「どうした?何か言えよ。罵ってもいい。怒ってもいい。俺に言いたいことがあるはずだ。
長い間お前を忘れていた男を許せないはずだ。だから殴りたければ殴ればいいし蹴りたければ蹴ればいい。だが俺は今でもお前のことが好きだ」
と、言われたが、つくしは口をつぐんで何も言わなかった。
それは単に突然目の前に現れた男が自分のことを思い出したと言ったことに驚いて言葉が出なかったに過ぎない。だが、その驚きが過ぎると、それとは別の感情が湧き上がった。
それは今更という感情だ。
一緒に過ごした時間はベッドの上だけだった。だが肌を合わせていれば、いつか自分のことを思い出すのではないかという期待を抱いた。しかし男は思い出すことはなかった。
そして政略結婚をする男から愛人になれと言われたが、いくら男にとって愛のない結婚だとしても、つくしの倫理観は妻を持つ男の愛人になることを認めなかった。
だからケジメをつけ男の元を訪れることを止めたが、それは会社からベトナムへの異動を内示されていたつくしにすれば、男が自分を思い出さなければ関係を終えることを決めていたのだから、愛人になれと言われた時に会うことを止めたのは終わりが早まったに過ぎない。
そしてベトナムに渡ることを決断したとき、この男のことをキッパリと忘れると決めた。
だから飛行機の中で眠りについて数時間後に目覚めこの国に到着した時、不思議と静謐(せいひつ)な気持になれた。
それなのに突然現れた男は、平気で人の気持を搔き乱すようなことを言う。今でもつくしのことが好きだと言いながら、つくしの愛人になると訳のわからないことを言う。
「牧野。俺は12年もお前のことを忘れていたが思い出した。1週間前だ。朝目が覚めたとき、一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。それに時間も分からなくなった。その時お前の顏が浮かんであの日の光景が頭の中に甦った。お前の手を掴もうと手を伸ばして掴めなかった瞬間がな」
と男は言ったが、つくしは12年の想いにケリをつけ日本を後にした。
だから何を言われても今更という思いが強かった。
そんなつくしは男と視線を絡ませて言った。
「だから何?」
「だから?」
「そう。だから何よ?」
「愛人になるの意味か?」
「そうよ。それにどうしてここにいるのよ?」
その言葉は冷たく突き放したような言い方だったが、男はそんなつくしの態度に慣れたものだといった風で臆することはない。
「どうして俺がここにいるのか?三条から訊いた。牧野つくしはスポーツ用品会社で働いていてベトナムに転勤したってな。それからお前が俺の所に来た理由も訊いた。お前は俺がお前を忘れてからも俺のことを思ってくれたそうだな。だからお前は俺が見合いをすると訊いて俺の元を訪れることにした。それは自分のことを思い出して欲しかったからだ。
そんなお前は俺に自分を印象付けるために部屋を間違えたフリをする芝居をした。それは賭けだったが、俺はお前を気に入った。それから俺たちの関係が始まったが俺はお前のことを愛していた訳じゃない。ただ女が欲しかったから抱いていた」
つくしの質問に対し、まず何故自分がベトナムにいるのかを答えたが、男は失っていた記憶を取り戻すと桜子から色々と訊いたようだ。
だが桜子は男がつくしのことを思い出したことを教えてはくれなかった。
そして愛人になる、の意味を話し始めた。
「それから俺がお前の愛人になるの意味だが、俺はお前のことを思い出した瞬間から、お前を愛してることも思い出した。そんな俺はお前のことを忘れている間、単なるセックスの相手としてお前を扱った。それは許されることではない。だから俺を罰してくれ。俺をお前の愛人にして好きなようにしてくれ。俺はお前がして欲しいことはどんなことでもする。ひざまずけと言うならそうしよう」
男はこう言いたいのだろう。
これは自分がつくしにしたことへの贖罪だと。だがつくしは贖罪など望んではいない。それにどう扱われようと男に抱かれたのは自分が望んだことだ。それに男とのことはもう終わったことだ。
「牧野。言っておくが俺は結婚していない。それにお前が俺の提案を断ってから他に女はいない。それはお前以外の女が欲しくなかったからだ。それが生理的なものか。そうでないかは初め分からなかった。ただ、他の女を抱こうという気にならなかった。それに本当は愛人じゃなくて夫にして欲しい。だが今のお前は簡単には俺の想いを受け入れないだろう。だから愛人でいい。俺をお前の愛人にしてくれ。だがいつまでも愛人でいるつもりはない。それに俺はお前に対して責任がある」
「責任?何よそれ?私はあんたに責任を取ってもらう必要はないわ」
本当は愛人ではなく夫になりたいという男だが、もし妊娠のことを言っているならそれはない。
それに男は避妊については意識が高く怠ることはなかった。
「いいや。ある。お前の身体は俺以外の男に抱かれることを望まないはずだ。だからその責任は俺が取らせてもらう」

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長い間お前を忘れていた男を許せないはずだ。だから殴りたければ殴ればいいし蹴りたければ蹴ればいい。だが俺は今でもお前のことが好きだ」
と、言われたが、つくしは口をつぐんで何も言わなかった。
それは単に突然目の前に現れた男が自分のことを思い出したと言ったことに驚いて言葉が出なかったに過ぎない。だが、その驚きが過ぎると、それとは別の感情が湧き上がった。
それは今更という感情だ。
一緒に過ごした時間はベッドの上だけだった。だが肌を合わせていれば、いつか自分のことを思い出すのではないかという期待を抱いた。しかし男は思い出すことはなかった。
そして政略結婚をする男から愛人になれと言われたが、いくら男にとって愛のない結婚だとしても、つくしの倫理観は妻を持つ男の愛人になることを認めなかった。
だからケジメをつけ男の元を訪れることを止めたが、それは会社からベトナムへの異動を内示されていたつくしにすれば、男が自分を思い出さなければ関係を終えることを決めていたのだから、愛人になれと言われた時に会うことを止めたのは終わりが早まったに過ぎない。
そしてベトナムに渡ることを決断したとき、この男のことをキッパリと忘れると決めた。
だから飛行機の中で眠りについて数時間後に目覚めこの国に到着した時、不思議と静謐(せいひつ)な気持になれた。
それなのに突然現れた男は、平気で人の気持を搔き乱すようなことを言う。今でもつくしのことが好きだと言いながら、つくしの愛人になると訳のわからないことを言う。
「牧野。俺は12年もお前のことを忘れていたが思い出した。1週間前だ。朝目が覚めたとき、一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。それに時間も分からなくなった。その時お前の顏が浮かんであの日の光景が頭の中に甦った。お前の手を掴もうと手を伸ばして掴めなかった瞬間がな」
と男は言ったが、つくしは12年の想いにケリをつけ日本を後にした。
だから何を言われても今更という思いが強かった。
そんなつくしは男と視線を絡ませて言った。
「だから何?」
「だから?」
「そう。だから何よ?」
「愛人になるの意味か?」
「そうよ。それにどうしてここにいるのよ?」
その言葉は冷たく突き放したような言い方だったが、男はそんなつくしの態度に慣れたものだといった風で臆することはない。
「どうして俺がここにいるのか?三条から訊いた。牧野つくしはスポーツ用品会社で働いていてベトナムに転勤したってな。それからお前が俺の所に来た理由も訊いた。お前は俺がお前を忘れてからも俺のことを思ってくれたそうだな。だからお前は俺が見合いをすると訊いて俺の元を訪れることにした。それは自分のことを思い出して欲しかったからだ。
そんなお前は俺に自分を印象付けるために部屋を間違えたフリをする芝居をした。それは賭けだったが、俺はお前を気に入った。それから俺たちの関係が始まったが俺はお前のことを愛していた訳じゃない。ただ女が欲しかったから抱いていた」
つくしの質問に対し、まず何故自分がベトナムにいるのかを答えたが、男は失っていた記憶を取り戻すと桜子から色々と訊いたようだ。
だが桜子は男がつくしのことを思い出したことを教えてはくれなかった。
そして愛人になる、の意味を話し始めた。
「それから俺がお前の愛人になるの意味だが、俺はお前のことを思い出した瞬間から、お前を愛してることも思い出した。そんな俺はお前のことを忘れている間、単なるセックスの相手としてお前を扱った。それは許されることではない。だから俺を罰してくれ。俺をお前の愛人にして好きなようにしてくれ。俺はお前がして欲しいことはどんなことでもする。ひざまずけと言うならそうしよう」
男はこう言いたいのだろう。
これは自分がつくしにしたことへの贖罪だと。だがつくしは贖罪など望んではいない。それにどう扱われようと男に抱かれたのは自分が望んだことだ。それに男とのことはもう終わったことだ。
「牧野。言っておくが俺は結婚していない。それにお前が俺の提案を断ってから他に女はいない。それはお前以外の女が欲しくなかったからだ。それが生理的なものか。そうでないかは初め分からなかった。ただ、他の女を抱こうという気にならなかった。それに本当は愛人じゃなくて夫にして欲しい。だが今のお前は簡単には俺の想いを受け入れないだろう。だから愛人でいい。俺をお前の愛人にしてくれ。だがいつまでも愛人でいるつもりはない。それに俺はお前に対して責任がある」
「責任?何よそれ?私はあんたに責任を取ってもらう必要はないわ」
本当は愛人ではなく夫になりたいという男だが、もし妊娠のことを言っているならそれはない。
それに男は避妊については意識が高く怠ることはなかった。
「いいや。ある。お前の身体は俺以外の男に抱かれることを望まないはずだ。だからその責任は俺が取らせてもらう」

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つくしは一目でイタリア製と知れる上等なスーツに身を包んだ男の姿に、ゆっくりと息を吐いた。そうしたのは肺から空気が漏れて、肺が小さくなったような気がしたからだ。
だが何故そんな気がしたのか。それはここにいるはずのない男がいることに驚いたからだ。
いや…..この男は世界でビジネスを展開する道明寺ホールディングスの副社長だ。
だからベトナムにいたとしてもおかしくはない。だがホーチミンの街角に、それも自分の前に現れたことを偶然と捉えるほど馬鹿ではない。つまり男がここにいるのは何か魂胆があってここにいるに違いない。だがそれならその目的は何なのか。
そう思う女を前に、「お前のひとり言はデカいな。まあ、ここはベトナムで殆どの人間はお前が何を言ったか理解してない。だが俺は理解した。いい男ならここにいるだろうが」と、言ったがつくしは何も答えなかった。けれど男はそんなつくしにかまわず言った。
「それにしても、お前が俺の愛人になるのを断って選んだのがベトナム赴任だとはな」
男は、つくしの本当の仕事が何であるかを知っているという言外の態度を漂わせていたが、あの頃の男とつくしは会えば寝ていただけの関係だった。それにあの頃の男は、つくしはレンタルファミリーという会社から派遣されたセックスの相手と捉え、それ以上のことに興味を持たなかった。
だがそんな男が家族について訊いてきたことがあった。しかしそれ以外男の心に動きは見られず個人的なことを訊かれたことはなかった。
そして、つくしは愛人にならないかという男の提案を断り男の元へ行くことを止めたが、それは自分のことを思い出さないこともだが、形だけの見合いをして結婚をする男とこれ以上一緒にいることは出来ないからだ。
「こんな暑い国であくせく働くよりも俺の金を受け取って暮らした方が楽だと思うが?」
男のその言葉につくしは腹を立てかけた。
それは、相変らずこの男が金に物を言わせるような態度を取っているからだ。
それに男は、『あれ』は仕事だったと思っているようだ。
それにしても男は何故ここにいるのか。そのことが頭を巡るが、それとは別に頭の中にあるのは、とっくに見合いを済ませた男は結婚していてもおかしくないということ。だが男が結婚したという話を耳にしなかった。しかしそれは、つくしがベトナムにいて男のことを話題にする世界にいないからなのかもしれない。
それに桜子も気を遣っているのか。男の話をつくしにすることはなかった。
だからベトナムに来てからのつくしは男についてのニュースを耳にしたことがなかった。
だがそれで良かった。それでいいと思った。忘れるためには目にも耳にも入れないことが一番なのだから。
それなのに突然目の前に現れた男は黙っているつくしに言った。
「話しがある。付き合え」
「悪いけど私、友達を待たせているの。だから話している時間はないの」
同僚のトラン・ティ・ホアがホーチミンで一番美味しいフォーを食べさせる店で待っている。
だから話す時間はないと昂然と顎を突き上げ言った。
「それにどうしてあなたがここにいるのか知らないけど私たちの関係は終わっているわ。だから付き合うつもりもないわ」
ふたりの関係はあの時終わりを迎えた。それもつくしの方から幕を下ろした。
だがもしも男が、つくしがベトナムにいることを知ってあの頃と同じように夜の相手をしろと言うなら、お門違いだ。だから一語一語に力を込めて言った。
すると男は、「あの女のことなら気にするな。あの女にはお前を誘い出すように俺が頼んだ。だから気にしなくていい」と言った。
となると、やはり思った通りこの出会いは偶然ではなく仕組まれたものだということになる。
そしてそう思うつくしに男は言った。
「情事に不向きな女は愛人になるのは嫌だと俺の元を去った。だから俺がお前の愛人になろう」
愛人になろう?
この男は一体何を言っているのか。
「牧野。思い出したんだ。お前のことを」

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だが何故そんな気がしたのか。それはここにいるはずのない男がいることに驚いたからだ。
いや…..この男は世界でビジネスを展開する道明寺ホールディングスの副社長だ。
だからベトナムにいたとしてもおかしくはない。だがホーチミンの街角に、それも自分の前に現れたことを偶然と捉えるほど馬鹿ではない。つまり男がここにいるのは何か魂胆があってここにいるに違いない。だがそれならその目的は何なのか。
そう思う女を前に、「お前のひとり言はデカいな。まあ、ここはベトナムで殆どの人間はお前が何を言ったか理解してない。だが俺は理解した。いい男ならここにいるだろうが」と、言ったがつくしは何も答えなかった。けれど男はそんなつくしにかまわず言った。
「それにしても、お前が俺の愛人になるのを断って選んだのがベトナム赴任だとはな」
男は、つくしの本当の仕事が何であるかを知っているという言外の態度を漂わせていたが、あの頃の男とつくしは会えば寝ていただけの関係だった。それにあの頃の男は、つくしはレンタルファミリーという会社から派遣されたセックスの相手と捉え、それ以上のことに興味を持たなかった。
だがそんな男が家族について訊いてきたことがあった。しかしそれ以外男の心に動きは見られず個人的なことを訊かれたことはなかった。
そして、つくしは愛人にならないかという男の提案を断り男の元へ行くことを止めたが、それは自分のことを思い出さないこともだが、形だけの見合いをして結婚をする男とこれ以上一緒にいることは出来ないからだ。
「こんな暑い国であくせく働くよりも俺の金を受け取って暮らした方が楽だと思うが?」
男のその言葉につくしは腹を立てかけた。
それは、相変らずこの男が金に物を言わせるような態度を取っているからだ。
それに男は、『あれ』は仕事だったと思っているようだ。
それにしても男は何故ここにいるのか。そのことが頭を巡るが、それとは別に頭の中にあるのは、とっくに見合いを済ませた男は結婚していてもおかしくないということ。だが男が結婚したという話を耳にしなかった。しかしそれは、つくしがベトナムにいて男のことを話題にする世界にいないからなのかもしれない。
それに桜子も気を遣っているのか。男の話をつくしにすることはなかった。
だからベトナムに来てからのつくしは男についてのニュースを耳にしたことがなかった。
だがそれで良かった。それでいいと思った。忘れるためには目にも耳にも入れないことが一番なのだから。
それなのに突然目の前に現れた男は黙っているつくしに言った。
「話しがある。付き合え」
「悪いけど私、友達を待たせているの。だから話している時間はないの」
同僚のトラン・ティ・ホアがホーチミンで一番美味しいフォーを食べさせる店で待っている。
だから話す時間はないと昂然と顎を突き上げ言った。
「それにどうしてあなたがここにいるのか知らないけど私たちの関係は終わっているわ。だから付き合うつもりもないわ」
ふたりの関係はあの時終わりを迎えた。それもつくしの方から幕を下ろした。
だがもしも男が、つくしがベトナムにいることを知ってあの頃と同じように夜の相手をしろと言うなら、お門違いだ。だから一語一語に力を込めて言った。
すると男は、「あの女のことなら気にするな。あの女にはお前を誘い出すように俺が頼んだ。だから気にしなくていい」と言った。
となると、やはり思った通りこの出会いは偶然ではなく仕組まれたものだということになる。
そしてそう思うつくしに男は言った。
「情事に不向きな女は愛人になるのは嫌だと俺の元を去った。だから俺がお前の愛人になろう」
愛人になろう?
この男は一体何を言っているのか。
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「マキノさん!こっちです。こっち!ホーチミンで一番美味しいフォーを食べさせてくれる店は早く行かないと座れません。それにあの店は麺が無くなり次第閉店です。だから急いで下さい!」
「トランさん、ちょっと待って!もう少しゆっくり走ってくれない?」
「マキノさん。あなたシューズを作っている会社で働いているのに足が遅いのは問題です。
日本人は自分の足を使わず車ばかり乗るから足が退化しているんですね?でも安心して下さい。この国にいる間に鍛えれば老後を心配する必要はありませんから」
と、言われたがつくしは脚力には自信があった。
だが今は自分の隣を走る同僚のトランについて行くことに必死だった。
ベトナムの南部にある都市ホーチミン。ここはかつてサイゴンと呼ばれていたこの国最大の都市だ。そしてフランスの植民地だったことから、東洋のパリと呼ばれていてヨーロッパ風の建物が数多く残り街並は観光名所となっている。
その街につくしが働くスポーツ用品会社のシューズ工場がある。
そしてそこで働くトラン・ティ・ホアはホーチミン生まれの女性で日本の大学に留学していたことから日本語が堪能だ。そんな彼女は日本の本社から来たつくしの部下という立場だが、つくしは部下というよりも同僚という感覚で接していた。何しろつくしは日本では営業職だったが、ベトナムでの立場はシューズの生産管理でありこれまでの仕事とは違い知らないことばかりだ。だからトラン・ティ・ホアのサポートを受けて仕事をしていたが、トランは回りくどいことが嫌いで三条桜子のような積極性と果断さを持っていた。それに発言に遠慮がないところも似ていた。
そして今日はトランから仕事が終わったらホーチミンで一番美味しいフォーの店に行きましょうと誘われた。
「ねえトランさん。それにこんなに暑いのにこれ以上走ったら倒れるわ!」
ベトナムの中でも高温多湿の暑い街であるホーチミン。
この街で暮らし始めて3ヶ月が経った。日本の梅雨を経験しているとはいえ、ここは年がら年中暑い。それに湿度が高いことから体力を消耗しやすい。そんな街の中を日が傾いた夕方とはいえ走ることが出来るのは、この街で生まれ育ったから出来るのだ。
そしてつくしに向かって足が遅いと言ったトラン・ティ・ホアは、つくしが徐々に遅れ、ついて来ないことに気付くと立ち止まって振り返った。
「マキノさん。おいしいフォー。食べたくないんですか?」
「た、食べたいわよ?食べたいけど、そ、そんなに急がなくても食べれるでしょ?」
つくしは立ち止まったトランに近づき息を切らしながら答えたが、トラン・ティ・ホアは息を乱すことなく平然と答えた。
「マキノさん甘いですね?美味しいものはすぐになくなります。それは東京でも同じではないですか?私は日本に滞在中美味しいと言われたケーキを何度食べ損ねたことか…..
東京で列に並ばずに美味しいものを食べることは出来ませんでした。それはベトナムでも同じです。だから早く行かないとフォーも売り切れます」
トラン・ティ・ホアは甘いものが好きだと言った。
そして東京に留学しているとき、テレビ番組で紹介されたスィーツを食べることを楽しみとしていたと言った。
「マキノさん。あなたも甘いものが好き。私も甘いものが好き。それにフォーも好き。それなら私と一緒に頑張って走って下さい」
「え?トランさん!?む、無理よ!これ以上走れないわよ!」
やっと追いついたと思ったらまた置いてきぼりにされそうになった女は必死の思いで言ったが、名前を呼ばれたトランは「仕方ないですね?じゃあ私が先に行って席をとっておきますから後から来て下さい」と言ってつくしを残し走り出したが、年下のパワフルガールは、まさにベトナム版の三条桜子だ。
その桜子はつくしが日本を立つとき空港まで見送りに来た。
そして「先輩。ベトナムでいい男を見つけたら私にも紹介して下さいね」と言ったが、それを思い出したつくしは「いい男ねえ…..残念だけどまだ出会わないのよ」と呟いたが、その時、背後から聞こえてきたのは日本語。
「いい男ならここにいるが?」
それは低い声。
振り返ったそこにいたのはあの男だ。

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「トランさん、ちょっと待って!もう少しゆっくり走ってくれない?」
「マキノさん。あなたシューズを作っている会社で働いているのに足が遅いのは問題です。
日本人は自分の足を使わず車ばかり乗るから足が退化しているんですね?でも安心して下さい。この国にいる間に鍛えれば老後を心配する必要はありませんから」
と、言われたがつくしは脚力には自信があった。
だが今は自分の隣を走る同僚のトランについて行くことに必死だった。
ベトナムの南部にある都市ホーチミン。ここはかつてサイゴンと呼ばれていたこの国最大の都市だ。そしてフランスの植民地だったことから、東洋のパリと呼ばれていてヨーロッパ風の建物が数多く残り街並は観光名所となっている。
その街につくしが働くスポーツ用品会社のシューズ工場がある。
そしてそこで働くトラン・ティ・ホアはホーチミン生まれの女性で日本の大学に留学していたことから日本語が堪能だ。そんな彼女は日本の本社から来たつくしの部下という立場だが、つくしは部下というよりも同僚という感覚で接していた。何しろつくしは日本では営業職だったが、ベトナムでの立場はシューズの生産管理でありこれまでの仕事とは違い知らないことばかりだ。だからトラン・ティ・ホアのサポートを受けて仕事をしていたが、トランは回りくどいことが嫌いで三条桜子のような積極性と果断さを持っていた。それに発言に遠慮がないところも似ていた。
そして今日はトランから仕事が終わったらホーチミンで一番美味しいフォーの店に行きましょうと誘われた。
「ねえトランさん。それにこんなに暑いのにこれ以上走ったら倒れるわ!」
ベトナムの中でも高温多湿の暑い街であるホーチミン。
この街で暮らし始めて3ヶ月が経った。日本の梅雨を経験しているとはいえ、ここは年がら年中暑い。それに湿度が高いことから体力を消耗しやすい。そんな街の中を日が傾いた夕方とはいえ走ることが出来るのは、この街で生まれ育ったから出来るのだ。
そしてつくしに向かって足が遅いと言ったトラン・ティ・ホアは、つくしが徐々に遅れ、ついて来ないことに気付くと立ち止まって振り返った。
「マキノさん。おいしいフォー。食べたくないんですか?」
「た、食べたいわよ?食べたいけど、そ、そんなに急がなくても食べれるでしょ?」
つくしは立ち止まったトランに近づき息を切らしながら答えたが、トラン・ティ・ホアは息を乱すことなく平然と答えた。
「マキノさん甘いですね?美味しいものはすぐになくなります。それは東京でも同じではないですか?私は日本に滞在中美味しいと言われたケーキを何度食べ損ねたことか…..
東京で列に並ばずに美味しいものを食べることは出来ませんでした。それはベトナムでも同じです。だから早く行かないとフォーも売り切れます」
トラン・ティ・ホアは甘いものが好きだと言った。
そして東京に留学しているとき、テレビ番組で紹介されたスィーツを食べることを楽しみとしていたと言った。
「マキノさん。あなたも甘いものが好き。私も甘いものが好き。それにフォーも好き。それなら私と一緒に頑張って走って下さい」
「え?トランさん!?む、無理よ!これ以上走れないわよ!」
やっと追いついたと思ったらまた置いてきぼりにされそうになった女は必死の思いで言ったが、名前を呼ばれたトランは「仕方ないですね?じゃあ私が先に行って席をとっておきますから後から来て下さい」と言ってつくしを残し走り出したが、年下のパワフルガールは、まさにベトナム版の三条桜子だ。
その桜子はつくしが日本を立つとき空港まで見送りに来た。
そして「先輩。ベトナムでいい男を見つけたら私にも紹介して下さいね」と言ったが、それを思い出したつくしは「いい男ねえ…..残念だけどまだ出会わないのよ」と呟いたが、その時、背後から聞こえてきたのは日本語。
「いい男ならここにいるが?」
それは低い声。
振り返ったそこにいたのはあの男だ。

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つくしの部屋を訪ねてきた桜子は出された紅茶を飲むと口を開いた。
「先輩。道明寺さんとのこと。本当にいいんですか?」
「いいわよ。12年間の片想いは終了。だからベトナムへの転勤を受けることにしたわ」
つくしはスポーツ用品会社のフットウエア事業部で営業をしているが、そんな彼女にベトナムにあるシューズ生産工場で管理の仕事をしてみないかと打診があったのが3ヶ月前。
個人的な事情もあるとは思うが考えて欲しい。引き受けるなら異動は半年後と言われていたが、3ヶ月が過ぎたところで会社は改めてつくしの意向を訊いてきた。
そしてつくしは会社の打診を受け入れベトナムに行くことにしたが、そうすることがこれまで抱えていた、恋人はいつか自分のことを思い出してくれるというバカな考えを捨てるには丁度いいと思えたからだ。
それにしてもあの時、半年もかからず答えが出ると思っていたことは、まさに予想した通りの早さで答えが出た。
「でもまだ3ヶ月ですよ?先輩が道明寺さんの傍にいたのは3ヶ月ですよ?それにベトナムへ行くまでまだ3ヶ月あるじゃないですか。ギリギリまで道明寺さんの傍にいれば記憶が戻るかもしれませんよ?未練はないんですか?本当にいいんですか?後悔しませんか?」
週末だけ桜子が経営する家族を派遣する会社の仕事をしていたが、つくしがしていたのは家族の役割ではなくセックスの相手だ。
そして桜子は心をぎゅうぎゅう詰めにするなと言っておきながら、3ヶ月で男の傍から離れることを決めた女に何度もこれでいいのかと訊いた。
「桜子。まだ3ヶ月あるって言っても海外に転勤するんだから家の解約とか色々と準備もあるから忙しいのよ。それに3ヶ月あいつの傍にいても何の変化も見られなかった。だからもういいの。考えてもみれば12年も片思いしていた私は執着し過ぎだったのよ。まるであの頃のあいつみたいにね。それに世間から見れば私の行動はイタイ女の代表のようなものよ。それからあの男。金銭的な補償をするから私に愛人になれって言って来たのよ?」
結婚してもつくしが自分の傍にいることが当然のような態度を取った。
それも昔みたいに金に物を言わせた。
「先輩を愛人にですか?愛人なんて言葉。昔の女嫌いの道明寺さんとは全然しっくりこない言葉で幻滅します。でも先輩のことを忘れた道明寺さんは男の欲望に正直な人になっていますから、そんな態度を取っても仕方ないとは思います。
分かっている。
いい年をした男が女なしで過ごせるとは思っていない。
それに好むと好まざるとにかかわらず道明寺財閥の後継者の周りには女が集まる。
「でも愛人になれと言ったのは少なからず先輩のことを気に入っているってことですからね?それにたとえ見合い相手と結婚しても先輩のことを離したくないと思っているのなら何かあると思いたいんですけど……でも妻を抱いた後で牧野先輩を抱くとすれば、やりきれない思いがするのは当然だと思います。私だって他の女のベッドから出て来たばかりの男と寝ようとは思いませんから」
つくしの倫理観は妻のいる男が他の女を抱くことに寛容ではない。
それがたとえ形だけの政略結婚だとしても、相手の女性の気持が男と同じだとは限らないからだ。
だから、相手の女性の気持もだが、自分自身を嫌悪しないためにも男の前から去ることを決めた。
「それに先輩は決意したからにはそうするんですよね?私が何を言っても決意は変わらない。そういうことですよね?」
「うん。もう決めたことだから。それにふたりの関係は12年前に終わったと認めるべきだったのよ。それなのにそれを認めなかった女はバカみたいな幻想に囚われていたのよ。自分を忘れた恋人がある日突然玄関の前に立っていて思い出した。ゴメンって言ってくれるのをね。
でもそれは幻想なのよ。それにね、桜子。人生はまだ折り返し地点にさえ到達していないわ。だから幻想に心を搔き乱されてる場合じゃないの。立ち止まっている場合じゃないのよ。前に進まなきゃ進歩がないのよ。だから見知らぬ土地での新しい出会いに期待するわ!もしかするとベトナムで出会いがあるかもしれないし人生これからよ!」
と、宣言をしたが、こうして口に出してしまってから改めて自分の恋が終ったことを実感していた。
そして一週間が過ぎた。
これまでのように週末に男の部屋を訪ねることは無くなった。
けれど自分は何かを待っている。それは男が何かを言ってくることを。
だが何を言ってくるというのか。それにもう少し、あと少し時間が経てば何かが変わるはずだと願っていたのは過去の自分だが今は違う。そして自分の心は自分で慰めたはずだ。
「さてと…..転勤は断捨離するいい機会だわ」
呟いたつくしは立ち上るとクローゼットの扉を開けた。

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「先輩。道明寺さんとのこと。本当にいいんですか?」
「いいわよ。12年間の片想いは終了。だからベトナムへの転勤を受けることにしたわ」
つくしはスポーツ用品会社のフットウエア事業部で営業をしているが、そんな彼女にベトナムにあるシューズ生産工場で管理の仕事をしてみないかと打診があったのが3ヶ月前。
個人的な事情もあるとは思うが考えて欲しい。引き受けるなら異動は半年後と言われていたが、3ヶ月が過ぎたところで会社は改めてつくしの意向を訊いてきた。
そしてつくしは会社の打診を受け入れベトナムに行くことにしたが、そうすることがこれまで抱えていた、恋人はいつか自分のことを思い出してくれるというバカな考えを捨てるには丁度いいと思えたからだ。
それにしてもあの時、半年もかからず答えが出ると思っていたことは、まさに予想した通りの早さで答えが出た。
「でもまだ3ヶ月ですよ?先輩が道明寺さんの傍にいたのは3ヶ月ですよ?それにベトナムへ行くまでまだ3ヶ月あるじゃないですか。ギリギリまで道明寺さんの傍にいれば記憶が戻るかもしれませんよ?未練はないんですか?本当にいいんですか?後悔しませんか?」
週末だけ桜子が経営する家族を派遣する会社の仕事をしていたが、つくしがしていたのは家族の役割ではなくセックスの相手だ。
そして桜子は心をぎゅうぎゅう詰めにするなと言っておきながら、3ヶ月で男の傍から離れることを決めた女に何度もこれでいいのかと訊いた。
「桜子。まだ3ヶ月あるって言っても海外に転勤するんだから家の解約とか色々と準備もあるから忙しいのよ。それに3ヶ月あいつの傍にいても何の変化も見られなかった。だからもういいの。考えてもみれば12年も片思いしていた私は執着し過ぎだったのよ。まるであの頃のあいつみたいにね。それに世間から見れば私の行動はイタイ女の代表のようなものよ。それからあの男。金銭的な補償をするから私に愛人になれって言って来たのよ?」
結婚してもつくしが自分の傍にいることが当然のような態度を取った。
それも昔みたいに金に物を言わせた。
「先輩を愛人にですか?愛人なんて言葉。昔の女嫌いの道明寺さんとは全然しっくりこない言葉で幻滅します。でも先輩のことを忘れた道明寺さんは男の欲望に正直な人になっていますから、そんな態度を取っても仕方ないとは思います。
分かっている。
いい年をした男が女なしで過ごせるとは思っていない。
それに好むと好まざるとにかかわらず道明寺財閥の後継者の周りには女が集まる。
「でも愛人になれと言ったのは少なからず先輩のことを気に入っているってことですからね?それにたとえ見合い相手と結婚しても先輩のことを離したくないと思っているのなら何かあると思いたいんですけど……でも妻を抱いた後で牧野先輩を抱くとすれば、やりきれない思いがするのは当然だと思います。私だって他の女のベッドから出て来たばかりの男と寝ようとは思いませんから」
つくしの倫理観は妻のいる男が他の女を抱くことに寛容ではない。
それがたとえ形だけの政略結婚だとしても、相手の女性の気持が男と同じだとは限らないからだ。
だから、相手の女性の気持もだが、自分自身を嫌悪しないためにも男の前から去ることを決めた。
「それに先輩は決意したからにはそうするんですよね?私が何を言っても決意は変わらない。そういうことですよね?」
「うん。もう決めたことだから。それにふたりの関係は12年前に終わったと認めるべきだったのよ。それなのにそれを認めなかった女はバカみたいな幻想に囚われていたのよ。自分を忘れた恋人がある日突然玄関の前に立っていて思い出した。ゴメンって言ってくれるのをね。
でもそれは幻想なのよ。それにね、桜子。人生はまだ折り返し地点にさえ到達していないわ。だから幻想に心を搔き乱されてる場合じゃないの。立ち止まっている場合じゃないのよ。前に進まなきゃ進歩がないのよ。だから見知らぬ土地での新しい出会いに期待するわ!もしかするとベトナムで出会いがあるかもしれないし人生これからよ!」
と、宣言をしたが、こうして口に出してしまってから改めて自分の恋が終ったことを実感していた。
そして一週間が過ぎた。
これまでのように週末に男の部屋を訪ねることは無くなった。
けれど自分は何かを待っている。それは男が何かを言ってくることを。
だが何を言ってくるというのか。それにもう少し、あと少し時間が経てば何かが変わるはずだと願っていたのは過去の自分だが今は違う。そして自分の心は自分で慰めたはずだ。
「さてと…..転勤は断捨離するいい機会だわ」
呟いたつくしは立ち上るとクローゼットの扉を開けた。

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