父が用意した道具は机の引き出しに几帳面に並べられ司が使うのを待っていた。


ある日の夜。
いつものように自転車に乗った牧野つくしは、大学教授の家からの帰り司の邸の傍を通りかかった。
だがちょうどその時、彼女の自転車は動かなくなった。

「どうしよう…..チェーンが切れたのかしら…..」

高性能の監視カメラは聞えるか聞こえないほどかすかな女の呟きを拾った。
司の邸がある場所は都心ではない。それにこのあたりに商業を営む店はない。
それにいくつもの街灯がある高級住宅地とはいえ夜道に危険性はつきものだ。
女は自転車を街灯の下に止め、背中からリュックを降ろし携帯電話を取り出した。
そして画面に指を走らせようとしていた。




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